第八章 春の訪れ
薄黄色の羽をせわしなくはためかせた蝶が、膝先で不規則な軌跡
を描き舞っていた。足を投げ出したパステルカラーのシートの向こ
うでは、青々と広がる芝生の上を、二人の幼児があっちへこっちへ
と走り回っている。
「つかまるか〜? ユイちゃん、あー坊」
みのりが声をかけても、二人はまったく気付かない。ところどこ
ろに顔を出した小さな花から花へと舞う蝶を、緑の絨毯を見下ろし
青い空を見上げ、飽きる素振りもなく追っている。
「あっくん、ダメでしょ!」
とまっていた蝶に不用意に走り寄って大接近の機会を逃がした歩
夢くんを、結香ちゃんが高い声で叱り付ける。
後ろに手をついたみのりの傍らで、薄桃のスカートを広げて、足
を脇に揃え身体を斜にした佳澄が、控えめな感じで笑い声を上げた。
「やっぱりユイちゃんって、お姉さん気質ですよね」
「うん……そうなの。困っちゃう」
二人から少し距離をおいた場所に腰を下ろした結香ちゃんのお母
さんは、整った顔の稜線に手を当てて、小さく息を吐いた。
「保育園でも、何だかいろいろお節介を焼くらしくて」
「そのくらいの方がいいって、篠崎さん。初めての時も、泣いたり
しなかったんでしょう? だいたい、あー坊も弟気質だし」
芝生と雑草の混生の中、背中合わせにぺたりと腰を下ろすと、二
人の幼児は草や土くれと格闘を始めた。
「そうかなぁ、みのりさん。歩夢くんもしっかりしてる方だと思う
けれど」
「ダメダメ。てんで甘えん坊なんだから、あいつは。この間も、ジ
ャングルジムに上ったのはいいんだけど、にっちもさっちもいかな
くなって、「のりママ〜」だもの。あ、お茶飲みます? まだたく
さんあるから」
「あ、すみません」
空になったコップを受け取ると、佳澄が水筒を傾けて暖かいお茶
を入れる。
「そんなことないですよね、佳澄さん。歩夢くん、怒っちゃうかも」
「うう〜ん、でも、ユイちゃんに面倒見てもらってると、本当の弟
みたい」
自分のコップにもお茶を注いでもらうと、みのりはうんうんと大
きく頷いて見せた。
「な、スミもそう思うだろ。ユイちゃんはホント、しっかり者だ」
と、車の絵のついた幼児服の背中を見せていた歩夢くんが、くる
っとこちらを振り向いた。
「あ、ほら」
篠崎さんの整った顔立ちが面白そうに歪むと、
「聞こえてるわよ、みのりさんも、佳澄さんも」
そして、ふふふ、と押し殺した笑い声を上げた。鋭いラインを描
く眦も、どこか穏やかな余韻を窺わせている。撥ねつけるような印
象が強かった粧いも、今は自然で解けた表情を隠すほどには見えな
い。
確認が終わったのか、あっくんは再び草の根っこを掘り出す作業
に戻った。
みのりは、篠崎さんの横顔から目を離すと、ベージュのカブリパ
ンツから覗いた自分の膝を、地平を囲んだ緑の森を、それから綿雲
が次々と流れていく春の空を、目を大きく見開いて仰いだ。
「気持ちいいなぁ」
そのまま仰向けに寝転がると、頭の横に付かれた手の上で、小さ
な声が響いた。
「なんか、思い出しちゃうな」
懐かしそうに春の景色に目を配る、独り言ともつかないその言葉
に、みのりは問いを返さなかった。たぶん、小さい頃の事だと思う。
最近、佳澄の口からそんな話を聞くことが多くなっていた。
「休みって、ありがたいなぁって思っちゃう。やっぱり、仕事始め
ると、感覚が違うのかしらね」
篠崎さんも、少しカラーの入った艶やかな長い髪を揺らしながら、
雲の向こうに目を細めていた。
「あ、どうです、篠崎さん。お仕事の方は」
「うん、どうにか。なんか、久しぶりだから、とちってばっかりで。
佳澄さんは、慣れました?」
「う〜ん、どうなんだろう。大したバイトじゃないですし、でもや
っぱり、疲れるかなぁ」
「――スミ、寝てばっかだもんな、最近」
みのりは、目だけで佳澄の方を見遣ると、からかい口調で言った。
「うぅ、それ言われると。だって、菜香町屋の店番と勝手が違うん
だもん。まだ、ぜんぜん覚えてないことばっかりだし」
「最近のコンビニ、何でもありですもんね」
「ママ〜」
と、飛び込んできた声と共に小さな花を掲げてこっちを向いた両
お下げの娘に向けて、
「よかったね〜」
篠崎さんは大きく手を振ると、その横顔には今まで目にした記憶
のない、穏やかな表情が浮かんで見えた。
「最近は大丈夫、篠崎さん」
みのりは身体を起こすと、低く落とした声で訊ねた。
冬の間、電話で、時に直接に耳にした、あまり芳しいとは言えな
い家庭内の状況。結香ちゃんの様子と篠崎さんの表情を見れば、想
像のつく部分はあるけれど……。
「んん」
視線を合わせず、面長で切れた頬の稜線を見せたままで頷くと、
抑揚のあまりない調子で続けた。
「パートに出たのが、いい風に行った理由なのかも。手が回りすぎ
てしまうのも、かえってお互い、イライラする原因になると思うの
よ。……もしかしたら、壊れてしまうかもしれないけれど、二人し
て結香にきつく当たるより、ずっとましだから。
みのりさんに言ってもらってよかった。肩の力が抜けた気がするの」
正月からしばらく経った冬の夜、昂ぶった電話の向こうの声に、
「完璧は無理だよ、篠崎さん。ユイちゃんのための子育てだもの」
――少し強い調子で言ったことを想い起こしながら、みのりは顔の
前で手を振った。
「ああ、もう、そんなたいそうなものじゃないから、それは。旦那
さんがわかってくれたのが、一番じゃないかなぁ。働きに出られた
んだから」
「うん、そうね……」
合わせないままの視線を落として、唇を軽く結ぶと、ユイちゃん
のお母さんは二人の方を見た。
「いいなぁ。みのりさんたちが羨ましい。私も、女の子同士で一緒
になればよかったかな」
少し濡れたような目の色だった。みのりは、少し決まりの悪いよ
うな感覚に捕らわれながら、右横に視線をやった。佳澄は、人前に
出た時の控えめさを保ちながらも、柔らかな認知の表情を目元に浮
かべている。
「ううん……、そんないいもんじゃないよな、スミ」
「ん? う〜ん、そうかもね」
頷きかけてから、半分現世を離れて見えた切れ長の瞳が、はっき
りした色を取り戻した。
「……って、どういう意味ぃ? もう、すぐそういうこと言うんだ
から、のりちゃんは」
横目遣いになると、薄桃のワンピースの肩が窄め気味になった。
拗ねて作ったかりそめの内側から、暖かく穏やかなものが伝わる。
言葉の代わりに、傍らに置かれた佳澄の手の甲をちょこちょこと
二本の指で叩いた。
みのりのライトブルーのTシャツの肩に、内側が薄く染められた
ショートレイヤーの頭が、わずかに寄せられる。
懐かしいような、かすかに痛いような、でも、どこまでも広がる
ような。
緑の草が萌える足先に目を落として、第三者がいるにも関わらず
兆す柔らかい感覚を、くすぐったく逸らしながら言葉を繋いだ。
「面倒なこと、いっぱいあるからなぁ……」
誰に言う風でもなく呟いた横顔の向こうで、整った顔立ちが何か
を言いかけて口をつぐんだ。そして、ブリーチのかかった長い髪を
細い指が持ち上げて、再び娘の方を見遣った。
少し物憂げで、同時にどこかで痛さをかもす稜線が、頬から口元
へと浮かび、曖昧な表情に包まれ消えていく。
さして意識せずに言葉を耳に流していた佳澄は、まじまじと篠崎
さんの横顔を見つめていたことに気付いた。
とても見慣れた表情だと思った。きっと、みのりと会うよりも、
ずっと昔から……。
でも、佳澄は、その想いの所在は追わず、言葉を止めたみのりの
姿に心を移していた。
『とにかく、二人でやってかなきゃ、っていうのが一番だったのか
なぁ』
一週間前に、大学のラウンジでインタビューに答えていた時の横
顔が、今見えた表情と言葉に重なっていた。
「うわあ、ドメスティック・パートナーだね」
サークルメンバー達に囃されながら、あっくんも一緒に臨んだサ
ークル誌のインタビューは至極順調で、結構個人的な部分に突っ込
んだ真澄の問いかけにも、みのりは弛まず正直に答えて、改めて皆
の感嘆を呼んでいた。
ただ、全てが終わった後、いつも通りざっくばらんに誘いをかけ
た真澄に、少し折り目を正した様子で返したみのりの言葉が、心に
留まっていた。
「みのりさんさあ、時々ここに顔出さない? すっごくカッコいい
と思うんだ、みのりさんの生き方ってさ。元気が出ると思うしね、
みんなも」
「ありがとう、川中さん。でも、言葉だけもらっておくね。こうや
っていろいろ活動してるの、川中さんたちこそ、すごくカッコいい
と思う。でも……、うん、やっぱり私の場所じゃない気がするんだ」
そして、隣に座った自分の方へ視線をくれて、
「それより、これからもスミをよろしくね。私も、手伝えることが
あったら、出かけてくるから。ほら、学祭とかあるんでしょ? 食
べ物の模擬店とかだったら、「模擬」以上にしちゃうから」
肩の力の抜けた、自然な表情だった。何となく、みのりの見てい
る場所がわかる気がした。ただ、少しだけ不安になる自分もいる。
でも、大丈夫。今、私ものりちゃんと一緒に頑張って生きてる。
それが、一番確かなことだから。
佳澄の想いは、篠崎さん母娘と別れ、春の日差しの下で腰掛けた、
豆腐屋さんの軒先にまで繋がっていた。
路地裏の古い店の低く傾いた軒下には、錆びた鉄の椅子が並んで
いて、みのりと一緒に寄せてもらったことも一度や二度ではなかっ
た。
「マツダ屋さんにも、なんかよそよそしくされちゃって」
少し寂しそうに打ち明け話をするみのりの足元で、あっくんは太
った黒白ぶちのネコの背を悪戯混じりにかまっていた。
佳澄もしばらく前に聞かされていたことだった。
この街に住むようになってから、あっくんに古着をくれたりして
くれた洋品店の女主人は、ある日を境にどこかつれなくするように
なった。
普通の客と店の主人のやり取りに戻った、と言えばそれまでなの
だけれど、日々のよもやま話まで交わしていたことを思うと、原因
は一つしか思い当たらなかった。
年が明けてから何度、こんな態度の変化に出会っただろうか。
「あの人、そういうところがあるからね」
皺の寄った目尻を険しくして、丸い顔の稜線を皮肉混じりに歪ま
せると、「袴田屋さんのおばさん」は、少し強い口調で言った。
奥まってひんやりと影になった打ち放しのコンクリート造りの作
業場では、灰色のたくましい背中が水場から樽へ、また戻り、と無
言で動き続けていた。
「結局、痛い思いをした人じゃなきゃ、わからないことがあると思
うね、あたしは。そうじゃないと、すぐに人を痛めつけちゃうんだ
よ。知らないうちにね、相手が人間じゃないみたいに」
言葉の意味より、丸い身体を一層丸く小さくして、ため息混じり
に漏らした様子が、どこか胸に苦しかった。でも、狭い路地の向こ
うの壁と軒の間の青い空を見上げながら、緩みのない声で返したみ
のりの言葉は、もっと心に迫るものだった。
「ううん、おばさん、よそよそしくする人の気持ちもわかる気がす
るんだ。私。だってさ、私たち、変わってるもの。別に、話もして
くれないってわけじゃないし、仕方ないと思う。だから、いいんだ。
元気でやっていけてるんだもの。おばさんも、他のみんなも、すご
く良くしてくれるし」
袴田さんの皺の目立つ丸顔に兆していた険が一瞬で解けて見えた。
「もう、あんたは……。ホント、優しいんだから。スミちゃんもあ
っくんも幸せもんだ。わたしらが生まれる頃なら、結構いたんだけ
どねぇ。出戻り姉妹でもらい子とか、流れ者囲ってる家とか。だい
たい、あたしの家にしたって……」
そして、呟くように、「暮らしにくくなったねぇ」と付け加えた。
買った豆腐とがんもどきを片手に、三人並んで歩き始めた春の空
は精妙なほどに澄んで、流れる雲さえ青く渡る天上の一部に見えた。
両手を握られて時々高く持ち上げられたり、低く振り回されたり
する度に笑い声を上げるあっくんはとても上機嫌で、それを見下ろ
すみのりの顔も、穏やかだった。
それでも、どこかに滞りがあった。重苦しい気持ちではない。で
も、朝から胸の中にあった考えをもう一度回し眺めると、佳澄はみ
のりの名前を呼んだ。
「のりちゃん」
眉毛を少し悪戯っぽく持ち上げて、軽い調子の声で。
「ん?」
長い黒髪を揺らせて、みのりの丸い顔が屈託なくこちらを向く。
「……大丈夫? 無理してない?」
一瞬間があった後で、大きく首が振られた。
「どうして? 全然オッケーだよ。スミ」
みのりの受け答えは、頭上に広がる空のように晴れやかで、どこ
にも曇りを感じさせないものだった。
そのまま、しばらく歩き続けた。
きっと、気持ちは、穏やかに感じているそのままだと思う。でも
……。
「ね、聞いていい? すっごく下らないことかもしれないけど」
視界が開け、住宅街に入る寸前を流れる小さな川が見えてきてい
た。
「ね、のりちゃん」
言葉にしかけてから、やはり意味のないことのように感じた。い
つも繰り返している、答えの出ない言葉の巡り……。
口をつぐみかけると、川辺に連なる木々の一本が影を落とす橋の
たもとで、みのりの足が止まった。あっくんの手を繋いだまま、遅
れて佳澄も立ち止まると、肩口から声が響いた。
「スミ、なに?」
「うん……」
あっくんの手を離すと、一息つく。
聞こうと思っていた内容を反芻してから、振り向きざまにゆっく
りと口を開いた。
「私たち、どこかで変わっちゃったのかな……。間違っちゃったの
かな」
本当に伝えたいことは、そんなことじゃないとわかっている。で
も、取りあえず口にできたのは、的のずれた言葉だけだった。
みのりはあっくんの手を握ったまま、葉の重なりに散らされた陽
光を流して揺れる川面へ向かい、肩を窄ませていた。
「もう、スミ。間違ったなんてそんなこと、ない。わかってるくせ
に」
言葉を繋ぎながら、ゆっくりとこちらに向けられた瞳は、紛いよ
うのない色を湛えていた。
「……でも、なんて言ったらいいんだろう」
それは、誰より真摯で、弛みがなく、深い想いを秘めた、ずっと
昔の夜「確かめ合った」瞬間、そのままの色だった。
「ね、スミ」
佳澄が目で頷くと、みのりは続けた。
「きっと、私、心の真ん中は今もずっと、スミと会った時のままだ
と思う。私のこの気持ち――」
ライトブルーのTシャツの胸に手を添えると、
「――あれからスミがずっとここに住んでいるってこと、それが何
なのかは名前なんてつけられないと思う。あの時、一番恋したい自
分がいて、その時スミがいた。それは、私が選んだ、のかもしれな
いけど、スミが私を見つけてくれた、のかもしれないけれど。本当
は、そういうことじゃなくって……。ああ、なんか、上手く言えな
いなぁ。ホント、私ってバカだ」
照れくさげに指先で頭を抑える。佳澄は下唇を噛みしめて、胸に
こみ上げるものが溢れそうになるのを押し止めた。
悩みながら、一語一語確かめるように言葉をくれる。それだけで
も充分だった。そして、みのりの口にした言葉が、自分が一番聞き
たかった答えだと、はっきりわかる。
ううん、今そう気付いたのかもしれない。
「……不思議だって、いつも思う。だろ、私とスミが会って、こう
してあっくんがいて。そういうことが、選んだだけじゃなくって、
どうしても「あった」ってしか言えない気がするんだ。世の中全部
があるのとおなじで。そうやって世界があって、私たちが出会った
んだもの。大きく言い過ぎかなぁ。でも、だから、私、今ここで、
ずっとスミと一緒にって……」
佳澄は、唇を引き締め、頬を目に寄せると、伸ばした両手の指を
スカートの前で絡み合わせた。心の中で小さくかぶりを振ってから、
言葉を捜して口篭もったみのりの前に一歩近づいた。
「いいの、のりちゃん」
そして、軽く顎を反らせると、みのりの顔を見上げる。
「ね、キスして。ね!」
「え……? ちょっと、スミ」
緩やかな弧を描く川沿い、木々の連なりが影を作る街外れには、
人の姿は見えない。ただ、二人の足元では、あっくんがまん丸な瞳
で上を仰いでいた。
さらにもう一歩。フレアーな薄桃のワンピースの裾が、みのりの
カブリパンツの膝に触れる。
「こら…あっくんが……」
言いかけた唇に、背伸びをして軽くキスをする。
足元から面白そうな笑い声が響き上がった。
いいんだ。私は、私らしくて。無理しなくたっていい。のりちゃ
んの中には私がいて、私の中にものりちゃんがいる。
一緒に、生きていくんだ。
その時はすぐに別れた唇の逢瀬は、夜、静けさが辺りを包むリビ
ングルームへと場所を変えていた。
お互い上下のインナーだけになり、広げられたタオルケットの上
に横臥して。
目は開いたままで、軽く啄ばむようにキスは続いていた。
下唇から上唇、時折舌を軽く触れ合わせて、お互いの瞳の色を確
かめながら。
肩と首に手を添えて、緩やかに愛撫を続けながら。
そして、後には深く強く求め合い、呼吸の全てを交換するほどに。
「ね、久しぶりな感じがしない、のりちゃん」
顔を離し息を吐いて呟くと、茶目っ気混じりの声が返ってきた。
「そう? この間寒かった日、あれって、もう三月になってなかっ
たっけ。ほら、お風呂で」
「あ。そうか……。もう、なんでのりちゃん、覚えてるの? でも、
いいや。だって、久しぶりって、ほんとにそんな感じだから」
腕枕をしたみのりの上腕に顔を寄せると、佳澄はうつぶせ気味に
身体をあずけた。脇の下のそばに添えられた鼻腔に、甘い香りが広
がる。
佳澄は、肉付きのいいみのりの肩口から胸元にぎゅっと顔をくっ
つけると、大きく息を吸い込んだ。
「大好きだなぁ。のりちゃんの匂い」
「もう、汗臭いだけだって。恥ずかしいなぁ」
言葉とは裏腹に、暖かい指が背中から腰へと、そして再び戻り、
髪の生え際を梳いて、耳元へと愛撫を送ってくれる。
佳澄は、目を閉じて息を吐いた。背中から足の先までがじんわり
と暖かくなって、体がどこにあるのか曖昧になるほどだった。
ああ、そうか。バイト、一日増やしたから……。
思い返した瞬間、ぐっと掴まれる強い感触が両のお尻に響いて、
佳澄は身体をビクッと震わせた。
「スミ」
頭の上から、密やかな声が降ってくる。そして、ピンクのインナ
ーの端を潜らせて、指先が僅かに忍び込んできた。
「してあげよっか」
「う、う〜ん……」
ここしばらく、愛されるウェイトが高くなっているような感じだ
った。少し気恥ずかしい気もするけれど、とても充足感がある――。
と、頭の中で小さな電気が散って、太ももをぎゅっと引き締めた。
みのりの手が、大きくお尻全体を撫でるように動いていた。そして
時折、指がインナーの上から後から忍び込んで、溝をなぞるように
確かめ、また元に戻っていく。
佳澄は、大きく息を吐いた。
もう、これだけで気持ちいい。ずっとのりちゃんに撫でてもらっ
てるだけで。
「のりちゃんは……?」
夢見心地で聞くと、胸元に乗せた頭の上で、顎が振られるのがわ
かった。
「ううん、気にしなくっていいよ、スミ」
そして、艶やかさをさらに帯びた声で、
「最近、スミが気持ちよくなると、嬉しくって。今日は、どうしよ
っか」
と、お尻の間を割って、窄まった場所に指先が届いた。そして、
滑らせるように前へ届くと、そこはもう、自分でもわかるほどに雫
を溢れさせていた。
少し身体を斜にしたみのりの指が、潤いをすくい取るように、開
きかけた花弁の辺をさまよってから、また、狭い道を辿って、深い
場所に戻る。
そして、窄まりに指先が柔らかく押し付けられた瞬間、
「はぁ」
細い吐息が漏れてしまう。
「すごい、スミ。脱がしてあげるね、濡れちゃうから」
「う、うん」
足からインナーが抜き取られるままに任せていると、暖かさが胸
の先に広がった。
横臥した胸元にみのりの頭が下りていて、いつの間にか剥き出し
になった頂きを唇が捉えていた。
「こっちは?」
上を見上げたみのりの目と視線が合う。ライトはいつもより明る
めで、悪戯っ気混じりに笑みを浮かべた表情がよく見えた。
「うん……。いい感じかも」
ちゅっ、と濡れた音が聞こえて、いつもは少し落ち窪んだ先端が、
吸い出されて優しく転がされ、頭の奥までじわじわと痺れた感覚が
全てになっていく。
ブラをたくし上げる形で、柔らかく張り出した胸全体を揉みほぐ
されると、佳澄は喉の奥で苦しげな声を漏らした。
臀部を捉えたみのりの左手は、静かに撫で下ろし、柔らかく揉み
掴み、もう一方の手は、二本の指で弾くような律動を繰り返して、
一番奥まった場所に添えられていた。
もっと……。
はっきりとした言葉が心の中で弾けた時、押し広げ、ぐっと入り
込んでくる感触がお尻の奥ではっきりと感じ取れた。
「あ、ダメ、のりちゃん」
自然に言葉が口をついて出ると、答えの代わりに、乳首を捉えた
唇と舌が激しく動き、更に奥深くへ指が押し込まれてくる。
背中の方向からぐっと返して、お腹の方へと押し付けられれば前
庭まで切なく官能が響いた。
「スミ」
下から首筋を抱き寄せられた耳元へ、胸から上がってきた唇が囁
くと、じんわりとした潮が体全体を包んだ。
「ん……」
眉根を寄せて、下腹部に入ってしまう力のまま浅い快感に身体を
任せると、緩やかに動きつづけていた指が、もう少しだけ奥を抉っ
た。
そのままみのりの腕が、腰を抱き締めてくれている。
散って広がっていく感覚に大きく息をつくと、固い手の平が両の
頬に添えられ、近づいてくる吐息と口づけが続いた。
陶然としながら目を開くと、みのりの瞳がすぐそばにあった。大
きく、弛まない光の中に、自分が映っているのが見えた。
「スミ、弱いよね、ここ」
お尻をギュッと握られると、まだ残る潮と共に、密やかな笑いが
漏れてしまう。
「へへ、ちょっと、恥ずかしいかなぁ」
背中とお腹の間からじんわりと痺れるように溢れ出す感覚が好き
だった。同時に、唇でヴァギナを愛されたりすると、もう……。
少し前に、自分でもびっくりするくらい昂まってしまったことを
思い出して、佳澄は目を伏せた。
自分の身体を愛されることを自然に思えるようになったのも、ど
うしてか嬉しい。
無言で整った顔立ちを見下ろしていたみのりの身体がまた寄せら
れて、胸の頂き同士が触れ合う。すっかり迫り出して固さを増した
紅い突端が互いを確かめ、下へ、上へ、円を描くように。
そして、もう一度柔らかく唇と唇が出会った後で、佳澄は身体の
力を抜いて、腰の脇でみのりの手を握った。
「もう、いいよ。私。なんかもう、トロメロ。のりちゃんは……?」
なだらかに盛り上がった胸に手を添えると、斜め上で吐息が聞こ
えた。
「私は、どっちでも。スミは? いい感じになりそうだったけど」
「ううん」
仰向けで首を振ると、空いた手を胸元に置く。
「もう、充分かな……」
でも、どこかで少し満ちていないものがあるような気がした。そ
れは、身体ではなく、どちらかと言うと、心の部分だと思う。
「……ね、じんわりしようか、のりちゃん」
「じんわり?」
「うん」
身体を回転させると、みのりの膝に手を当てる。少し押し上げる
と、みのりは意図を察したようだった。
横臥した腰の後ろに足が回ると、もう片方の足が胸元へ突き出さ
れてくる。佳澄も同じように足でみのりの身体を挟むと、腰を前に
突き出した。
濡れた場所同士が触れ合い、ゆっくりと動き始める。
追い求めるのではなく、柔らかに補い合うように。
時に角度を変え、前後に位置をずらし、足先から胸元までが擦れ
合う甘さに心を沈めながら。
足を愛撫していたみのりの手が腰の脇に下ろされるのに気がつい
て、佳澄も手を差し伸べた。
絡んだ身体の繋ぎ目で、指先が出会い、引き寄せ合う。どちらか
らともなくもう片方の手も重なり、指の付け根までを密に結び合う。
普段より少し荒くなったみのりの息遣いが耳に届いていた。
佳澄も、静かな潮が寄せ、引いていく穏やかな快感に心を浮かべ
たまま、時間を止めて波間にさまよい続けていた。多分、みのりも
同じように。
腰を回し、前後に動かすたびに、濡れて開いた唇から細かな震え
が立ち上がる。そして、幾度も、繋いだ両手を強く握り締め合った。
どれくらい時間が経っただろうか。
もしかしたら、眠っていたのかもしれない。
手を離さないまま身体を起こし、みのりの身体を見下ろすと、紅
潮した生のままの肌に、汗が光って見えた。
丸く大きな瞳はしっかり見開いていて、満足そうな息が鼻腔から
漏れた。
手を伸ばしてタオルを取った時、突然浮かび上がった考えがあっ
た。それは、苦しかったあの冬の夜、胸の奥にしまい込んだものだ
った。
……ううん、夕方、川のほとりでのりちゃんが言葉をくれた時も、
考えていた。
思い返すと、まだ横になったままで長い髪を散らした愛しい顔を
見つめ下ろした。
何?というようにみのりの眉が動き、佳澄は視線を落とした。
でも、今ならできる気がする。ううん、しなければいけないこと
なんだ。
「のりちゃん」
話し掛けると、みのりは身体を素早く起こした。
何も言わなくても、強い想いは伝わっていた。無謀とも思える試
みに、淀みなく言葉を待つ瞳の色が力をくれる。
「私、頼んでもいい? ずっと、思っていたことなんだ」
まだ、互いの心が身体の端々に残り合っている気がした。みのり
に話すことが、自分自身に確かめることのようにも思える。
「一緒に、私の……父と母に挨拶に行って欲しい。もう一度、の
りちゃんと私のこと、伝えたいから。駄目でもいい、今度こそちゃ
んと、形にしたい」