第六章 見えない檻(後編)

 白く曇った窓を指先でこすると、錆びたベランダの格子の向こう
に見える屋根のつらなりが、朝の凍えた光を反射していた。葉が落
ちて枝をさらした木々も、強い北風に揺れている。
「ああ、寒そう。出るのやんなっちゃうなぁ」
 足元で温風を吹き出すファンヒーターに手をかざすと、みのりは
膨らませた頬っぺたから息を吐いた。
「ホント、寒そう。ねえ、あっくん」
 背中であいずちを打った佳澄に振り返ると、黄色い幼児服を着た
歩夢くんを縦に抱っこして、ミルク後のゲップをさせているところ
だった。
「いっぱい飲んだ? お、すごいすごい」
 テーブルの上を見ると、食後のミルクは200cc以上も飲み干
されている。
「健啖だなぁ、お前は。肉が増えるぞ〜」
 ぷにぷにとした顎の下の肉をつまむと、あっくんは半分くすぐっ
たいような顔をして、はひゃひゃと言葉にならない笑いを返した。
「のりママ似だもんね。ぽっちゃり、体力派」
 ピンクのセーター姿の佳澄が腕を解いてカーペットの上に立たせ
ると、関節のないもみじの手で顔をペタペタと叩くあっくんの姿に、
みのりは「ははは」と声を作って笑った。
「ひどいよなぁ、あっくん。自分はスリムだからってさ」
「こ、こら」
 勢いよく頭や肩に手を振り回すやんちゃ坊を押さえると、佳澄は
おっきなお尻の下に手を回して抱き上げた。
「もう、最初に言ったの、のりママでしょ。ね、あっくん」
 今は化粧っ気のまったくない面長の顔を、どんぐりまなこがぎゅ
っと見つめると、
「う〜、のりママ、う〜」
とそれらしい言葉が返った。
「だよね〜」
 黄色い幼児服を着た健康優良児を、すらりとしたピンクのセータ
ー姿が頬を寄せて抱き締める。
 どこから見ても若いお母さんが可愛い我が子を慈しんでいる姿に
しか思えなかった。
 みのりはちらっと壁の時計を見やった後、手をパンと叩き合わせ
ると、壁にかかったベージュのコートを手に取った。
「さて、行かなきゃ。スミ、今日は頼むね」
「うん、オッケー。今日は、スミママと大学でデートだよね、あっ
くん」
「うらやましいなぁ。……でも、のりママはしっかりお肉を売って、
稼いでくるからな」
 玄関でスニーカーに足を通すと、あっくんを下に立たせた佳澄が、
穏やかな視線で見上げていた。
「そのまま、専門学校だよね」
「うん」
 みのりは、バックを肩に掛けながら頷いた。
「今日は実習だし、顔出しとかないと。九時回っちゃうと思うけど、
いい?」
「もちろん。お・ま・か・せ」
 少しだけ背を伸ばすような仕草。空気だけで察すると、みのりは
顔を近づけて佳澄の目が閉じられるのを眼下に追った。
 そして、柔らかい唇の感触。
「いってらっしゃい。頑張って」
「うん、行ってくる」
 あっくんを前に立たせてしゃがみ込んだ佳澄が、手を取って一緒
に振りながら見送ってくれる。みのりは小さく手を振り返すと、少
し立て付けの悪いドアを開けて、風の中に飛び出して行った。

 真冬の朝の街は身体の芯まで凍るほどの寒さで、みのりは足早に
商店街を通り抜け、仕事場に向かって急いでいた。
 今日のデモンストレーションは、隣の駅との間にある総合ショッ
ピングセンター内の食品売り場でだった。自宅のすぐそばでデモと
いうのは滅多にないことだから、今日の寒さを考えればラッキーと
言うべきなんだろうな、とみのりは心の中で頷きながら、客として
も何回か訪れた事がある店の通用口をくぐっていた。
「おはようございます! PGスタッフの真岡です」
 会社から指示されていた精肉部のバックヤードに入ると、アルミ
のテーブルの向こう側の小さなドアから、白い調理服にエプロンを
付けたずんぐりむっくりの中年男性が、おっ、と感じの顔をのぞか
せた。
「あ、ご苦労さん。早いね。ステーキのデモの人でしょ」
「はい。精一杯頑張りますので、本日はよろしくお願いします。す
いません、萩原さんでしょうか?」
 いつも通りの台詞と一緒にぺこりと頭を下げると、顔も身体も丸
いその男性は、うん、と頷いてみのりの差し出した連絡票を受け取
った後で、
「そちらは、ええと……真岡みのりさん、か。とにかく、にぎやか
によろしく。売上を伸ばしてくれたら、もっと嬉しいけどね」
と、人の良さそうな顔をにっこりさせた。
 みのりもうっすら粧った顔で柔らかく笑みを返すと、ロッカール
ームで緑色のエプロンをつけて、案内された精肉コーナーの一角で
セッティングに入った。
 今日は、輸入ステーキ肉と、ステーキソースのデモンストレーシ
ョンだった。
 チーフによると、金曜日は昼過ぎからかなり込み合うそうで、み
のりは、キラキラした売り場の大きさも含めて、今日は売上新記録
狙いで頑張ろうか、と背伸びをしながら開店時間を待っていた。
 チェックの厳しい派遣会社内でも、みのりの売上成績はトップク
ラス。仕事のきつさや社長のワンマンぶりをおいても、限られた時
間でこれほど稼げるバイトは見つかりそうになく、また、結構天職
かなぁと思ったりもしていた。
 開店のアナウンスと共に、お客さんの姿がちらほらと見え始めた。
 通り過ぎる人数を見ながら、擦っておいたニンニク醤油に肉を軽
く浸して、熱い鉄板に素早く置き、シーズニングを振りかける。熱
いところをさっと切り分けて、ステーキソースの入った小皿に乗せ、
「柔らかくておいしいですよ、いかがですか?」と、満面の笑みで、
でも押し付けがましくないようにデモンストレーションする。
 午前中は至極好調だった。
 年配のお客さんを中心に足を止めてくれて、昼食後の電話報告で
も、上々の数を申告することができた。
 さて、あと半分だ。
 腕まくりをしながら売り場に戻ってきた時、精肉コーナーの向か
い側、お菓子が並べられた棚の間に、三歳くらいの小さな女の子を
連れた若い母親の姿が見えた。
 ライトブラウンに染めた短い髪を綺麗に散らして、タイトな服に
身を包んだ、自分とそう年の変わらない女性だった。
「どうして……なの!」
 ホットプレートの電源をつけると、切れ切れな声が耳に飛び込ん
でくる。そして、しゃがみ込んでお菓子に手を伸ばしている女の子
の手に、何かがぶつけられるのが見えた。
「あんたはね、いっつも何で言うこと聞かないの。ダメな子!」
 みのりは眉を寄せて視線を落とした。
 足で、蹴った……。
 怒りと暗鬱さが入り混じった感情が胸を占めて、肉をポンポンと
トレーの上に並べると、ニンニク醤油をぶっきらぼうに回しかける。
 時折見ないわけではないけれど、ああいう眺めを目にするたび、
胸が重くふさぐ気がする。
 程なく温まってきたホットプレートの上に肉を乗せた時、腰の後
ろに気配があった。
 ふっと振り返ると、きれいに整えられた短い髪に、ちょっと面長
な顔のつぶらな目の幼児が立っている。――さっきの女の子だ。エ
プロンの柄を見つめたまま、じっと固まっている。
「あ、それ。可愛いだろ」
 周りをちらっと見回したけれど、さっきの母親はいない。
「ウシさん?」
「うん、そうだよ。ウシさん、好き?」
「う〜ん……。モーモー君はね」
 とんがって高い声で言うと、真っ直ぐこちらを見上げてくる。
「モーモー君? ああ、お姉ちゃん、知ってるぞ。カニカニ、モー
モー、ペンペンちゃん」
「うんうん、そうなの。ペンペンちゃん、モーモー君、ペンペンす
るぞ!」
 あっくんは小さいからあまり見ないけれど、朝のTVでやってい
る幼児番組のキャラに間違いない。
 あ、そうだ。今日は持ってきてたっけ。
「お名前は? 何て言うの?」
「なつき。えっと、……だよ」
 言われる前に、指を三本前に突き出した。
「そっか、なつきちゃん、三才か。まだ堅いお肉は食べれないよな。
じゃ、代わりにお姉ちゃんからいいものあげよう。……ほら」
 最近人気のアニメキャラの柄が入った小さな飴の箱をテーブルの
下から取り出した。
 なつきちゃんは目をまん丸にして手を伸ばしかけてから、すぐに
引っ込めた。
「ん、どうしたの。いいよ、プレゼントだから」
「うん……。でも」
 うつむいた瞬間、背中から抑揚のない声が響いた。
「あの」
 声に込められたひんやりとする感覚に引っ張られて、背をぱっと
伸ばして振り向くと、さっきの母親がショッピングカートを前に立
っていた。
「はい。……あ、なつきちゃん、お母さんだよ」
「すいませんけれど、勝手にモノをあげないでもらえます。今日は、
お菓子なしに決めた日なんですから」
 うつむいたなつきちゃんを一瞬見遣ってから、タイトな革のジャ
ケットを着た母親の顔に視線を返した。
「あ、すいません……」
 こちらの状況などお構いなしの冷めて閉じた調子だった。
「ふらふらしないでって言ってるでしょ、いつも。早く来なさい」
 カートを押しながら、傲然と脇を通り過ぎていく。それでも、エ
プロンの前で小さく手を振ると、ショートカットの女の子は、ニコ
ッと笑って手をパラパラとさせた。
 ふぅ……。
 肉がジュゥと音を立てている。――あ、まずい。焼き過ぎだ。
 気を取り直して、肉を切り分けて小皿に盛る間にも、何となく思
い出してしまった。
 正月の日からこちら、時折かかってくるようになった篠崎さんか
らの電話。
 何不自由なく見える暮らしの裏側で、転勤続きで孤独な母と一人
娘に、アルコールが入ると突発的な暴力を振るう旦那さんの行状。
それは、察するに余りある身の上だった。
 さっきの女の子が、どことなく結奈ちゃんに似ている気がした。
 元気で、けなげで、明るくて。
 でも、時折どうしても気付かずにはいられない、さまようような
瞳の先。どうしてだろう……。あんなに可愛い子達なのに。
『あの馬鹿女に惚れたのも、俺だからさ』
 アニキの言葉が思い浮かぶ。でも、もしかすれば、あっくんだっ
て――。
 ジュウゥ……。肉が油を飛ばしながら焼き上がっていく。
 わかっていたことだし、預かる前には何度も話し合ったことだっ
た。
でも、実際に耳にするとやっぱり重たい。
『女だけの子育てだぞ。このままで歩夢のためにも、いいと思うの
か』
 オヤジの言いたかったのが、そういうことじゃないってのはわか
ってる。でも……。
 ああ、やめよう。もう一月以上も経ったのに、ついつい思い出し
てしまう時がある。アニキも電話くれたし、オヤジも「お前らがい
なきゃ、歩夢をどうにかできたわけもないんだからな」って言って
くれたじゃないか。
 それより、今は。
「お姉さん、これ、どうやって焼くの? すごく柔らかくできてる
よね」
 白髪混じりの闊達そうな女性がようじに刺した肉片を口に運びな
がら、ホットプレートの中をのぞき込んできた。
「あ、難しくないですよ。外国産は固いってイメージありますけど、
やり方次第で……」
 レシピを説明しながらソースと肉をそれとなく薦めると、ステー
キ肉数パックをカートにポンポン、と。カウンターの向こうにちょ
うど姿を見せたずんぐりむっくりのチーフに小さくVサインをする。
 うん、頑張らないと。この調子で売れば、多分ボーナスが出るし。
 だいぶ店の中が混み合ってきて、作業は忙しさを増し始めていた。
やがて、合い間なしにどんどん焼かないと追いつかない状態になる。
 プレートから上がる煙と身体の動きで額に汗がにじみ出した時、
少し腰の上のあたりが重たいような感覚がした。
 ちょっと疲れたかな……、伸びをして腰をポンポンと叩いたけれ
ど、どうもそんな感じではなかった。そして、下腹のあたりで押し
付けられるような不快感が広がると、みのりは小さく舌を鳴らして
息を吸い込んだ。
 おかしいなぁ、まだぜんぜん先のはずなんだけど……。
 でも、おなじみの感覚はどうやら間違いなく月のものの兆候のよ
うだった。
 ため息を付きかけた時、切り分けられた肉の並ぶ精肉コーナーの
ウィンドウを覗き込んでいた中年の男性と、振り向きざまに目が合
った。
 撫で付けられた白髪交じりの髪に、彫りの深い眼窩――喫茶『シ
ルフィード』のマスターだった。
 瞬間、細い目がちょっと見開かれると、会釈とも目を逸らしたと
もつかない仕草を見せて、上品なコート姿は、すぐにそそくさと棚
の向こうへ消えていった。
 胸の奥から苦い重さが立ち上がり、そうでなくてもじんわりとし
ていた腹部に広がっていく。
 空いた手を握って、もう一方の手に持った菜箸でカンカンとホッ
トプレートを叩いた。首を小さく振って、奥歯を軽く噛む。
 先だって、店に寄った時に妙によそよそしかったことを思い出す。
そして、商店街の数人の人たちも……。
 後は、いつの間にか時間が過ぎて、上がりの時間になっていた。
 売上も思ったほど伸びず、電話報告で「まあまあだね、ご苦労さ
ん」と言われても、曇った気持ちは少しも抜けていかなかった。
 下腹の重みは案の定で、予告もなしに訪れた生理現象に対処する
と、余計に気が塞いだ。何もかもがどうでもいいような気がし始め
て、店の入り口のベンチに腰掛けたまま、しばらくぼんやりとして
いた。
 タイトなジーンズの足先を覆ったスニーカー。青いジーンズも、
ベージュのスニーカーも、だいぶ痛みが進んで買い換える時期だっ
た。
 でも、余分な出費をするわけにはいかない。
 今月は、まだ少し先があるし……。ああ、ダメだ。じくじく考え
てると、やる気がなくなってくる。
 ポンと足を叩いて立ち上がる。今日は実習だし、気合い入れてい
かないと。
 ショッピングセンターの二重扉をくぐって、風の中へ歩き出す。
 まだ夜には至っていない、夕闇の街。でも、朝よりずっと寒さが
身に凍みる気がして、みのりはコートの腕を身体の前でぎゅっと組
み合わせた。
 肩から大きな緑色のバックを下げて、身体を小さく丸めながら駅
を目指す。
 やることを済ませて、早く家に帰ろう。
 頑張って、実習をちゃかちゃかとこなして……。
 駅前を足早に過ぎていく人たち。改札に上っていく階段に足をか
けた時、結ばれていた唇から大きな吐息がもれた。
 二十段そこそこの階段が、途方もなく高くそびえ立っている。一
歩ずつを持ち上げるのが、百メートルを行く時間を要するかに思え
る。
 やっとの思いで改札をくぐった時、みのりはもう一度大きな息を
吐いた。そして、連絡通路の壁際で足を止め、そのまま肩をもたれ
掛けさせると、プラスチックの窓の下に見える線路を見下ろした。
 そのまま、しばらくそこに佇んでいた。

 白い星と月がクリーム色の生地に満面にあしらわれたふかふかの
上着の背中が、よたよた走りで灰色のコンクリートの上を進んでい
く。
 ベージュのコートの背中に同系色のリュックを背負った佳澄は、
ゆっくりとあっくんのうしろ姿を追って歩いていた。
 試験期間も終りに近づいた大学構内は、行き過ぎる人の姿もまば
らで、講義棟の間に立ち並ぶ木々が、二月の冷たい風に吹かれて揺
れていた。
 葉を茂らせた針葉樹の下に置かれた細長いベンチの傍らで、丸い
背中が止まった。茶色じまのニット帽が足元へ向けられると、何か
を見つめている。
「どうしたの、あっくん」
 後ろから近づいていくと、コンクリートの割れ目をじーっと覗き
込んでいる。そして、しゃがみ込んで手を伸ばすと、小さな茶色の
ものを拾い上げた。
「あ、松ボックリだね。どこから転がってきたんだろ」
「パン!」
 ぎこちなく手を振り回すと、小さな松ボックリは前方に跳んでち
ょっと不規則な跳ね方をした。
「あ〜あ、とんでっちゃった」
 佳澄が言うと、一度こちらへ目を見開いた後、転がった松ボック
リを拾って、もう一度前方へポン!と投げる。
 また、ざらざらのコンクリートに当たって不規則な跳ね方をする
と、ひゃははは、と甲高い笑い声が続いた。そして、もう一度。さ
らに、もう一度、今度は「えい!」と掛け声と共に。
 佳澄は、キャンパスの中央の小路で右へ左へと動くあっくんを見
ながら、心の中で言葉を作った。
 ほんとに大きくなったなぁ。この間まで、赤ちゃんだったのに。
 二歳が近づくと、だいぶ楽になる――育児雑誌で読んだ記事をち
ょっと思い浮べたりする。でも、うちはのりちゃんが頑張ってくれ
ているから、私がそんなこと言うと罰があたるかも。
 ベンチに座ってしばらく眺めていると、足元にやってきたあっく
んが、手を広げて一言、「スミアアマ、ダッコ」。
「疲れた?」
 顔を覗き込むと、お尻の下に手を当てて、よいしょ、と。うーん、
重い。
「もう一つスミママの用事、済まさせてね」
 抱き上げた耳元で言うと、大きなあくびが返ってきた。あ、そろ
そろおねむかも。だいぶ暮れてきたし、さてさて、急がないと。
 レポート用のコピーは済んで、あとはラウンジにちょっと寄って
帰るだけだった。
 立ち並ぶ学部棟の建物に遮られ、穏やかな風が吹くキャンパスを
歩き抜けると、本部棟の入り口までやってきた。八階建ての本部棟
の前は、ビル風も合わさり、木枯らしが音を立てながら渦を巻いて
いる。
「寒いね〜」
 あっくんの小さな身体を包むようにしながら、二重構造になった
ドアを押しくぐると、外の風が嘘のような静かで暖かな空間が広が
っていた。
 そして、地下からこの二階までまで吹き抜けになったラウンジの
緩やかにカーブする階段を降りようとした時、横から少しハスキー
な声が響き届いた。
「お、佳澄じゃない」
 張り出しの回廊になった黒いゴムタイルの床を踏んで、タイトな
ジーニングに身を包んだベリーショートの女性が近づいてくる。
「あ……、真澄さん。お久しぶり。新年おめでとうございます、だ
よね」
「あ、ああ。だっけ。お〜、でっかくなったねぇ」
 少し身を屈めて、えんじのバンダナを三角に巻いた細身の顔が近
づくと、指を伸ばしてにっと大造りな唇を歪めて見せた。
「真澄お姉ちゃんだよ、覚えてる?」
 耳元で言うと、あっくんは差し出された指をぐっと握り締めて、
にんまりと笑った。
「お、嫌われなかったみたい。人見知り、しないんだ」
 ベルトで締められた細い腰に手を添えると、細い目をポーズ混じ
りに見開いてみせた。
 相変わらずの様子だった。佳澄は初年度の語学の講義で思いがけ
なく知り合って以来の友人の顔に、なんだか少し笑い混じりの安堵
を覚えてしまった。
「うん、一番ひどい時でも、ちょっと変な顔するくらいだったから。
真澄さんは、元気だった?」
「ああ、まあね。相変わらず独り身だけど。ほんと、困ったもんだ、
ってか。パートナーのいるあんたが羨ましいよ。……お姉ちゃんと
こ、来るかい?」
 胸元でそわそわした様子に、ジーンズジャケットの腕が広げ出さ
れると、あっくんはあっけなく身体を半身にして手を伸ばした。
「もう、現金。女の人だと、すぐこうなの。ごめんね、真澄さん」
「将来有望じゃない。お、見かけによらず重いねぇ。やっぱ、男の
子だ」
 鼻にかかったちょっと低い声で言うと、先に立って螺旋階段を下
りていく。佳澄は、背中のリュックを背負い直すと、交流サークル
『まるまる』の幹事の後ろに続いた。
 『まるまる』は女性だけが入会できる交流サークルで、月例会を
中心に、合同旅行やパーティイベントから、ボランティアやメディ
アへの意見提出まで、幅広く活動していた。
 特に、真澄が幹事の一人になってからは、ジェンダーやセクシュ
アリティの問題でも発言や行動をするようになって、女性のことな
ら遊びから社会的な問題まで全方向をカバーする、近隣の大学でも
有名なサークルに成長しつつあった。
 語学の授業で前と後ろになって、「真澄・佳澄」とまとめて呼ば
れるようになった頃にサークル活動に誘われ、初めて真澄の身の上
を聞いた時、佳澄は驚いてしまった。
 話してみれば、真澄も女性同性愛の指向を持っているとわかり、
お互いに手を取り合って跳ね飛んでしまったほどだった。
 サークルには、その活動の方向からも、何人かのビアンの女性が
いたけれど、特別な手立てを踏まずに自然に出会うのは真澄にとっ
ても初めてだったと聞いた。
 それ以来、アクティブなメンバーではないけれど、佳澄は時々お
茶会などには顔を出すようになって、かれこれ一年以上が経ってい
た。
「みなさん、来てるの?」
「あ、試験期間だからねぇ。今は私だけ。佳澄、今日寄るって言っ
てたし。久しぶりに構内ぶらぶらしてた」
「ごめんね。今日、のりちゃんが一日だから、その子の散歩ついで、
用事済ませちゃおうと思って」
「ノートのコピー?」
「うん、そう」
 ラウンジに下りると、ジュースの自販機の前まで歩いていった真
澄は、ディスプレイされたパックを指差した。
「ジュース、いいよねぇ?」
「あ、うん。炭酸とかはダメだけど……」
「はは、それくらいはわかるって。どれにすっか、歩夢くん」
 バスケットで鍛えたと言う腕で高く持ち上げると、あっくんはび
しっと紫のパックを指差した。
「ドゥドー!」
「そっか、ブドウか。好きなんだあ、歩夢くん」
 やっぱりグレープかぁ。佳澄は頬に笑いを浮かべると、
「ほら、あっくん、ありがとって」
 そんな言葉にまったく注意をくれず、出てきたジュースにストロ
ーを差してもらうと、あっくんは一心に飲み始める。
「ほんと、うらやましいよ、可愛い子もいるし」
 白い長テーブルとスチールチェアーが並べられたいつもの一角に
陣取ると、真澄は頭を覆ったバンダナを外しながら、あっくのニッ
ト帽をぽんぽんと叩いた。
「それでみのりさん、インタビュー、オッケーだって?」
「うん、まあ。忙しいから、時間が取れるかわからないけど」
 佳澄は、自分用に買ったココアのカップに口を付けながら、正月
に交わしたみのりの言葉を思い出していた。
『私なんかの話聞いて、面白いかなぁ。でも、いいよ。川中さんに
はお世話になってるし』
「ホントに頑張るねぇ、みのりさんは。まったく、カッコよすぎだ
よ」
 真澄はうんうんと頷くと、細い目を上目遣いにして、大造りな唇
をニンマリとさせて見せた。
「……もう、先に私が会いたかったなぁ。美人だし。あ〜あ、人生
って上手くいかないよ」
「真澄さん!」
 冗談とわかっていても、ちょっとドキッとする。
「そういうこと言うから、誤解されるんでしょ。この間も、うまく
いきそうになったのに……」
 佳澄の言葉を手でふるふると遮ると、真澄は椅子にそっくり返っ
て足を組んだ。
「ああ、終わったこと、終わったこと。私は、ナチュラルがポリシ
ーだから……、あれ、鳴ってないかい?」
 テーブルの上に置いたリュックを顎でしゃくると、確かに、ジジ
ジ、と震える音が響いている。
 そうだ、電車の中でマナーモードにしたままだったから――。
 紐を解いて携帯をパチンと開けると、大人しくしていたあっくん
が、ぐいっと顎をそびやかして顔を近づけてくる。
「あ、ダメ。あっくん。スミママ、出ないと……、あ、のりママだ
よ」
 真澄があっくんを膝の上に抱えてくれると、通話ボタンを押して
携帯を耳につける。
「はい。のりちゃん?」
 ちょっと間があった後で、雑音まじりの声が届いた。
『あー、スミ。まだ、大学?』
「うん、そうだよ。真澄さんと話してるとこ」
『そっか……。あのさ、ゴメン。私、学校さぼっちゃったよ』
 入りが悪い状態でも、声のトーンがいつもとは違うのがわかる。
佳澄は、椅子を引いてテーブルに前屈みになると、少し大きな声で
言った。
「え、どうかしたの……? 調子でも悪くなった?」
『う〜ん』
 くぐもった声が届く。心の奥に、何かが触れた。いつもののりち
ゃんじゃない。
「どうしたの? 家?」
『まだ、着いてない。街の中、ちょっとぶらぶらしちゃった……』
 その後、言葉が止まり、声が聞こえなくなった。
「のりちゃん? 聞こえてる?」
 少し間があった後で、声が返ってきた。
『……もう、戻るから。家に。あっくん、頼むね』
「あ、戻るから。すぐ帰る! 待ってて」
『うん、待ってる……』
 所在なげな声を残して通話が途切れると、佳澄は携帯を勢いよく
閉じて、真澄の顔を見た。
「ごめん、真澄さん」
 ショートヘアーの下の細い目が、いつもより真剣な色を帯びて頷
く。
「いいよ、話はあらかた済んだし。また、電話して」
 佳澄はリュックを背負うと、あっくんに手を伸ばした。
「おうちに帰るから、あっくん。のりママ、待ってるって」
 どうしたんだろう。また、仕事で何か言われたのかな……、うう
ん、そんなことであんな声を出すのりちゃんじゃない。
「気をつけて」
 軽く頭を下げて足早に背中を向けた佳澄の胸には、みのりの姿し
か住んでいなかった。
 立ち上がって見送る細身の女性の目に、憧れとも寂しさともつか
ない表情が浮かんでいることに、そんな心が気付くはずもなかった。

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