壁に仕切られた空間には、重苦しい空気が張り詰めて感じられた。
 紅茶とコーヒーの置かれたテーブルを間に、父と呼ばなければい
けない男性と向かい合って一時間ほど。
 佳澄は、もうこれ以上は話す事はない、と思っていた。
 父を相手にこんなに話したのは、初めてだった。ほとんど相槌ば
かりの、会話とも言えない一方的な説明だったけれど。
 佳澄が息をつくと、背広と飾り気のない眼鏡が一年半前のままの
父は、感情の薄い面長の顔立ちの中、彫りの深い目を下に向け、取
り上げたティースプーンをカップの中でくるりと回した。
 以前、母親経由で、そしておそらくは父が直接に振り込んでくれ
ていたお金は二百万と少し。ずっと使わずそのままにしていたけれ
ど、今思いつくのは、いつか返そうと思っていたそのお金を、少し
でもの補填のために使う許しをもらうことぐらいだった。
「話は、よくわかった」
 父は、静かな声で言った。以前会った時に見えた生え際の白髪が、
また少し増しているのに気づいていた。そして、話が進むにつれて、
重苦しさだけでなく、何か切ないような気分も兆し始め、心の置き
所がわからなくなりかけていた。
「あの金は、お前にあげたものだ。どう使おうと、お前の勝手だ」
 長い説明と問いかけに対する答えは、素っ気ないものだった。
「……ありがとう、お父さん。とても、助かる」
 ありがとう、を言うのに少し突っ掛かってしまう。普通の会話を
するのは、やはり、どこかぎこちなくなる。でも……
「ありがとう、本当に」
 佳澄はもう一度小さく頭を下げると、紅茶に口をつけた。
 安堵と、ありがとう、の気持ちが混ざり合いながら胸の中に広が
る。
 ……よかった、話をしてみて。
 紅茶はすっかり冷たくなってしまっていた。それだけ、長く話し
続けていた、ということだろう。
 もう、これ以上ここにいる必要はない気がした。一時間と言うも
の、父は「それで」「なるほど」ぐらいしか言葉を発さなかったし、
たぶん、私なんかといるのは苦痛だったに違いない。
「お父さん、じゃ、もう……」
 腰を浮かせかけた時、顔の横に揃えた指をかけていた父が、眼鏡
を外し、それから、まっすぐにこちらへ視線を寄越した。
「佳澄」
 いつもは高い調子の声が、低く静かに響いた。佳澄は、彫りの深
い、稜線は自分似の瞳を見つめ返すと――そんな風に視線を合わせ
たことがあっただろうか――言葉を待った。
「延焼はさほどなかったんだな」
 「延焼」の意味が一瞬とれず、眉根を軽く寄せた後で、佳澄は頷
いた。
「あ、はい。となりの家の物置きが焼けたぐらいで……」
「そうか。それで、さっきの話は、いくら位を予定していたんだ」
 今度は本当に意味が取れない。予定? 金額?
 反芻してから、みのりとの今までを話した時に触れた、将来の店
についてのこととわかった。
「店の、ことだよね。……予定って言っても、まだ計画だけだった
から」
「設備投資やら、開業資金の目算くらいは立てていただろう。お前、
商学部で勉強しているんじゃないのか」
 ぶしつけな言い方に、カチンとくる。でも、幾度となく覚えのあ
るその気分を押さえると、佳澄は言った。
「入れ物と、設備のいろいろ、それに最初三ヶ月の費用で、四千万
くらいかな、と考えてました。あと、いろいろ手続きもあったりす
るだろうけれど……」
「そんなところか。やっぱりな」
 でも、今は遠い夢だ。まず、みんなの生活を立て直さないといけ
ない。今まで世話になったお父さんの分も含めて。
 それにしても、どうして私の父はこんなことを聞くんだろう。
 しばらく沈黙があって、再び談話室の椅子の座り心地が悪くなっ
た時、父が手元のベルを鳴らした。
「これを」
 やってきたウェイトレスに新しいコーヒーを頼むと、佳澄に訊く。
銀縁の眼鏡はまだ外したままだった。
「お前は?」
 首を振ると、父は驚くべき注文をした。
「これ、ケーキセットで」
 生クリームの乗ったケーキと、なみなみと注がれたコーヒーが届
くと、父は大きく取った切れ端を、どう見ても似合いそうにない、
色の薄い口元に運んだ。
 十分前までとは違って、父がまったくの別人に見えた。背広を着
込み、眼鏡の奥から冷えた視線を送っていた時は、以前とまったく
変わらない印象だったのに。
「無担保、無金利でいい」
 ケーキを次々と口に運びながら、父は言った。
「え?」
「返済も自由返済でいい」
 佳澄は、言葉の意味はとれても、実体がつかめず、発すべき言葉
を見つけられずにいた。
「それくらいの金は、ある。家を処分した分もあるからな」
「それって、お父さん……でも」
 そんな突然に、できるわけが……。
 そう考えた瞬間、目の前がパッと開けたように感じた。
「いいの? お父さん、だって……」
「いいんだ。どちらにしろ、使うところのない金だ」
 相変わらず感情は込めずに淡々と話す父の表情を、佳澄は信じら
れない気分で見つめていた。

 冬の星々が顔を見せ始める深夜、都心からアパートへ向かう電車
の中で、佳澄は父の言葉を反芻していた。
「細かい話はまたにしよう」
 真岡さんの父の意向もあるだろうから、父はそう言った後で、静
かに告げた。
「思うんだか、真ん中を走る広い道なんてものは、ないのかもしれ
ないな」
 やはり、抑揚の少ない、淡々とした調子だった。でも、その内容
は、実感を伴って理解できるものだった。
 それぞれの人間が好きなように生きることを否定しようなどと考
えた事はない――父は話した。
 ただ、上手に生きること、社会で結果を出して成功することを望
まない者がいるだろうか。望むと望まざるに関わらず、優勝劣敗は
ある。だから、うまくいかなかった者、世の中に合わなかった者は、
端の方で生きればいい。自分は、そこにはいない。選べるからこそ、
広く、間違いのない道を歩くのだ。
 わからなくなってな――そうも父は言った。
 佳澄の家出と、母さんとの離婚もあって追いやられた端職。やり
がいのまったくない仕事に向かい合う事になって、初めて実感を持
って考えた、と。
 生きていることの実感は、そういうこととはまったく違うところ
にあるのではないか。レールを引いて解釈する必要があったのだろ
うか。
「そうじゃないのか、佳澄」
 いい年してまったくな、そう言って笑った父は、「あの人」では
なかった。
 ――お前から勉強しなければいかんのかもしれない。
 終電から下りて、空を見上げた。
 星があるな……別れ間際にそう呟いた背中を思い浮べながら。
 お父さんにも、この夜空が見えているだろうか……。

 夜、歩夢を抱きしめて救急外来のドアをくぐってからの記憶は、
ひどく断片的だった。
 特に、オヤジの言葉を聞いた時から数日間、どう過ごしていたか
ほとんど覚えていない。
『店が、燃えたよ。全焼だ』
 嘘だろ。そう思った。
 なくなるはずのないもの――あの家が、燃えるわけがない。絶対
に。
 なんでそんな風に確信していたんだろう。古くて、いつ倒れても
おかしくない普請の家だったのに。
 焼け跡を見た時のことは、覚えている。でも、何の感情もわかな
かった。煤にまみれ、黒焦げになった細々を眺めても、幼い頃から
ずっと暮らし、使ってきた「もの」と繋がらなかった。
 朝も夜もなく、時間は跳び過ぎていた。佳澄の腕の中で泣き続け
た夜の、あの時まで。「辛いのは、のりちゃんだよ」――言われた
瞬間、初めてわかった。
 私、辛かったんだ……。
 次の日は、何もしなかった。仕事も休んで、家事もせず、病院に
は、佳澄が行ってくれた。
 何も考えたくなかった。
 少し、休もう。スミが言ってくれたように――。
「いいの、ゆっくりしてて。私が全部やるから」
 次の朝、病院に顔を出してから一度戻ってきて、午後の講義に出
て行った佳澄の背中は覇気に溢れていて、作ってもらった妙に粉っ
ぽいカレーを食べ、ワカメも豆腐も繋がり気味のみそ汁をすすりな
がら、TVを眺め、マンガのページをめくって一日を過ごした。
 今日は、遅くなるかもだから。
 うん、気を付けて――素直に頷いたのは、佳澄がいつも通りに明
るく生き生きとしているのが、嬉しくて……安心で仕方がなかった
からだった。
 大丈夫だ、スミがいれば。あっくんも、どんどん良くなってきて
いる。落ち込む必要なんて、どこにもないじゃないか。
 自然にそう思えるようになった夜、佳澄は驚くような知らせを持
って帰ってきた。
「のりちゃん、もう大丈夫。って言うのか、グッドニュースだよ。
お父さんが、私の、ね、お父さんが、お金を貸し付けてくれるって。
かえっていい機会だ、新しい店にして立て替えてしまうべきだって」
 一瞬、耳を疑った。スミのお父さんが?
 でも、顔を輝かせて話す佳澄の様子は、間違いのないものだった。
もちろん、その内容も。
 そして今、みのりは佳澄と二人、並んで父の前にいた。
 とりあえず知り合いのアパートの一室を間借りしているみのりの
父は、火事が起こった後も、特に変化ない様子で暮らしていた。
 話は、佳澄が切り出した。
 妙に広く感じる六畳ほどの部屋、真ん中に置かれた四角いコタツ
テーブルの上に、通帳とカード、印鑑を置いて。
「なんだ、これは」
 腕を組んで鎮座した父は、場所が変わっただけで、菜香町屋の居
間にいた時と何の変わりもない。太い眉をわずかに動かすと、ベー
ジュの通帳と赤い印鑑ケースを一瞥しただけだった。
「だから……、オヤジ、スミは……」
 続いた沈黙に、間を取ろうとした時、
「お前は黙ってろ」「のりちゃん、いいから」
 二人が同時に声を上げた。
 佳澄は、みのりの半歩前で正座したまま、質素な白いセーターの
背を屈めると、また小さく頭を下げた。
「ずっと、私が貯めていたものだから。そんなに入っていないけれ
ど、少しは助けになると思う。それに、今も言ったけれど、店のお
金の方は……」
「心配するな」
 みのりの父は、短くそう言った。頬に固い稜線が浮かぶ。みのり
は、あの表情をしている時の父が、どんな気分でいるのかよく知っ
ていた。
 絶対に自説は曲げない、そういう時の顔だ。
「でも、お父さん。あそこは、菜香町屋は、私たちの大事な場所で
もあるから。私も、できるだけのことがしたいの。だから……」
「……余分があるなら、自分たちのために使え。俺の方は、何とで
もできる」
「でも、お父さん」
「くどい!」
 強い言葉が飛んだ。佳澄には、滅多に口にしない調子の言葉だ。
 みのりは中腰になって身体を乗り出すと、口を開いた。
「オヤジ、いい加減に……」
 この、頑固オヤジが。困ってるのは間違いないじゃないか。
「のりちゃん、いいの」
 佳澄は、そのまま、さらに頭を下げる。
「お父さん、お願い。受け取って。私にできるのはこれくらいしか
ないから。お願いします」
 抑えられた中にも、決然とした声の色だった。みのりは、畳につ
くほどに下げられ、長い髪を落とした佳澄の背中を見下ろし、すぐ
に視線を父の顔に戻した。
 赤褐色に焼けた険しい稜線はそのままに、視線は中空にあって、
佳澄の方を向いてはいない。
「ダメだ。佳澄、気持ちはありがたい、でも、ダメだ」
「何でだよ、オヤジ」
 今度は言葉を止めるつもりはなかった。スミが、どんな思いで…
…!
「ダメダメ、で済むのか。借りる当てなんてそんなにないのは、私
が一番……」
「のりちゃん!」
 佳澄が身体を起こして、こちらを強く睨んだ。みのりは、視線を
逸らすと、言葉を止めた。ゴメン、スミ。オヤジを責めてどうする。
考えなきゃいけないのは……。
「お父さん。お父さんの気持ち、なんとなくわかる気がします。で
も、お願いします。それがきっと、みんなのためになると思うから。
あっくんにも、のりちゃんにも、お父さんのためにも」
 長い沈黙が過ぎた。そして、固い言葉が響く。
「ダメだ、佳澄。この金は受け取れない。これは、俺が自分でなん
とかしなければいけない問題だ」
「オヤジ!」
「お父さん……」
「ダメだ」
 もう一度、みのりの父は首を振った。みのりが声を上げようとし
た瞬間、悲鳴にも似た声が響いた。
「お願い、お父さん。どうしても、受け取ってもらわなきゃいけな
いの、私。だって、私、私、今までずっとお父さんとのりちゃんに
助けられてきて、支えてもらってきて、ここまできたから。高校の
時も、ここに住んだ時も、受験の時も、大学に入ってからも……」
 声が掠れて止まった。みのりは、佳澄の横顔を見つめて、腰に手
を添えた。
 涙が浮かび、まっすぐに見上げた瞳には、一つの紛れもない。
「だから、お父さん、お願い。私、このままじゃ何もしてない。ぜ
んぶ、もらってばかりで。私の家族は、私のいるところは、ここし
かないから。お父さんと、あっくんと、のりちゃんと……ここしか
ないから!」
 叫ぶような調子になって、佳澄は息をついた。そして、小さく、
「ごめんなさい」と呟く声が残った。
 視線を落とした佳澄を横に、みのりは口を開いた。
「オヤジ……」
 奥深い眼窩の中で、細い目が閉じられていた。
 そして、一度、鼻をすするような素振りで口元を引き締めると、
みのりの父は腰を上げた。
 足を斜めに崩し、頭を下げたままの佳澄の近くまで来ると、頭に
手をかけた。
「……謝るのは、俺だ。佳澄、すまなかった」
 愛しむように髪を撫でると、
「わかった。娘の心からの賜りものだ。受け取らないわけにはいか
ない。わかった……」
「オヤジ……」
 みのりは、涙腺が緩みかけるのを感じて、慌てて唇を噛んだ。佳
澄は答えを返さず、だた肩を震わせている。
「よかったね、スミ」
 うん、と佳澄が頷くと、父の方を見た。
「オヤジ、ありがとう」
 父は無言で頷くと立ち上がり、そのまま部屋を出て行った。
 ドアが閉まる音が響き、あとは静けさと涙が残った。

 交わし合う言葉は天の星数のように、途切れることはなかった。
「ねえ、あの時はさ」「違うよ、のりちゃんが……」「楽しみだと
思わない?」「実はさ、スミと知り合う前の年……」「私だって、
ちょっと恥かしいけど」「え、バカじゃん」「ひどいなぁ、だって
あの頃は……」
 出会いの頃の気持ちから、いつか誓い合った今に至る道、同棲を
始めてからの記憶、形を取り始めた将来のこと。そして、再び過去
に戻り、話していたかどうかも曖昧な、出会う前の告白まで。
 横になって向き合い、また、片方が天井を向いて独白調に、次に
はからかい混じりになって、最後は、ぴったりと身体を寄せ合って。
 不思議と、この一週間ほどのことについては話さなかった。
 ただ一言、お互いに言葉を贈り合った。
「ご苦労さま。頑張ったよね」
 後は横臥して向かい合ったまま、腕と腕を重ね、肩に肩を抱いて、
瞳を閉じていた。
 そうしていると、自分の身体なのかが曖昧になって、心が解けて
いく。薄く目を開けると、互いの顔がそばにあって、唇と唇が出会
った。そしてそのまま、じっと湿り気と吐息に身を任せている。
 肩に添えられていた手は、髪の生え際に移り、身体の距離はなく
なっていった。着衣の上からでも、温かさと鼓動はすぐそこで、足
の先から唇までを接し合ったまま、ずっと止まっている。
 一瞬開いた唇は、上下に組み合わさる形になってまた、正面から
合わせる形に戻った。
 みのりの足が少し動いてしばらく、佳澄が切れ長の目を開いて、
囁くように言った。
「激しくしてあげようか、……みのり」
 ううん、みのりは首を振ると、視線を合わせないままで答えた。
「このままで、いい」
 これ以上はいらなかった。いや、これで何より満たされていた。
 佳澄の息と鼓動をそばに、肌の暖かさを感じているだけで、胸の
奥から全身に、痺れるような充足感が広がっている。静かでいて、
例えようもなく官能的でもあるような……。
 短く刈った髪の下、大きな瞳を伏せた丸顔。恥らっているように
も見える表情を目にすると、佳澄の腕は抱き締める強さを増した。
 自分より一回り大きな身体。でも、その全部を包み込んであげた
い。――なんて可愛いんだろう、のりちゃんは。
 会った頃から、抱き締める時折、感じることがあった気持ち。で
も今は、もっと弛まず、確かに、呼吸するように。
 ふたたび唇が出会って、でも、今度は髪の中に手を差し入れて、
強く重なった。時間は止まり、再び吐息だけが全てになる。
 今度は、二人同時に目を開いた。
 繊細で優美な顔立ちと、張りのある豊かな顔立ちの中、薄茶と黒
の瞳が互いを映し、丸く大きな瞳が先に視線を散らした。
「スミ」
 喉から細い声で言った。身体中に満ちた切ないような充足感が、
それを求めているのがわかる。
 少し、恥かしいけれど。
「なあに? のりちゃん」
「みのり、って言って」
 佳澄は、軽く息を吐いて、微笑みを浮かべた。もう、のりちゃん。
「みのり」
「うん」
「みのり」
「うん」
 みのりの身体が少し下になって、頬に頭を寄せる。
「みのり、好きだよ。愛してる」
「うん、スミ。私も」
 そして、強く抱き締め合った。互いの香りを胸に、それが自分の
ものと混じり溶けていくまで。
 うなじにあった手が、背に添えられて、もう一方の手が腰を引き
寄せた時、遥かに満ちる感覚があって、みのりは眉を寄せた。
「ん……」
 声が漏れる。広がっていく漣は心地よく、そして痺れるような官
能を併せ持っていた。
「のりちゃん?」
 身体を少し離した佳澄が、下を伺う。
「うん」
 自分から身体を寄せて抱きつくと、「ありがとう、スミ」――胸
の中で囁いた。
「のりちゃん……」
 今度は目を閉じて言うと、胸の中に溢れ出す豊かな感覚があって、
佳澄はみのりの身体を優しく包み込んだ。
「言いたかったから」
「うん」
 佳澄が頷くと、しばらく二人そのまま、体温を感じ続けていた。
「今度は、私がしてあげるね、スミ」
「うん、そのうちね。……たまにでいいから」
「うん」
 今度は、背を向けたみのりを、後ろから抱き締める形で言葉を繋
げる。
「いっぱい、してきたね」
「うん、そうだね、何でも、いろいろ」
 とても満ち足りた気分だった。それが、互いによく分かる。心で
も身体でも言葉でもなく、溶け合った全てが、私たちの持っている
今だった。
 そしてまた、黙って呼吸を聞いていた。思いが千々に巡り、記憶
と言葉が飛び来ては消えていった。
 不意に一つの言葉が浮かんで、みのりはしばし、その意味を反芻
していた。
「ね、スミ」
 うん、佳澄は頷くと、色合いの変わったみのりの声に目を開けた。
「私、思い出したことがある。あの火事の夜、あっくんが熱を出す
前に、いろいろ思い返してたんだ」
 初めて話す、苦しかった夜の記憶。あの時、浮かんできた母の言
葉は、決して明るいものばかりではなかった。でも、今蘇ってきた
言葉は――。
 記憶を言葉で辿った後で、みのりは続けた。身体を起こし、佳澄
を見下ろしながら。
「『この世の中に、無駄なことは何もないから』、そう言ってたん
だ。『だから、大事にしなきゃいけない。出会う全てを』って。今
度の事があって本当に、その通りだと思った。一度はどうしようか、
って思ったもの。悪い方ばかりにしか考えられなかったし。きっと
あれ、遺言だったんだよ。……ホント、あのオヤジにはもったいな
い、頭のいい母さんだ」
「それは、お父さんに悪いよ」
 佳澄は笑いながら言うと、頭の下に手を組んだまま笑みを浮かべ
た。
「でも、そうだね。きっと、そうだよ」
 自分の父や母のことが思い浮かぶ。そして、何より。
「でもね、のりちゃん」
 見下ろしてくる愛しい人の顔を見つめながら、真っ直ぐに、
「それは、のりちゃんのしてきたことだよ。言葉にしなくても、そ
のまま、ずっと」
 私は本当に幸せだ、佳澄は思う。この人と出会えて、本当に。
 ははは、みのりは照れ臭げに笑うと、天井を仰いだ。
「うん……。それでさ、考えた事があるんだ。ずっと前から形には
なっていたんだけど、今、はっきりと決められたかな、ってことが」
「なになに?」
 佳澄は身体を起こした。みのりはにこっと笑うと、佳澄の方に身
体を傾けた。そして、キス。
 ん、それに佳澄が答えると、みのりは思った。
 スミと二人なら、何でもできる。きっと、もらった以上のものを、
返していける。
 出会いの頃から幾たびも紡いだ想いは、繰り返すほどに満ち、外
へと溢れて色を深くしていく。
「たぶん、わかっていると思うけれど……」
 後は頷きと相槌が繰り返され、再び千の言葉が飛び交い始めた。

 大工さんたちへのお茶出しを終えて、一度父の住むアパートに戻
ると、二人は夕方が来るのを待っていた。
 やがて日が西に傾き、まだ春早い夕刻の風が、外の景色を揺らし
始めた。
「さ、行こうか」
 みのりは、そばで雑誌をめくっていた佳澄に呼びかけると、窓か
ら顔を乗り出した。
「おーい、あー坊」
 家と家の間で影が動き、半袖半ズボンの男の子が顔を覗かせた。
「なに?」
「行くぞ、もう、始まるから」
 肉屋の角を曲がって、現場近くまでやってくると、すでに一人二
人と近所の人がやってきて、様子を覗き込んでは戻って行っている。
 この近辺でも、棟上式をきちっと行う家は珍しくなっていた。
 資材がつみ上がった一角では、茶色のシャツが素っ気ないがっち
りとした背中が、白髪がツンツンと短い棟梁と、何事か話し合って
いた。隣には、一回り身体の大きい、よく似た後ろ姿も見える。
「お、ご苦労さん」
 先に気がついて振り向いたみのりの兄は、面長の顔を緩めて、気
さくに返した。しかし、
「なんだ、遅いぞ」
 顔を見るなり、父の方は、舌打ち混じりに叱り付けてきた。
 みのりと佳澄の両方から、「だって」「でも」と言葉が返る。
「言い訳するな、お前らは」
 いつも通りの台詞が響くと、可愛い声がリフレインする。
「イイワケするな!」
 二人は並んで、完成後の姿をうかがわせ始めた「新・菜香町屋」
の骨格を見上げた。
 柱が立っていない入り口が売り場で、左の打ちつけコンクリート
の先の階段を上がり、その上はキッチンで……。
「どうもっす」
 大工姿の若い衆が通り過ぎ、やがて、米屋さんの軽トラがやって
きた。次々と重ね置かれる、木の箱。中にはもちろん、紅白のお餅
がどっさり入っている。
 子供用のお菓子も届いて、後は時間を待つばかりになった。
 人が集まり始め、至るところから声がかかる。
 みのりと佳澄はその一言一言に笑いながら言葉を返し、建物を指
差しては、二ヵ月後の様子を説明していた。
 その時、小さな声が後ろからかけられ、二人は振り向いた。
 髪の長い、上品な立ち姿の女性が、少し所在なげに佇んでいた。
「お母さん、」
 佳澄はまっすぐに笑顔を返した。
「いらっしゃい。どう?」
 佳澄の母は視線をそれとなく合わせないまま頷くと、
「いいお店になりそうね」
 静かな声音で言ってから、数歩先へとゆっくりと会釈した。気付
いたみのりの父が、丁寧にお辞儀を返す。
「お母さん、もう少し待っててくださいね」
 みのりが言うと、佳澄の母は「はい」と微笑んで、佳澄にもう一
度頷きかけた。眩しそうにも見える笑みだった。
「ねぇ、もうすぐ? みのりちゃん」
 向こうから聞き慣れた声がかかると、みのりは首を伸ばして威勢
のいい返答を返した。
「五時半くらいね、おばさん。あと、二十分!」
「あ、ホント? おおい、もうすぐ投げるって。おいでよ」
 小太りな背中が向こうの路地へと走りながら、大声を響き渡らせ
る。
 あっくんはと言えば、柱の間に入り込んで、木っ端を見比べては
よさそうなものを見繕っているところだった。ちょうど一際大きな
奴を見つけて、隣で同じようにしていた男の子に「ほら」と示し、
逆に突き出されたものと交換、形を比べては何事か言い募りあって
いる。
 集まってきた人々は、人垣を作り始めていた。そろそろ、始めた
方がいいだろう頃合だ。
 と、人ごみの向こう側に、見覚えのある姿が見えた気がした。
 少し白髪混じりの真ん中で分けられた髪が人垣から覗き、やがて、
面長の顔に銀色の眼鏡が重い、紺のスラックスと水色のシャツ姿が
現れた。
 真っ先に、佳澄が気がついた。そして、みのりの肩を押して知ら
せると、みのりが父に声をかける。
 みのりの父は、手で示された方を見遣り、息子と話し合っていた
言葉を止めた。そして、足元に重ねてあった木の箱を、かけてあっ
たタオルをめくって一つ、胸元に抱えた。
 そして、人垣と建物の間を過ぎて、真っ直ぐに佳澄の父の方へ向
かうと、会釈をした。みのりと佳澄も、少し離れた後ろに立ってい
た。
 父と父は向かい合い、互いの顔を見詰め合った。
 無言の会話が瞬に刻まれ、低い声が先に響いた。
「よくいらして下さいました。お世話になります」
 みのりの父が言うと、佳澄の父は軽く会釈をした。
「いえ、こちらこそ」
 捧げ持たれた餅入りの木箱が、少し前に押し出された。
 みのりの父が目だけで頷くと、「でも……」口にしかけた佳澄の
父は、一度視線を落とした後で、手を伸ばして箱を受け取った。
「わかりました、私で良ければ」
「よろしくお願いします」
 みのりの父の折り目正しい声が響く。
 小さく嗚咽する声が漏れ、みのりは顔を覆った佳澄の肩に手をか
けた。ちっちゃな姿が飛んできて、寄り添って立つ二人の母を見上
げた。
「どうしたの、スミママ。どっか、痛い?」
 みのりが首を振る――「大丈夫だよ、あっくん」
 そして、大きな声で言った。
「始めよ、オヤジ、兄貴。それに、お父さんも、お願いします」
 そして、佳澄を覗き込むように、身体を屈めた。
「……スミ」
 うん、涙の中にもはっきりした声が返った。
 二列に並んで息災と安穏を祈願した後、順々に梯子を上る。
 最初にみのりの父、次に、佳澄の父、みのりの兄、そして、みの
りと佳澄。
 僕は?――最後まで駄々を捏ねた歩夢は、「あー坊のところには、
特別な奴を投げてやるから」。みのりが説得して、ハナ婆ちゃんと
二人で「大きい奴? どれくらい」と言いながら、東側の隅で待っ
ている。
 空は、茜色に染まりながらも蒼を透かし、春の霞み雲が絹の糸を
重ね引いている。
 みのりと佳澄は、同じ一角に立ち、二人で一つの箱を持った。
 眼下には、老若男女、あの顔も、この顔も。見知った人達が上を
見上げ、祝いの瞬間を待っている。
 そして。
「いくぞ」
 掛け声と共に餅が宙に舞い、ざわめく人垣に振り落ちた。
 後は賑やかに弾ける歓声が、古い商店街の一角に響き渡った。

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