第二章

       1

 大きなベルの音が鳴って、今日の仕事がようやく終わったことを
告げた。くすんだこげ茶の柱に掛かる丸い大時計を見上げれば、す
でに時刻は9時を指していた。朝から働き続けているのだから、1
2時間以上になる。
 緑はくたくただった。糸をさばき続けた指先は痺れ、肩から首に
は鉛のような重みが残っていた。
 電球の光が滲む紡績工場の中は、異様な湿気と熱で満たされてい
た。薄いベージュの作業服に、少し腿の部分がふくらんだ緑褐色の
ズボンを履いた女工達は皆、声もなく狭い出口へと向かっていく。
誰一人として足取りの軽い者はなく、虚ろな視線は自然と足元に落
とされていた。
「澪さん、調子悪いんだって」
「やだ、また労咳なんじゃない」
 更衣場で他の女工達の会話を聞きながら、緑は手早く着替えを終
えた。
「それじゃ、わたし、帰りますから」
「ああ、緑ちゃん、また来週ね」
 黄色の南京袋を下げて出て行く後ろから、噂話が聞こえる。
「あの子、最近えらいさっさと帰りよるね」
「監督の蓮見さんとつきあってるのよ」
「あの、足ひきずった」
「そう、それで兵隊にも行かれないのよ」
「しょうもない。まあ、あの子には似合いかもしれんな」
「まあ、口の悪い」
 後には空虚な笑いが続いた。

 すっかり暗くなった路地を、彼は歩いていた。黄土色の作業服の
左足が、一歩進む度に舗装されていない路地に擦り付けられて、ズ
ルッ、ズルッっと音を立てる。
 秋風らしきものが頬を撫でた時、後ろから駆けてくる音が聞こえ
た。張りのある若い女性の声が、夜の静けさを破って大きく響いて
くる。
「蓮見さーん」
 蓮見は振り向いた。短く刈り揃えられた髪の下で、単色だった瞳
は優しげな色に変わり、口元にはわずかな微笑が浮かんだ。
「緑さん」
 立ち止まった蓮見の隣へ、短い襟のベージュのボタンシャツに、
緑色の作業ズボンのままの少女が駆け寄ってくる。額の秀でた一本
お下げの色白の顔が、息をはあはあと切らして彼の面長の顔を見上
げた。
「走ってくることなんてないのに」
「だって、速いでしょう、歩くの」
「そうかな、この足で。ほら、荷物貸しなさい。自分が持つから」
「男女同権でしょ。そういうこと言わないの。いいわよ、軽いから。
ほら」
 緑は南京袋をぐるりと回して満面の笑みを浮かべた。色白の肌に、
目尻の通った瞳が真っ直ぐに蓮見を見つめる。
「そうだね。じゃ、行こうか」
 二人は少し離れて歩き出した。後ろで手を組んだ緑が、やや斜め
後ろになってゆっくりと蓮見に続く。電信柱の立ち並ぶ大通りに一
度出た後、木の塀と生け垣が両側に続く細い路地に入った。暗い街
灯が思い付いたように点々と光る砂利道に来ると、それまで黙って
いた緑は早足で蓮見の後ろに近付いて口を開いた。
「蓮見さん」
 駆け寄ってきた時とは打って変わった低い声だった。
「私たちの町会でも、来週の講演会へみんなで行くの」
 辺りを覗うように視線を払った後で、蓮見の声のトーンも下がる。
「誰か来るんだね」
「なんとかっていう、軍人さん」
「時局の夕、って奴だね」
「そう」
 うつむき加減になると、お下げが肩から落ちて、意志の強そうな
唇が固く結ばれてから言葉を紡ぐ。
「この間の支那の事件から、みんなの熱は上がるばっかりで・・・」
 そして、立ち止まると更に小さな声になった。
「こんなこと、蓮見さんにしか話せないんですけど」
「何」
 蓮見も立ち止まり、肩の辺りまでしかない緑を見下ろした。
「・・・私たちがしていることは許されることなんでしょうか」
 彼は目を閉じた。面長の顔で離れた眉根が寄せられる。
「許されない。戦争に善はない」
 低く、重い声だった。
「こんなこと、造言飛語罪ですね」
「ああ」
 うなずくと、再び歩き出した。足を引き摺る音が響き、無言の足
音が続く。そのまま一言も喋らず、緑の下宿屋の入り口まで来た。
入り口の木戸の上の、「自由荘」と墨書された大きな木の表札が目
立っていた。
「あ、まだおばさん起きてる。お茶でも飲んでいきませんか」
 一階の玄関側にある部屋の窓の淡い光を見て、緑が口を開いた。
「ああ、遠慮しておくよ。こんなに遅いとおばさんにも悪い」
「そう・・・」
 少しがっかりしたように言った。
「ほら、もう寝た方がいいよ。今日は、大変だったしね」
 蓮見は促すように言った。
「んん、そうね。じゃあ、お休みなさい」
「おやすみ。おばさんによろしくね」
「ええ」
 緑は木戸の向こうで軽く頭を下げる。その姿が下宿の中に消える
まで見送ると、彼は再び歩き始めた。
 蓮見の下宿はそこから五分足らずの所にあった。街灯がほとんど
無くなる下宿街の外れまで歩くと、寂れて人気のない木造二階の細
長い建物が見えてくる。少し傾いた板塀の開き放しの木戸をくぐる
と、棚板が一つ抜けた下足箱に煤けた革靴を放り込んだ。
 軋む廊下を歩くと、三つ並んだ一番奥の部屋のドアを開けた。 
篭る熱気と湿気を感じながら、傘のついた小さな電球をつけた。木
枠の窓を開けると、涼しい空気が部屋の中にも入り込んでくる。
 静かにため息をついた。
 2001年のことを思い出すのは本当に久しぶりだった。
 作業服の胸元を緩めると、ほとんど何も無い部屋の片隅におかれ
た小さな木の机の横に腰を下ろした。開け放たれた窓からは月の光
が柔らかに降り注いでいた。
 机の中から茶色のノートを取り出す。鉛筆で乱雑にメモされたペ
ージをパラパラと捲る。
 このノートを見るのも何ヶ月ぶりだろうか。
 そして、ノートの中ほど、幾度も開いて癖になったページが自然
に開いた。真ん中には少し色褪せたプリクラの写真が貼られている。
 緑と白のマフラーを巻いて、満面の笑みを浮かべるレイヤーヘア
ーの少女と、視線を少し逸らして決まり悪げな表情を浮かべている
男子学生。
 写真を静かに指でなぞると、強張っていた心が少しずつ解けてい
くように感じた。
 もう、あれから二年経つんだな・・・。
 広輝は時間跳躍をして以来の平坦でなかった日々を思い浮かべた。
 救急車で運ばれてから、素性の不明さを疑われ何度か尋問を受け
た事。釈放されたものの、複雑骨折した足は二度と元には戻らない
と診断され、外科医の紹介で紡績工場に勤めるようになった事。戦
時体制への色を濃くしていく時代の中で、元の時代への想いを抱き
つつ、このノートに状況を書き記した日々。兵隊にいけない不具者
として疎んじられ、時に暴力や差別を受けて暮らす中で、次第に閉
じた生活を選ばざるを得なかったこの一年。その冬の終わり、彼の
勤める工場に、瀬川緑がやってきた日。
 そして今日、時の流れはあやまたず、自らの傍らにあった。
「戦争に善はない」
 何処まで本気で自分はその言葉を発したのだろう。この二年の間
決して時代と交わるつもりのなかったというのに。
 いつか戻れると考えた日々は遠くに去っていた。知識のない自分
には手がかりもなく、ただ新しい日常が過ぎていくだけだった。
 美奈、もう一度会える時がくるんだろうか・・・。
 死にたいとまで思った幾度かの時、あれほど支えになった彼女の
声や姿も、少しずつ朧げになっていた。
 夜空から吹き込む風が、机とわずかな衣服しかない六畳ほどの部
屋に初秋の涼しさを運んだ。広輝は、月明かりを見つめながら腰を
上げると、2001年に流行っていた人気バンドのバラードを口ず
さんだ。
 疲れで痛んだ身体を、今日はあまり感じなかった。
 ・・・これからずっと、この時代で生きていくのだろうか。
 口ずさむのをやめようとした時、下の路地から小さな声がした。
「蓮見さん」
 板塀の上から覗く顔は、月明かりだけでもはっきりとわかった。
「緑さん」
 広輝は驚いて辺りを見回した。こんな時間に男性下宿の外で若い
女性がいるのを見られたら、それだけで大変な事になる。
「どうしたの」
「これ」
 板塀と下宿の建物の間に入ってくると、緑は背伸びして広輝が顔
を出した窓に包みを差し出した。
「何なの?」
「本当はね、明日渡して欲しいってはな子おばさんに言われたんだ
けど、蓮見さん、すぐに読みたいだろうと思って」
 手に取ると、茶色い紙に包まれたそれは、本だとすぐにわかった。
「じゃあ、わたし、帰ります」
「気をつけて、ありがとう」
 再び板塀と下宿の壁の間を、身体を斜にして通ろうとして、お下
げ頭が止まった。
「・・・蓮見さん、歌、上手ね」
「こら」
 少し間の離れた柳眉をいたずらっぽく歪めると、緑は小さく笑っ
た。
「おやすみなさーい」
 言葉だけ残して、その姿は暗闇に消えていった。
 広輝はしばらく緑の消えた先を見ていたが、本の包みを持って、
窓を閉めようとした。と、右の窓が空いて、四十がらみの男が一人、
5分刈りの頭を突き出した。
「色男だな」
「横原さん。人が悪いな」
 丸い眼鏡の奥で小さな目がからかうような色を帯びる。
「どうやったって聞こえるだろう、あんな調子で喋られたら。ま、
用心深い行動とは言えないが、君にしてはやるじゃないか。いつの
間に女を作ったんだい」
「女なんかじゃないですよ」
 広輝の他には、この下宿で唯一の住人は、にやっと口の端に皺を
作った。
「ふーん。まあ、そういうことにしておきましょうか。で、その本
は何?」
 本、と言われて広輝は素早く包みを部屋の中に隠した。
「内緒、内緒よか。ま、いいや。ほいじゃ、早く寝ろよ、労働者」
 横原は気楽な調子で言うと、顔を引っ込めた。
 まったく・・・。
 広輝も窓を閉めると、茶色の包みを机の上に置いた。無意識の内
に辺りに気を配った後で、紙を剥がしていく。
 小林多喜二の「蟹工船」。
 ざらざらとした表紙に、モノトーンで雑な絵が書いてある、それ
ほど厚くない本を手に取った。
 やっぱりか。それにしても、よくこんなものを。
 確かに二週間ほど前に緑の下宿に寄った時、話に出はしたが、ほ
とんど無理だと思っていた。しかし、緑さんに持たせるなんて、村
岡のおばさんの不用心にも程がある。
 本を静かに取り上げると、包みの中から茶封筒が落ちた。
 蓮見さんへ、か。緑さんの筆跡だ。
 『ごめんなさい。おばさんに言って、わたしがこの本を無理に届
けることにしたの。前に見せると約束したわたしの詩、憶えていま
すか。ついででないと、どうしても恥ずかしくて。下手なものです
が、読んでみて下さい』
 そして、その下から何行かの詩が続いていた。細く、柔らかい筆
致だったが、伸びやかで大きな字で綴られていた。

  私たちはいつも、一人
  一人で、見つめている
  時代を
  他の人々を
  偉大な自然を

  私たちはいつも、一人・・・

 あの日に読んだ詩であることは間違いなかった。
 静かに目を閉じる。『1930年代からの遺言』。彼女もまた、
戦争の犠牲者として死んでいくのだ。
 自分は彼女の死に立ち会うことになるのだろうか。2001年に
見た眺めは、その事を暗示していたのだろうか。
 詩の綴られた紙を見つめながら、無力感が込み上げるのをどうし
ようもなかった。

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