ぼんやりとした静けさの中にも、寒気の鋭さがのぞく秋の朝だっ
た。半袖だと少し肌寒いほどの空気は、コンクリートの床から鉄骨
の梁が露わな高い屋根までを、冷たく湿らせているような気がした。
 ただ広い倉庫広場にはざわざわとした雰囲気が漂い始めていた。
 どころどころに四角く固め並べられたダンボール箱やプラスチッ
ク籠からは、緑から黄色、赤から白まで、さまざまな野菜や果物が
顔をのぞかせ、「31−22」と番号のついたキャップを被ったシ
ャツ・作業着姿の男たちが、身を屈め、手を伸ばし、野菜たちの加
減を確かめている。
 本当、久しぶりだなぁ――みのりは改めて思った。
 仕入れに付き合うのは、いつ以来だっただろうか。たぶん、佳澄
と一緒に住む前、高校を卒業して間もなくの頃が最後だったはずだ。
 少し離れた場所から、それぞれ種別ごとに固められたセリ前の野
菜の山を眺めながら、みのりは一つ伸びをした。
 飾り気のない緑のシャツとGパンをまとっていても、若さの華や
ぎとボリュームのある容姿は、男っ気が八割のこの場所では目を引
かずにはいられない。
 視線を伸ばすと、向こう側のひとやまの前では、しゃがみ込んだ
カーキ色のズボンの膝の上にちっちゃな男の子を抱えた中年の男性
が、ひょうたん型のカボチャの詰まったダンボール箱を指差して、
なにごとか話しかけている。
 男の子がカボチャのくびれをペタペタと叩くと、帽子の下の厳つ
い顔立ちが、似合いそうにもない、でも、当たり前に見える笑みを
浮かべて、「ハハハ」と笑い声を上げた。
 みのりには、オヤジが何を話しているか、あらかた予想がつく気
がした。
『叩いてみろ、いい音がするぞ。じいちゃんの言う通りだろ』
 とでも言っているに違いない。たぶん、自分が小さかった頃と同
じように。
「お、どうだ。みのり。いい奴あったか?」
 行き来する買い出しの人々とすれ違いながら、父と歩夢のところ
まで歩み寄ると、みのりは首を振った。
「ダメ。やっぱ、お湿りなさすぎだよね」
 父は、薄い唇を不満げに歪めると、
「ホントか? ちゃんと見てないんじゃないか、お前。ダメだ、俺
が見てくる」
「ホントだって。葉ものは数ないし、誰が見たって……」
 太い首の上で息が吐かれると、
「あっくん、ママと待ってろよ。じいちゃん、一回りしてくるから
な」
 何か言い返そうと思ったが、「わかった」と無邪気に手を握って
くるあっくんを見下ろして、言葉を止めた。まったく、間違いない
って。私の見立てが悪いと思ってるんだろうけどさ、こんな閑散と
してるんだもの、わかりそうなものじゃない。
 結局、全部自分で見なきゃ、始まらないんだから。
 相変わらずな父のことはそれ以上考えず、みのりはあっくんの横
にしゃがみ込んだ。
「どう、あっくん。いろんな野菜があるだろ」
「うん。ね、のりママ」
 ぷりっとした唇が真っ直ぐに、大きな目がはっきり決意したよう
に正面から見つめる。
「なあに?」
「かぼちゃ、取りたいな、僕」
「お、そうか。好きだもんな、ホクホク煮たの。でも、これはちょ
っと味が違う……」
「ううん」
 首がふるふると素早く振られる。
「取りたいの。かぼちゃとか、トマトとか、おイモとか、ええと、
それと……」
「お百姓さんか? 畑で、おイモ掘ったりする」
 うんうん、大きく頷くと、勢い込んであっくんは話し始めた。こ
の間、先生とみんなと、畑で……。
 ああ、そうか。みのりは心で頷きながら、あっくんの話にあいづ
ちを打った。春先から通い始めたお昼までの保育園、ちょうど菜園
の収穫祭が行われたばかりだった。
「うん、いいなあ。あー坊が作って、じいちゃんが売って、ママが
お店で料理。完璧じゃん」
 ははは、と笑って、いやほんとうに、と思い直す。そうなったら、
マジで面白いかもしれないなぁ。
 ほどなくため息の台詞混じりに父が戻ってきて、人が一箇所に集
まり始めた。
 台の上、縦長の黒板を斜め下に灰色の作業服姿のせり人が立つと、
チリンチリンとベルが一振り。
 高い声で野菜と数量が宣告され、細かい掛け声と共に指を立てた
腕が何本も突き出される。せり人がペン先で素早く落札者を指すと、
間髪入れず次の野菜がコンベアの上を流されてくる。
 懐かしい眺めだった。
 密度と熱気がこもる中心部から遠く離れてせりの様子を眺めなが
ら、みのりは抱き上げたあっくんの小さな手を握った。
 まじまじと見つめる視線とともに、もみじの手指で自分も一本、
二本。
「変な手〜」
 笑いながら指を押さえてやると、昔聞いたせりの符丁の仕組みを
思い出していた。
 そして、自然に考える。あまり意識していなかったあの頃とは違
って、自分も、いつか……。
「佳澄は、相変わらず忙しいのか」
 せりが終わり、荷を軽トラの後ろに積み込み終わる頃、父は素っ
気ない感じで訊ねてきた。
「うん、まだね」
 みのりは頷いた。平板さと裏腹に、声色に常と違ったものを感じ
ていた。
「この秋が一番大変だから。卒論も仕上げないと、だしね」
「そうか」
 視線を合わせず短く頷いた横顔が、ドアを開け運転席に腰掛ける
と、みのりもあっくんを胸に助手席に滑り込んだ。縦ダッコされた
三歳児は、顎をみのりの肩に乗っけて、静かな息を吐いている。
 昇り始めた朝日を横に、親子二人、しばらく無言で車のエンジン
とタイヤの接地する音を聞いていた。
 ゆっくりと横抱きにしたあっくんの穏やかな寝顔を見下ろした時、
再び隣から声が響いた。
「朝、早かったからな」
「うん」
 みのりはうなずくと、額にかかった髪の毛を静かにはらった。桃
のように赤く染まった頬が肉厚で、どうしても笑みが漏れてしまう。
「みのり」
 固い声が呼びかけ、視線を横に向ける。赤褐色に焼け、皺の刻ま
れた稜線は、ハンドルを握って真正面を見つめたままだった。
「……なに?」
「佳澄は、納得してるのか?」
 何を?――言いかけて、オヤジが何を聞いているのか思い当たっ
た。
 それとなく、折に触れて話してきたこれからのこと。将来は菜香
町屋を改装して、八百屋と自然食中心の軽食店を併設した新しい店
舗を開きたい。もちろん、佳澄と二人で協力して。
「店のこと、だよね。……私たち二人で決めたことだから。もちろ
ん、オヤジがいいって言ってくれるならだけど」
 前を向いたままの固い口元が、何か言葉を作りかけてから結ばれ
た。そして、もう一度ゆっくりと、
「楽な仕事じゃないのは、わかってるだろう。先も、わからん」
「うん、知ってる…」
 散らばっていた気持ちを集めて、言葉に力を込めた。
「…簡単じゃないのは、よくわかってる。でも、決めたことだから」
 信号待ちで車が止まった。しばらく間があってから、発進のエン
ジン音と共に言葉が返った。
「……次、お前も帽子被ってみろ」
 雑音に紛れて聞き取りにくい声だった。でも、はっきりと意味は
伝わった。
「うん、わかった」
 みのりは力強く頷いた。

 キャンパスの裏側から南北に伸びるレンガ敷きの散策道を上がっ
てくると、佳澄はイチョウ並木の間から顔をのぞかせる、少し年季
の入った六階建てへとコンクリート造りのアーチをくぐった。
 足早に学生が出入りするエントランス前の広場に入ると、ガラス
張りの掲示板の前に立った。
 ここの学生ならば反射的にしてしまう、学部棟前の通過儀礼。佳
澄と同じように何人かが休講や事務告知の張り紙を見上げて、メモ
を取り、言葉を交わし合いしている。
 浅葱色のシャツの肩口にかかった長い髪の下、首筋に手を当てな
がら、佳澄は掲示を丁寧に確かめていた。身体にぴったりとしたオー
タムニットは、タイトなジーンズと合わせて、後ろ姿からでも繊細
で柔らかな曲線を伺わせている。
 あ、あさっての三限、休講だ。
 ラッキー――休講のお知らせの中に近代文学論の名前を見つける
と、佳澄は肩掛けバックのサイドポケットから取り出した手帳に、
素早くメモをした。
 取り残していた一般系の単位のために興味半分で選んだ講義は、
退屈な割には出席が厳しく、苦痛ばかりを感じることが多かった。
 ずっと前、小説を読むことがとても好きだった。今では信じられ
ないくらいだったけれど。いつの間に物語の世界からずいぶんと離
れてしまったんだろう、佳澄は、ふと考える時があった。
 それに比べて、実務的な経営論を勉強している時は、時間を忘れ
てしまうこともしばしばだった。
 提出が迫ってきた卒論のテーマは「小規模事業者が結ぶ商的コミ
ュニケーション――地域経済圏の考察」。
 特に、身近で具体的な事例を一つ一つ追っていくと、その考察が
自分たちの未来にも繋がっている気がして、言葉にし難い充足感が
あった。
 あさっては久しぶりにゆっくり寝られるかな――思い巡らしなが
ら佳澄が手帳をしまい込んだ時、後ろから高音の通った声が響いて
きた。
「スミちぃ、こんち」
 振り向くと、ハードレイヤーに散った茶髪にキャラクターものの
ピアスが目立つ小柄な女性が、軽く見上げ気味に立っている。
「あ、お久しぶり」
「最近、とんとご無沙汰じゃない。顔、出してる?」
「え、マコちゃんこそ」
 ラフな出で立ちのサークルでの知り合いに言葉を返すと、へへへ、
と悪戯っぽい笑いが上がった。
「お互いに、ってとこ? 忙しいんでしょ、スミちぃ」
「うん……、まあね。単位、火ダルマだもの」
「それは、あたしも。でもさ、スミちぃはしょうがなし、だよ。ワー
キングウーマンだったもん、ずっと」
 手をひらひらさせながら、ちんまりした顔が「うむ」と言う感じ
で眉根を広げる。
 佳澄は軽く吐息をついた。
「そうでも。バイトももう、やめちゃったし」
 少し間があった後で、ぱちんと手を打つ音と共に、勢いのいい声
が上がった。
「そだ、秋のお祭り、行くからね。真澄っち達と一緒に」
「あ、うん」
 自分たちの住む商店街の祭りだとすぐわかって、佳澄はにっこり
頷いた。
「ありがと。わざわざ来てくれて」
「違う、違う。みのりさんがお目当て、あたし達は。スミちぃじゃ
ないって。あのお好み焼き、マジ、忘れらんないもの」
 去年の学祭、みのりは「まるまる」が出した模擬店で、特製のお
好み焼きを焼きまくり、売上新記録を達成したのだった。
 佳澄は、演技まじりにため息をつくと、
「そっかぁ。やっぱ、のりちゃんには勝てないなぁ」
「そうそう、スミちぃも足元及ばず、のバリバリだもんね、みのり
姉さんは」
「うん」
 佳澄がにっこり大きく頷くと、ざっくばらんなサークル友達は一
瞬、細い目を見開いた。
「んで、みのりさんと……えっと、プラスワンは元気?」
「あ、ちょうど今、待ち合わせしてる。帰りに、買い物してこうっ
て」
「へ? 今ここで?」
「うん、そう。もう少し待ったら、来ると思うよ」
 手に持ったポーチをくるくると回すと、おっと言う感じで唇が突
き出される。
「あらら、じゃ、さっさと引き上げなきゃ」
「え、どうして、マコちゃん」
「お楽しみは、先にとっとかなきゃ。みんなで、久しぶりのみのり
姉さん。なんたって、アイドルだもんね、あたし達の」
「……もう、どういう意味?」
「へへへ、真澄っちに聞けば? じゃね」
 小柄なTシャツ姿がガラス扉の向こうへ消えていくと、佳澄も事
務所の方へ踵を返した。
 ほんとう、のりちゃんはどこでも人気者なんだから。
 でもそれは、くすぐったい嬉しさが胸を占めるばかりで、いつか
の取り残されたような気分は微塵も見えなかった。
 自動ドアをくぐり、事務所取次ぎのレポートを出すと、佳澄は再
びエントランスに戻った。
 シンプルな銀色の腕時計を見て、しばらく。
 のりちゃんとあっくんが来るには、もうちょっとあるかな。
 真ん中の植え込みの周りに置かれたコンクリート製のベンチに腰
を下ろそうとした時、何かがうなじをくすぐった気がして、アーチ
の方を見遣ると、
「あ」
 佳澄は小さく声を上げた。
 黒いショルダーバッグを肩にした大柄な女性が、足早にこちらへ
やってくる。飾り気のない緑の長袖シャツに、ちょっと使い古し気
味のタイトなジーンズ。短く斜めに分けられた髪の下、くっきりと
した丸顔は、間違いなく。
「お〜い、スミ」
「のりちゃ〜ん」
 パラパラと胸の前で手を振ると、あっという間に目の前に。
「待った?」
 ぐるりと背中の後ろを覗き込んで、あれ?
「ううん、全然。……あっくんは?」
「ああ、オヤジに預かってもらってる。久しぶりだったろ?「じい
ちゃんといる!」だってさ」
 笑み混じりに輝く大きな瞳を見上げると、佳澄は尋ねた。
「どうだった? 市場。あっくん、面白いって?」
「うん、思ったよりずっとね。帰り、寝ちゃってたけどさ」
「しょうがないよ。朝4時起きだもの」
「もう、終わってる? いろいろ」
 今度は、眉根を上げて、みのりの方が尋ねた。
「うん、今日は終わり。行こう、のりちゃん」
 背中を押すと、ちょっと脇が開いた腕に、自分の腕をスルリ。あ
っくんがお預かり、聞いた瞬間にスイッチが入っていた。ぎゅっと
身体を寄せると、みのりが下目遣いにこちらを伺うのがわかった。
「……もっと可愛いのにすればよかったかなぁ。朝のまんまなんだ、
ずっと仲町だったし」
 イチョウ並木に視線を移しながら、少し物憂げに言った肩に頭を
寄せ、
「関係ないよ、そんなの」
 と、突然息がそばにあって、頬に柔らかい感触。
 佳澄は、組んだ腕と寄せた身体にギュッと力を込めて、じんわり
とした感触に身をゆだねた。
 自嘲気味な声が、頭の上から降ってくる。
「はは、いつまでもこんなんだから、しょうがないかなぁ」
「もう、そういうこと、言わないの」
 そして、腕を引いて立ち止まると、少し身を伸ばす。
「いつまでもこんなだから、いいんでしょ」
 今度は唇同士が触れ合った温かい感触をリフレインしながら、再
び歩き出した。キャンパスの中には、何人かの学生が行き交ってい
る。でも、みのりと佳澄の姿を特に気に止める者はいなかった。
 ただ、どこから見ても仲睦ましい女の子二人組みを、すんなりと
見送るだけで。
「どこで買い物していこう。お父さん、あっくんともう少し一緒に
いたいよね」
 佳澄が明るく言うと、みのりは少し思案してから答えた。
「地下鉄で遠回りしていこうか。たまには、大きいところでウィン
ドウショッピングも、ね」

 長机が並べられた畳敷きの広間は、賑やかな話し声と、子供たち
が遊び回る弾けるような音で満ち溢れていた。
 駅東・南商店街合同の秋祭りは盛会の内に夜を迎え、仕事が一段
落した者から三々五々に、貸し切りにした集会所の二階へと集まっ
てきていた。
 みのりと佳澄が参加したお好み焼きの露店も、予想通りの大好評
で、暗くなる前には材料がなくなってしまうほどの売れ行きだった。
「のりママ、いっぱいコオロギいるんだって! いいよね」
「お宮の裏か? 気ぃ付けなよ」
 他の子供たちと群れながら、十月にしていまだ半袖半ズボン姿の
あっくんが勢いよく飛び込んで来ると、みのりは、はいはい、と頷
いた。
「大丈夫かなぁ……私、ちょっと見てこようかな」
 長机の反対側に座っていた佳澄が心配そうに後ろ姿へ首を伸ばす
と、みのりは手元にあったビール瓶を持ち上げながら、
「大丈夫、大丈夫。この敷地の中だし、お兄ちゃんたちも一緒だか
らさ。ね、金井さん」
「はは、どうかなぁ。俺んちのはボーっと抜けてっからさぁ」
 額に手ぬぐいを巻いた赤ら顔がかかか、と笑うと、紙コップに差
されたビールを飲み干した。
「またまた、いっつもお兄ちゃんたちには遊んでもらってるから」
 と、後ろを過ぎた小太りの中年女性が、肩口へ身を屈め、
「みのりちゃん」
 はい、振り向き見上げると、丸い顔がにっこりと、
「おいしかったよお、みのりちゃんのお好み焼き」
「あ。ありがとう」
「今度、特別に作ってもらわなきゃ。ねぇ」
 誰にとでもなく呼びかけると、長机を囲んで座った周りから、ホ
ント、本当に、とざっくばらんな声が返った。
 開けられた窓の外はすっかり星空になり、集会所の賑やかさはい
や増したように感じられた。佳澄も、遊びに来た大学の友達と一緒
に談笑しながら、紙コップを口に運んでいる。
 昼から鉄板に向かい続けて半日、ほどよい疲れと共に、みのりは
ぼんやりと今日の印象を追っていた。
『これ、なんだか生焼けっぽいんだけど』
『はい……ああ、本当だ。申し訳ありません』
 慌てて今できたばかりの一つをパックに入れる。冷や汗混じりに
差し出した後、交換した奴の味見をしてみると……生焼けなだけじ
ゃなく、何かが足りない。
 もしかしてこれ、生地にイモが混じってないんじゃ。
 はっとして、大ポールに混ぜてあった生地を味見すると――大丈
夫だ。
 どういうことだろう……考えてすぐに、思い当たった。
「スミ、私がいない間、新しい生地作った?」
 あっくんを連れて戻ってきた佳澄に聞くと、「うん」と自信なさ
げな返答。
『どうしても、ってせがまれちゃって』
 売り切れって言えばよかったのに――思い出しながら、みのりは
手元のコップに口をつけると、窓の外から部屋の中に視線を戻した。
 まったく、スミは。今度、もう少し料理を教えてあげなきゃ。
 思い出し笑いを噛み殺していると、右隣でポンと音がした。小麦
色に焼けた手がビール瓶を持ち上げ、トクトクと手酌をする。
「あ、ごめんね、真澄さん」
 横を向くと、三角にしたバンダナを頭に巻いた、細身の顔が見つ
めていた。
「いいんだって。自分で注いでた方が気軽いから」
 首を軽く左右に振ると、手の平を顎の下、肘を付いたままぐっと
ひと息に。今日はありがと――ずっと隣に座っていた佳澄の一の友
達に話しかけようと思った時、向こうの壁際を歩く恰幅のいい男性
から声が飛んできた。
「みのりちゃん、今日はごくろうさん」
「あ、はい。会長さんこそ。くらっとこないでくださいよ、かなり
暑かったし」
 ははは、笑いながら出口へ向かっていく町内会長に会釈をすると、
隣から感嘆混じりの声が届いた。
「まったく、タフ。みのりさんは。感心しちゃう」
 少し人を喰ったようにも見える細い目を見遣ると、みのりは唇を
寄せた。
「そうかなぁ?」
「うん、だって、あたしらが来た時には、汗だくで焼いてたじゃん。
あれって、まだ夕方前だったでしょ?」
「ああ、多分」
 真澄を筆頭に、「まるまる」のメンバーが露店に顔を出した時の
事を思い出しながら、みのりは頷いた。
「でも、楽しいとすぐだから。それに、うまくできると、これが、
ね」
 にやりと笑うと、快活そのものの引き締まった顔立ちが、虚を突
かれたように視線を逸らした。
「あ〜あ」
 真澄は、いきなりな大声を上げると、斜め前に座る佳澄の方へ、
声を投げた。
「佳澄がうらやましい。みのりさん、すごすぎなんだもん」
 呼びかけられて目を丸くした佳澄がこちらへ視線をくれた時、白
いTシャツの肩がそばに寄ってくるのに気付いた。
「チャンスだし、貸してもらっちゃおう」
 バンダナの頭が肩にちょこんと乗せられると、みのりは視線を下
に落として照れ笑いをした。
「はいはい、どうぞ」
 頷きながら言うと、向こう側で勢いよく立ち上がる音と共に、ぐ
るりと回ってやってくる足音が。
「真澄、もう」
 後ろに立ってからぐいっと割り込んでくると、首元を覗かせた白
い七部袖のシャツの肩が、隣にぺったりと座った。
「あ、いいじゃん。ちょっとぐらい、減るもんじゃなし。独り占め
はずるいな、佳澄。ね、みのりさん」
 みのりは、はいはいと頷くと、少し酔っ払い気味なのかな――手
を伸ばして真澄の頭をポンポンと叩いた。
「のりちゃん」
 ちょっと甲高い声が耳元で響いて、思いっ切りむくれた表情が飛
び込んでくる。
 うわ、こっちはそれどころじゃない。
 向かいで一緒に飲んでいたハードレイヤーとショートボブの二人
に視線を向けると、両手を広げて呆れた素振り。
「はい、もっと離れて離れて。ここは私の席なんだから」
 ろれつが回らなくなりかけた佳澄の赤い顔に、真澄もため息を大
きく、一つ。
「はいはい、勝てませんな、佳澄姫には」
 そして大造りな唇で、まったくねぇ、と表情だけの言葉を投げて
くると、みのりは、許して、と苦笑いを返した。
 その後、ぐるぐる喋りの大トラになった佳澄を中心にすったもん
だ、やがて両手を机の上、スースーと寝息を立て始めるまで三十分
ほどドタバタは続いた。
「まったく、佳澄に飲ませたのは誰だよ。……わかってんのに」
「ごめ〜ん、真澄っち。面白くってさぁ」
 いつの間にか同じサイドにきていたマコが、へへ、と悪戯っ気な
顔を歪める。
 みのりは、「まるまる」のサークルメンバー達が親しげに話して
いる声を耳に、佳澄の横顔を見つめていた。今は人気が少なくなっ
た広間を一瞥、紅潮した頬に手をかけると、ゆっくりと乱れ髪を払
った。
「ホント、しっかりしてるんだか、子供なんだか」
 無言で見下ろしていると、隣からハスキーな声がかかった。みの
りは真澄の言葉には答えずに、額にかかった髪も丁寧に後ろへ流し
ていく。
 長い睫毛とすんなり通った眉が、白く艶のある肌に穏やかな影を
落としていた。
「……こうやって自分を出せちゃうから、いいパートナーが見つか
るのかなぁ、みのりさんみたいにさ」
 手に持ったコップを傾けると、真澄は呟くように言った。
「真澄さん」
 バンダナの下の、少し自嘲気味な表情に視線をやると、みのりは
口を開きかけた。と、その時、
「のりママ〜」
 声と共に小さな姿が現れて、パタパタと走り寄ってきた。
「お、ごめんなぁ、あー坊。もう、帰るか」
 少し疲れ気味に下がった眉毛と口元で、何を思っているのかすぐ
にわかった。
「う〜ん、うん。帰る」
 一瞬思案したあっくんは、すぐに隣で突っ伏している姿に気付い
て、あ、っという顔をした。
「スミママ、眠いの? 寝ちゃった?」
 そして、額に手を伸ばすと、よしよしと小さな声で。
「スミママ、疲れちゃったってさ。今起こすから」
 いつも自分がされていることを返す無心な横顔に笑みを浮かべな
がら、みのりは真澄の方を向いた。
「真澄さん」
 真っ直ぐに見つめてくる瞳に、力を込めて言葉を投げた。
「きっと、そういうんじゃないと思う、今の話」
 正直な気持ちを伝えておきたかった。
「私の方が、スミに見つけてもらったんじゃないかなぁって。私、
スミに会わなかったら、こうやって生きられなかったと思うんだ。
いつも、真っ直ぐに、私なんかがゴチャゴチャして見つけられない
芯のところ、わかっちゃってるから」
 そして、照れ臭くなって浮かんできた笑みに首を振った。
「……さ、行こう、あっくん。ほら、スミ、起きて」
 うん、そうだね。独り言に近い声がみのりの耳に届くと、きっぱ
りとした声が響いた。
「あたしも手伝う。ほら、マコやん、ちー坊。佳澄連れてくよ。み
のりさんは、あっくん連れてってあげてね」

 ブブブ、何か振動音が響いた気がして、佳澄は目を開いた。
 薄暗く、光が見えない。視点が定まらなかった。
 いったいどこに、どんな風に横になっているか想像する事ができ
ずに数分、耳に届く二つの寝息で、ここがいつも通りの我が家だと
気付く。
 私、いつ寝たんだっけ……。
 思い出そうとしてもぼんやりとして端緒が見出せない。
 確か昨日は、秋祭りでたくさん人が来て……、あ……。
 のどの渇きとと共に、おそらく、とたどり着く。また、やっちゃ
ったかな?
「……う…、スミ?」
 薄明かりの中で眠そうな声が響いた。
「大丈夫…?」
 佳澄は、額に手を当てて薄目を開けかけたみのりの肩に手を置く
と、ポンポンと柔らかく叩いた。
「寝てて、のりちゃん。大丈夫だから」
 反対側で寝ている小さな姿も伺いながら、ゆっくりと身体を起こ
した。
 薄明かりを頼りに台所へ向かうと、通り過ぎた居間のテーブルの
上で、携帯が黄色と赤のイルミネーションを点滅させていた。
 さっきの振動、やっぱり、メールだったんだ。
 冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターを口にしながら、ディスプ
レイを覗き込んだ。こんな時間にくるなんて、たぶん、フィルター
からもれた宣伝メールに違いない。
 覚えのないメールアドレスからのタイトルには、「返信:父」と
だけ――。
 慌てて内容を開くと、そこにはとても短く、こうあった。
『メールを送ってもらったアドレスは、会社のものだから、個人用
のアドレスを通知しておく。このメールのアドレスがそうだから、
保存しておいて欲しい。それでは』
 素っ気の一つもない、モノトーンの文字列だった。でも、佳澄は
ディスプレイを見つめたまま、しばらくじっとそこに佇んでいた。
 そして、パチンと携帯を閉じると、蛍光灯の電気の紐を引いた。
 うん――小さく頷く声が暗がりに響き、布団にもぐり込む布ずれ
の音がそれに続いた。

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