第二章 日々

 会計を済ませて狭い階段から街路に出ると、むし暑かっただけの
空気が涼しさを帯び始めているのに気付いた。下ろした髪の内側を
柔らかく風が梳き、佳澄は自然に後ろへと声をかけていた。
「涼しくなったね」
 飾り気のない青いサマーニットの振り向いた先には、パールホワ
イトのワンピースが少し年不相応な中年の女性が立っていて、小さ
く、「そうね」と頷いた。
「でも、ほんとうにいいの、ごちそうになっちゃって」
「ごちそうって、お茶とケーキだけじゃない。おおげさ、お母さん
は」
 整った顔立ちを崩してにっこり笑った娘の表情に、佳澄の母は一
瞬、言葉を失って見えた。でも、すぐに軽く頷くと、
「みのりさんに、よろしくね。……あと、歩夢くんにも」
「うん。いい部屋だったでしょ? あ、これはさっきも言ったっけ」
 からからと笑う様子に、今度は結ばれた口元に穏やかさが覗いた。
 そして視線を逸らせてしばらく、その後言葉を探すように、
「佳澄ちゃん…」
 頬に添えられて細かく動かされる指先と、どこか恥らっているよ
うにも見える表情に、佳澄は眉を持ち上げて見せた。
「どうしたの? お母さん」
「ううん、何でも……。ね、佳澄ちゃん、ママ……じゃない、お母
さん、また顔見に来るね」
「うん、遊びに来て。あっくんも、「おばあちゃん」欲しがってる
し」
 言葉に続けて、悪戯っぽく笑いかけた。
「もう…、やめてよ……。いきなり、おばあちゃん、って。そうい
うんじゃ……」
「だって、そうでしょ。つながり的には」
 佳澄は、自分より少し背の低い母の顔に再び笑いかけると、近づ
いてきた駅の改札を見遣りながら、声の色を変えた。
「それじゃ、お母さんも、気をつけてね」
「……ありがとう。じゃ、ね」
 雑踏の中に消えていく背中を見送りながら、佳澄は胸の中にある
想いに、静かで確かな頷きを返していた。
 九月半ばの夕刻、厳しく残っていた暑さもたそがれて、立ち並ぶ
背の低い建物の上に広がる空は、穏やかな茜色に染まっている。
 歩きながら、思う。
 こんな風に、空が見えたことがあったかな、風は身近にあったっ
け……。
 当たり前のように、お互いの近況や仕事、勉強のことまで言葉を
交わし合えた母とのひとときを思い返しながら、佳澄は夕陽が落ち
ていく西の空を瞳に映した。
 何か、買ってこうかなぁ。のりちゃんと、あっくんに。
「佳澄ちゃん、お帰り?」
 商店街の入り口にある八百屋さんから声がかかる。
「うん、そうなの、……あ」
 スイカにしようかな、ちょっと時期外れだけど。
 バッグを開いて財布の残りを覗き込みながら、小柄なおかみさん
に話しかける。
「スイカ、あります? うん、ちっちゃいのでいいから。甘いのが
いいんだけれど……」

「あ、お帰り、スミ。早かったじゃん」
「おかえい〜」
 アパートのドアを開けると、流しに立つみのりと、子供用の椅子
に乗ったあっくんが、二人並んでこちらを見つめていた。
「ただいま。……そうかな? 結構長話してたと思ったんだけど」
「ねぇ、スミママ、見てよ」
 ポンと椅子から飛び降りると、まんまるな顔が、話の展開はお構
いなしにスカートの裾へ手を伸ばしてくる。
「あ、ダメだって、歩夢。手、手!」
 包丁を持ったままのみのりは、目を大きくして大声を上げかけた
けれど、
「うあ……」
 唸って表情を歪めた。
「……どうしたの? あ……」
 モスグリーンのマーメイドスカートには、何か黒っぽい染みが。
 よく見ると、スカートを掴んだあっくんの手は、赤い色で染まっ
ていて……。
「ど、どうしたの、それ! どこか、切れた? あっくん」
 慌ててしゃがみ込むと、あっくんはぷりっとした唇に笑みを浮か
べて、面白そうに、
「今ね、魚、ぶちってしてたんだ。ほら、ほら」
 指差した先を見て、佳澄は瞬時に目を背けた。
「うわ、ダメ……」
「またぁ、スミは」
 血に染まった出刃包丁をひょいと持ち上げて、みのりは、ははは、
と軽く笑い声を上げた。流しに置かれたまな板の上には、細長い魚
が、赤い血をにじませてはらわたを掻き出されている。
「もう、そんなの、見ちゃダメ、あっくん」
「いいんだって。なあ、上手なさばき方、のりママ、うまいだろ?」
「のりママ! そんなの自慢してどうするのよ。ほら、あっくん…
…」
 と、足元から唐突な大声が。
「あ、スイカ!」
「あ……、うん、買ってきたんだ。食べる?」
 洗面所の方へと小さな背中を押し出しながら靴を脱ぐと、
「手、洗おうね」
「うん」
「冷やさないと、おいしくないんじゃない?」
 横を向いて屈託なく言葉を投げたショートカットの下の丸顔に、
「ちゃんと、冷えてるのもらってきたから」
「あ、八百八さんの、店先で氷にいれてある奴?」
「そう」
 そして、通りすがりに小さな声で、
「……のりちゃんの野蛮人」
 もう、こんなのちっちゃい子に見せて。
 血色のいい頬に苦笑いが浮かぶと、はいはい、と大げさな頷きま
じりの答えが返った。
「そのスカート、脱いどいてよ。これ終わったら、すぐ浸けとくか
ら」
 ゆったりした部屋着に替えて、居間のテーブルの上でスイカを切
ると、さっそく一番大きな切れ端に取っ組み始めた三歳児の隣に腰
を下ろした。
 台所からは、みのりが夕食を作る軽快な音が響いてきている。
 小さい切れ端を一口。バッグから携帯を取り出すと、パチンと開
いた。
 母親と話している時から、考えていた事だった。
 赤い手帳を開くと、いつかメモしたはずのアドレスを調べる。
 ええと……、これだったよね。
 いかにもお役所、と言う感じのアドレスを打ち込むと、本文を書
き始める。
『お久しぶりです。佳澄です。今日、お母さんと話をしました』
 ……ダメ、何だか変な感じがする。
 以前出したメールには、返事がこなかった。でも、それを期待し
て送ったわけじゃないから……。
『まだ、仕事中かな、お父さん』
 ううん……ダメだ。こんなざっくばらんに書けるわけがない。
『こんにちは、お父さん。佳澄です。まだ暑いけれど、身体の調子
はどうですか? 私、今日、お母さんとお茶を飲みました』
 私たちの住むアパートに着てくれて……。書きかけて、指を止め
た。これはやめておこう。細かい事を書いても仕方ないもの。
「ピッ、ピッ? ケイタイお手紙?」
「うん、そうだよ」
 脇の下から頭を突っ込んでディスプレイを見上げたあっくんにう
なずくと、……あらら。
「うわ、あっくん。ほっぺ、真っ赤じゃない。のりちゃん、タオル
……」
 言い終わる前に、ピンク色の布切れが飛んできた。そして、スイ
カの乗った大皿の横に置かれる、チェック柄のおしぼり。
 胸元で上を向いた柔らかいホッペを拭うと、しゃがみ込む空気が
背中に寄り添った。
「オヤジさんに?」
「……うん」
 佳澄は、みのりのふくよかな顔に振り向くと、小さく息を吐いた。
「やっぱり、知らせておこうかな、と思って。悪くないよね」
「悪いも何も、スミのお父さんじゃない。……お、そうだ」
 黙って二人のママの様子を目に入れていたあっくんを見下ろすと、
「あー坊、パチッ、するか。ケイタイカメラの」
「うん、するする!」
「スミママと一緒に……で、スミ、写真と一緒に、『おじいちゃん、
今度会おうね』とか……」
 おじいちゃん?――問い掛けたあっくんの高い声と一緒に、佳澄
は首を振った。
「そんなの、ぜったい無理」
「やっぱり?」
 あっくんと同じ、ボリュームのある唇がにっと笑う。
「ね、パチッは?」
 と、携帯を握った手首を小さな手が引っ張った。
「お、そうそう。そこに並んで」
 みのりは、テーブルの上に乗っていた自分の携帯を取り上げると、
「はい、ポーズ」
 見せて、見せて!――走り寄ってきたあっくんに、ほい、携帯を
手渡す。
「ご飯にしようか」
 すっと立ち上がると、つけていた緑色のエプロンを外しながら踵
を返した。
「もうできたの?」
 見上げて問い掛けると、あ、ホントだ。いい匂いがしてる。
「うん、簡単だけどね。……あ、いいよ。メールしてて」
 台所に戻っていくみのりの足音を耳に、佳澄はもう一度ディスプ
レイを覗き込んだ。
 そして、軽く唇を引き締めた後で、メールの送信ボタンを押した。

 風に揺れるレースカーテンを引いて網戸を開けると、みのりはベ
ランダに足を落とした。
 二つ椅子を並べれば目いっぱいのそこには、長く艶やかな髪を夜
風に、ライトブルーの背中が座っている。
「ありがと」
 ビールのロング缶を肩口から差し出すと、佳澄は受け取ってさっ
そく、パチンとタブを上げる。
「あ、のりちゃんも?」
「まあね。たまにはいいかなぁ、と思って」
 ミニ缶に口を当てて一口飲み干すと、うん、お風呂上りだとやっ
ぱり、美味しい。
「はい、おつまみもね」
「あ、気が利くぅ」
 今日の夕食の余り、ゲソを軽くショウガ焼きしたものを膝の上に
置くと、爪楊枝がヒョイ。そして屈託なく格好を崩した笑顔を目に
した瞬間、鼻の周りがツンとなるような感じが兆した。
 それは、さっき、ベッドタイムが終わった時にも感じたような…
…。
「ホント、真ん丸だなぁ」
 とっさに空を仰ぐと、佳澄はビール缶を傾けながら、
「うん」
 真っ直ぐな声に惹かれて、隣に座る姿を再び横目に映すと、佳澄
は気持ちよさそうにビールに口をつけながら、満ちた月の輝く空を
仰いでいる。
 長い睫毛が彩る目元から、すんなりした顎の稜線へ、そして、喉
元が眩しいベージュのラウンドネックは、ゆったりした中にも身体
の線をのぞかせていて……。
「九月の月って、なんでこんなに大きく見えるんだろうね」
 空を仰いだまま言葉を発した佳澄は、ん、という感じでこちらを
見た。
「どうかした? のりちゃん」
「ん、ううん、何でも」
 ちょっとドキッとして目を瞬かせると、
「お団子とか、やっぱり買いに行ったほうが良かったかなぁ」
 何やってんだろう、私。もう、スミがきれいなのは、いつだって
間違いはないけれど。
「もしかして、のりちゃん…」
 会話の内容には答えず、佳澄は悪戯っぽく覗き込んでくる。そし
て、耳元で、
「…残ってる? さっき、私、一人で、だったし」
「違う、違う。そんなんじゃないって」
「ホント? のりちゃん、基本は受け身だしぃ」
 密やかに言ってから、佳澄はふふ、と笑い声を上げた。
『ダメ、イっちゃいそう……』
 今夜のベッドタイムは、三人でお風呂、あっくんが寝息を立て始
めてからすぐに始まった。
 Tシャツを着流しただけの身体をはだけて、スキンシップのキス
から愛欲の深い求め合いへと、そして、触れ合った身体と身体は、
一回り小さな佳澄が、みのりに背後から抱きすくめられる形へと重
なっていった。
『いいよ、イっても』
 まだ乾ききっていない佳澄の髪が、頬に落ちた。耳元に這わせた
唇を、首筋へと辿らせながら、強く口づけ……。
 仰向けに折り重なった体勢のまま、佳澄の身体はみのりの上で、
苦しそうに、もどかしそうな動きをする。後ろから回した腕をはさ
みつけて脇がしまり、中心を捉えた指先を押さえるように、太もも
に力が入った。
「ううん、ダメ、まだ……まだ……」
 兆し始めたものを放たないように、こらえる素振りが見える。一
気にではなく、揺らめきながら深く追おうとしているのがわかって、
みのりは叢をかき分ける指先の動きを緩やかにする代わり、胸を捉
えた手の平に力を込めて、弾力のある柔らかさを、幾度も幾度も、
愛しむように、捏ねるように、指先を立てて――。
「スミ」
 耳元で小さく囁くと、「うん……」掠れて堪え切れないような声
が返った。
 何ヶ月か前、「ダメ、のりちゃん、私……死んじゃうぅ」、そん
な叫びと共に達した瞬間のことを思い出して、また、今夜もあんな
風に……そんなことを思った。
 それは、それほど強い衝動ではなかったけれど、身体の上、腕の
中で切なく震えている佳澄の様子を思うと、自然に満たしてあげた
い――身体の中心が熱くなる思いが湧き上がり……。
 左胸に当てていた手を、腕で大きく包むように右胸に這わせると、
両胸を同時に捏ねるように。
 指先は根元を赤く染めて立ち上がった乳首の周辺を、くすぐりな
がら、摘み上げながら。
 唇で首筋から耳元をなぞり、最後には、肩で振り向かせた佳澄の
唇を、苦しい体勢から舌先を絡ませるように。
 そして、足先を絡めて太ももを開かせると、
「んん、ん……」
 合わせた唇から、苦しさともつかないなうめきが漏れる。瞬間、
泉の入り口でさまよわせていた指を、しっとりとした膣内へすすめ
た。
 いきなりの激しい動き。
「ダメ、イっちゃうから、イっちゃうから…、のりちゃんは?」
 外れた唇から言葉が漏れると、目を閉じて眉根を寄せた表情が、
薄く開けた視界に入った。
「いいの、スミ、感じて。思いっきり」
 そして、差し入れた指を二つに増やして、溢れ出す膣内で開き分
ける。手の平では、尖り出して主張を始めた真珠を更に擦り、熱を
帯びさせるように。
 あ、あ、あ。
 肩から耳元へと頭をずり落とした佳澄の口元から、間欠的なうめ
きが漏れた。
 自分の中心にも、痺れ上がる強い衝動が兆すと、身体を大きくう
ねらす。胸に当てていた腕を解いて、重なった体の間に入れると、
汗ばんだ臀部に爪を立てて、握り締める。
 さらに競り上がった佳澄の身体、豊かな胸が口元まで。強く捉え
ると、
「い、それ……して……」
 かすかな呟きに力を得て、舌先で転がし軽く歯を立てると、差し
入れた指先が、最初の蠢きを捉えた。
「スミ、イって」
「うん、うん……」
 お尻に当てていた手を、クリトリスに刺激を与えていたもう一方
の手の平の下に重ねると、限界まで尖りだしたその根元を、人差し
指と薬指でつまむ。
 そして、中指で繊細な頂点を……。
 イって! スミ!
 心と口で言葉を同時に弾かせながら、差し入れた指を三本に増や
した瞬間。
「ダメダメぇ……」
 ぇぇの部分が、高く、長く尾を引いた。
 腰の辺りで合わさった背中、下半身を押さえた手の平、胸のいた
だきを捉えた唇、全てに細かい震えが届き、そして。
 差し入れた三つの指が、柔らかく開くいざないと、側面の張った
壁と、温かく重なり満ちる奥まった場所と――全体が引きつるよう
なうごめきを感じ取った。
 おとがいがわななき、喉からは細い響きが漏れ続け―――。
 唇と胸に少しだけ力を入れると、みのりは、夜風の中で上目遣い
に見つめた瞳から、視線を逸らし気味にした。
 それは、エッチな気分が少しも残っていないと言えば、嘘になっ
ちゃうけど。
「ううっ、ヤダっ!」――ひときわ大きな声を上げて佳澄が達した
瞬間を脳裏によぎらせて、すぐにその眺めを脇に押しやった。
「ほんとのホントに? 今からでも、いいよ」
「いいって、マジで」
 まだ悪戯っぽく聞いてくる佳澄に大きなジェスチャー混じりで断
りを入れる。
 今感じている照れ臭いような気持ちに、どこか覚えがあるような
気がした。
 佳澄に屈託なく振舞われると、心の居場所がわからなくなって、
気恥ずかしかったあの頃――たぶん、高校の頃の気持ちに似ている
と思う。「やっぱり、初々しかったよね」。思い出しながら笑い合
うこともある、あの頃の気持ちに。
 でも今の気分は、もう少しもどかしくて、温かく広がるような感
じも……。
 ううん、いい。いつまでも、私が恋してるってことだもの、スミ
に。
「ね、スミ」
 肩を寄せると表情はそのままで、テレパシー。ビール缶を高く掲
げ飲み干した様子の佳澄は、こちらを向くと、一瞬浮かんだ問いか
けの瞳の色を、すぐに同意の表情に変えて、
 キス。
 軽く、触れ合うぐらいの。
 すぐに身体を離すと、深く茶を秘めた瞳の色を見つめて、一瞬、
目を伏せた。
 椅子に回された佳澄の手が、動くような気配を見せて、止まった。
「……のりちゃんって、結構……」
 笑いを隠した感じの言葉が漏れかけて、すぐに佳澄は口をつぐん
だ。
「なに?」
「ううん、何でもない」
 首を振った佳澄は、再び空を仰ぐと、う〜んと伸びをした。何を
言いかけたんだろう。みのりには、あたりがつかなかった。
「あ、言いかけはズルイ。なに、なに」
「なんでも。たいした事じゃないから。あ、まだある? ビール」
 ひょいと立ち上がると、伸ばした指で肩先に軽く触れて、佳澄は
ベランダから出て行った。
 部屋へと入っていく音を背中に、みのりは開いた手の指を絡め、
目を瞬かせることしばし、そして、照れ臭そうに鼻から息を吐いた。
 それから二人、中秋の月の光を浴びながら言葉を交わし合って、
どれくらいだったろう。
 今日初めてここを訪れてくれた佳澄の母のこと、離婚してからさ
らに連絡が取れ辛くなった父のこと、みのりの勤めている料理屋と
将来の店のこと、あっくんが通う予定の幼稚園のこと、商店街の秋
祭りのこと……。
「そろそろ、寝ないとね。スミの夏休みも終りだし」
 いつの間にか、月は高く天頂に、ひさしの陰に隠れる場所まで上
っていた。
 言いながらみのりが立ち上がると、
「うん、そうだね」
 佳澄は、空になった三本目の缶を足元に置いて、少し眠そうに答
えた。
「こんばんは。いい月だねぇ」
 と、その時、斜め上から少ししゃがれた声が降ってきた。
 二人揃って見上げると、よれ気味の白シャツを着流した小太りの
女性が、二階のベランダから身を乗り出していた。
「あ、こんばんは」
「二人おそろい? ほんとに、いつも仲が良くって」
 丸い顔が、パーマがきいた頭の下でからかい混じりに皺を作る。
 上の階の二号室に住む、関谷さんの奥さんだった。
「ははは、あんまりいいお月様だったから。……涼しくなったよね」
 笑いながらみのりが明るく返すと、
「助かるよねぇ。でも、みのりちゃんとスミちゃん見たら、お月さ
まも妬けて、また暑くなっちゃうかもね」
「もう、関谷さん!」
 ほとんど化粧らしいものも見えない浅黒い顔が、ハハハハと、距
離を隔ててなお、よく届く笑い声を響き渡らせる。
「じゃ、おやすみ。……あ、こないだのあれ、旦那も喜んでたから
さ。うまい、って」
「あ、本当に? また、うまくできたら持ってくから」
「ありがと、それじゃね」
 おやすみなさい――お肉の少し余った背中が、窓を閉める音とと
もに視界から消えると、その姿を見送った佳澄が、ベランダの柵を
背中にこちらを向いた。
「明日からまた、大学かぁ……ゼミ、ちょっとだるいかな」
 うん、みのりが頷くと、小さくあくびをしてから、
「何だか、ホッとしちゃって……。ずっと家だったし、すごく当た
り前になっちゃった気がする。お母さんにも、来てもらえたし……」
「うん」
 少し前に交わし合ったのと似た台詞。でも、それだけ佳澄にとっ
て、重い出来事だったのだと思う。
「みんないい人ばっかりだし……、いつか、仲町に戻るんだよね。
ちょっと、寂しいかなぁ」
「まあね。……でも、先のことだよ。スミ。まだ、どうなるっても
のでもないもの」
「うん……」
 頷くと佳澄は、もう一度眠そうにあくびをした。
「もう、三年目だよね。……何だか、早いなぁ。昨日みたいな気が
する」
 みのりは頷くと、佳澄の肩を押した。
「さ、もう寝よう。スミ」
 佳澄を先に家の中へ入れると、みのりはベランダの窓を閉め、カ
ーテンを引いた。

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