3

 次の週も到底納期には間に合いそうもないほどの発注が続いて、
下宿に帰っては寝るだけの生活が続いた。
 なんとか休日にした日曜の朝も、身体が重く、起き上がるのさえ
億劫なほどだった。それでも着慣れた黄土色の作業着に袖を通すと、
何とか外へと足を運んだ。
 行き付けの定食屋は、日曜日のせいか人もまばらだった。スチー
ル製のテーブルが数脚並んだだけの店内には、自分と同様の作業着
姿の男性が二人、向かい合って座っている他は客もなく、店の隅に
置かれた木製の大型ラジオが、乾いたアナウンスの音を立てていた。
 ・・・南京がもうすぐ落ちるのか。
 支那の戦線の模様を伝えるニュースが、南京に迫った陸軍の大部
隊の様子を伝えている。男性アナウンサーの声も、戦勝を予期させ
る熱を帯びた調子に変わっていった。
 日本史の授業の僅かな記憶が意識を過った。また、たくさんの人
が死ぬのだろう。
 広輝は飲んでいた味噌汁の椀を置くと、代金を払って店を出た。
 暖簾をくぐると、早朝の時刻を過ぎた飲食街の狭い路地へ出た。
立ち並んだ店の上から朝日が差し込み始めていて眩しい。緑と出掛
ける予定が、自然と朝の光に重なった。重苦しい思いは消えて、お
そらくこの2年で感じたことのないだろう高揚した気分が満ちてく
るのを感じていた。
 元いた世界の文字の上の出会い、そして、今は言葉を交わすこと
ができるあの少女。もう違和感はなかった。
 もし二度と戻れないなら、あの光を守りたい。この時代を抜けた
後には、次の時代が待っているのだから。
 身体の重みまでも軽くなるように感じ、空を見上げながら下宿街
への入り口に立った。
 背中に気配を感じたのはその時だった。
 微かな足音が付いて来るような気がして、それとなく背後を覗う。
しかし、砂利道が真っ直ぐ伸びているばかりで誰の姿もなかった。
 特高?
 足早に木戸をくぐって下宿に駆け込んだ。この時代に来て二ヶ月
ほど、特高警察の監視下に置かれたことを思い出した。だがもはや、
自分のような者を監視しても意味がないことはわかっているはずだ。
 六畳一間の下宿の窓から外を覗う。見慣れた板塀と電柱、遠くに
茂る木々の眺めがあるだけだ。
 気のせいか・・・。
 短く刈り上げた頭に手をやって息を吐いた時、ギシギシと廊下の
軋む音が近付き、続いて乾いたノックの音が響いた。
「申し訳ありません」
 少し甲高い調子の男性の声が、ドアの向こうから響いた。
「・・・何ですか」
 肩に力を入れたまま低い声で答えた。その一方で、問い掛けた声
のトーンに、埋もれていた記憶の断片が呼び起こされていた。
「すいませんが、こちらは蓮見広輝さんの部屋ではないですか」
「そうですが」
 広輝はドアの傍へ二歩、身体を近づけた。
 まさか・・・。
「なにか、御用ですか」
「開けてもらえませんか。大事な話があるのですが」
 予感に震えながら、ドアのノブを捻って押した。
 下宿の狭い入り口には、ダークグレーの背広を着た中年の紳士が
立っていた。間口いっぱいになるほどの大柄な体格、短く刈り揃え
られた黒髪。上品に整えられた口髭。
 広輝には関係の少ない階層の出で立ちだった。しかし、角張った
顔に、眉間まで繋がった太い眉、まだ何処かに残る瞳の皮肉めいた
光が、間違いなくこの人物の名前を告げていた。
「木元、さん?」
 知っているよりずっと皺の増えた口元が結び合わされ、頷く。
「ようやく、見つけた」
 自らに言い聞かせるような小さな声で木元は言った。
 そして、しばらくうつむいた後で、両手を広輝の肩に掛け、頭を
大きく下げた。
「・・・すまなかった。広輝」

 電球一つの狭い部屋で、木元の口から語られた言葉は、本来なら
自分の心に兆すべき怒りや恨みの感情を消し去っていくのに充分だ
った。
 木元もまた、平坦ではない道を、この時代で過ごしてきたのだ。
「私が落ちたのは、1924年だったんだよ」
 自分とは10年以上の時の開き。記憶よりずっと年を重ねた顔立
ちや仕草に、その言葉が真実であることは疑いようもなかった。
 そして、木元は続けた。
 後の時代の知識を断片的に使うことで、何とか大学の研究施設に
入る道を見つけ出し、ある教授の口利きで、講師として働くように
なったこと。大正から昭和へと移る時代の中で、この国がどう変わ
っていくかを知りながら、何も手を下すことができなかった無力感。
一歩一歩、真綿で首を絞めるように全ての自由が失われていく時代
に、何とか抗おうとしてきた日々。
「その年月の中でも、君の事を忘れたことはなかった」
 安全性も考えず、思い込みだけで行った実験に巻き込んだ広輝に
出会えるなら、なんとか力になりたいと考え続けていた、と。でき
る限りの手段で探してみたが、なんの情報もなく、いつのまにか十
年が過ぎ去っていた。
「大学の知り合いの友人から、私の探しているのと似た人物がいる、
と聞いた時には耳を疑ったよ」
 そして今日、広輝に出会ったのだ、と。
「…穏やかな眺めだと思わないか」
 木元は窓の外の景色を見やりながら言った。広輝も、木元の話に
どう言葉を繋いでいいかわからぬままに陽光の差し始めた下宿街を
見上げた。
「我々の知っている時代よりずっと穏やかな今が、このまま巨大な
悲劇に巻き込まれていくことが、わたしにはどうしても信じられな
いんだ」
「・・・そうだね」
 木元はそのまま口を噤んだ。軽く噛み締めた口元の堅い稜線を見
ながら、広輝は視線を落とした。
 その後の長い沈黙の間、時折鳥の囀りや、自転車が路地を行き交
う音が響いていた。
「君は、戻れるものなら戻りたいか? 2001年に」
 木元が低く小さな声で言う。
 もちろん、と口を開きかけて、言葉に詰まった。この時代で出会
った人達が過って気持ちを鈍らせる。
「・・・戻れるものなら」
 やはり低いトーンの声に、木元の目が真っ直ぐに広輝の顔を見詰
めた。
「だろうな。それが、当然の気持ちだろう・・・」
 そして、息を吐いた。
「君が、この時代に落ちた時の場所と、日時は憶えているか?」
「あ、ああ。ノートしてあるよ」
「そうか、それは賢明だったな。ならば、君を元の時代に送ること
は可能だと思う。そのための準備はしてきたつもりだ」
 言って、微かに微笑んだ。
 この2年、待ち続けていたはずの台詞。だが、胸の奥を占めるこ
の苦さは何だろう。
 そして、沈んだ瞳から伝わる木元の想い。
「・・・木元さんは、残る、つもりなんだね」
 目だけで頷いた。
「そうだ。この時代に来た時は、君を探し当てて共に帰ろうと思っ
ていた。そして、そのための準備でもあったんだ。でも、今は・・」
「気持ちはわかる気がする。でも、それが自然なこととは思わない」
「・・・君は、歴史には詳しくなかったろう」
「この後の、ことだろう。でも、それは・・・」
 いったい、自分に何ができるだろう。何度も自問した言葉だった。
だからこそ、時代と交わらずに生きてきたのだ。
「余分な事は知っていない方がいいのかもしれないと思ったよ。齧
った程度の知識でも、その通りに歴史が刻んでいくのがわかる。そ
して、その先にあるものは・・・」
 おそらく自分には数も想像できない人々の死。でも、我々に何が
できるというのだろう。
「でも、木元さん。歴史を変えることなど、絶対にできるわけがな
い。だって・・・」
 広輝の言葉を木元は手で制した。
「・・・いや、そんなことじゃないんだ。歴史を変えようなどとは
思っていない。でも、だめなんだよ。この10年以上の間ずっと見
てきたことが、わたしを離さないんだ」
 聞き覚えのある高い調子の言葉になりかけたが、
すぐに押さえた口調で続けた。
「差別、貧困、天災・・・。そして、権力。多くの人達が目の前を
通り過ぎていった。これから、そのスピードは倍加する。それを知
っている自分に、何かできることがあるはずだと思うんだよ。一人
でも、二人でも・・・」
『蓮見さん』
 秀でた額と、柳眉の下の瞳が意識の中で翻る。
 そう、あの子も同じようにこの時代の中で消えて行く。戻れない
ものならあの子を守りたい、朝の記憶が蘇って、胸の奥を突いた。
「でも、俺は戻る」
 小さな声で呟くと、木元は広輝の肩に手を置いた。
「・・・そうだな。君は戻れる」
 そして、もう一度目を閉じて言った。
「すまなかった、広輝。こんなことに巻き込んでしまって」

 次の木曜の夜、広輝は木元の所属する大学を訪れていた。
 暗く、寒い地下の研究室で交わされた言葉が、心の中に重く沈殿
していく。
「次の日曜日、夜10時30分が最初のポイントになると思う」
 再会の時に広輝のノートから書き写したメモを手に、木元は告げ
た。2001年での事故の時、ビデオカメラに残ったデータと突き合わ
せることで、六次方程式を組立てたのだと言った。
 木元の「理論」は殆どわからなかったが、一つの言葉が重く胸の
内に残った。
「・・・こうして我々が時間を超えてしまった以上、間違いないと
考えざるを得ない事がある」
 木元の表情は痛みさえ感じるほどの厳しさだった。
「過去に溯って状況を改変できる以上、時の流れは分岐していると
いうことになる。そうでなければ、常にタイムパラドックスが引き
起こされることになってしまうからだ。私は、概略、時空の眺めと
言うのは、絡み合った鎖の束が、大木が枝を広げるような形になっ
ているのではないか、と考えている」
「…どういうこと?」
「小状況の改変では同じ時間軸の中でのバリエーションになるが、
大状況を変化させれば、違う時間軸に入ってしまうということだ」
 木元は言った。どんな行動が歴史の改変のきっかけになるかはわ
からないが、もし違う時間軸に入ってしまえば、もとの未来に戻る
ことはできなくなるだろう。今度の時間跳躍はある種の賭けになる
し、できる限り急いだ方がいいのだ、と。
 時刻は11時を回り、大通りには人影もほとんどなかった。何の音
もない街の空には、秋の柔らかい星空が高く広がっていた。
 危険を冒してまで、元の時代に戻る意味とはなんだろう。居場所
を探して、見つけることのできなかったあの時代に、何のために戻
るのだろう。
『ヒロ』
 快活な笑みと、丸い瞳が記憶の中で肩を押した。
 ・・・そうだ。あいつに会いたい。美奈が俺を待ってる。
 このまま浮き草の如く、この時代で生きていることこそ、意味が
ない。
 見慣れた下宿の屋根が見えてきた。
 速度を上げて角を曲がる。この二年の間見えなかった道が、初め
て広がっているように感じていた。
 その時、三日月と星明かりの朧げな淡い光の中、下宿の板塀にも
たれ掛かるように立つ小柄な影が視界に入った。
 見慣れた作業着姿の少女も、広輝の足音に気付くとお下げの頭を
上げて、こちらを見つめた。
「お帰りなさい」
 押さえた口調だった。ぎこちない笑みがかえって静けさを際立た
せていた。
「…どうしたの、こんな時間に」
「わたしも、いま帰りだったから」
 見上げた切れ長の瞳が、深く沈み込むような色を浮かべている。
「そんなわけ、ないじゃないか。いくらなんでもこの時間までは・
・・」
 辺りを気にしながら緑の傍に立った。様子が少しおかしいのはわ
かった。それでも、この時間に若い女性が出歩いては、何を言われ
るかわからない。
「ごめんなさい」
 声が震えていた。そして、逸らした瞳から溢れた光る滴が目に焼
き付いた瞬間、広輝の胸の中に緑の身体があった。
 小さな肩が、細かく震えていた。そして、押さえた鳴咽が時折混
じる。所在のない手を柔らかく背中に当てると、しばらくそのまま
の体勢で華奢な体を見下ろしていた。
「おばさん、出掛けてて、いなかったから」
 身体を離して、取り出した小さなハンカチで涙を拭った。
「・・・ごめんなさい。みっともないことして」
 まだ途切れ途切れになる言葉で、緑は言った。
「いいよ。それより、どうしたの」
 できるだけ優しい調子で訊ねた。
 緑はうつむいたままで、少し間を置くと小さな声で言った。
「澪さんが亡くなったの」
「澪さんが…」
 そうか。あの子が。
 広輝は、身体の弱かった小柄な娘の姿を思い浮かべた。
「緑さんと、同郷だったよね」
 緑はこくりとうなずいた。そして、広輝はそれ以上の言葉を飲み
込んだ。緑と同郷だった、最後の一人。東北から身売りされてきた
一団は、行方知れずになり、置き屋に身を移し、或いは澪同様、病
没していた。
 胸が痛かった。自然に手をもう一度肩に掛けた。
「送るから、帰ろう。もう遅い」
「ええ」
 人影のない砂利道を歩き始めた時、隣を無言で歩く緑の姿を窺い
ながら、どうすればこの少女を元気づけられるかを必死で考えてい
た。
 そして、何もできない自分の無力感に歯噛みしたいほどの気分が
押し寄せた時、初めて悟った。
 この子は、一人なんだ。自分がこの時代でたった一人だったよう
に。
 やがて、はな子の下宿の前まで来ると、緑は自分から身体を離し
た。
「・・・本当に、ごめんなさい。もう、落ち着きました」
 その声が、心なしか揺れているように感じた。
「うん、ゆっくり寝た方がいい。明日は、休んだら。自分から工場
長に言っておくよ」
「でも、」
 考えるように首を傾げてから言った。
「…ええ、やっぱり、お願いします。すいません」
 そして、深く頭を下げた。
「いいよ、それくらい簡単だから」
 大きく頷いて見つめると、今度は自然に微笑んだ緑の瞳が、深く
強い輝きを返した。
 そして、その輝きが、胸の奥を激しく揺り動かす。
「おやすみなさい」
 踵を返して木戸をくぐろうとした背中が、愛しかった。
「緑さん」
 自然に口が動いていた。
「はい」
 お下げの頭だけが振り向いて、玄関の敷居の上から見下ろす形に
なった。
「ほら、日曜日の映画の約束、悪かったから」
「・・・はい」
「だから、今度の日曜、ちょっと遅くなるけれど、食事でもしよう」
 緑は微笑んだ。今まで見たことがない大人びた笑みだった。
「ありがとう。仕事の方は大丈夫なんですか」
「大丈夫だよ。じゃあ、おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
 晴れ渡った星空の下で、緑の声は限りなく澄んで聞こえた。

 自分の下宿へと取って返す間、気持ちの整理をつける方策が見つ
からなかった。
『考えてみれば、君の予感が正しかったんだな』
 研究室で木元は、予知通りに緑と出会ったことを告げた広輝に言
った。
『あの時、君の言葉にもっと真剣に耳を傾けていればよかった。ほ
んとうに、すまなかった』
 あの時、美奈が危惧したように、木元の実験に首など突っ込まな
ければ・・・。
 何度も思い返した気持ちが再び蘇りかけたが、全てが予定されて
いた運命にも思えた。あの少女と出会えたこと自体が、かけがえの
ない時だったのではないか。
 しかし、それでも自分は、もうすぐ混乱に巻き込まれていくであ
ろうこの時代を捨てて、2001年に戻るのだ。
 それは、2年前のあの時、初めて還る場所を見出させてくれた少
女に会うためでもある。
 片側に混乱と暗い時代へと落ちていく時間の流れ、もう一方には
安逸の中、希薄になって生きていく虚しさ。
 いったい、俺は何をしようとしているのだろう。
 いや、何を求めて生きようとしているのだろう。
 わからなかった。考えたくなかった。
 ずっと思っていたはずだった。人間など、どう生きようと結局同
じなのだ、と。殆ど全てが歪み、醜く崩れ落ちていくだけの世界な
のだ、と。
 今、間違いだったと認めるしかなかった。
 俺は、自ら道を定めて生きることから逃げていただけだったんだ。
 激しい自己嫌悪が襲ってきた。しかし、もうそれを追う気力もな
く、狭い下宿の中で、広輝は眠りに落ちた。

扉ページに戻る 前節へ 次節へ