5

 数十年の時を隔てて、再び二人は『神隠しの場所』の中央に立っ
ていた。
 黒い背広を着た木元は、杉の切り株の上に腰を下ろして、あの時
代より一層欝蒼と立ち並ぶドーム状の木々を見上げていた。
 月の光もほとんど届かない社の林は、暗闇の中で張り詰めた空気
を湛えていた。
 広輝は目を閉じて、無言のまま木元から2m程の場所に立ってい
た。
 今は何も考えたくなかった。もうすぐ、時計の針は10時30分
を指す。ただ、その瞬間だけを待っていたかった。
『ヒロ、信じてる。また会おうね』
 美奈の声がよぎった。意識の中の声に応えるように、目を開ける。
「時間だ」
 木元が低い声で言うと立ち上がった。広輝はゆっくりと窪地の中
央まで歩むと、無言のまま、直径1mほどの黒い石の上に立った。
「さっき言ったこと、できれば吉川教授に伝えて欲しい」
「ああ」
 木元の手が、印契を結び始めた。
「木元さん・・・」
 太い眉の下の目が、穏やかに肯いていた。
「・・・何も言うな」
 目を閉じると、身体の奥底から込み上げる感覚。
「ホウ、シャ、ソワ、ソタ・・・・」
 そして、2年前のあの日と同じ、円形の空間が開いた。
 軽く身を躍らせた瞬間、全ての音が一瞬消え去った。そして、ト
ンネルを猛スピードで逆行するように、景色が小さくなって行く。
 今度は、以前のような衝撃はどこにもなかった。
 そして瞬きする間もなく、広輝はまったく違う場所に立っていた。

 あの日から四ヶ月が過ぎた。毎朝二つ上の階まで上がり、その部
屋を確かめてから駅へと向かうのが、美奈の習慣になっていた。
 春は盛りを迎え、八階から見下ろす密集した街並みにも、芽生え
の息吹を伝える風が吹き込んでいた。
 今日も茶色のドアの向こうに変化はなかった。
 振り向いた黒い髪は、いつのまにか肩を隠すほどに長く伸びてい
た。
 肉厚の唇を尖らすと、短く息を吐く。
 鍵を締めて、紺のブレザーの背に、モスグリーンのナップを背負
った。左手に持ったポーチを何となく開けて、携帯を取り出す。
 カラフルなストラップに混じって、透明なアクリル版に挟まれた
小さな写真が目に入る。
「ヒロ・・」
 小さく呟いた時、右手奥のエレベーターが、到着の電子音を鳴ら
した。そして、襟の異様に大きな、灰色の古びた背広姿の男性がエ
レベーターホールから姿を現した。
 美奈の目が、大きく見開かれた。
 面長の顔、伏せられた瞳、結ばれた薄い唇。それほど大きくはな
い、細身の体。左足を引き摺るように歩く姿に、ナップとポーチを
投げ出して駆け寄った。
 見上げた瞳が、美奈の姿を捉えると、唇が言葉を形作った。
「美奈」
 固く抱き止めた首筋に、大きな傷。そして、うなじに混じるわず
かな白い毛。
 美奈は何も言わずにただ、古びた背広の背中に腕を廻していた。
 そして、広輝も。
 二人は朝の光の中で、時間を止めて抱き合い続けていた。

扉ページに戻る 前節へ 次節へ