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 「力を抜いて、あまり一つのことを考えないようにして下さいね」
 裸の上半身のあちこちに十数個の電極を、頭には白いヘッドバン
ドを付けられたまま、広輝は固いベッドに横たわっていた。
 何度見ても威圧感しか感じない巨大な検査用の機器からは、低い
稼動音が響いている。その奥の机に置かれた複数のモニターの前を、
何人かの白衣の研究員が無言で見詰めていた。
 蛍光灯が無機質に反射する青白い天井をぼんやりと見つめ、意識
を散らしていく。
「はい、いいですね。その感じです」
 再びスピーカーから女性の低い声が響いた。
 意識が拡散していくにつれ、手足の先に痺れるような感覚が広が
り、身体の中心が熱くなってくる。
 まただ・・・。
 二階建ての木造の建造物。舗装されていない道路を見下ろすと、
肌の白い一本おさげの少女が板塀の脇から見上げている。ベージュ
単色の襟付きのシャツに、暗い緑色の作業ズボン、そして手に下げ
られた茶色の小さい包み・・・。
『蓮見さん、歌、上手ですね』
 少女の大きな瞳が嬉しそうに笑う。
「もういいよ、広輝君」
 焦点を定めていなかった視野に、白髪交じりの上品な顔立ちの中
年男性が覗き込むように割り込んできた。白昼夢のように重なって
いた眺望は霧が晴れるように消えていく。
「・・・いいところだったんですけどね」
 緑さん、か。なんでこんなに身近に感じるのか。
「ほう、何かいいものでも見えたかね?」
「どうでしょうね」
 今まで穏やかだった細い目が、少し見開かれて冷たい光を帯びた。
「困るよ、正直に話してもらわないと」
「わかってますよ」
 広輝が口を開きかけた時、モニターの辺りの研究員たちがざわめ
いた。
「すごいぞ、これ見てみろよ」
「・・・おお、こんなにはっきり出てるじゃないか。吉川さん!」
「なんだ」
 苛立ちを表にしながら振り向いた研究所の所長の横顔を、広輝は
感情を殺しながら見つめた。
「また物理波ですよ。前よりずっとはっきりと・・・」
「ああ、わかった。データは後でいい。それより、被験者の前だぞ」
「あ、すいません」
 吉川は振り向くと、広輝の方に視線を戻した。
「すまなかったね」
「いえ」
「それで、どんなものが見えたのかな」
 偽善者め、本当のことなんか話してやるものか。
 広輝はその場で思い付いた話を適当に口にし始めた。

 半日以上続いた検査が終わった。広輝は一刻も早く研究所を出よ
うと、広い吹き抜けのエントランスへと緩やかに曲がった階段を足
早に下ってきた。
 巨大なガラスがドーム状に張られた空間は、南の空の光を余すと
ころなく受け入れ、今が12月であることを一瞬忘れさせる。そし
て、二重になった円形の自動ドアをくぐった時、初めて外の風が身
体に吹き付けて、広輝は茶色のハーフコートのボタンを嵌めた。
 そして、流線形が重なった小さな野球場ほどの大きさがある研究
所を後ろに、公園を兼ねた前庭を早足で風を避けるように歩いてい
く。二分も行った時、最初に置かれた円形のベンチに脱色した短い
金髪の男が足を組んで座っていた。
「広輝」
 グレーのロングコートに紺の背広を着崩した体格のいい男は、黒
いサングラスを取って歩み寄ってくる。
「こんなとこで待ってたのか」
 広輝は自分より頭半分高い、角張った顔を見上げた。
「裏でデータ取りはしてたんだけどさ、あんまりお前に話し掛ける
と所長の奴が怪しむだろ。そうでなくても、煙たがられてるんだか
らな」
「で、木元さん、話って? 」
「ああ、いろいろな。この間の話、お前も乗り気だったろ?」
「・・・あ、ああ」
 今日の朝、眠っている美奈の横顔を見つめていた時の事を思い出
す。きっとこんな風でやっていける、そう思った気持ちは今でも鮮
明だった。
「やっぱ、びびったか?」
「違うさ。でも、わかってるだろ」
「遊びに付き合って暇はない、だろ。高校生がどう忙しいか知らん
がね」
 皮肉っぽい言葉とは裏腹に、熱く強い想いが木元の中から感じら
れる。
 これだから、付き合っちまうんだよな・・・。
「今日は、結構な騒ぎだったぜ」
 駐車場まで歩いて、黒い二人乗りのスポーツカーのエンジンをか
けた時、木元は口を開いた。
「騒ぎって?」
「はっきりと物理的な振動が計測されたからな」
「物理的って、物動かしてる奴だっているじゃないか」
「そりゃな。でも、手を使わずに物を動かしたって、その媒体が見
えなきゃただの手品なのさ」
「そういうもんなの?」
「そうさ」
 木元は研究都市の中を走る二車線の道路をスピードを上げながら
郊外へと出て行く。
「まあ、所長はそんなことは最初から予測済みなんだろうけどな」
 広輝は以前木元から聞いた、吉川所長の研究の目的についての話
を思い出していた。
 第六感を持つ人間を調べるのは純然な研究目的ではなく、たくさ
んの特殊な意識の力を集めることで、ある目的を果たそうとしてい
るのだ、と。
 そんなことが本当に可能なのか?
 科学的な知識のない広輝にはお伽噺にしか聞こえなかった。未来
のビジョンを覗き、そこで見えた情報を現在に生かそうなどと。
 しかし、先日木元に連れられて来た山奥の寺で起こったことは、
確かに現実だった。木元の「介助者」としての能力と、自分の第六感、
そして、「神隠し」の場所。全ての条件が整った時、目に見えるほど
の歪みが空間に生じたのだ。
 『本来、精神活動も宇宙の現れの一変形なんだ。ただ、その膨大
なエネルギーは暗在系の扉の向こう側で静かな海のように充ちてい
る。第六感は、その堅い扉をわずかに開く強い精神活動なんだよ』
 わかるようでわからない理屈。けれど、吉川所長が木元の言う、
『本来、時間のない場所』へのチケットを、自己の欲望を満たすた
めだけに使おうとしているなら、木元の考えもわからないでもなか
った。
「とにかくさ、お前の助けがどうしても必要なわけよ」
 タバコに火をつけると少し車の窓を開けて木元は言った。
「次の実験で空間の歪みを作り出せたなら、すぐにでも公表したい
からな。どこの大学の研究室でも、研究所でも、間違いなく飛びつ
いてくるはずさ」
「それで?」
「事が明るみに出れば、所長だって研究を私物化できないだろ?過
去にしろ未来にしろ、自由に見聞きできることができるなら、それ
は偉大な人類の進歩につながる。そういう重大な発見を自分だけの
ものにするなど、学問を志す者としてあってはならないことなんだ
よ。え、そう思わないか」
 次第に熱を帯びた口調になると、一瞬、前方から目を離して広輝
の方を見つめた。スピードを上げていた車は、大きく右によれた。
「木元さん、前、前!」
 木元は前を向くと、左にハンドルを切る。しかし、切りながらも
更に言葉は続いた。
「大体、学会って奴は歪んでるんだよ。広輝、アカデミックってい
う言葉の語源を知ってるか?遥かギリシャ時代にプラトンが創設し
たアカデメイアがその原点なんだよ。アカデメイアは学問を追求す
る場所であると共に、その成果を広く国家や、市民のために実践す
る政治的な結社でもあったんだ。本来、学問というものは・・・」
 車は丘を下ると、広輝の住む街の入口までやってきていた。だが、
木元の熱弁は終わりそうにもない。まだマンションまでは車でも1
0分程はあったが、仕方なく広輝は切り出した。
「木元さん」
「だからだな、俺は・・・」
「木元さん!俺、ここで降りたいから」
 商店街の一角で車は止まった。
「なんで。まだマンション、先だろ」
「本屋に寄ってくんだよ。降ろしてくれる?」
 とりあえずその場だけの理由を口にする
「そ、そうか」
 ドアを開けて降りかけた広輝を、木元が慌てて呼び止めた。
「あ、おい、それで返事は?」
「・・・少し考える。次の日曜までには連絡するよ」
 閉めたドアの窓から覗き込んで広輝は言った。
「いい返事、待ってるからな」
 金髪の下のいかつい顔が少し不安げに揺れたが、すぐにその表情
は消えた。
 ・・・まったく、よくああ理屈が出てくるもんだ。
 走り去る黒いスポーツカーを見送ると、広輝は夕暮れが迫る冬の
街に歩み出した。
 クリスマスが近づいた商店街は、色とりどりのネオンが点灯し始
め、アーケードは様々な人達で溢れていた。
 木元の大仰な理屈や、自分の置かれた状況とは相反するような代
わり映えのしない日曜の夕方。けれど、今はこうして街の中にとけ
込むことで、どこか胸のつかえが落ちていく。
 ゲームセンターの脇を通り、ハンバーガーショップの前を過ぎる
と、本屋が見えた。
 まあ、マンガでも買っていってみるか。
 立ち読みの列がびっしりとできた店内に入ると、冬とは思えない
ほどの熱気で溢れている。人の間を身体を斜にしながら奥に進むと、
コミックコーナーの所まできた。
 うわ、こりゃ無理だわ。
 この書店は新刊本が一冊だけ立ち読み可になっているので、いつ
も人だかりは多いのだが、今日は特別だった。
 踵を返して雑誌コーナーの方へ向かおうとした時、ボタンを外し
ていたハーフコートの裾が、高く積み上げられた向かい側のコーナ
ーの本に触れて、山が崩れた。
 やべ。
 慌てて散らばったハードカバーの本を元に戻す。
 「戦争と平和」ブックフェア? それでこんなに本がまとめて積
んであるのか。
 アイドルグループの映画ポスターとともに、十数種類の本が平積
みにされていた。そういえばこの映画の爆発的なヒットと共に、ち
ょっとした太平洋戦争ブームになっていたことを思い出した。
 ページが開いてしまった最後の一冊を拾い上げ、閉じる。
 ん、今の写真、何処かで・・・。
 山に戻そうとしていた手を止めて、「1930年代からの遺言」
と書かれたその本をもう一度開いた。
 確か、この辺りのはずだ。・・・あった!
 三百ページ位の本の半ばほど、当時の写真が掲載されている一
角に、小さな白黒写真が印刷されている。工場の作業服らしい質素
な出で立ち。襟のついた地味なシャツに、少しふくらんだ作業ズボ
ン、そして、一本おさげにされた髪と、秀でた額。
 間違いない、彼女だ!
 動悸がする。何度か見た意識だけの眺めが、視野の中で明確な像
を結ぶ。
 やはり、ただのビジョンではなかったんだ。
 写真の下の説明書きをゆっくりと読んだ。
 瀬川、緑。1937年、17才の頃。詩は、80ページ以下に所
収。
 詩?
 少し震える手でページを繰ると、いくつかの詩や俳句が乗せられ
た章に行き着いた。
 瀬川緑、瀬川緑・・・、あった。
 
  私たちはいつも、一人
  一人で、見つめている
  時代を
  他の人々を
  偉大な自然を

  私たちはいつも、一人
  戦い続けている
  それは
  無口な
  厳しい戦い

  私たちはいつも、一人
  でも
  決して孤独ではない
  誰にも代え難い一人だから
  私だけの
  私だから
  いつも誰かを愛していられる
  いつもあなたを認めていられる

   (1937〜1938頃、女性詩歌集より)

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