第三章
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 今日も広輝は、指定席になった書架のすぐ脇の閲覧机で数冊の本
を重ねて、頁の上に目を配っていた。
 一ヶ月前に戻って以来、自分に関していろいろな噂が飛び交って
いるのは知っていた。
 曰く、登校拒否、家出、駆け落ち、あげくは鑑別所に行っていた、
というものまで。
 美奈から連絡を受けて現れた母も、一度は強く叱責しかけた。し
かし広輝の姿を見ると、その原因の容易ならざる事を推測したのか、
深く理由を問うことはしなかった。
 出席日数が足りなくなった事で、留年することにもなったが、広
輝はそれら全て、そう重荷に感じることはなかった。
 閲覧机の上に大判の本を置くと、大正時代から昭和初期にかけて
の、華やかに着飾った人々が行き交う繁華街の写真を眺めていた。
 自分がいた1937年から、わずか十年足らず以前の風景だと言
うのに・・・。
 世界恐慌と、政治的抑圧、時代への関心を失って行く人々。そし
てあの、自由に口を開くことも憚られ始めた時代へ。
 今では、六十年以上を隔てた時代には到底思えなかった。それど
ころか、この一月、再びここで暮らして思うこと。広いようで狭く、
華やかなようで空虚な、不思議なほど似た匂いと色合い。
 この時代のために、自分は何ができるだろうか。
 一歩ずつ、歩き始めたいと強く思っていた。そうでなくてはあの
人達に済まない。いや、自分の生きていく意味がない。
 今、あの時代に残った木元の気持ちがよくわかった。
 モノクロのグラフから目を離すと、放課後の図書室を眺めた。
 大きな閲覧机が六脚、座る学生もなく佇んでいる。
『吉川教授に謝っておいて欲しい。自分は、馬鹿でした、と』
 別れの前に告げられた言葉が自然に思い出された。あの時木元は、
おそらく吉川教授は、時間跳躍が可能であることを既に知っていた
に違いない、と言っていた。
 この時代に帰還して以来、研究所からも何度か、広輝の来訪を求
める電話や手紙が届いていた。
 でも、今はもう少し考えたい。自分の中で、全ての事が形を取る
まで・・・。
 心の中ではっきりと言葉を作った時、背中に気配がした。そして、
すぐに細い腕が二本、首から胸へと廻される。
「ヒ〜ロ。また勉強?」
 ミントの香りが鼻に届くと、肩の上に乗せられた顔から、耳元に
温かい息が届いた。反射的に辺りを見回してしまってから、もうそ
んな必要がないことを思い出した。
 美奈はすぐに身体を離すと、広輝の隣の椅子に腰掛けた。紺のブ
レザーの両肘をつくと、顔だけをこちらに向けた。広輝が戻ってか
らまた短く切った髪が、額と頬にパラパラと掛かっていた。
「ほんと、勉強家になったよねぇ。うわ、相対性理論と量子物理学、
だって。よくこんなの読むね」
「いや、その本は俺も正直、何が書いてあるのかわからん」
「だよね。物理は赤点だから、広輝君は。さ、もう帰らない?そろ
そろ閉館だと思うよ」
「そうだな」
 書架に本を戻して、小雨の降る窓の外を見渡しながら、二人並ん
で閲覧室の階段を下りる。
「お母さん、もう行っちゃったんでしょ」
「まあ、随分長いことマンションにいたからね。道孝さんの所に行
きたかったと思うよ」
「そりゃ、自分の息子だもん。少しくらい無理するよ」
 そして、唇を尖らせると、鼻から息を吐いた。
「ヒロって、妙に大人なとこ、あるんだよね。わたしだったら、き
っと思いっきり反抗してると思うな」
 足を引き摺って歩く自分に合わせるように、後ろ手に持ったポー
チを揺らしながら、ゆっくりと足を運ぶ美奈。あの日から一ヶ月、
何があったのかを問い正そうとしたことは一度もなかった。
 ただ毎日、こうして何げない会話をしながら、帰り道を共にして
くれる。
 今は黙って丸い瞳を伏せがちに歩いている横顔を見つめると、未
だ夢のように感じる。2年の年月を隔ててなお、こうして当たり前
のように肩を並べている・・・。
 沈黙が続いたまま校門に差し掛かった時、美奈の閉じていた唇が
動いた。
「うん」
 そして、背負っていたベージュのナップをおもむろに肩から外す
と、紐を解いて中に手を入れた。
「・・・どうした?」 
「やっぱり、返そうと思って」
 真っ直ぐに広輝の目を見つめる。そして、桜の木の下で立ち止ま
ると、ゆっくりとグレーのハードカバーを取り出した。
 『1930年代からの遺言』・・・。
「ヒロがいなくなる前に、借りてたでしょう。ずっと、返さなくっ
ちゃとは思ってたんだ」
 表紙に刻まれた銀色の文字。過去と現在の記憶が入り交じって、
しばらく本を見つめていた。
『さようなら、わたしのあなた』
 緑さんの、声?
 無言のまま本を受け取った広輝を、少し悲しげに口を窄めて、美
奈は見つめていた。

 夕食をとって、風呂に入った後、デスクに向かった。ライトを付
けて、本にゆっくりと手を掛ける。自然に、癖になった巻中のモノ
クロ写真の頁が開いた。
 出征を見送る人々の写真、特攻服を着た日の丸鉢巻きの若者、東
京大空襲の焼け野原。様々な写真の中に、お下げの少女が木造の家
を背後に、微笑みながら立っているスナップがあった。
 小さなモノクロ写真。しかし、広輝はその場所を天然色で思い浮
かべることができた。
 写真の上を、指でゆっくりとなぞった。吐く息が自然に震えて、
目を固く閉じた。そしてもう一度、緑の姿を目に映した。
 端の折られた場所を開いて詩を読もうと思った時、紙が捲れて、
次の頁が自然に目に入った。
 わずかな記憶が脳の奥から蘇り、息が苦しくなる。
 ・・・そうだ、この本には掲載された人達のプロフィールが書か
れていたんだ。
 広輝は、既に瀬川緑のプロフィールを目にしていた。忘れていた
二年前の記憶が、凍り付く感覚とともに、背中を突いて歯を食いし
ばらせた。
 囲みの中には、こうあった。
  1920年、東北の寒村に生まれる。
  1935年、東北大凶作のさなか、身を売られて東京へ来る。
  1936年、このころから紡績工場に勤める傍ら、日記に詩を
書く。
  1937年、本書収録の詩を書く、恋愛詩も多い。しかしその
頃、検挙され、獄死。十一月だった。
彼女に政治的意図があったとは考えにくい。下宿先の書店が検挙
され、同時に発表を始めていた同人誌も「アカ」との烙印を押され
たが、彼女の詩はもっぱら若々しい気持ちを大らかに歌ったもので
あり、優しさにあふれている。また、共産党などとの繋がりはまっ
たく見当たらず、当時の公権力の場当たり性がここにも現れている。
このような詩までが、「共産主義」的、あるいは「反国民的」と見
なされ、一人の無垢な少女を死に至らしめた事実を忘れてはなるま
い。
 2年前にはほとんど読み飛ばしていた文章の一行一行が頭に焼き
付いていく。
 1937年、11月。あの時から、わずか一ヶ月の後だ。
 そして、獄死・・・。なぜ?
 本が映っているはずの目には、何も見えなかった。どうやっても、
焦点が合わない。
 あの時、できる限り意識から遠ざけた、『死』。しかし、時代に
別れを告げたその時、既にすぐ後ろにまで黒い影が迫っていたのだ。
 緑の死は、簡単なものではなかったに違いない。
 一ヶ月の間に得た知識が、獄死とは何かを告げていた。
 栄養失調?病?拷問? もしかしたら、自殺でさえあるかもしれ
ない。
 ・・・なぜだ、彼女はただ、幸せになることを、しかも自分より
むしろ、他者が幸せになることを何より望んでいたはずだ。
 その問いに、意味がないことはよくわかっていた。
 それが、あの時代なのだから。
 広輝は、短く刈られた髪に手を当てて、掻き毟った。そして、両
の拳でデスクを激しく叩く。そして、低く押し潰したうめきが果て
ることなく口から漏れ続けていた。

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