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 二人は今、研究所の前に広がる、大きな公園の前を歩いていた。
『その、吉川教授って人の所へ行こう。いろんな事は、それから考
えればいいよ』
 研究所へ行こう、と先に言ったのは美奈だった。
 目を閉じることさえできなかった苦しい夜の後、その胸の内を明
かすことができる存在は、美奈の他には誰もいなかった。例えそれ
が、彼女を苦しめることになっても。
 一言一言が、鉛のように重かった。こんな風に衝かれるように話
すのは、望んだ形ではなかった。
「ありがとう、ヒロ。よくわかったから」
 美奈は、全ての話が終わった後、静かな声で言って頷いた。今ま
でほとんど目にしたことのない、何かを深く追い求めているように
引き締まった表情だった。
 そして数分の沈黙の後、『このままにしちゃダメだよ』と強い調
子で言ったのだ。
 前面が巨大な温室の様にガラス張りになった、流線形の建物が2
00mほど先に見えてきていた。
「凄いねえ、なんかテーマパークのアトラクションみたい」
 ネイビーのプリントシャツに、裾をロールアップしたえんじ色の
パンツを履いた美奈は、軽く羽織ったブルゾンのポケットに手を突
っ込んで、ゆっくりと歩いていた。
 着崩した茶のキルティングジャケットをグリーンのシャツの上に
羽織った広輝は、美奈を視界に入れながら斜め後ろに続く。
 近付いてくる研究所を見上げると、木元とこの前庭で会ったのが
昨日のことのように思える。でも、それより・・・。
 少し先に立って、円形の自動ドアをくぐっていく美奈の気持ちが
わからなかった。あんな途方もないことを全て受け入れてくれた上
に、話すのをためらった緑とのいきさつを一番熱心に聞いていた、
意図の読み取れない瞳の色。そして、今、研究所を見回しながら歩
んでいく軽い足取り。
 受け付けに吉川教授への取次ぎを頼んで、ロビーのチェアーで待
つ間も、吹き抜けになった広大な空間を見上げながら、「熱帯植物
園が作れそうだね」などと、ふざけた感じで話し続けていた。
 取り留めのない話に相づちを打ち続けていた時、螺旋階段を下り
てくる白衣の姿が見えた。
 中肉中背の50がらみの男性は、足早に近付いてくると、手を差
し出した。
 白いものが多い整えられた髪の下で、フレームのない眼鏡の奥の
細い瞳が、柔和に光った。
「ひさしぶりだね、広輝君。それに、」
 美奈の方を見ると、大きな口でにこやかに笑った。
「宮沢美奈さん、でしたね。はじめまして」
「はじめまして、教授」
 美奈も、愛敬たっぷりの口元と丸い瞳で吉川教授に微笑んだ。
「さ、私の研究室に来てくれるだろう?」
 かつて抱いていたのとは全く異なる、優しげで温和な立ち振る舞
いだった。
「はい」
 広輝は肯くと、奥のエレベーターへと案内する吉川教授の後に続
いた。

 「そうか、やはり木元君と君は、時間を跳躍したんだね」
 三人のいる吉川の部屋は、大研究所で大きな部署を任されている
教授にしては簡素なもので、三つばかりのデスクに、二台のコンピ
ュータと幾つかの機材が並んでいるだけの狭いものだった。
「半年前に、木元君が失踪した時から疑ってはいたんだ。君を巻き
込んで何か危険なことをしたのではないかと」
 そして、黒い肘掛け付きのチェアーに座っていた足を揃えて、広
輝に深々と頭を下げた。
「私からも深くお詫びしたい。本当に、申し訳なかった。木元君の
性格から考えれば、こういう事態になる前に、本当のことを話して
おくべきだったんだと思う」
 吉川は、少し難しいかもしれないが、と前置きした後で、二人に
告げた。
 そもそも、時間を超えることはできない事ではないのだ、と。
 重力異常など、素粒子の流れが非常に滞った場所か、相当に強い
超心理的なエネルギーを使いこなせる人間、あるいは二つの要素が
弱いながらも組み合わされば、簡単とはいかないまでも可能なのだ。
 目に見え、手に触れる物理的な実在の後ろに流れる、精神の側面
とも言える暗在系の扉。時間も合一化しているエネルギーに満ちた
その場所を経由すれば、理論的には何億年の過去でも、或いは未来
でも、行き来することができる。
「木元君の考えた時空間の様相は、基本線では正しいと思う。ただ
わたしは、時空を無理にモデルとして提示するなら、『過去』も
『未来』も同義で、果てのない立体の織物の様になっているのでは
ないかと考えているんだ」
 吉川は、小さなホワイトボードに簡単な図を書きながら説明した。
 そして、精神或いは『こころ』の流れが、綾なされた糸の中で、
太い糸を作り出す。それが、今我々が体験している歴史の流れなの
ではないか、と。
「時間跳躍はできる。しかし、時を超えた人の意識や、その後の経
験次第で、元の世界に戻れなくなる可能性が大きい。そして、常に
揺らぎを持つ精神を物理的手段で確実にコントロールする手段がな
い以上、本質的にそういった類の、不確定な現象だと言えるんだ」
 美奈は、少し下唇を突き出して、眉根を潜めると広輝の方を向い
た。
「・・・難しいよ。半分もわかんない」
 広輝もうなずいた。でも、そうなると、自分がこの世界に戻って
きたと言うのは、かなり希有なことになるのではないだろうか。
「・・・そうすると、やっぱり時間というのは、無限に分岐してい
ると言う事になるんですか」
 吉川は首を横に振った。
「平行宇宙論だね。それは正直、私にもわからない。ただ、そうい
う風に考えるより、時間も、空間も、本来は合一で、今ここにある、
と考えた方が当たってるのかもしれないと思う時もあるよ」
 言って、自分の胸の辺りを指した。
「あ。それって、心とか想いとかは、距離とかを超えちゃうってこ
とですか」
 美奈が言うと、吉川は皺の多い顔に似合わない満面の笑みを浮か
べて頷いた。
「そういうことだろうね。歴史も無限に分岐しているようで、精神
いや・・・、この場合生命とか実在とかいった方がいいのかもしれ
ないが、そういう側面ではひとつのものなのかもしれない。さ、一
緒に来てくれるかい。案内したい場所があるんだ」
 立ち上がった吉川は、部屋のドアを開くと二人を促した。顔を見
合わせて後に続くと、さっき上がってきたものとは違った小さなエ
レベーターに乗り込んだ。
 B8と書かれたボタンを押すと、ガクンと揺れながら降下を始め
た。
「もう最後になると思うから、君達に見せておきたいんだ」
 エレベーターを下りると、粗削りなコンクリートの壁に囲まれた
通路が真っ直ぐ伸びていた。そして、1分ほども歩いた突き当たり
で、大きな鉄扉が行く手を塞いでいた。
「この先が、実験施設だよ。来月、閉鎖する予定だけどね」
 カードキーを脇の読み取り機に掛け、タッチパネルでコードを入
力すると、如何にも簡単に重そうな鉄扉が左右に開いた。
 ・・・水だ。
 扉の先、チューブ状になった通路は分厚いガラス張りになってお
り、頭の上から、踏みしめる足元まで、視界の及ぶ全てが水で満た
されていた。
「さあ、ここだよ」
 ドーム状になった空間に案内される。直径10mほどの球体もま
た、透明なガラスで作られており、直径部分に張られたやはり透明
な床の中央に、幾何学的な立体でできた部屋のようなものがあった。
「凄いね・・・。水の中に立ってるみたい」
 美奈が足元を見下ろしながら呟いた。良く見ると、ピラミッドを
上下に組み合わせたような中央部の部屋を中心に、小さなアクリル
坂のようなものが数十個、球を形作るように配置されていた。
 吉川は、部屋の前に立つと振り向いた。
「ここは、この研究所に先立って作られた施設なんだよ。時間跳躍
の可能性を証明するために」
 そして、自嘲気味に口の端を歪めた。
「・・・結果は、数人を帰還不能にして終わった。そして、その後
で始めたのが今の研究だ。時を超えるのが無理なら、せめて情報だ
けでも、と。だが・・・、」
 美奈が悲しそうに吉川を見やるのがわかった。
「それも意味のないことだった。私もまた、馬鹿だったのかもしれ
ないな。時間のように捉え所の無い物を手に掴めると考えたのだか
ら」
「でも、無駄じゃなかったんですよね」
 広輝より先に、美奈が口を開いた。吉川は、柔らかく微笑んだ。
「ああ。君らにもこうして、手に負えないものに挑む人間の愚かさ
と、同時にかけがえのない特質を見せることができたしね。さ、行
こう」
 吉川が再び二人を促して、水に囲まれた実験施設を出ようとした
時、美奈が立ち止まった。
「美奈」
 広輝が振り向くと、唇を結んで下を見詰めていた美奈は、顔をぐ
いっと上げた。そして、細い眉の下の丸い瞳が吉川の方を強く見つ
めると、思いがけない一言を発した。
「吉川教授、今でもこの施設は使えますか? 例えば、広輝君だっ
たら、時間を超えることができますか」

 長い夜になった。
 部屋のベッドの上には、美奈の張りのある身体が横たえられてい
た。
 幾度かの柔らかいキスの後で、舌の絡まりあうような激しい求め
合いが続いた。
 街の明かりだけで照らされる中で、紅潮した細身の身体が眩しか
った。帰ってきてからベッドを共にする度に、今初めて美奈と心か
ら愛し合えるようになったのではないかと感じていた。そして今夜
は、その想いを更に深くする瞬間だった。
 幾度もの昂まりが通り過ぎ、流れる汗と結びつきの痕跡を残して
横たわった身体に、春の風が涼しかった。
「今日のおやじさん、面白かったな」
 言うと、美奈はふふふ、と笑った。身に何も纏わずうつ伏せにな
ると、組んだ両手の上に頭を乗せて広輝の横顔を見つめていた。
「おかしなことは、やめろよ。だもんね」
 強引に広輝の家に泊まることを主張した娘に、大工の棟梁も、普
段の厳格さが形無しの動揺ぶりだった。
「あれでも結構ヒロのこと、認めてるんだよ。お父さんは」
「そうかな・・・。俺は、おっかないだけだけどね。兄貴を含めて」
 美奈はキャハハハ、と笑うと、広輝の裸の胸に腕を掛けた。
「二人とも、ヒロのとこが両親不在でやってること、知ってるから。
お父さんも、一人でここまでやってきた人でしょ。だから、ね」
 広輝は天井を見つめて息をついた。ずっと訊きたかった言葉がな
かなか口にできない。
「な、美奈」
「なあに」
 胸に掛けられた細い腕に手を添えると、ゆっくりと口を開いた。
「・・・どうして、もう一度あの時代に行けるか、なんて聞いたん
だ?」
「うん」
 広輝は、美奈に視線を向けることなく、声だけに耳を澄ましてい
た。
「ほんとはわたし、ヒロが戻ってきた時に、あの本を返そうと思っ
てた。でも、思い切りがつかなくて。だって、半年前に行方知れず
になった時、珍しく本なんて読んでるなって思って。だから、あれ
を返したら、もう一度同じ事が起こるような気がしたんだ」
 一度言葉を止めると、身体を広輝の方に寄せた。
「でも、この間、全部のことを聞いたから。・・・わたし、ずっと
気付いてた。ヒロ、本当は生きてるのがつらいんだな、って。でも
結局、わたしには何もできなかったから。
 緑さんは凄いと思う。戻ってきてから、ヒロがすっごく前を向い
てるの、思いっきり伝わってきたから。緑さんの詩は何回も読んだ
し、少しはどんな人かわかるんだ。きっと、彼女がいたから、ヒロ
は今みたいになれたんだと思う。
 わたしは、今のヒロが好き。辛いこと、あったと思うけど、今の
方がずっと好き。だから、緑さんを助ける方法があるなら、試して
欲しい。この間話してくれた気持ち、そのままにしたらきっと、ま
た生きるのが辛くなると思うから・・・」
 広輝は目を閉じた。美奈の想いが深く、心の中に染み透っていく。
「美奈。ありがとう。でも、俺も言っておくよ。美奈が、何もでき
なかったなんて、絶対に間違いだ。きっと、今までも、そしてあの
時代でも生き抜けたのは、美奈がいたからだと思う」
 そして、顔を横に向けて美奈の目を見詰めた。澄んだ瞳に、流れ
る涙が見えた。
「好きだよ、美奈」
 鼻をすすると、明るい声で美奈は言った。
「吉川さん、言ってたよね。心が時の太い糸になるって。だから、
ヒロは絶対戻ってこれるよ。なんたってわたしがいるんだから」
「自信過剰」
 からかうように言うと、美奈は少し真面目な声になって言った。
「でも、ヒロ。信じてる。また会おうね」
 そして二人はもう一度キスをした。

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