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 この寺に来るのはこれで3回目だった。
 年輪数百年は経ていると思われる、巨大な杉の木の根元近くに建
てられた小さな堂の前に、広輝は腰掛けていた。
 寒いな・・・。
 立ち並ぶ杉の木立に遮られた空を見上げる。どんよりと曇った空
は、今にも地面に向けてこぼれ落ちてきそうな程だ。
 堂の向こう側、低く窪地になっている場所を囲むように取り付け
られたライトと撮影用の器材に目をやる。30分ほど前に木元が設
えていったものだ。
 半径5メートル程のその窪地は、何処か異質な感じを覚えさせた。
 円形の窪地周辺の杉木立が中心に向けて傾いて立ち並び、先端が
上空で交わって、自然のドームが形作られているのだ。
 そしてちょうど真ん中には、黒光りのする小さなテーブルほどの
台形の石が土に埋もれている。
 ま、あそこに立つのも今日で最後になるだろう。
 10分ほど前の木元の言葉を反芻する。
「お前が見た景色が、実際になるんじゃないか、って?」
「ああ、木元さん。俺の持ってる第六感はそう大層なものじゃない
けれど、起こらない事を見たりはしないんだ」
「時間を跳躍するかも、ってことだろう?」
 木元は大袈裟な身振りで首を振った。
「それは、ないな。こういう現象で見られるのは、あくまでも情報
だけだ。遥か遠くの星の光が、何万年の時を経て地球に届くように、
時間の停止した空間を経て、過去の眺望が観察できるだけだろう」
 先日の実験で出現した真っ白な空間を思い出す。
「でも、あの空間の中に飛び込めば・・・」
「組成が違うよ。鉄の壁か、鏡の中に入ろうとするようなものだ。
大丈夫、精神の世界と物質の世界は、このままの状態では決して交
わらない」
 木元は角張った顔に自信の色を浮かべて、強くうなずいた。
「なら、俺の見たあの眺めは・・・」
「『見た』ことの記憶だろう。おそらく、実験が成功することの暗
示だと思うよ。これが現実になりデータが集まれば、自由に様々な
過去を覗けるようになるだろうからね」
 そうなのだろうか・・・。何処かで何かが違っているような気が
した。
 美奈に渡してしまったあの本、あれを見せれば少しは違った反応
があったろうか。あそこまでディテールがはっきりした眺望は、今
までに一度も経験がなかった。
 いや、もう考えてもしょうがないことだ。今日で、木元に付き合
うこともないのだから。
 窪地を照らすライトを見つめながらぼんやり考えていると、堂の
向こうの木立を抜けて、白い衣にくすんだ土色の縄だすきを肩に巻
いた体格のいい男が歩いてくる。
「さ、準備はいいぞ」
 短い金髪と、太い眉はいつものままの木元は、草履履きの足で広
輝の前に仁王立ちになった。
 相変わらず、違和感目一杯の格好だな・・・。
「その姿じゃなきゃならないのか?」
「形は重要なんだよ。さ、『神隠しの場所』に下りろよ」
 柔らかい土を踏みしめながら窪地の中央まで下りると、木元はビ
デオカメラのスイッチを入れてレンズの前に立つ。
「12月18日、日曜日。午後1時15分。これより第3回目の実
験を行う」
 広輝は黒い石の上に立つと、大きく深呼吸した。頭の芯にじりじ
りとした感覚が盛り上がり、軽く目を伏せる。
 衣姿の木元は、石の下に立つと、両手を広輝の眼前にかざす。
目が閉じられ、両手の指が複雑に折れ曲がると、素早く形を変えて
印契を結ぶ。
「ホウ、シャ、ソワ、ソタ・・・・」
 張りのある声が木立の間に響き渡ると、背中の辺りから熱い塊が
込み上げてくるのがわかった。
 そうだ、この感じだ・・・。
 グッっと胃の辺りに力が入ると、こめかみにズキズキとした感覚
が広がる。眉根を寄せて心を全方位に振り向けた瞬間、ビリビリと
した感覚を頭上に感知した。
「出た!」
 突き出していた両手を下げると、木元は上を見上げた。
 広輝の頭上には、真っ白な半径1m位の円形の空間が出現した。
「広輝、そのままで」
 ビデオの場所まで下がると、木元はレンズの角度を調節する。
 そうする間にも、頭上の空間には、何かの眺めが映り始めていた。
「おお・・・。こりゃ凄いぞ」
 身体中の毛が逆立つような感覚に襲われながら、広輝は目を閉じ
て意識が広がるに任せていた。
「木、元、さ・・・、もういいか?」
「おお、もうちょっと頑張ってくれ」
 う、もう限界だ。頭が、痛くなってきたぞ・・・。
 バサバサバサッ!
 その時、頭上から何かが舞い下りてきた。
 子どもほどの大きさの翼を広げたそれは、急降下して空中に現れ
た空間に体当たりした。
 激しい轟音が辺りに響き渡った。
「な、鳥?」
 木元の驚いた声が妙な感じで歪む。耳に直撃した甲高いノイズに、
目を開けて見えた眺めに驚愕する。
 既に、視界のほとんどが真っ白な光に包まれており、小さな円形
に切り取られた向こう側に、杉木立と口を開けた木元の姿が見える。
「広輝!」
 伸ばした木元の手に指先が触れた瞬間、再び耳を聾する轟音が響
いて、身体が激しく跳ね飛ばされた。
 何か固いものに後頭部を打ちつけられ、意識が遠くなる。
 ・・・一体、何が起こったんだ・・・・。
 生暖かいものが耳の後ろを流れる感覚とともに、何も見えなくな
った。

 最初に感じたのは、左足に走る激痛だった。
 薄く目を開けると、枯れたこげ茶色の葉が目に入る。
 ・・・どうなったんだ。
 身体を両手で持ち上げ、足を地面に付けようとして、突然の激痛
に倒れ込んだ。
 足首を押さえてうずくまると、膝から下がおかしな格好で外に折
れ曲がっているのに気付いた。
 これは、折れてる・・・。
 歯を食いしばって辺りを見渡す。
 木元は? それにしても、眺めがあまりにも違っているような気
がする。
 いつの間にかうっそうとした杉木立は消え、何もない広場の周り
には、様々な広葉樹が立ち並んでいる。
 公園?ウッ、なんて痛さだ。
 顔をしかめて痛みに耐えると、額の汗を拭う。
 汗じゃ、ない。
 手の平にはべっとりと血糊が付いた。もう一度こめかみの辺りに
手を当てると、鮮血が流れ落ちていることに気付いた。
 病院に、行かないと。
 まだ朦朧とする意識の中で考える。何が起こったのか。無意識に
さまよってこんな場所まで来てしまったのだろうか?
 だめだ、身体が動かない。
 広輝はその場にへたり込むと、仰向けになって空を見た。
 ・・・やっぱり木元の口車になんて乗るんじゃなかったよ、美奈。
 見上げた空には、激しい光を放つ太陽が輝いていた。
 暑いな・・・。傷に染みる。
 何かがおかしい。
 なんでこんなに暑いんだ?もうすぐクリスマスのはずなのに。
 その時、地面をザッザッと踏みしめるような音が近付いてきた。
 ・・・助かった。
 顔だけを横にむけると、黒い詰め襟の制服に、顎紐のついた丸く
平たい学生帽のようなものをかぶった中年の男が小走りに近寄って
くる所だった。
「どうしたね、君」
 学生?じゃないよな。なんか、黒い革ブーツみたいな奴を履いて
るし・・・。
「ひどい怪我じゃないか。どうしたんだね」
「す、すいません。病院まで・・・」
「ああ、少し待っていたまえ」
 なんだ、あの腰の刀の鞘みたいな奴は・・・。
 背中に寒いものが走ったのはその時だった。ぼんやりしていた意
識が急速にはっきりする。
 まさか・・・。
 最後に残っていた力で身体を起こすと、辺りを見回す。
 ここは、多分、公園だ。
 植え込みの中に身体を引きずると、向こう側に頭を出す。
 嘘だ!
 まばらに立ち並ぶ木造家屋。狭く未舗装のままの路地。木の電信
柱に張り巡らされた電線。そして、遠くの道路を過ぎて行った鼻の
長い角張った自動車・・・。
 違う。ここは、今の日本じゃない。
 思った瞬間、絶望が胸を一気に駆け上がり、再び広輝は意識を失
った。

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