第九章 家族

 春の日差しが眩しいほどに光を散らし、あらゆるものが輝いて見
えた。
 車通りの少ない街路を下ると、青々とした木々が視界に入ってき
た。幹と葉の間には、手入れが行き届いた真新しい遊具が見える。
 木陰では、身なりの整ったお母さん達がベンチに座り、パステル
カラーの幼児服を着た我が子を遊ばせながら、穏やかに談笑してい
た。
「あ、やっぱり、この公園にもいるんだね」
 以前住んでいた時には気にも掛けなかった眺めだった。公園があ
ることさえ、あまり意識していなかった。でも、この角を曲がると
――。
「あ、あった、あった。懐かしいね」
 佳澄は、蔦の絡んだ赤褐色のレンガ風の壁に、アンティーク調の
ベンチと鉄製の飾りが置かれた店を指差した。
「あ、うん。あそこのケーキ、美味しかったよなぁ」
 高校時代、何度か寄った住宅街の喫茶店。旦那さんが大きな会社
に勤めていて、個人の趣味でやっていると聞いた……。
 あ、あの風見鶏もそのままだなぁ。
 店の横を過ぎると、歩む先には緑の生垣や、意匠をこらした様々
な塀が連なっている。そして、木造から洋風、堅牢そうな三階建て
まで、どれもが立派な庭をひかえた家屋が、広々とした街区に顔を
のぞかせていた。
「ほら、のりちゃん、あそこ」
 直角に交わった通りの右手には、ちょっとした思い出の場所があ
った。
 初めて家に来てもらった時、あのブティックの前でのりちゃんと
待ち合わせして、そして……。
 失笑してしまうようなすれ違いの記憶を口にすると、みのりは冗
談混じりに当時を再現してみせた。
 佳澄は、パルテルカラーのプリントの入った白いトレーナーの肩
を揺すると、お腹を抑えて大笑いした。
 少しタイトなジーンズスカートも含め、ラフな格好の佳澄に比べ、
みのりの方はずっときちんとした出で立ちだった。
 佳澄は、淡いブルーのスーツを着込んだみのりの腕に自分の腕を
絡めたまま、高調子で話し続けていた。
 あの駅の改札を最後にくぐってからもう、二年以上が過ぎている。
思い出して話せることは、いくらでもある気がした。
「ね、のりちゃん――」
 流線型のデザインがいかめしい、濃緑色の鉄扉。あの向こう側で
いつも吠えてるワンちゃんは……。
 と、組んだみのりの腕に力が篭るのがわかった。
 その瞬間、佳澄も今まさに目の前にしている事態へと引き戻され
た。
 緩やかにカーブした道の奥に、淡い黄土色の塀が見えてきた。飾
りブロックの上からは大きな蘇鉄や葉を広げた高木が顔を覗かせ、
さらに奥には、屋根の平たな総二階建ての洋風家屋が控えている。
 今まで滑らかに出ていた言葉が滞り、突然、足に鉛の重さを感じ
た。
 格子の門扉の前に立つと、緩やかに上がる石畳の向こうに、黒光
りする玄関の戸が見える。
「スミ」
 腰に回された手が軽く押すような感触を伝えると、佳澄は喉の奥
で小さく「うん」と言った。
 不思議だった。
 今まで饒舌に任せて通り過ぎてきた街並みは、高校の頃のままの
身近さなのに、この家だけが、古い記憶の中に曖昧にくすんでいる
ような気がする。
 玄関の戸を開けた時、車庫に車が一台しかないことに気付いてい
た。やはり、父親は来ていない。
 何て言って上がればいいんだろう――先に立ってただ広い玄関に
立った時、吹き抜けの二階への階段の前には、久しぶりの姿が待っ
ていた。
「お帰り、佳澄ちゃん」
 少し高い、掠れた声だった。
「うん……」
 顔を上げないままに小さく答えた。
「こんにちは、お母さん。ご無沙汰して、申し訳ありません」
 肩口から響いた声と共に何とか視線を上げると、
「いいえ、みのりさん、こちらこそ」
 丁寧に答え、微笑んだ顔には、思いがけない表情がのぞいていた。
 応接間のソファに並んで腰を下ろした後も、豪華な調度の並んだ
応接間にどこか色褪せた空気を感じながら、母の背中を追っていた。
 整えられた長い髪に、目鼻立ちのはっきりした、自分より押しの
強い顔立ち――でも、どこか疲れて、物憂げに見える。
「コーヒーで良かったかしら」
 コースターに背の高いアイスコーヒーのグラスが乗せられると、
まるでここが自分の家ではなく、見も知らぬショップのテーブルに
向かっているような気さえした。
 もし、みのりが隣に座っていなければ、すぐに二階に上がって、
自分の部屋に……ううん、あの部屋にももう、何一つ残っていない。
「いつもご心配ばかりかけてます」
 柔らかく切り出したみのりの言葉に始まって、あまり内容のない
会話が続いた。
 ストローに口を付けながら母の様子を伺うと、俯きがちな顔に落
ちてくるブリーチのかかった髪を、何度か耳元にかき上げながら、
みのりの言葉に頷いている。
「スミ、あれ。見せていいよね」
 促されてバックからミニアルバムを取り出すと、「出発式」の日
の写真を開いた。
 賑やかに集った参加者の様子から、満面の笑みで寄り添ったドレ
ス姿の二人、そして、挨拶の時に言葉に詰まり、ハンカチを頬に当
てるみのりの姿まで、あの懐かしい日の風景が並んでいる。
「ホント、ただの挨拶だけのつもりだったんですけれど、何だか大
げさになっちゃって」
 写真の説明に「ええ、ええ」と頷いてばかりいた佳澄の母は、
「いい式だったのね。みのりさん、出られなくってごめんなさい」
 と、視線を落としたまま言葉を結んだ。
 そして、佳澄の方を向くと、小さく息を吐いた。
「元気みたいね」
「うん」
 頷くと、みのりの丸い顔がこちらを見つめている。無言で促され
た気がして、佳澄は口を開いた。
「……パパには……、お父さんには、言ってくれた? 今日のこと」
「一応、ね。でも、私もここ一年、全然会ってないから……」
「元気かな……。わからない、よね」
「ええ。でも、たぶん、ね。部署が変わっちゃったみたいだけれど
……。本庁勤務じゃなくなったらしいから」
 初めて聞く話だった。官庁に勤めている父親がどんな仕事をして
いるか、今でもよく知らない。ただ、母親の口調から、それが普通
の移動ではないことが感じ取れた。
 ママは?――言葉を作りかけて、何もかもがそぐわないような感
覚に襲われた。そして、口をつぐんだまま目だけでシャンデリアを
仰ぎ、身体の前で指先を絡ませた。
 みのりが鼻で小さく息をする音が聞こえ、スーツの腕がコーヒー
を取り上げると、淡いピンクの唇がストローにつけられた。
 ダメだ。思い切らないと。
「……ね」
 母の視線がこちらに向けられ、佳澄は言おうと決めてきたことの
一つを口に出した。
「ずっと、ありがとね」
「え? ああ……」
 母はすぐに何のことか察したようだった。
「ほとんど手付けてないから。必要ないかもしれないけれど、もし
よかったら、返す」
 切れ長の目を落とし気味にしたまま、母は小さく首を振った。
「いいのよ、取っておいて。あれは……」
 一瞬、視線が泳ぐと、沈んだ瞳に痛いような色合いが兆した。し
かし、すぐに元の曖昧な様子に戻ると、
「ママの……お母さんの気持ちだから。最近はもう、入れられない
し。みのりさんと、うまくやってるんでしょ、いろいろ」
「う、うん」
 頷きながら、みのりの顔を見た。みのりの丸い目が、少し見開か
れて、口元に手が寄せられた。
「そう……。なら、いいのよ。わたしも、何だかいろいろ余裕がな
くって、それに、この家も、もう……」
 佳澄の母は白金色の指輪のはまった中指と人指し指で口元を押さ
えた。そして、一度言葉を止めた後、みのりの方を真っ直ぐに見た。
「……ごめんなさいね、みのりさん。佳澄がお世話になります」
「お世話なんて、全然です」
 みのりがぺこりと頭を下げると、母の口元に笑みが見えた。そし
て、眦を緩めた、穏やかな表情が浮かぶ。でも、それはどこかとて
も寂しげで――見たことがあっただろうか。それに、とても年を取
って見える……。
 頭の中でいろいろなことが入り混じって、心の所在がわからなく
なり始めていた。
 さっき出しかけて口篭もった母の言葉、目にしたことのなかった
表情、お金のこと――。
 と、唐突に低いエンジン音が響き入ってきた。そして、ダン、と
勢いよくドアが閉められる音が続く。
 嘘、もしかして。
 自然と力の入ってしまった膝を固く合わせると、佳澄は唇を軽く
噛みしめた。そして、玄関の開く音。間違いない。
 応接間のドアが開くのと同時に、右手でみのりがスクッと立ち上
がった。そして、斜め後ろに振り向くと、手をスカートの前で組み
合わせ、小さくお辞儀をした。
「お邪魔しています、お父さん。真岡みのりと申します」
 前を見ていることしかできなかった。
「ああ、どうも」
 少し鼻にかかった男性としては高めの声が聞こえた。こんな声だ
っただろうか、佳澄は近づいてきた水色のYシャツの胸元までを視
野に、膝の上の手指を軽く組み合わせた。
「ああ、そう堅苦しくしなくても」
 そして、二人の背から回り込むと、上座にある肘つきの大きなソ
ファで、紺色のスラックスの足が組まれた。
 隣にみのりの腰が下ろされてから、ゆっくりと顔を上げる。細身
な顔の口元が目に入ると、視野の端で、銀縁の眼鏡がかかった彫り
の深い眼窩から、横幅の広い目が見下ろしていた。
 さらに顔を上げた一瞬、視線が強く交わると、佳澄は自分から目
を逸らした。
 骨ばった手が、濃青色のネクタイが目立つYシャツの胸元からラ
イターを取り出し、右側に座った母に顎が軽くしゃくられた。
 立ち上がった母がガラス張りの食器棚を開けると、青い陶器の灰
皿をテーブルの上に置いた。
「今日はお休みですか」
「いや。お前は? 仕事始めたんじゃなかったのか」
 佳澄の母は首を振り、
「いいえ。コーヒーでいいかしら」
 と、抑揚なく言葉を投げると、キッチンへと姿を消した。
 すぐに、ライターの弾ける音が小さく鳴る。
「元気でやってるのか」
 心配して、と言う感じではなかった。ただ、事務的に聞くべきこ
とを聞いている、そんな調子だった。
 曇った想いが胸に満ちてくる。背中が丸まり、喉が凍りついたよ
うな気がする。
「……うん、大丈夫」
 何とか言葉を発すると、ふぅ、っと煙を吐く音が聞こえた。
 佳澄の母親が再び入ってきて、アイスコーヒーのグラスを灰皿の
横に滑り置いた。煙草の灰を落とすと、父親は、真ん中で分けた髪
の生え際を細かく指で掻いた。
「みのりさん、でいいかな」
「はい」
 みのりの腕がピンと伸びると、膝に添えた手が軽く握り締められ
た。
「まあ、何と言うのか、こんな風に余計な気は遣わなくていいから。
特に今さら何か、私から言うこともない。大学に行く時、その子に
は言ってあるはずだから」
 少し間があってから、みのりの声が返った。
「はい」
 そして、佳澄の父は、軽く頭を下げたようにも見える頷きを返す
と、ストローに口をつけた。そして、再び煙草を取り上げ、ゆっく
りと煙を吐き出した。
 誰も口を開かない時が過ぎる。
 佳澄は、俯いたまま眉根を寄せると、胸元に爪を立て、強く握り
締めたいような衝動を抑えながら、気持ちの在りかを探して心をさ
まよわせていた。
 いつも父親と顔を会わせる度に感じていた、どうしようもなく鬱
屈した気分が蘇るかたわら、もっと確かで、強い想いも消えていな
かった。この人もまた、私の前に、一人の人としている……。
 一言でもいい、伝えたかった。
「勝手にしろ、お前の好きにすればいい」
 それでも、学費を出してくれたのは父親だった。それは「まっと
うな」家庭があることが出世の大きな前提の、役所仕事への体裁な
のかもしれない。
 それでも、私は伝えたかった。
 のりちゃんが、いつもそうしているように。
 何とか、元気にやっているから。愛している人と一緒に、生きて
いるから。
 でももし、この人が、自分の考えとは違う人だったら。
 母の言葉が導いた、思いもしていなかった推測。
 いつか全て返す約束をしている学費はともかく、このところ口座
にお金を振り込んでくれていたのは、父親だったのかもしれない。
 どうすればいいんだろう、私。
 つながらない。
 高校時代のあの日、会うこともなく、「もう関係がない」と切り
捨てた人。
 今、こうして無言で煙草をくゆらせている、三年前と少しも変わ
らない姿。
 ――――。
 そうじゃない、こんなこと、ぐるぐると回していてもダメだ。量
っても、ダメなんだ。
 口を開こうとすると、背中が痛くなった。何度となく覚えがある
痛み……でも。
「お、父さん……」
 佳澄は視線を上げ、ゆっくりと口を開いた。今日初めて、いや、
数年の時を隔てて父親の顔を真っ直ぐに見詰めると、傍らに置いて
あったフォトブックを差し出した。
「何だ、これは」
「うん。ちょっと見てあげてくれる? ほら、やるって、連絡だけ
はしたでしょ……、私と、みのりさんの『出発式』」
 無言で受け取ると、面長の顔が下を向き、フォトブックを繰り始
める。
 身体の震えを抑えながら、佳澄は父親の姿を見つめていた。こち
らに向けられた旋毛……白髪が、あんなに混じっていたんだ。
 ふっ、はっきり聞こえるほど大きな吐息が聞こえると、驚くほど
早く、フォトブックは畳まれていた。
「……ね、どう? 結構、楽しそうでしょう」
 裏返りそうになる声を抑えながら言うと、眼鏡の奥の瞳が、不透
明に散らされた。そして、目に見えて口の端が歪められると、筋の
通った眉が顰められた。
「しょうがないな……。やっぱり、こんなことをやってたのか」
 呟きに近い言葉だった。
 重く鈍いものが、首の後ろに落ちてきて、胸の奥で止まった。
「ど、どういうこと」
 反射的に問うてしまう。
「……言っても、仕方ないだろう」
 何の抑揚もなく言い放つと、コーヒーに口をつけた。
 重苦しく胸に篭った曇りが、熱を放ち始める。背中を駆け上がり
始めると、どうしても止められない。
「……いい、式でしょ……、だって……」
 もう一度大きな息が吐かれた。佳澄の父は火のついたままの煙草
を取り上げかけて、灰皿に押し付けた。
 そして、すっと立ち上がると、母の方を一瞥した。
「家の書類、来週中には持ってくる」
 母が小さく頷くと、前屈みになった佳澄を見下ろした。
「好きにやればいい。さっき言ったように、余計な気は遣わなくて
いいからな」
「どうして!」
 叫んでいた。わからない、どうして? 私、何か悪いことをした?
 言葉の意味が、心がわからない。
 佳澄の叫びに答えず、細身の背中が行く。
「……パパ!」
 その時、肩を押さえる手があった。
「スミ」
 秀でた額の下に、濡れた光を帯びた真摯な瞳があって、零れそう
になる心を、強く押し止めていた。
 そして、みのりは立ち上がると、はっきりした声で言った。
「お父さん、私たち、ちゃんと、一緒にやっていきますから。安心
してください」
 応接間の入り口で、Yシャツの背中が止まった。そして、ゆっく
り振り向くと、唇を一度引き結んだ後で、また息を吐いた。
 そして、一度視線を落とすと、
「そう……。そういうことにしておこうか」
 呟くように言うと、玄関の扉の鳴る音が後に残った。
 再び低く響き渡ったエンジンと発車音を聞きながら、佳澄は心と
身体を凍り付かせていた。
 憤りに似た気持ちが噴出しかけて、目を閉じる。顎が震えて、そ
の場で声を上げたくなった。
 カチャンと音がすると、表情を変えず無言のまま、母が灰皿と空
になったグラスをお盆に乗せる。
 後のことは、あまり覚えていなかった。
 家を後にしてから、みのりと肩を並べて歩き続けた。最寄の駅に
は寄らず、街外れまで。
 ずっと口を噤んだままで、ぼんやりと状況を再演していた。
 陽は傾き、西の空は紅い色を帯び始めている。
「ごめんね……、のりちゃん」
 最初に口をついたのは、その言葉だった。どうして、父は、母は、
あんな風なのだろう。
 みのりは、「そんなこと、ないよ」と軽く背中を叩いて、そのま
ま隣を歩いていてくれる。
 怒りは、とうに消え失せていた。ただ、鈍くくすぶる痛みが残っ
ている。
 写真を眺める父の、皮肉混じりで虚しげな口元、家を処分すると
告げた母の、諦めと疲れの浮かぶ儚い瞳の色。
 佳澄は、空を見上げた。初夏への群雲が、西から東、赤から深青
へと高く流れている。
「あなたも、こうやってみのりさんと暮らしているし、あの人にも
もう、必要ないから」
 母の言葉が思い浮かんだ瞬間、胸の奥から激しく溢れ出すものが
あった。
「のりちゃん……」
 真っ直ぐ、長く伸びる街路の傍らで立ち止まると、佳澄は俯いて
歯を食いしばった。
「ごめん、のりちゃん、どうして、どうして……」
 涙が溢れてきた。言葉にしようとするのだけれど、声にならない。
 どうして、何のために、私たちは一緒だったんだろう。何のため
に。
「スミ、いいんだ。大丈夫、きっと、わかる時がくるよ」
 肩に手が掛けられると、そのままみのりの胸に額を押し付けた。
身体の奥から、胸の底から溢れ出した涙は、止めようもなく流れて、
アスファルトの上に点々と落ちていく。
 悲しかった。報われなかった。
「ごめん、ごめん……」
 絞り出された声に、みのりの腕が包み込む。
 広い街路を、時折車やバイクが過ぎていく。それでもしばらく、
二人はその場で身体を寄せ合っていた。

 タクシーを拾って、仲町へ向かったのは、赤い色が空を染め抜い
た頃だった。
 もともと佳澄の家とみのりの実家は数駅しか離れていない。次の
駅まで歩くより、通りかかったタクシーを拾う方が簡単だった。
 佳澄は、ぼんやりとウィンドウの外を眺めながら、隣に座ってい
る。ジーンズスカートの膝が、自分の膝のすぐ横にあって、白いト
レーナーの肩も、ほどんど擦り合うほどに寄せられていた。
 みのりは、佳澄の横顔を見遣ってから、視線を前方に戻した。
 あまり心地よいとは言えない今日の出来事が脳裏をよぎる。
 しかし、それは、胸を塞ぐほど重いものではなかった。それより、
佳澄と二人、挨拶ができてよかった、そんな気がする。
 佳澄の父が、最後にこちらへと振り向き、「そういうことにして
おこうか」と言葉を投げながらも、娘の方を窺った瞬間の揺らめく
瞳の色、フォトブックを繰っている時に、それまでの儚さを和らげ、
どこか少女のように微笑んでいた母の口元が心に残っていた。
 そして、何より――。
 夕刻の風の中、涙を流し続けた佳澄の痛みを、どんなことをして
も和らげてあげたいと思っていた。私に全てをわかることができる
はずもない辛さだけれど。
 でも、震えている肩を抱き続ける間、そして、こうして暮れ始め
た街並みを二人無言で眺めていても、どうしてか、暖かく、満たさ
れるような気持ちが溢れて止まらない。
 それは、嬉しさに似た気持ちにも感じられた。
「もうすぐ、着くね」
 高層マンションの列が途切れ、軒の低い家々が混じり始めた景色。
佳澄が外を見つめたまま、穏やかな、でも明るさの浮かぶ声で言っ
た。
「うん。……運転手さん、もう一個先の信号で曲がってね」
 はいはい、元気のいい返事が返ると、みのりは佳澄の横顔を見つ
めていた。
 瞬間呼応するように、稜線がすっと流れる色白の頬がミディアム
レイヤーの髪を揺らして振り向くと、赤を輝き返す瞳がこちらを真
っ直ぐに捉えた。
 そして、引き締まった唇の端に、紛れのない柔らかさが浮かぶと、
二人だけにわかる頷きが届いた。スーツの膝に手が伸び、静かに添
えられる。
 少し切ないような暖かさに、みのりは目を伏せた。
 一瞬、佳澄が今まで知っている誰よりも、強く弛まない人に感じ
られた。
 緩やかなカーブの入り口でタクシーを降りると、見えてきた低い
軒の下では、黄土色のTシャツのがっしりとした背中が、テンポよ
く右へ左へと動き、野菜の乗った木箱やダンボールを動かしている
ところだった。
「ただいま」――二人が声をかけようとした一瞬、ピンと伸ばされ
た背中が振り向いて、角刈りの下の日焼けた顔が、
「おう」
 と太い声を上げた。
「ただいま、お父さん」
「帰ったよ、おやじ」
 日暮れかけた菜香町屋の店先には、お客の姿はなかった。
 ふたりの父は、空を仰ぐと、
「だいぶ、涼しくなったな」
 鼻で息を吐いた後、佳澄の方を見て、かなりくだけた様子で言っ
た。
「どうだ、佳澄。バカ親父だったか」
 口の端に浮かんだ皺を見つめ、佳澄は一瞬、細身の目を見開いた。
そして、口元に手を当てて面白そうな息を吐いた後で、
「うん、すっごくバカ親父だった。お父さんと大違い!」
 ふたりの父は、ははは、と短く声を上げ、
「そうだろう」
 と頷いて見せた。みのりは呆れ気味に腰に手を当てると、
「あー坊は? 大丈夫?」
「ああ、今、寝てる。お前たちも、早く着替えて手伝え。まだもう
一波、あるからな。俺は、休む」
 腰を叩く様子に、佳澄がクスクスと笑い声を立てる。
「はいはい、ホント、ちゃんと面倒見てくれたんだろうなあ」
 中に入りかけたみのりの背中に、声がかかった。
「みのり」
 みのりが立ち止まると、父は、手近にあった玉ねぎの箱を開き、
少し間を置いてから、大きな口を一文字に結んで視線を向けた。
「失礼はしなかっただろうな、佳澄のご両親に」
「……うん。ちゃんと挨拶した」
「そうか、なら、いい」
 短く頷きが返った時、軒の向こうから女性の声が響いた。
「あ、みのりちゃんに佳澄ちゃん、里帰り?」
「お、スミちゃん、みのりちゃん、お帰り」
 別の男性の声もかかる。
 店先で通りに背を向けていた佳澄と、奥に入りかけていたみのり
は、明るい声で挨拶を返すと、そのまま店先で野菜を手に取り、お
客の相手を始める。
 涼やかさを増す春の夕暮れとともに、商店街の一角には、賑やか
に人が集い始めていた。


(第2部・完)

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