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 秋が深まりつつある十月の午後、広輝は久しぶりに緑の下宿を訪
れていた。一月前に緑に手渡された本を返すためだった。
 入り口が閉められ、薄暗い店の中に立ち並ぶ書棚を眺めながら、
広輝は番茶を啜った。
「もう、半年になるのかな、村岡のおばさん」
「そう。早いものね」
 紺に灰色の縦縞が入った地味な着物に、白い割烹着を掛けたひっ
つめ髪の中年の女性は、大きな目で寂しげに埃の積もり始めた書棚
を見回した。
 本の並ぶ店内から一段上がり、ちゃぶ台の置かれた部屋も何処か
寒々とした感じで、広輝が知っている雰囲気とは異なっていた。
「それにしても、少し軽率だから、おばさんは」
「ごめんね、広輝君。緑ちゃんにどうしてもと言われたものだから。
私から渡すべきだったわね」
 四十を越えた固さの中にも、何処かユーモアをたたえた口元が、
戒めるように閉じ合わされた。
「いいですよ、まあ。大事はなかったし。自分も軽率だったし。興
味本位で口に出すような本じゃないのに」
 村岡はな子の瞳が、探るように広輝の顔を見た。
「・・・それで、読んだの?」
「ええ」
 広輝はただそれだけ言うと、灰色の湯飲みを口に付けて、残った
番茶を一気に飲み干した。
 沈黙が流れ、はな子の視線が暫く自分の顔に注がれていることを
感じていた。
「・・・広輝君って、何処か不思議な感じがするわね」
「どういう意味です?」
 重苦しい雰囲気が抜けて軽く息を抜くと、広輝ははな子の方を向
いた。
「だって・・・」
 その時、下宿に通じる裏口がドンと開いて、張りのある高い声が
響いた。
「ただいま。成田屋さんまで行ったら、時間がかかっちゃって」
 淡い群青の絣織を着た和装の緑は、今日は簡単に髪を結い上げて
いた。
 言葉を止めた二人を見て、切れ長の瞳が悪戯っぽく笑う。
「・・・あ、お邪魔しちゃいましたか。もう、はな子おばさんと蓮
見さん、いい感じだから」
「こら、緑さん。そういう事をすぐ言う。村岡さんに失礼だろう」
 広輝は箪笥の上、軍服姿の年若い男性が収まった写真に軽く目を
やった。
「いいのよ、広輝君」
 口に手を当てて、くすくすと笑いながらはな子は言った。
「ほんと、緑ちゃんのその元気は何処から出るのかしら。私も見習
いたいわ」
「・・・全然誉められた気がしないけれど」
 緑は腰を下ろすと、手に持っていた白い紙包みを台の上に置いた。
手早く開けると、和菓子が三個、綺麗に並んでいる。
「あら」
 はな子は驚いたように小さく声を上げると、緑に言った。
「これじゃ、お金足りなかったでしょう。今・・・」
「いいの、おばさん」
 緑の目が訴えるような感じに見えた。そして、広輝の方をちらっ
と覗う。
「ね、食べて。蓮見さん」
「あ、ああ」
 透明な寒天が乗せられて、緑と赤が散った四角い和菓子を口に運
ぶ。
「どう?」
 下地の白い羊羹の味が口の中で溶けて、上品な風味だった。
「うん、これは最近の奴よりずっと美味しいな」
「最近?成田屋さんの和菓子は、モダンで有名なのに。ねえ、おば
さん」
「そうね」
 はな子と緑は面白そうに広輝の方を見つめた。
 自分でも妙な事を言ったな、と思った。2001年ベースで物を
考えた記憶は、ここ一年ほどなかった。取り繕おうと口を開きかけ
た瞬間、懐かしい声が聞こえたような気がした。
『大丈夫だよ、ヒロ』
 美奈・・・?
 突然にビジョンが重なった。そして、現れたのと同じように急速
に消えていく。
「・・・あ」
 小さく声を出すと、心配そうに覗き込む緑の顔が近くにあった。
「大丈夫、蓮見さん」
「あ、ああ」
 どういうことだ。
 動揺を押さえながら、残った和菓子を口に入れた。
「疲れてるんじゃないですか、工場、ここの所忙しかったし」
「いや、そういうんじゃないよ。・・・そうだ、」
 なぜそんな事を言ったのか、自分でもわからなかった。
「緑さん、今度の休み、何処かに出掛けよう」
「え?」
 緑は口に手を当てて、はな子の方を見やると、上目遣いに広輝の
方に確認の意志を表した。
「・・・わたしと?」
「そうだよ。ほら、ターザンの映画とか、面白そうじゃないか」
「映画!」
 今度ははな子が小さく驚いた声を上げた。
「い、いや、映画館の前で待ち合わせれば、別に・・・」
 俺は何を言っているのだろう。そんな馬鹿げた事、できるわけが
ない。
「・・・ごめん。何を言ってるのかな、自分は。忘れてくれ、緑さ
ん」
 見開かれた二人の目から視線を逸らせた。
「わたし、行く。行きます」
 緑が唐突に言った。
「緑ちゃん」
「大丈夫。だって、蓮見さんが言うみたいに、映画館の前で待ち合
わせれば・・・」
 はな子はしばらく黙って二人を見ていたが、小さくため息をつい
た。
「いいわね、若い人は。映画館の前で逢い引きなんて」
「おばさん」
 緑は嬉しそうにはな子の方を見た。
「それにしても、ほんとに広輝君って、おとなしいのか、モダンな
のか・・・。大丈夫なんでしょうね」
 はな子の探るような表情に、広輝は頭に手を当てて軽く笑った。
 緑の方を見ると、紛いようもなく喜色満面で土瓶から急須にお湯
を注いでいる。その表情を見ていると、何処となく良かったような
気がしてきていた。
 工場にこの身寄りのない少女がやってきて半年、心の中で大きな
場所を占め始めていたことに、広輝は気付かざるを得なかった。

 かつて書店を兼ねていた下宿を後にすると、既に時刻は五時を過
ぎていた。
 広輝はそのまま自分の下宿には戻らず、繁華街の方へと歩を進め
た。
 灰色の作業着の背中を丸めて、軒を連ねた商店の看板の傍を歩い
ていくと、最近建った四階建ての百貨店の辺りでネオンがつき始め
ていた。
 あの時、緑に被さって見えた顔、あれは確かに美奈のものに間違
いなかった。また、何かが起ころうとしているのだろうか。それと
も、過去の記憶なのか。
 第六感があることすら忘れていた日々の中で、突然に兆したビジ
ョンにまったく確信が持てなかった。
 百貨店の前の広くなった歩道の一角に佇むと、大通りの向こうか
らたくさんの明かりが、揺らめきながら近付いてくるのが見えた。
近くを歩いていた数人も立ち止まり、通りを横切ってくる行列を見
つめていた。
 手に手に柄の長い提灯や日章旗を持った人々が目の前を過ぎてい
く。軍服風の男性が掲げる幟には、『聖戦大勝』と黒く大書されて
いた。
 戦勝の提灯行列か・・・。
「万歳!」
「ばんざーい!」
 何処からか上がった声に続いて、広輝の周りの幾人かも両手を挙
げて戦勝を称え始めた。
 今度は何処の街が落ちたのだろう。そして、それは本当のことな
のだろうか。
 未だ幻のようにしか思えない光景を後ろに、広輝は再び歩き始め
た。
 今日の緑の表情、元の時代の記憶、美奈との思い出、そして未来。
何もかもが混じり合って鮮明ではなかった。
 今は、考えまい。少なくとも俺は、生きていかねばならないんだ。
 広輝は唇を噛み締めて、下宿街へ向かう狭い路地へと足早に消え
ていった。

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