第3章 結びゆく絆
なぜだろうか。
不思議なほど想い巡り、古い記憶までが現在に兆す宵だった。
みのりは、今日出したばかりのコタツに足を突っ込んだまま、月
影揺れる晩秋の夜色を目に映していた。
閉じられた襖の向こうでは、今日も安らかな寝息が二つ、追いか
けっこをしながら繰り返されているに違いない。
ここ二、三日微熱のあった歩夢も、今日はどうにか保育園に出か
けた。朝出かける時は、あまり記憶にないほどぐずって、手間をか
けさせたけれど。
佳澄も、あと一歩で卒論が仕上がる。秋口からこちら、ゆっくり
と過ごす時間もないけれど、それもあと少しだと思う。
『人の幸せはね、どれくらい人を幸せにできたか、にかかってるん
だよ。特に、女の子はね』
柔らかく優しい、でも確信に満ちた声が、頭の中で鳴った。
『いつか、いい人に出会って、その人と一緒に、仲良くみんなと、
生きていくんだよ。それが、母さんのお願いかな』
白いイメージばかりがある、病室の様子だった。壁も、ベッドも、
シーツも、花も、肌の色も。
このところ思い出すこともなかった十才の頃の記憶。どうしてだ
ろう、今日は千々に気持ちが巡ってしまう。
涼しさより寒さを感じさせる、深けた秋の色がそうさせるのかも
しれない。それとも、やっぱり、もうすぐ母さんの命日だから?
みのりは、手にしていたマグカップを持ち上げ、目一杯に注がれ
たココアにゆっくりと口をつけた。そして少し俯き加減に、筆記用
具や化粧品が並んだ天板の上へと視線を落とした。
母さんががっかりしないように、私は生きられているだろうか。
はっきりと心の中で言葉にしてみて、そんな風に思い返すのもず
いぶん久しぶりだ、と気付いた。高校の頃は、よくそうしていたは
ずだけれど。
できれば子供を持つんだよ、とも母さんは言っていた。それが、
一番身近で、でも何より大事な女の仕事だからと。
私は、子供を持つことはできなくなっちゃったな……。
考えて、みのりは心の中で首を振った。でも、スミと一緒に、こ
うして生きている。充分じゃないけれど、誰に話しても恥かしくな
い、私たちの道を生きている。
そのまま仰向けに倒れると、両手を頭の下に、木目の入った天井
を見上げた。
考え事があると、昔から自然にしてしまうポーズ――答えの出な
い想いをさらに巡らせていると、背中から首筋に、もやもやとした
痺れが広がるのがわかった。身体をよじると、ピリッとした痛みが
肩に響いた。
やっぱり、疲れているなあ、と思う。
当たり前かもしれない。朝一からの定食屋の厨房勤め、あいかわ
らず土日のデモンストレーターは続けているし、あっくんは今が一
番手がかかるところ。
体質はオヤジ譲りでよかったと思う。もし、母親似だったら、こ
う無理はきかなかっただろう。
『感謝しろ。身体が弱きゃ、したいこともできんだろ』
オヤジの声が思い浮かんで、みのりは皮肉っぽい笑いを胸の中に
浮かべた。確かに。でも、元気なオヤジは、母さんを大事にはでき
なかったんだよな。
オヤジなりに理由があってのことだったのは、わかっている。で
も、母と言葉を交わせなくなった日のことを思い出すと、少し切な
かった。
もうとうに乗り越えてしまったはずの煩悶がそこに蘇って、一瞬、
中学から高校に上がる頃の記憶をたどった。もう、ずっと昔の、今
の自分にとっては考える必要もなくなった痛みや苦しみ、それに、
怒り。
「ふぅ」
ひと息をついて、みのりは伸びをした。
ストレスも、たまってるかなぁ。
もう一度ため息をつくと、身体の芯でじんと鳴るものがあった。
眉をひそめてしばし、下腹に手を添えた。
そうか……。それも、ずいぶんご無沙汰だったっけ……。
後ろに手を伸ばして、襖を少しだけ開ける。淡い光に照らし出さ
れた寝室をのぞき込むと、身動き一つせずに眠る二つの影を確かめ
た。
仕方、ないよね。
何を、何に言い訳をしたのか自分でもわからないまま、チェック
の寝巻きの上、なだらかな線を描く胸元に手を添えた。
ん。
眉根を寄せて呟くと、思った以上の反応に、膨らみ全体を捉えよ
うとしていた掌の力を緩めた。
一人ですれば、イってしまうのは簡単だった。でも、それだけだ
と何かが報われない気がして、ゆっくりと、周辺から、快感への道
を辿っていく。
閉じた目蓋の裏に、細かい光が飛び続けていた。
たくし上げたパジャマの下、丘の麓から円を描き、充血した先端
を挟み上げるように。内腿をくすぐっていたもう一方の指先は、シ
ョーツの端をなぞりながら、薄い布越しに、敏感な場所をもてあん
で……。
じんわりと敏感な場所をいとおしんでいると、突然、熱い固まり
のようなものがお腹の奥から兆す。乳首を捉えた手に力を込め、下
着の裾から指を潜らせ、潤った場所に浅く差し入れた瞬間、
まだ……。
みのりは心の中で言葉を作った。
まだ、イきたくない。
そのまま指先を止めていると、高まりかけたものが散っていく。
そして、コタツから身体を出してうつぶせに、枕を胸元に挟むと、
お尻を高く上げた。
ズボンを下げてインナーを剥き出しにすると、自分がかなり恥か
しい格好をしているのがわかる……でも、いい。
後ろに回した手で臀部を捉え、今度はお腹の方から下着の中へ指
を差し込んだ。
後は、記憶が飛び飛びだった。イメージだけが弾けて、夢の中で
指を動かし、湧き上がるものに唇を噛みしめていた。
佳澄の姿が重なり、身体中の至るところを指で愛撫し、唇でなぞ
ってくれる。激しく後ろから抱き締めてくれると、身体の奥までを
吸い出すように。
広がった漣が一つのうねりになり、目の裏の光が乱雑になって弾
けると、みのりはそのままうつぶせに身体を落とした。
息を乱したまま、しばらく余韻に身を委ねていた。
昂まっていたものが解けていくと、思い出す眺めがいくつかあっ
た。
ほとんど会話らしいものがなかった夜の食卓。
「お風呂、入りたくない」
少しだるそうにしているあっくんに、
「だめ、入らないと。熱の間なしだったんだから! 汚いよ」――
いらだち混じりに叱り付けてしまった。
「のりちゃん、疲れてない?」
眠る間際、肩に手をかけてくれた佳澄には、
「気にしないで。大丈夫だから」――払いのけるように、元気を誇
示してしまって……。
やっぱり、イライラがたまっていたんだ、なぁ……。
胸と足の間に置いたままだった腕を抜き出すと、目を閉じた。
ホント、情けない。少し疲れているからって。
でも、別の穏やかな声も語りかけてくる。
仕方がないよ、この秋がひとやまだもの。スミが卒業を決めて、
あっくんがもう少し長く保育園に行けるようになって……それまで、
もうひと頑張りだ。
『幸せは、ガラス細工みたいなものだから』――母の声がまた蘇っ
て、みのりはその声に耳を傾けていた。
まるで、今そこで語りかけているような、響きを伴った言葉だっ
た。
『大事にしないといけないよ。たくさんの人と、たくさんのことが
うまく積み重なって、できているんだから』
うん、きっと、私たちは幸せだ。少しばかり大変でも、何とかや
っていっている。また、明日から頑張らないと…………。
「のりちゃん」
うん、スミ、そうだよ。
「のりちゃん!」
え?
なに?
「のりちゃん、起きて。お願い、あっくんが!」
切羽詰った声に気付いた。あっくん?
「どうしたの、スミ」
あのまま寝てしまったんだ、短く思いながら、佳澄の顔を見る。
頭が働き始める。あっくんが? 震えているスミの声。
「のりちゃん、早く」
背筋から頭の芯まで冷たい鋼が打ち込まれる。鈍い予感が身体中
を駆け巡った。
立ち上がり、寝室に飛び込んだ。
「変なの、変でしょ?」
手を伸ばす前に、異変に気付いた。普通の息の仕方じゃない。
「あっくん」
静かに呼びかける。頬に手を当てて、淡い電気の中、じっと見下
ろす。半開きになった唇、色のすっかり抜けた白い肌、そして、目
が……開いているのに、まったく焦点を定めていない。
「歩夢、あー坊」
うぅ、と小さなうめきが漏れた。寝ているのではなかった。何か
にさまよって、苦しんでいる。
頬と手首に当てた手が、冷たい湿っぽさを感じ取っていた。
「歩夢!」
「の……ママ」
「苦しい? どこ?」
「マ……」
それ以上は言葉が続かなかった。ダメだ、これは、普通の状態じ
ゃない。
「スミ、お願い。すぐ、一一九番して。救急車。一丁目、東商店街
の端、旧ゲートをくぐって、ラーメン屋さんの反対側って」
佳澄は頷くと、台所へ走り込んでいった。
何かできることはないだろうか。冷やすのは……ダメじゃないは
ず。
「あっくん、待ってて」
一昨日までの熱の間、たくさん冷やしておいたのがあったはず。
「はい、そうです、1−10−18……」
電話をしている佳澄を隣に、タオルに小さな氷枕を包み込み、額
と脇の下に入れた。
「のりちゃん、だいじょぶ? 大丈夫?」
しゃがみ込んだ背中に、佳澄が寄り添ってくる。何も言わずに頷
くと、胸元に乾いたタオルを当てた……あまり発汗していない。や
っぱり、冷たい感じだ。でも、脈は……すごい勢いだ。
どうしよう、一瞬、真っ直ぐな思考が組み立てられなくなりかけ
て、すぐにぐっと頷いた。大丈夫、すぐに救急車がくる。小さい子
の熱だ、そんなおおごとにはならないはず。
「スミ、お願い」
佳澄に指示して、身体を包むタオルケットと着替え、保険証に自
分たちの身の回りのものを用意してもらうと、後は、静かにサイレ
ンの音を待った。
やがて、遠くから周期音が聞こえ始め、家の前で最大になって止
まった。
「あっくん、お医者さんきたからな」
短く言うと、みのりは小さな身体を抱き上げた。後ろに、荷物を
持った佳澄が寄り添うように続いた。
薄暗く落とされた蛍光灯が、乳白色の床に冷たい光を投げ、時折
窓の外から車の出入りする音が聞こえる――ずっとそれだけが繰り
返されているような気がしていた。
持ってきた荷物を膝に、真っ直ぐな回廊の一角で長椅子に腰を下
ろしてどれくらい待っただろう。
あっくんを抱いたみのりが目の前を二度ほど通り過ぎ、一度は共
に診察室に入った。
最初の診察の後、口元に柔らかさを浮かべ、揺るぎない表情でみ
のりが頷きをくれたように、重篤な病状ではないようだった。その
後、当直の女医からいくつかの数値が示され、あっくんは、軽い肺
炎になっていると聞かされた。
それでも、手放しで安心できる状態ではなかった。みのりの父と
実の親である兄に連絡を取ってから、佳澄は初めて落ち着いて息を
つくことができた。
みのりは、入院の手続きをするためにナースステーションに行っ
ている。
さっきまでバタバタとベッドメイクが行われていた病室では、横
になったあっくんを脇に、看護婦が点滴の用意をしていた。やがて
みのりが足早にやってきて、中の看護婦と短く会話を交わす。
できることが出てくるまで静かに待っていよう、佳澄は思ってい
た。こう言う時に私が動くと、おかしなことをしてしまう。のりち
ゃんに任せておけば安心だ。
さっきベッドサイドから覗いたあっくんは、夜中に気付いた時よ
りずっと健やかな顔で息を吐いていて、ホッとした。青い顔でぐっ
たりとしていた瞬間には、どうしようかと思ったけれど。
「大丈夫か」
しばらくすると、勢いのいい足音と共に、父もやってきた。
「うん」
佳澄は頷き、三十分ほど後には、大きな息を吐きながら休憩室に
入ってきたみのりも一緒に、安堵のひと時を迎えていた。
「しばらく入院する事になりそうだけどね」
しまったな、みのりは自嘲混じりに言った。何日か続いていた熱
もあって、かなり体力が落ちていたらしい。そこで肺が炎症を起こ
して、高熱を発したのだった。
「だいぶ、元気がなかったでしょう」――先生に言われた言葉を、
臍を噛む表情を浮かべながら告げるみのり。でも、あっくんにそん
な素振りはなかった。頑張り屋さんだよ――本当にのりちゃんの言
う通りだと思う。
「お前たち、自分のことにかまけ過ぎなんだろう。ちゃんと見てい
てやれ」
父の言葉に、隣に並び腰かけた肩は小さくすぼめられていた。あ
っくんが無理なくらいに頑張っていた事、わかってやっていなかっ
たこと……。目を伏せ気味に唇を噛んだみのりの気持ちは、自分の
気持ちでもあった。
ここのところ、卒論、卒論だったから。のりちゃんに、任せっき
りで……。もっと、できることがあったはずなのに。
手に持ったカップのコーヒーを飲みながら、大学の日程を思い浮
べて、今日と明日は講義は休もう、大丈夫な奴ばっかりだし――そ
んなことを考えた時、待合室の入り口から、静かな中にもよく通る
声が響いてきた。
「すいません、真岡さんですよね。お電話なんですが。真岡敦さん
とおっしゃる方から。ナースステーションでお願いします」
お兄さんだ、佳澄は立ち上がりかけたみのりを制すると、
「のりちゃんは座ってて。私が行ってくるから」。
まだ誰も行き来していない廊下を、リノリウムの床を踏みながら
真っ直ぐ歩き過ぎた佳澄は、看護婦に言われた通り、黄白色の光を
放つ部屋に入った。
デスクに座ってこちらへ首を伸ばした看護婦が、少し離れた場所
にある白い内線電話を指差す。
角張った受話器を握って、
「はい」
返事をすると、男性にしては少し高い調子の声が聞こえた。
『あ、佳澄ちゃんか』
「はい、お兄さん。さっきはすいません。突然……」
あっくんの容態を口にしようとした時、早口な言葉に遮られた。
『オヤジは、行ってない?』
「あ、はい。来てますよ。二時間ぐらいで飛んできて、ほんとに…
…」
『オヤジ、頼む。すぐ』
切羽詰った感じの声だった。何か、普通ではない様子だ。
「すいません、このままにしておいてもらえますか」
さっき受話器を渡してくれた看護婦に言うと、小走りに待合室に
向かった。
父を連れて戻ると、少し離れた場所で様子を見ていた。デスクか
らこちらを伺っている看護婦に軽く会釈をし、キャビネットや書類
箱、ディスプレイが並んだ部屋の様子を目に映しながら。
『電話なんて、なんだ』
固い調子で始まった父の声は、すぐに何か異様な調子に変化した。
『何? 本当か』
一瞬、沈黙があった。
『わかった、すぐ行ってみる。歩夢? ああ、ひどくはない。大丈
夫だ』
太い声が短く言うと、受話器がガチャンと叩き置かれた。看護婦
が驚いたように首を伸ばし、父の焼けた顔に浮き出た表情が、時間
を止めた印象を胸に残した。
険しさが眉根を彫り、瞳が動きを止め、固く閉じられた唇に、皺
が頬の稜線を刻んでいた。表情が硬直してしまったかのまま、父は
脇を通り過ぎた。
「店に行ってくる。佳澄、みのりに言っておいてくれ」
「お父さん?」
正体の見えない不安が背中に広がり、問い掛けた。父は、固い背
中を見せたまま首だけで振り向くと、小さく頷いた。
「大丈夫だ。行ってくるから」
そして、一度歩き出しかけてから、再び振り向いた。
「……みのりには、ちょっと戻ったと言っておいてくれ。余分なこ
とは言わなくていい」
「はい」
胸の前で手を合わせると、佳澄は頷いた。あっくんのことがある、
そういうことだとわかる。でも……、いったい?
最初足早に、やがて走るように消えていった父の背中を見送りな
がら、佳澄は不安に身を固くしていた。
佳澄が、みのりと二人、仲町を訪れたのは、二日後のことだった。
休暇を取ったみのりの兄が病院に来てくれて、ようやく二人揃っ
て病院を離れることができたからだった。
看護婦任せにしてここへ来ることもできた。でも、どうしても二
人一緒でなければいけないような気がしていた。
木立と古い街並みの間の路地を曲がり、緩やかなカーブの先に見
えてきたその場所は、いつもとあまり変わらない様子に見えた。
突き出た軒も、古い瓦の並ぶ屋根も、シャッターが下ろされた店
先も。
でも、少し裏に回ると、それは思い過ごしだったのだと気付かさ
れた。
乱雑に飛び散った野菜箱、まだ湿った感じで斜めに落ちている梁。
そして、隣の家との間から覗き込めば――。
車が通れるほどの大きさにぶち抜かれた穴の向こうには、全てが
黒く煤け、水を滴らせる、崩れ落ちた異空間があった。
かろうじて人の住む場所らしきものだったのはわかった。台所道
具やTV、本棚やタンス――元はそれらだっただろう、煤にまみれ
た残骸が散らばっていたから。
でも、それだけだった。
みのりの部屋だった屋根裏部屋は崩れ、階段も含めて跡形もない。
佳澄が寝ていた奥の部屋も、間仕切りがあったことさえわからない、
焼け跡でしかなくなっていた。
「本当だ……」
その時、隣に立っていたみのりは、一言、それだけを呟いた。
出火原因は、電気ストーブだったと言う。しばらく前に買ったフ
ァンヒーターが壊れて、みのりの父は古いものを使っていたのだっ
た。
あっくんの病状を聞いて、父が家を急ぎ飛び出した時消し忘れた
ストーブから、どうやって発火したのかは定かではなかった。前に
あったコタツ布団が加熱したのか、どこかが漏電して火をつけたの
か。
ともあれ、畳とコタツ布団が初めに激しく燃えて、ほぼ全焼の火
事となったことは確かだった。
それから数日、夢を見ているような気がしていた。
大学に通っていても、どうにも現実感がない。何か隣に穴を抱え
ながら動き回っているようで、言葉も心も、その穴に全て吸い込ま
れていってしまう。
みのりも、いつも通り仕事を続け、あっくんの病院に出かけてい
く。以前と何一つ変わらない態度で。いや、今まで以上にてきぱき
と、隙のない立ち振る舞いで。
でも、佳澄は、もどかしさと灰色の不安が胸に兆すのをどうしよ
うもなかった。
「行ってくるね」
朝ご飯を作って、にっこりと笑って出かけていく姿を見るたびに。
いつも通りの明るさで話し掛けられると、どう答えていいか戸惑う
ほどに。
「がんばろ」
そんな時、感情を殺ぎ落とした短い言葉を返すことぐらいしかで
きなかった。
――三日目だった。
大学から帰ってドアを開けた夜更け、台所に立っていたみのりは、
ちょうど受話器を置いたところだった。
今日はまた、みのりの兄があっくんについていてくれた。二人で
ゆっくり顔を合わせる夜は、本当に久しぶりだった。
「ただいま」
柔らかく言うと、みのりは一瞬、丸く大きな目をこちらに向けた。
それだけで何も言わず、踵を返し、奥の部屋へと入っていってしま
う。
色のない瞳の色。
佳澄は、持っていたバッグをその場に落とすと、白いシャツを着
流しただけの後ろ姿を追った。
「のりちゃん?」
居間には、姿がなかった。奥の寝室に入ると、カーテンが閉めら
れたままの薄暗い片隅に、暗い影があった。
膝を抱え、顔を伏せて。
「のりちゃん」
しゃがみ込んで、肩に手をかけた。その瞬間、身体が細かく震え
ているのに気付く。
触れてはいけないもの、何か重たい壁に突き当たった気がした。
背中を駆け上る怖れのような……でも、佳澄は引っ込めかけた手
をとどめ、逆に強く背に添えると、言葉に力を込めた。
「大丈夫、のりちゃん。どこか、辛い?」
小さくつむじが左右に揺れた。そして、押し潰された声が漏れる。
「ダメだ……」
膝を抱えた腕に力が篭り、長袖の布地が、絞るようによじられた。
「私のせいだ……。私が、気をつけていなかったから、自分のこと
ばっかり考えて、イライラして、あっくんをお風呂に放り込んだり
したから……」
言葉の内容より、切羽詰った声が、胸の奥に錐を捻り入れる。
違う、思うのと同時に、背中に当てた手を、ゆっくりと上下にさ
すっていた。
「のりちゃん、違うよ。そんなことないよ」
「そうだよ!」
鋭く響く大声だった。そんな投げ付けるような言葉を、みのりか
ら受けた事はなかった。
「……火災保険、解約してたんだよ、オヤジ。ずっと前に。私たち
のために。何にも言わずにいろいろくれてたけど、それも、全部…
…。いい気になってた。私らだけでなんかできるって、自分のこと
ばっか考えて、知らないうちに、だから、あの日も……」
そして、また、呟いた。
「私のせいだ……」
佳澄は一度強く目を閉じた。抱え込んだ膝の中で、みのりが涙を
流しているのがわかる。
しばらく言葉を止めたまま、みのりの心をそばにしていた。そし
て、しばらく。――目を見開いた。強く確かな気持ちが水かさを一
気に増す。
「のりちゃん」
身体の上から一回り大きな身体を包み込むように抱き締めると、
静かに言う。のりちゃんの痛みは、私の痛みだ。でも、こんなこと
でのりちゃんが苦しむ必要は、ない。
「のりちゃんのせいじゃない。違うよ。絶対に、違う。のりちゃん
は、いっつもみんなのために生きてるじゃない。独りよがりなんか
じゃない。生きてるから当たり前に、してしまうだけのことだよ。
泣いたり、笑ったり、怒ったり。大丈夫、のりちゃん。のりちゃん
みたいな人に、悪いままのことなんて、起こるわけがない」
「でも、スミ……、オヤジは、もう店は……」
「いいの、違うの、のりちゃん。考えないで。本当に辛いのは、の
りちゃんなんだから」
背中を抱えた手に強く強く力を込めた時、みのりが顔を上げた。
表情は、見なかった。ただ、正面から抱き締めると、嗚咽する声が
喉から漏れた。
「スミ……スミぃ……」
「うん、大丈夫、大丈夫だよ」
声を上げて泣き続ける最愛の人の肩と背を擦りながら、佳澄は考
えていた。
私にできることを。今、この人のためにできることを。