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「ふうーん」
 紺のブレザー型の制服を着た美奈は、椅子に反対向きに腰掛けて、
背もたれに肘を付いたまま不信げに眉を歪めた。
「なんか、怪しい話。大丈夫なの、その木元とかいうおじさんの口
車に乗っかって」
「おじさんって、あいつまだ24だぜ」
 美奈とは目を合わさずに、椅子に寄りかかったまま窓の外の暮れ
かけた校庭にぼんやりと目をやる。
「24なんて、一番やばい年齢じゃん」
「どーして」
「どうしても。大学出たばっかりなんて、無責任のかたまりじゃな
い」
「どういう理屈だよ」
 広輝はため息をついた。そして、机の中身をバサバサと取り出す
と、床に置いたグレーのボストンバッグに詰め始めた。
「こら、ヒロ」
 立ち上がりかけた広輝の袖を美奈の手が掴む。
 なんだ、今日はやけにしつこいな、こいつ。
「なんだよ」
「ごまかしてもダメ」
 3階の窓から差し込んだ冬の日暮れの赤い色が美奈の丸い瞳に映
っている。口調とは裏腹の真っ直ぐ射るような視線。
 広輝は立ったまま美奈の顔を見下ろす。
「ダメだよ。どうせ、どーでもいい、とか思ってるんでしょ? ヒ
ロ得意の」
 たく、美奈には勝てないな。
 もう一度大きくため息をつくと、椅子に腰掛け直した。
「ホントのとこはさ、木元の実験てのにちょっと興味があったんだ
よ。どうせ、毎日変わったこともないだろ」
「うん」
 腕を組むと、背もたれに顎を乗っける形になって美奈は上目がち
に広輝を見つめる。
「あいつ、昔から真言宗なんとか派の跡取りで、わけのわかんない
修行とかやらされてたんだってさ。それで、他人の精神に同期して
ポテンシャルを・・・」
「ポテンシャルって?」
「隠された能力とかって意味だろ。で、それを高めることができる
『介助者』って役割ができるんだよ」
「ふうん」
「なんか、俺と少し似てるだろ。そういうのって。どうせ俺も独り
だし、ちょっと危ないくらいが面白いかなって思ってさ」
 また目を合わさずに話す広輝の机の上に乗せられた右手を、美奈
の細い手がしっかりと握る。
「・・・ヒロは、独りなんかじゃないよ」
 微かに響き始めた動悸と共に美奈の方を見ると、少し茶の入った
レイヤーヘアーの中の表情は、少し口元に笑みを浮かべて、深い赤
の映る瞳には、少しの迷いもなかった。
 柔らかく暖かい感情が流れ込んでくる。
「・・・うん。そうだな」
 木元に付き合うのも、明後日で最後にしよう。
 広輝は考えながら、美奈の左手を握り返して手前に引き寄せた。
 美奈も椅子から腰を上げて中腰になり、目を閉じて顔を傾ける。
 近づいた身体に当たって、机の上に乗せられた教科書類が数冊、
床にバサバサと落ちた。
「あーっ! 教室でいかがわしい事してる奴らがいるぞー」
 不意に教室の入り口辺りで響いた声に、二人とも近づけかけてい
た顔を慌てて離して廊下側を見た。
「慶子。もお・・・」
 青いヘアバンドがアクセントのセミロングに、面長の顔立ちの女
生徒がピンクのナップを肩に掛けて歩み寄ってくる。
「あ、思いっきりおジャマだった? お二人さん」
「慶子、お前、部活は」
「おお、こわ。そんな声出さんでもいいっしょ」
 後ろの机の中を覗き込むと、女生徒はノートを取り出した。
「・・・あった。ノート忘れちゃってさ」
 ナップを机の上に置くと、慌ただしくノートを詰め込む。
「慶子、間悪すぎ」
 少し不機嫌に美奈が声を上げると、慶子は片手を顔の前に立てて
ペコリとすると、
「ごめん、ごめん。邪魔者はさっさと去るからさ」
歩きかけて、広輝の椅子の後ろに落ちた分厚い本につまづいた。
「あれ?」
 あ。
 広輝は慌てて慶子の足元の本を取り上げた。
「なんか、異質な本じゃん」
「ほんと。ヒロ、珍しいね。厚い本読むなんて」
 美奈が広輝の手にあるグレーの表紙のハードカバーを手に取る。
「こら、勝手に・・・」
「げ、『1930年代から遺言』だって。蓮見、お前、そんなミー
ハーだったっけ?」
 ああ、なんでこう女どもっていうのは・・・。
「そんなんじゃないっての」
 近寄ってきた慶子を手で追い払う仕草をすると、美奈が開きかけ
た本に手を掛ける。
「ちょっと待ってよ、ヒロ」
 巻頭のモノクロ写真のページを繰ると、じっと見つめる。
「ふぅーん、戦争で死んじゃった人達の遺文集だって。ほんと、珍
しいね。こういう真面目な本読むなんて。だいたい、いっつもマン
ガばっかしじゃん」
「人のこと言えんのか、お前は」
 今度こそ本を取り上げようとすると、今度は脇に立っていた慶子
が手を伸ばした。
「・・・あれ、なんか思いっきりページが折ってあるねえ」
「ホントだ」
 再び、広輝の手をピシッっと払いのけると、美奈はそのページを
開く。
「うわ、詩だよ」
 慶子も覗き込む。広輝は半分諦めると、バッグを開けて落ちたノ
ートと教科書を放り込み始めた。
「なんか、切ない詩だね」
 美奈が呟いた瞬間、広輝の意識の中に、何かが喚起された。
手にしていた教科書の眺めに別のビジョンが重なる。
 『緑さん、それでも俺はいかなくてはならない。それはそこが、
自分の生まれた時代だから』
 君はこんな時代にいてはいけない。でも、愛すべき人々よ、生き
て、そして、次の時代に立ち会って欲しい・・・。
 繁華街に翻る日章旗。提灯と小旗を持って立ち並ぶ人々。銃剣を
担って行進する黒く日焼けた肌の兵士たち。薄暗い映画館、粗末な
テーブルに出された香りの薄いコーヒー、人々のどこか空虚な笑い
・・・・。
「ヒロ!」
 気がつくと、美奈の顔が近くにあった。
「あ、ああ」
 今までになく鮮明な眺めに、現実との境界がひどく曖昧に思えた。
「大丈夫?」
 既に慶子の姿はなく、夕日が窓の外に見えていた。
「・・・時間、経ったか?」
「ううん、2、3分くらい。なんかボーッとしてるように見えてか
ら」
「そうか」
 こめかみに手の平を当てて、呼吸を整えた。
 まったく、どうなってんだ。こんなにはっきり感じるなんて。
 ・・・まさか。
 一つの可能性が広輝の頭を掠めたが、それは木元に確かめなけれ
ばわからないことだった。
「ね、帰ろ」
 美奈の声にうなずくと、広輝は残った教科書をカバンに詰め始め
た。

 クリスマスソングが流れる繁華街を、二人は腕を組んで歩いてい
た。
 制服の上に緑と白のチェックのカーディガンを羽織った美奈は、
同系色のマフラーをギュッと首に巻き付けると、広輝の腕に身体を
密着させる。
 イルミネーションが眩しかった。
 レンガ状に敷き詰められたメインストリートの路面にも、ツリー
やサンタを象った模様が大きく描かれて、今日が12月の半ばであ
ることを思い出させる。
「美奈、おまえ、寒くないの?」
 カーディガンだけの姿に、広輝が言うと、美奈はちょいちょいと
広輝の着ている茶色のロングコートを引っ張った。
「ヒロ、いっつもその長いの着てるじゃん。ゼンゼンはやりじゃな
いのに」
「うん」
 何が言いたいのかわからずに、腕を組んだ美奈のつむじを見下ろ
す。
「だから」
 ボタンを素早く外すと、美奈はコートの中に身体を滑り込ませた。
 そして、広輝の腰に手を回す。
「あったかい」
「馬鹿。子どもじゃないんだからな」
「いいでしょ」
 広輝は、裾を寄せると美奈の肩を抱きしめた。
 少しの不安と、それを遥かに上回る安堵感・・・。いつか感じた
二人の関係への想いは、すでに確信に変わっていた。
「好きだよ」
 普段は言いにくい言葉が、素直に口をついて出た。
「わたしも、大好き」
 腰に回した手に、ギュッと力がこもる。また、柔らかく暖かい感
情がゆっくりと流れ込んでくる。
 二人は行き交う人の流れの中を、繁華街の外れまでゆっくりと歩
いて行く。
「ね、撮らない? 」
 スナップ系の筐体が外から目立つ、小さなゲームセンターの前で
美奈は足を止めた。
「げ、やだよ。知ってるだろ」
「たまにはいいじゃん」
 コートから抜け出すと、広輝の腕を掴んでグイグイと店の中に引
っ張り込む。
「こっちにする?」
 全身が写るタイプの機械を指差す美奈に、広輝は首を振る。
「ヤダヤダ。どうしてもってなら、普通の奴にしてくれ」
「もう、しょうがないなあ」
 しぶしぶ付き従う広輝を後ろに、プリクラの画面の前に美奈は立
った。
「ね、フレーム、これでいい?」
「ああ、なんでもいいよ」
「メッセージ、なんて入れる?」
「それだけはやめてくれ!撮るだけ」
「ぐぅ、ノリ悪い」
 トナカイとサンタが星を引き連れているフレームに、二人の顔が
収まる。
「ほら、笑ってよ!」
 満面の笑みを浮かべる美奈と、ぶっきらぼうに見下ろす広輝の対
照的な表情が並んで、16分割のシールが出力された。
「あーあ、こんなんなっちゃって・・・」
 プリントを手に取ると、美奈は少し肩を落として息を吐いた。
「はいはい、おしまい」
「うぅ。ま、いっか」
 一枚シールを剥がすと、広輝のベルトのバックルに張り付けた。
 な。
「変なとこに付けんなよ」
「いいの。真面目に撮らなかったバツだよ。月曜日にはそのまま学
校に来る事」
 おいおい、そんな事したら、何言われるか・・・。
「いいね?」
 肉厚の唇を尖らせる美奈に、広輝は諦めてうなずいた。
「はいはい」
「じゃ、帰ろー。今日は、カレーだよ」
「えぇ、お前また家に来るつもりか?」
「もっちろん」
 美奈は満面の笑みで広輝に応えた。

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