南北に長い神社の境内は、真っ直ぐに歩くのが難しいほど混み合
っていた。ぼんやりと赤い光を並べ落とす提灯型の電飾の下には色
とりどりの夜店が軒を連ね、あちらこちらに人垣ができている。
「すごいなぁ、それ。おいしいか？」
斜め下を見下ろすと、藍染めの浴衣姿のみのりは、歩夢の持った
チョコのたっぷり掛かったバナナを指差した。
「う〜ん」
白地におもちゃ柄が散らされた浴衣を着た三歳児は、棒の先で茶
色に光る物体を眺め回すと、少し垂れた眉を寄せ、不透明な表情で
固まっている。
佳澄はそのどこかこらえた様子を見ると、軽く笑い声を上げた。
そうだよね、さっき、ひと舐めして停止した時の顔を見れば。
『スミママ、これ。これ欲しい』
縁日にやってきて、真っ先に見つけた最高においしそうなものだ
ったのに。
「それ、スミママにもらえる？」
覗き込みながら言うと、
「いいよ」
勢いよく返事が返ってきた。
「はい、ありがと」
佳澄がにっこり笑って、藍染めの浴衣の手を伸ばした時、
「ああ、歩夢。ダメ。自分で欲しい、って言ったんだから、ちゃん
と食べな」
少し固い声で、みのりの止めが入った。トッピングが散らされた
チョコバナナを掲げた手が、途中で止まり、右上を見上げたまんま
るの顔が、少し細くなったように見えた。
「いいじゃない、のりママ。ね、ご飯じゃないんだから」
さっとあっくんの手からチョコバナナを奪い取ると、二人でにん
まりと目を見つめあう。
「スミぃ。……もう、仕方ないなぁ」
口元に舌打ちをうかがわせると、みのりは握っていた手を離した。
「いいのいいの。お祭りだもんね」
「おまつり？ エンニチャ、だよ。あと、バン！ 花火。ねえねえ、
まだ？」
丸い瞳が見開かれ、顔全体がらんらんと輝く。
「ああ、まだまだ。もっと人がたくさん集まって、もっと真っ暗に
なったらな」
「もっと？ うう〜ん」
まだ少し青みの残る空を見上げるあっくんの様子に、面白そうに
目を細めるみのり。佳澄は、手に持ったチョコバナナを一かじりす
ると、暮れなずむ境内の景色をまるごと目の中に収めてから、視線
を玉砂利の上に落とした。
何となく懐かしいような、どこか気恥ずかしいような……。
感覚の元を探すと、ほどなく思い当たることが一つあったけれど、
深く追う事はしなかった。
……うん、だよね。そんなこと、あったけ。
花の散らされたお揃いの藍染めを着たみのりの方を向いて、それ
となく昔の思い出を話そうとした時、先に声が上がった。
「あ」
みのりの視線は、前方の人ごみに注がれている。誰かを見つけた
表情だった。
「木島さんだ。ごめん、スミ。ちょっと……」
「うん」
佳澄は目で頷くと、あっくんの手を引いた。あれ、という顔でみ
のりの背中を見つめるあっくんに、屈みこんで話しかける。
「のりママ、お友達見つけたって。ちょっと、待ってよぉ」
「うん」
大きく頷くとあっくんは、五、六メートル向こうで身振り混じり
に話し始めたみのりからすぐに目を離した。
「スミママぁ」
小さな背中を包むように、しゃがんで視線の向きを合わせている
と、全てに興味津々なうしろ姿が、何かを探しているのがすぐにわ
かった。
「…あれ、ポンポン取り！」
「え？」
浴衣の袖が重そうな指が差した先には……。
「あ、ああ」
四角い水色のポリ容器の周りに、立って覗き込み、しゃがんで手
を伸ばしと、小さな子供たちが鈴なりになっている。
「ヨーヨー釣りかぁ。やる？ あっくん」
「うん、やる」
ぐいっと頷くと、袖をひらひらさせて、どこか丸まっちい背中は
一直線に走り始めた。
「すいません、一つお願いします」
水の上にぷかぷか浮かんだ色とりどりの風船。釣り棒を握って品
定めを始めたあっくんをあごの下に、佳澄は、みのりのいる場所を
振り返った。
最近なじみになった背の低い中年の女性の他に、いつのまにか白
髪混じりの男性が加わって、楽しげに会話が弾んでいる。頬に紅の
入った丸顔が、もう、と言う感じで明るく笑い、藍染めの浴衣の袖
を上げて大仰な身振りを作った。
「……どう、いいの見つかった？」
「ううん、もうちょっと」
乗り出して覗き込む真剣さに溢れるうなじに目を戻しながら、穏
やかな、でもどこか、空を仰いで、軽いため息を付きたくなるよう
な気分を覚えていた。
……暗くなってきた。花火、もうすぐ始まるかなぁ。
まだかな――もう一度、話を続けているみのりの姿に目を戻した
時、視界の端から伸びてきた小さな手が、あっくんの背中をぐい、
と押した。
「あっくん」
同時に、鼻に掛かった高い、でも、勢いのある声が響く。短く刈
り上げられたあっくんの頭が振り向くと、ん、と言う顔で、桃色の
浴衣姿を見つめた。
両お下げに、目鼻立ちのはっきりした少し年上の女の子。篠崎さ
んのところの、結奈ちゃんだった。
「……こんばんは、結奈ちゃん」
「こんばんわぁ」
満面の明るさで、おしゃまな顔が正面から見つめると、すぐにあ
っくんの背中に並ぶ。立ち上がりながら辺りを伺うと、人ごみを背
景に、髪の長い、ジーンズ姿の女性が近づいてきていた。
「ヨーヨー釣り？ 面白い、あっくん」
「ん」
足元では、ぶっきらぼうに頷いたあっくんが、手に持っていた引
っ掛け付きの棒を結奈ちゃんの方に突き出したところだった。佳澄
は身体をひねると、自分より頭半分高い、少し憂いを含んだ表情の
女性に軽く会釈をした。
「こんばんは、篠崎さん」
「こんばんは」
と、篠崎さんはすぐに身体を屈めて、
「だめ、結奈。結奈もやりたいの？ だったら……」
「いいんだよ」
あっくんの声が響き上がり、結奈ちゃんに棒を渡す。
「ありがと、あっくん」
屈託なく受け取った結奈ちゃんは、あっくんが指差す先にねらい
をつけて、棒を差し伸べた。
「ごめんね、歩夢くん」
身を屈めたまま声をかけた篠崎さんが、長い髪を手で押さえなが
ら身体を起こすと、佳澄は、紺のカッターシャツを着た男性が、少
し離れた場所でこちらを見ているのに気付いた。
佳澄の視線に気付くと、ゆったりした半袖シャツを着流した篠崎
さんは、眼鏡をかけた細身の男性に身体を向けてから、やんわりと
笑った。
「佳澄ちゃん、うちの、主人。ほら、あなた、話したでしょ。みの
りさんと佳澄ちゃん。東町に住んでる……」
落ち着いた様子の男性は、細身の顔を伏せ気味にして、どうも、
と会釈をする。佳澄も、「はじめまして」と頭を下げた。
そうか、やっぱりこんな感じの旦那さんなんだ。
「佳澄ちゃん。すごい、綺麗」
明るい声で指差されて、一瞬、何のことかわからなかった。
「……あ、うん、今日はちょっと頑張ろうかなぁって、のりちゃん
と話して」
浴衣の袖を掲げると、佳澄は頷いた。ストレートに褒められると、
ちょっとの気恥ずかしさ混じりに、やっぱり嬉しくなる。
それから、しゃがみ込んだあっくんとユイちゃんを足元に、もう
すっかり旧知の仲になった「公園友達」と、保育園のことやお稽古
事のことで談笑し始めた。
篠崎さんらしからぬ冗談話に大笑い、と、後ろから大きな声が飛
び込んできた。
「お〜い、スミ。迷子になっちゃうぞ。もう、篠崎さんも」
「あ」
二人してはっとすると、身体の前に幼児二人を押し立てて、みの
りがこちらへ歩いてくるところだった。
「ほい、ユイちゃん。ダメだよ、お母さんから離れると」
そして、目だけで会釈をすると、
「こんばんは」
「あ……。ごめんなさい、みのりさん」
くすりと笑ったみのりに、佳澄は舌を出して見せた。
「ごめん、のりちゃん。またやっちゃった」
みのりは、しょうがないなぁ、とちょっと眉を上げて見せて、あ
っくんの頭にポンと手を置いた。
「ね、スミママ、みてみて。これ」
黒地に銀河と星が散ったヨーヨーが突き出され、佳澄はしゃがみ
込むと、パンパンに膨らんだ風船を手に取った。
「あ、すごい。カッコいいねぇ」
「ユイが取ったんだよ」
「僕が、あれって言ったんだ」
勢いのいい幼児二人に頷く間、背中の上でいくつかの言葉が行き
交った。そして、
「初めまして、真岡です。今日は、いい天気でよかったですね」
と、みのりが向こうに会釈をするのが見えた。さっきと同じ調子
で、どうも、と低い声が返ると、ユイちゃんが勢いよく駆けていき、
大声が響く。
「パパ、あれ、あっち。いっぱい、あるんだよ」
夏らしからぬ濃紺のスラックスに取り付くと、結奈ちゃんはパパ
を人ごみの中へぐいぐいと引っ張っていく。
あ、ごめんさなさい。じゃ、また今度――慌てて頭を下げると、
シャツとジーンズ、ラフな格好の背中は小走りに遠ざかり、娘を間
に、旦那さんと三人で境内の奥の方へと歩いていく。
「バイバイ、あっくん〜」
遠くから大きく手を振る結奈ちゃんに、申し訳程度に手を上げる
あっくん。
「ほら、ユイちゃん、バイバイだって」
小さな背中を小突くみのりを脇に、佳澄は、親子三人が人ごみに
紛れていく様子に目を細めていた。
思い出された古い眺めと、現在の想いの糸が結び付き、ほのかな
切なさに、両手の指を絡める。
「ユイちゃん、ホント、元気一杯だよ。勝てないなぁ」
「うん。よかったよね」
前を見つめたまま頷くと、言葉の裏柄にあるものに気付いて、み
のりがこちらを向くのがわかった。
「……どしたの、スミ？」
「ううん」
佳澄は小さく首を振ると、瞬間、目を閉じた。縁日に来たばかり
の時に思い浮かんだ記憶が重なり、もう一度、心の中で言葉を作る。
踏み出さなかった、だけなんだよね。きっと。篠崎さんのところ
も、あんなに楽しそうなんだもの。
「ねえねえ、のりちゃん」
「うん？」
「お祭りの思い出って、ある？」
「どうかなぁ。好きなことは、間違いないけど。なんだかんだで、
いっつも出ずっぱりだったから」
「だろうね、のりちゃんなら」
あっくんを前に歩き始めると、佳澄は、左手に見えてきたのぼり
に、思っていた文字を見つけていた。
「あ……」
紅い続け字で、「リンゴ飴」と大きく書かれている。指差すと、
「あ、リンゴ飴か。おいしそう、なんだよね」
「うん、そうそう。“おいしそう”」
店の前で立ち止まると、黄金色の衣から透けて輝く丸々とした紅
が、棒に刺されてずらりと並んでいた。
「なにあれ、ホントの、ディンゴ？」
「そうだよ。あっくん、食べる？」
「うう〜ん、」
あっくんは一瞬考えると、
「いい」
そして、間髪入れずに、
「花火、バンは。暗くなったよ、のりママぁ」
「お、うん。もう少しな。あっくん」
う〜、と唇を尖らせた丸顔を見下ろしてから、みのりは佳澄に視
線を投げていた。
瞬きを止めた横顔が、ライトに照らされたリンゴ飴の列を、真っ
直ぐに見つめている。そして、みのりの方へ上目遣いになると、
「買っていいかなぁ、のりちゃん。二個」
「二個？」
「うん、二個」
いいよ、と頷くと、佳澄は小走りに夜店の間口へと走っていった。
その時、頭の上から光が落ちてきた。そして、間髪入れず、ボン、
と響きが上がる。
「あ〜！」
あっくんが丸い目をいっそう大きく開くと、みのりも空を見上げ
た。月明かりに影を落とす境内の森の向こうに、小さな火の花が開
いて、糸を引いた。そして、もう一輪、今度はまんまるな紫の輝き
が。
「……始まったね」
後ろから声が響くと、両手にリンゴ飴を持った佳澄が、上空に視
線をやりながら、傍らに歩み並んだ。
「うん」
しゃがんだまま頷くと、みのりは、すんなりとした横顔を仰いで
いた。
さっき篠崎さんを見送った様子と共に、淀み一つ見えない澄んだ
表情が、心に雫を落とす。
本当、綺麗だなぁ。スミは……。
あ、もう、いきなり何を考えてるんだか、私は――気恥ずかしさ
を胸に押し込めながら、みのりは立ち上がった。
「スミ、もうちょっと、よく見えるところに行こうか」
「そうだね。あっくん、上の方に行こう。もっとよく見えるよ。バ
ンッ」
うん、と頷くとあっくんは踵を返した。
「ね、食べる？」
佳澄は、二つ持ったリンゴ飴の一つをあっくんに示した。
「……いらないか」
へへへ、と声を上げた横顔に、みのりは声をかけた。
「私、もらおうかな」
「いいの？ おいしそうな、だけなんでしょ？」
「まあね。でも、その大きさなら、だいじょぶじゃない」
歩きながら、二人でリンゴ飴に口を運ぶと……、え、意外と。
「バン！」
頭の上で開く光と一緒に叫ぶあっくんを間に、目と目を合わせた。
「……おいしいじゃん。びっくりだ」
「ホントだね」
そして、再び花火を見上げた佳澄が、「買ってってあげようかな
ぁ」と小さく呟くのが聞こえた。
「お母さんに？」
それとなく言葉を投げると、うん、と頷きが返る。みのりはそれ
以上を訊ねなかった。
三人は、ところどころに人が腰を下ろす石段を上がっていく。そ
して、斜面になった一角に陣取ると、並んで空を見上げた。
ひゅーっと空気音を残して、煙が天へと尾を引いていく。
「お、これは大きいぞ、あっくん」
「ホントに？ でっか……、おあ！」
声を途中に、尺玉がズドン、と大輪の花を咲かせた。
「燃えちゃう、燃えちゃう！」
地面へと糸を引く火花に、甲高い叫びが上げる。大丈夫、大丈夫
――二人で浴衣の肩をを押さえながらしばし、いつか思い出してい
るのは……。
「いい感じだなぁ」
「うん、これくらいがいいよね」
去年も話した気がする、私鉄沿線、下町の打ち上げ花火の穏やか
さ。高校の日々、あの夏の激しい輝きとは、まったく色合いが違う
けれど。
「たまや〜」
低く、でも力強く合わせられたみのりと佳澄の声が、七色の輝き
と共に、夜空に溶けていった。