第一章

       1

 早春の冷たい雨が降りつける高層マンションの屋上、折り重なっ
た灰色の雲に覆われた空を、広輝は黙って見上げていた。
「濡れるよ、広輝」
 雨のかからない、非常口のドアの所から声がした。
 ・・・・雨が落ちてくる。遮るものもなしに。俺の顔に、肩にか
かり、そして散っていく。空を舞い、遥か下へと叩きつけられてい
く。
「ヒロ!」
 広輝は濡れた顔を、空から非常口の方へ向けた。
「美奈も来なよ」
「やだよ、傘もないし」
 肩に少しだけかかったうすい茶のレイヤーの髪を隠すように、ベ
ージュのハーフコートの襟を寄せた。
「そ」
 すかした感じで言葉を投げると、広輝はパシャパシャと水音を立
てながら走り、鉄柵のつけてある屋上の縁に身軽に飛び乗った。そ
して、スイッと乗り越えると、一段下がったコンクリートのでっぱ
りに足をかけた。
「ちょっと、やめてよ」
 いたたまれなくなって、美奈は雨の降りつける屋上へ走り出した。
「へへ。来た、来た」
 彼女が鉄柵の所へ行くと、広輝はコンクリートの端に腰を下ろし
て、足をぶらぶらさせていた。下には16階分の空間が口を開けて
いる。そして、斜め上を見上げた面長の顔には、何処か醒めた瞳の
色の向こうに紛いようもない茶目っ気が浮かぶ。
「戻りなさいよ、落ちるよ」
「大丈夫だって」
「どこも大丈夫じゃないじゃん。ほら、戻りなさいよ」
「じゃ、美奈が掴んでて」
 そう言うと、柵の間から美奈の手を掴んだ。
「そんな所に座ってて、怖くないの。私が一押ししたら、落ちるん
だよ」
「そりゃ、怖いけどさ。でも、なんかまぎれるんだよ、こうしてる
と」
「・・・あぶない奴」
「今更じゃん。美奈ちゃん。だいたい、研究所でモルモット代わり
にされてる奴が…。お、雪だね」
「ホントだ」
 気が付くと、灰色に閉ざされた世界に白いベールが下り始めてい
た。
 美奈は出された広輝の手をしっかりと握り返しながら言葉を散ら
した。
「もう、一月だもんね」
「そうだな・・・」
 雨の中をかすかに揺らめいて落ちる雪は、その数を少しずつ増し
ていく。空気の冷たさと、握った美奈の手の暖かさに、広輝は静か
に意識をさまよわせていた。
「もう、」
 どれくらい時間がたったろうか。美奈の震える声で気が付く。
「なごんでないでよ。ヒロ、ほんとに風邪引くよ」
「あ、ああ。もうちょっとな」
「しょうがないなあ」
 広輝は握った手を少し前に引いた。今、彼の目は一定の対象を持
たず、白く染め抜かれた景色をぼんやりと捉えていた。
『さようなら、わたしのあなた』
 夢幻の中にいくつかの声が響き、最後の一言だけがはっきり耳に
残った。
「今、なんか言った?」
「んん、何も。あ、もしかして、何か聞こえた?」
「まあね」
 意識を捉えたのか、それとも時の眺めか。
 広輝は鉄柵を掴むと立ち上がった。
「帰る?」
「ん。ごめんな。寒かっただろ」
「も、いいよ。いつものことだし」
「・・・そうだな」
 美奈は丸い瞳にいたずらっぽい光と、口元にわずかな微笑をうか
べると、広輝の短く刈られた黒髪をクシャクシャッっとなでつけた。
「いい子、いい子」
「このやろ」
 軽く出されたジャブを、美奈の手が受け止めた。
「ナイスパンチ」
 寒さが増し始めた屋上を歩き、非常口のドアを開けた時、ひどく
古びた景色が突然に蘇った。少しだけ立ち止まり、そんな広輝の横
顔を美奈は一瞬見つめたが、それが意味のない過去のイメージとわ
かると、言った。
「ちょっとな」
「わかってる」
 美奈は目でうなずいた。
 広輝は黙って美奈の濡れた肩を抱いた。

 この高層マンションの3LDKの間取りは、高校生が一人でいるに
は広すぎるものだった。
 シャワーを浴びて、居間にトランクス一枚で腰掛けると、身体が
ソファに沈み込んでいく音だけが妙に耳に残る。レースカーテンの
掛かったベランダ側の大きな窓に映る街はもう暮れ始め、舞う雪が
さらに静けさを強調しているようだった。
 まだ、頭の中で何かがうごめいている。
 ・・・まったく、なんで最近はこうなんだ。
 時折、目とは違ったものを認識するのは、幼い頃から慣れている
はずだった。でも、このところ一ヶ月の感覚には戸惑いを禁じえな
い。
 バスタオルで顔を押さえると、身体をもたれさせて目を閉じる。
 ・・・だめだ。
「一緒に帰りませんか」
「いいよ、緑さん」
「こんなこと、蓮見さんにしか話せないんいんですけれど」
「何?」
「わたしたちがしていることは許されるんでしょうか」
「許されないと思う。・・・・僕は知っている」
・・・だめだ、消すんだ。
・・・消すんだ。
 空が広い。型のわからぬほど古い車がまばらに通り過ぎていく。
それと並んで乗客を満載した路面電車が見える。都市中心部の繁華
街のようだが、背の高い建物はほとんどなく、電柱が立ち並ぶ。カ
タカナがあまり見えない店の看板の下を、たくさんの自転車が走り、
立ち止まりながら店先で立ち止まる人々の服装も、柄が少ない単色
系の洋服、そして着物で往来している人の姿も・・・。
・・・だめだ。
 意識の中に浮かんでいるイメージは、より強い色を持って、現在
の音や感覚を覆い尽くそうとする。それが心地よく、このまま眠っ
てしまいたくなる。
 ・・・消せ!
 プルルルルル、プルルルルル。
 電話のベルが唐突に鳴り響いた。
 助かった・・・。
 顔を覆っていたバスタオルを床に投げ捨て、テレビ台の横の子機
を取り上げた。
「はい、蓮見です」
『あ、家だったの。携帯出ないし』
「ああ、電源切ってあるんだよ、うっとおしいTEL多すぎるから
ね」
 聞きなれた母親の声だった。
『あした、第2木曜でしょう。大丈夫?』
「ああ、別に。いつも通りだろ。なんか木元が実験したがってたけ
どね」
 ・・・緑、か。あの背の小さい色白の子の名前、初めて聞いたな。
『おかしな事強制されたら、はっきり言うのよ』
「そりゃ無理だ。あんな連中のしてること、最初から、だろ」
『そうね・・・』
 受話器の向こうの声がわずかに沈み込んだ。
『やめてもいいのよ』
「まあね。金も欲しいし。母さんもだろ?」
『それはね。でも、なんとかできなくはないのよ』
「やめな!」
 どうしても語調が強くなる。
「道孝さんに頼むっていうんだろ?やめときな」
『広輝・・・』
「また言わせるつもりか?」
『わかってる』
 少し沈黙があった。
『・・・父さんからなんかあった?』
「いや。何も」
『そう』
 まだ鮮明なビジョンが脳裏に強い印象を残していた。同時に、母
の自分への強い想いも伝わってくる。
『ごめんね』
「なんで謝るの。俺は気楽だからさ。ずっと一人でいたかったしね。
ま、あの馬鹿は、その内俺が殴っとくよ」
『こら、まがりなりにも自分の親を・・・』
 息を軽く吐き出す音が聞こえた。
『ま、わたしも人の事は言えないものね。あんたを一人にしてるし』
「それは、関係ないんじゃない? 高校生になりゃ一人前って言っ
てたのは、そっちだろ」
『・・・ま、そうね』
 玄関ベルの軽やかな音が鳴った。
「あ、誰か来た」
『美奈ちゃんでしょ、この時間なら』
「どうかな、さっき会ってたばかりだし」
『また来週そっちにいくから』
「ああ、わかった」
 電話を切ると、廊下を歩き、玄関ドアの魚眼レンズを覗き込んだ。
(当たり)
 ドアを開けると、冷たい風が吹き込み、薄手の白いセーターに茶
のミニスカート、ベージュのロングソックスを履いた少女が立って
いた。
「う、さむ・・・」
「ちょっと、なんて格好してんの、あんたは」
 そう言えば上半身裸だったな、と改めて気付いた。
「お、もしかして、おすそわけ?」
 美奈の手には、二段重ねになったおおきなタッパーウエアが捧げ
持たれている。
「違うよーん。一緒に食べるの」
 美奈は薄くピンクのルージュをひいた少し厚ぼったい唇に満面の
笑みを浮かべた。
「おい、俺は親父さんに殺されんのはやだよ」
「ブーッ。今日はお父さんは出張。ついでに兄貴も留守。さ、入っ
て入って」
 美奈は広輝の背中を押すと、キッチンに入り込む。
「ついでに服も着る!」
 広輝の部屋のある奥の方をピシッっと指差した。
「いきなり来て、何仕切ってるんだ、お前は」
「はいはい、そうでもしないとまたピザでも取るつもりだったでし
ょ」
 キッチン台の上で美奈が蓋を取ると、湯気と共に、温かい香りが
届いた。
「・・・シチューか?」
 トレーナーとスウェットを着ながら訊いたが、鼻歌だけが響いて
くる。
 まったく、昔からマイペースな奴だ。ま、俺も人の事は言えない
か・・・。
そして、考えていた。
もしかすると、こんな風にいけるのかもな。普通に、楽しく。
広輝は意識にこびりついて離れなかったビジョンが消えているのに
唐突に気付いた。
「できたよ」
 部屋の入り口に美奈が立っていた。自分より頭一つ低い小柄な少
女が、いつもよりもっと身近に思えた。
「こら、それはあと」
 強く抱きしめていた。
自分の身体にすっぽりと収まった美奈の声が胸のあたりで聞こえる。
でも、言葉とは裏腹に、彼女の手もまた、広輝の腰のあたりでしっ
かりと組み合わされていた。
「広輝、調子出てきたみたいだね」
「どうかな」
「いい感じだもの。モヤモヤなくなったんじゃない?」
「・・・うん。まあね」
「やっぱり。もしかして、お母さんから電話もあった?」
「おいおい、おまえ勘良すぎ」
 まだ身体を離さずに、広輝は美奈を見下ろした。彼女はしっかり
と見つめ返すと、いたずらっぽく微笑んだ。
「けみをする人ほどじゃないよ」
「おい、人を占い師みたいに。俺のは、そういうのじゃないだろ。
自然に流れちゃうってのか・・・」
「はい、はい、わかってまーす」
 身体を離し、少し背伸びすると唇に軽くキスをした。
「食べよ。冷めるとシチュー、おいしくないよ」
「その後は?」
 なんとなく訊いてしまった。
「デリカシーなし!」
「すまぬ」
 でも、テーブルに座ったあと、少しだけ照れた口調でこう言った。
「・・・たくさんしようね」
 その一瞬、目を逸らし、はにかんだようにも見えたその表情に、
広輝は改めて美奈が「大好き」だ、と心の中でつぶやいた。

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