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 考える糸間もなく、暦は日曜日を数えていた。
 休日出勤が終わった夕刻、一着しかない灰色の背広を着た広輝は、
カフェーの丸いスチールテーブルを挟んで、緑と向かい合っていた。
 繁華街のはずれにあるこの小さなカフェーは、まだ統制が厳しく
なる以前、広輝がたまに訪れていた場所だった。
 カフェーと言っても、女給さんもいない簡素な店だった。狭い店
内では、ロココ調の飾り棚の上に置かれた蓄音機から、女性の歌う
ブルースが響いている。
「蓮見さん、カフェーになんて行ってたんですね」
 緑が身に纏っているベージュのワンピースは、はな子から借りた
ものだった。初めて目にする洋装。しかし、結い上げた髪の下の秀
でた額と紅潮する頬、目尻のはっきりした瞳、そして快活そうに言
葉を紡ぐ唇は誰もを魅きつける力を持っていた。
「なんて、ってことはないんじゃないか。自分くらいの年齢の男な
ら、一度は行ったことがあるだろ」
 目を少し逸らしながら言った。黒い瞳を見ると、引き込まれてし
まいそうな気さえする。
「自分くらい、って、蓮見さんっていくつなんですか」
「内緒だよ」
「もう」
 緑が少しすねたような表情を浮かべた時、Yシャツにベストを着
たマスターが、オレンジ色の液体の注がれたタンブラーと、ビール
ジョッキをテーブルの上に置いた。
 オールバックの髪の下の細い目が、ちらっと緑の方を見た。広輝
は小さく頷くと、目で許諾の願いを伝える。
 少し迷ったように口元が動いたが、マスターはそのまま踵を返し
てカウンターの中に戻った。
 こんな場所に、同伴で、しかも緑のような未成年の女性を連れて
くることの意味は、よくわかっていた。
「これ、やっぱりお酒ですよね」
 食後に頼んだカクテルを指差して言った。
「そうだよ。緑さん、さっき自分ではたちだって言ったじゃない」
「う、うん」
 言って、グラスに口を付けた。
「あ、おいしい・・・」
 広輝もビールを喉に流し込んだ。嬉しそうに再びカクテルを口に
する姿に、胸の中に込み上げる愛しさが止まらない。
「大丈夫?結構入ってると思うよ」
「大丈夫ですよ、これでも、小さい頃から鍛えられてるんですから」
「さすが、東北出身だね」
 もう半分ほども飲み干してしまうと、緑はへへへ、と笑った。そ
して、ゆっくりと店の中を見渡してから、テーブルの上に両肘をつ
いて、顎を乗せた。
「・・・田舎から出てきた子の中にも、こういうカフェーで女給さ
んをしてる人もいるんですよね」
「うん・・・」
 目を閉じると、緑はしばらく黙っていた。
 広輝はその表情を見ながら、この少女をこんな場所に連れてくる
ことが、いったい何のためになるだろうかと自問していた。
 少しでもいい記憶をこの子に・・・、ぼんやりと思った瞬間、そ
うではないことがすぐにわかった。
 理屈なんてない。俺が、この少女とここにいたかったんだ。
「あ〜あ、小さい頃は良かったなあ」
 誰に言う風でもなく呟くと、目を開いた。濁りのまったくない、
森深い泉のように澄んだ色だった。
 突然、胸の奥で強い動悸が始まり、再び目を逸らした。
「蓮見さんって、不思議な人。時々、思うんですよ。まるで、宮沢
賢治さんの童話の主人公みたい。今、ここにいるのに、全然別の場
所で考えているみたいなんだもの」
 広輝は軽く笑った。
「・・・そんな大層なものじゃないよ。戦争にも行けない、情けな
い不具者だよ」
 緑は、勢いよく残りのカクテルを飲み干した。
「いいじゃないですか。兵隊になんて行けない方が、絶対に幸せで
すよ」
 少し大きな声を出した事に気付いて、緑は反射的に辺りを伺った。
店内には、一番奥のテーブルに中年の男が二人いるだけで、他には
客はいなかった。ほっとしたように視線を戻すと、頬に手を当てて
言った。
「やっぱり、ちょっと酔ったみたい。おかしいなあ、これくらい子
供の頃から全然平気だったのに・・・」
 広輝は、頬の赤らんだ緑を横目に、柱時計に目をやった。黒く尖
った針は、8時を指していた。
「さ、そろそろ帰ろうか」
 10時には神社にいかなくてはならなかった。
「明日もあるし」
「う、ん」
 少しよろめきながら、緑は腰を上げた。
 席を立って、狭いテーブルの間を縫うようにして歩き、代金を払
おうと財布を出した。
「南京ももうすぐだな」
 その時、奥のテーブルから声が聞こえた。
「そりゃ、落ちるだろうけどよ、チャンコロは何するかわかんねえ
からな。人の肉を食っちまうって話だぜ」
「ありそうな話だぜ、あいつら、飢えてるからな」
 広輝の斜め後ろに立っていた緑が叫んだ。
「そんな話、しないでよ」
 五分刈りの男は言葉を止め、もう一人の真ん中で髪を分けた男も、
釣り上がった目を見開いた。
 札を受け取ろうとしていたマスターも緑を凝視している。
「釣銭、いいですから」
 広輝はすばやく言うと、抱きかかえるようにして店を出た。後ろ
を振り返りながら小路に入り、大通りを抜けて再び街外れへの道へ
と曲がる。
 まだ夜も更けきらない街角で、洋装の若い2人は目を引いたが、
広輝は気にせず緑の腰に手を掛けて、下宿街への道を急いだ。
「・・・ごめんなさい」
 人気のない狭い路地へ入った時、うつむいたまま緑は言った。
「でも、静さんも、キヌちゃんも、はなさんも、澪さんも、みんな
お金があって、食べ物があれば死ななかったのに」
 溢れだそうとする気持ちを留めるように押さえた声は、やがて問
い詰めるような強い調子に変わっていた。
「なで、わだすだげ生きとって・・・。戦争なんていらん。戦わず
ども、幸せさなれるだべに・・・。こたっだうえ、広い国なんてい
らん。人ば殺めるに、少ねえ金さ使うだったら、みなに分けりゃい
い・・・」
「わかるよ・・・」
 緑の下宿の前まで来ると、道向かいの生け垣に囲まれた民家の玄
関に、たくさんの人が出入りしているのが見えた。柱に大きく墨書
された「出征歓送」の文字。
 広輝は緑の腕を自分の肩に抱えると、辻の植え込みの影に身を隠
した。
 ・・・これでは、下宿に入るのは無理だ。
 仕方なく、自分の下宿への道へと歩を進める。ほとんど持ち上げ
られるような格好になりながら、緑の独白は続いた。
「わだす、賢治さんみたく、なりたかった。人さ夢あげて、生きる
力与える詩さ、残したかった。ども、なんもできんかった。くたび
れて、くたびれて、そだけで・・・・」 
 後は聞き取れなくなって、寝息が続いた。軋む下宿の廊下を、引
きずるように緑の身体を運び、何とか部屋の狭い床の上に横たえた。
 茶褐色になった掛け布団を、静かにベージュのワンピースの上に
掛けた。
 眉根は寄り、時折息が乱れる、少し苦しげな寝顔だった。
 広輝はYシャツの袖で汗を拭うと、座り込んだまま緑の姿を見詰
めていた。
 そして、目を閉じた。
 東北の寒村に生まれ、東京へ身を売られ、ようやくここまで生き
てきたこの少女。身寄りもなく、ただ自分の力だけで、生きること
を選んできたに違いない。
 きっと自分は、緑の支えなのだ。そして、それを知りながら、今
去ろうとしてる。
 机の上の錆びた置き時計は、もう9時近くを指していた。
 緑さん、それでも俺は、行かなければならない。自分にとって唯
一人の女性が待っているから。そして、そこが自分の生まれた時代
だから・・・。
 広輝は畳に頭を擦り付けるように、深々と礼をした。
 そして、再び寝顔を覗き込むと、寝息はさっきよりずっと穏やか
なものに変わっていた。
 布団の端から出た、細い手に両手を添えると、小さな声で告げた。
「さようなら、緑さん」

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