第七章 夜明け

 商店街の錆び付いたアーチ型看板の下をくぐると、冷たい夜空で
は、月と星が冴えた光を放っていた。
「寒いね。早くおうちに帰ろ」
 ふかふかの上着と帽子にくるまれた小さな身体を、さらに包み込
むように抱きかかえながら足を早める。動悸と一緒に吐き出された
息が白く、凍った空気の中に流れていく。
「う〜、あうっつきさん」
「うんうん、きれいだよね」
 空を指差す声に頷きつつも、心にはアパートの眺めばかりが映っ
ていた。
 のりちゃん、帰ってるだろうか。携帯も、電源落としたままにな
ってるみたいだし……。
 うん、待ってる――所在なげな最後の言葉が頭の内側で鳴ってい
た。家が近づくとさらにつかみ所のない不安がもたげ、走り出した
い衝動に駆られるほどだった。
 生垣とブロック塀の間の狭い路地を入ると、ほどなく林の向こう
に錆び付いた階段が見えてくる。自転車が数台並んだ脇をくぐると、
101号室の前に立った。
 左手の窓から光は漏れていない。やっぱりまだ、帰っていないん
だろうか。
 あっくんを下に立たせてドアノブに鍵を差し込むと、ゆっくりと
ドアを開けた。見下ろした玄関には、靴先が少しほつれたベージュ
色のスニーカー――あ、帰ってる。よかった……。
 同時に、鼻腔をくすぐる香ばしい匂いに気付いていた。なんだろ
う、お肉? お魚? フライのような、煮物のような。
 でも、狭い玄関からそのまま広がる台所では、ディムランプが小
さな光を発しているだけで、奥に垣間見える居間にも人の気配がな
い。
「あ、だめ。あっくん。くっく!」
 そのまま上がっていこうとするあっくんを制してくつを脱がせる
と、まあるくちっちゃな背中はパタパタと小走りに奥へと走り込ん
でいく。
「おお、あっくん、帰ったかぁ」
 小さな声が耳に届いた。急いで自分もクツを脱ぐと、背負ってい
たリュックを放り投げて部屋の中に駆け込んだ。
 デスクとコタツのの置かれた暗い居間に、細い光が漏れ込んでい
た。あっくんが開けた間仕切りをさらに押し開くと、寝室には少し
紅潮した丸い顔があった。
「のりちゃん、大丈夫?」
 早々とひかれた布団から顔だけを出したみのりの大きな瞳が、ま
っすぐにこちらを見上げていた。そして、ゆっくりと目だけで頷き
を返す。
「お帰り、スミ」
 佳澄は下唇を噛んで鼻から息を吐くと、その場にしゃがみ込んだ。
その前でみのりの顔を覗き込んでいたあっくんが、額をペタペタと
叩いて、もう一度じっと「ママ」の様子を見つめる。
「スミママとデート、楽しかったかぁ。ごめんな、のりママ、ちょ
っとお熱みたい。あんまり近づくと、うつるぞ」
 黙って聞いていたあっくんが、もう一度みのりの額をペタペタと
叩く。
 佳澄はあっくんの後ろからみのりに手を伸ばした。長い髪の流れ
落ちる額に触れると、かすかな熱っぽさが伝わってくる。
「あるだろ? どうもだるいなぁと思ったら、これだもの。まった
く、丈夫だけが取り柄だってのに」
 少し下がり気味の眉を持ち上げて、口元に笑みを作った顔を見下
ろすと、佳澄は小さく首を振った。
「熱、測った? 何度くらい?」
「八度はないよ。風邪ってほどじゃないと思うけど……ついでに、
いきなり来るものまで来ちゃうしさ」
 布団から手を出して、あっくんの頭に被さったままのニットの帽
子を取ると、
「まったく、ついてないよ。単位、やばくなっちゃったかなあ」
 目を逸らしてあっくんを見遣ったみのりの顔に、影が差して見え
た気がした。寝室の電気だけが淡く頬を照らしていたせいかもしれ
ない。でも、いつも血色良くはちきれそうだった横顔は、こんな風
に疲れた線を窺わせていただろうか。
 重く締め付けるような痛みが、背中から胸の奥へと伝わり、佳澄
は軽くお腹に力を入れた。
 と、今度は両手を振り上げたあっくんが、みのりの額をペンペン
と叩くと、う〜、と声を上げた。
「……ダメ、あっくん。のりママ、お疲れだから。いい子いい子、
おやすみなさいね」
 でも、振り返った丸い顔の中で、みのり似の眉が寄せられると、
一層喉から搾り出すような不満の声が上がった。
「こら、あー坊、ダメだって。うつるぞ、カゼさん――ああ、そっ
か。だいじょぶ、大丈夫。ゾウさんの冷たいマクラな。うん、あり
がと、あっくん」
 みのりがにっこり笑ってあっくんの額をペンペン叩くと、険しか
った表情がみるみる緩むのがわかった。
「ぞーさん、ポン」
「うんうん、大丈夫、冷蔵庫で冷やしてるからな」
 みのりの額に伸ばしたもみじの手が柔らかく握られると、あっく
んは納得したのか、奥に引いてある自分の布団の上にちょんと腰掛
けて、はめ込みパズルに熱中し始めた。
「そうか、氷枕かあ……。わかるんだね、のりちゃん」
「うん、この間熱出した時さ、ずいぶんとご執心だったからね。で
も、言葉でわかるんだよな、やっぱり。おっきくなったなぁ」
「うん……」
 大きなお尻を据えて、穴の開いた四角い箱に三角や星型のブロッ
クをはめ込まんと取っ組み始めた姿を見遣った後、佳澄はすぐにみ
のりの顔に視線を戻した。
「のりちゃん、大丈夫?」
 目蓋が半分落とされた。唇を開かないまま、喉だけで、うん、と
答えが返る。さっきよりずっと柔和な表情――視線を散らし解けた
気分のままに「よかった」と言いかけて、佳澄は言葉を止めた。
「だめ」
 切れ長の目を半分睨み気味に、唇をギュッと結んだ。
「のりちゃん! じゃないでしょ」
 目を見開いてこちらを凝視した顔に指を伸ばして、頬っぺたをギ
ュッと押す。あの時の携帯の声、そんなんじゃないはずだ。
「すぐ、無理するんだから。全然、大丈夫じゃないでしょ!」
 腹立たしい気分と重苦しい憂いと、何かもう一つの強い気持ちが
ないまぜになって、語調が高くなってしまう。
「ちゃんと話して。嫌だよ、そんな風に勝手に納得されたって」
 また目蓋が下げられて、一度は完全に目が閉じられた。その後で、
今度はみのり自身に言い聞かせるような感じで、「うん」と言葉が
返ってきた。
「……大丈夫じゃないかも、な。スミの言う通り」
 さばさばした調子の水面に、痛みが静かに溢れてくるように――。
「ごめん……。調子悪いのに」
 髪を後ろに流しまとめて、何かを思い返すように不透明な色を浮
かべた横顔が、こぼれかけた気持ちを引き戻した。
 もう、何で私ってこうなんだろう。
「また、スミ。謝らなくたっていいよ。私も、スミにごめん言わな
きゃいけないし」
 そして、上半身を起こすと、みのりはあっくんの方を見た。
「まず、食べよ。あっくんが参っちゃうよ」
「あ、いい。私がやるから。寝てて」
 身体を起こそうとするグリーンの寝巻き姿を押し止めると、みの
りは小さく首を振った。
「ううん、ダメなんだって。ちょっと盛り付けないと」
 はにかんだような素振りで脇を過ぎると、台所へと背中を見せる。
電気が付けられると、オーブンにスイッチが、コンロに火が入った。
 そして、冷蔵庫も開けられると――。
 佳澄はしばし発すべき言葉を見失っていた。
 みのりに促されて食器棚から皿を次々に取り出すと、大鍋から、
フライヤーから、オーブンから、色とりどりの料理が盛り付けられ
ていく。モスグリーンのクロスがかかったさほど大きくないテーブ
ルは、すぐに皿で一杯になってしまった。
 すごいね、それくらいしか言うことができなくて、大きなカニや
長く太った貝が身を乗り出す赤色が見事な洋風の鍋を、丸々とした
海老が中央で尻尾を躍らせたフライの盛り合わせを、濃厚な味を想
わせるチーズとソースが焦げ目を見せるグラタン風の丸皿を、そし
て、他にもパステルカラーのマリネや、柔らかそうなパンが置かれ
た小皿を、ただただ見送っていた。
「このブイヤベースがさ、特におすすめだと思うんだ」
 みのりは薄赤いスープの中に様々な魚介類が踊る深皿を指差した。
そして、いつの間にかテーブルに手を伸ばして背伸びをしているち
っちゃな姿にプレートを差し出すと、
「あっくんはこっち。スープは飲めるぞ〜。エキスが出てて、美味
しいからな」
「のりちゃん、大丈夫だったの? こんなにたくさん……」
 本当に聞きたいのはそんなことじゃない気がした。でも、椅子を
勧められて腰を下ろすと、当たり前の台詞しか出てこない。
「見た目より、手間かからないんだ。素材が命だから、魚介の料理
は」
 小皿に取り分けてもらったスープは、見事なほどの味付けだった。
大きな貝を口に運ぶと、柔らかい肉の舌触りとあいまって、ほわん
と広がるスープの風味が、ベースになっている素材の良さを思わせ
た。
 そして、フライも、ラザニアも、マリネも。
「おいしい? スミ」
 気がつけば、みのりはブイヤベースに少し手を付けただけで、あ
っくんに柔らかく和えた海老のほぐしや野菜のペーストを食べさせ
てばかりいた。
「のりちゃんは」
と聞くと、
「熱っぽいから、食欲出ないみたい。スミ、たくさん食べて。余っ
たら、上の釜田さんに分けてあげよ。美味しさはオッケーだろ?」
 うん、お店と遜色ない――頷きながら佳澄は、柔らかく微笑む表
情を見送っていた。かけなければいけない言葉があるはずだった。
でも、何も言えない。どうしていいのかわからない。
 食事が終り、布団に横になったみのりは、銀行通帳を広げながら
「ごめん」と済まなさそうに視線を落として見せた。
 定期的に母から振り込まれているお金。もう、合計三桁になって
いる金額のうち、五万円が引き出されていた。
「思いっきり買い物したくなっちゃってさ。ダメだよな、キレちゃ
って」
 みのりは、今日あったことを正直に話してくれた。少し憂鬱な仕
事中の出来事、身体の変調、しばらく前から感じていた差別的な視
線。そして、どうにも力が入らなくなってしまった夕刻のホームで
の一瞬。
 話し終わった後、もう一度、
「ごめん、スミ。お金送られてきてるの、嫌がってたのに」
 熱で赤みがさした頬の上、真っ直ぐに見上げた瞳の色は、紛れの
ないものだった。一日の出来事を話していた憂いも、弛まない光の
中へ溶けていくように……。
「いいよ、のりちゃん。もう、休んで」
 それだけを言うのが精一杯だった。
 ほどなく寝息を立て始めた横顔をぼんやりと目に映していた。こ
んな風にみのりの寝顔を見つめていたことがあっただろうか。
 流れ落ちた髪の中の見慣れているはずの表情は、何処か疲れ、不
穏な陰影を作っているようにさえ思えた。
 胸に大きな息を吸って、静かに吐き出す。
 目を閉じると、自然に手を握り締める。
 食い込んだ爪が手のひらに痛みを残した。
 拍の長い寝息の向こうで、細かく繰り返す小さな寝息が聞こえる。
 薄暗い寝室の片隅では、緑色の子供用タンスが影を作っている。
 とにかく、頑張ろう。スミ。これからさ。
 TVの横で光を放つアンティーク時計。コタツの上に置かれたま
まのマグカップと化粧道具。デスクの上に重ねられた栄養学の本。
窓際のコルクボードに留められたスケジュールの書き殴り。
 新婚さんだよな、私たち。だから、今日が初夜って感じかも。…
…ちゃんと愛してね、スミ。
 去年の秋に三人で撮った写真。木枠の中では、にっこり笑う二人
の間、青いつなぎを着た歩夢くんが、破顔の笑みでバンザイをして
いる。
 そのまま、カーテンの前に座り込んだ。
 膝を抱え、目を固く閉じ、俯き、肩を窄め、最後には、窓に額を
押し付けて。
 何の音も聞こえなかった。
 高校時代の出会いから現在に至る無数の景色が過ぎ、確かな色も
残さないまま、次の記憶へと飛び映っていく。
「だめだ、私」
 押し殺した呟きが漏れた。
「だめだ」
 ガラスへギリギリと額をねじり、身を固くする。
 何の音も聞こえなかった。
 幾度も繰り返す波が心と身体を襲い、時は意味を失っていく。
 届かない。どうしても、届かない。
 何もできない。終りには必ず重荷になってしまう。言うことを一
つも聞かず、暴れだす心。下らない言葉ばかりが詰め込まれて、紡
ぎだす糸の一本もない頭。
 好きだよ。愛してる。一緒だから。
 私は、だめだ。
 のりちゃんの言葉に答えを返す何を持ってる?
 何も、何も、何もない!
 今日だって、お正月だって、大学に行くことを決めた時だって、
菜香町屋に住めるようになった時だって。
 ついて行くなんて決めたって、のりちゃんの見つめる先を、待っ
ていようと思ったって。
 届かない。いつも酷い痛みを負わせてしまうだけだ。何もできな
い。何度こんなことを繰り返せばいいんだろう。
 何もできない。
 こんな私を、消し去れるなら。ばらばらにしてしまえるなら。
 繰り返すたびに深く、暗く、落ちていくように。
 丸くなったまま、その場に転がり倒れた。
 何も聞こえない。
 膝に回していた手を身体に回して、きつく、肩の腱が痛みに引き
つるほどに強く、自分を抱き締めた。顎を胸元に引き寄せ、足のつ
ま先にまで力を込めて。
 暗く、音も時間もない場所。
 どんな痛くたって、構わない。私が消えてしまえるなら、消して
しまえるなら。
 長く長く抜け落ちた時間の果て、閉じた目蓋の裏に、微かな光が
現れ、すぐに消えた。
 「できることを」
 声だった。自分の声のようにも、みのりの声のようにも聞こえた。
でも、間違いなく、心の内側に響く声だった。
 目をぼんやりと開いた。
 頬の下にあるカーペットの柔らかさを感じる。モスグリーンのカ
ーテンがかすかに揺れている。ファンヒーターの作動音が聞こえ、
窓の外にも風の音があった。
 もう一度、みのりの今日言った言葉、今までの生活、将来の計画、
そして、もっと昔の、幼い頃の景色までが積み上がり、思いがけな
い形を取った。
 佳澄は、その考えをおそるおそる眺め回して、素早く引っ込めた。
そんなことを考えること自体が怖く、馬鹿げても思えた。何度か試
みて、諦めたことのはずなのに。
 でも今は、わかってもらおうとかじゃない……、うん、そうなん
だ。もう、そんなことはどうでもいいんだ。
 深くその思いをしまい込むと、佳澄はもう一度目を閉じた。もっ
と手近な、今しなければならないことが胸に浮かんできた。
 きっとそれが、今私ができることだ。とても当たり前のことだけ
れど。
 夢とも現実ともつかない意識の中で、みのりの笑顔が弾けた。そ
して、あっくんの笑い声も。
 小さく息を吐くと、身体中を重さが包み、脳裏に薄布が落ちてく
る。やがて、手足が痺れ、何も考えられなくなった。

 間欠的な泣き声に飛び起きると、足元の幼児用布団では、黄色の
幼児服のお尻が突き出されて、あっくんが身をよじっているところ
だった。
 よしよし、悪かったな――落とされた蛍光灯の下、手探りでおむ
つを開くと、濡らした布でお尻を拭いて、手早く取り替える。
 あっくんは大きな丸い目をぱちくりすると、下半身の健やかさに
満足そうな笑顔を浮かべて、再び寝息を立て始めた。
 肩から胸にかけて、抜けるような素軽さがあって、みのりはふぅ
っと息を吐いた。下腹の重さも気になるほどではなく、出血も大し
たことはなさそうだった。
 隣の居間では、ファンヒーターが低い作動音を立て続けている。
 布団は引かれていない。佳澄は、コタツで眠ってしまったんだろ
うか。
 着替えを押入れから出しながら居間に入ると、デスクのたもとに
丸い影があった。
「スミ……」
 小さく呟くと、窓の方に頭を向けて膝を抱え込んだ背中の後に膝
を落とした。
 眉間に皺を刻み、寝息を立てる口元にも、穏やかでない名残が見
えた。
「スミ、ほら、起きて。そんなとこで寝てると……」
 セーターを着たままの背中を揺すりかけて、みのりは手を止めた。
そして、乱れたショートの髪に手を添えると、しばらくそこで、寝
顔を見つめていた。
 頬に顔を近づけると、静かに唇を合わせる。そして、肩を柔らか
く抱くと、上から包み込むようにして身体を合わせた。
 好きだよ、スミ。
 眠りにつく前に佳澄に喋り続けた繰り言が蘇って、少し胸が詰ま
る。
 でも、みのりは口元を僅かに引き締めただけで、穏やかな表情を
浮かべた。長く伸びた髪を梳き落とすと、少しだけ空いたカーテン
の間に目をやり、きちんと閉め直した。
 そして、毛布を柔らかく佳澄の身体にかけると、もう一度心の中
で言った。
 好きだよ、スミ。愛してる。
 冬の空は、全天の地平から薄明を兆し、穏やかな晴れを想わせる
色に白み始めていた。

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