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 地下施設の水に満たされた眺めが消え去った時、広輝は街外れの
広場に立っていた。
 古びた灰色の背広を軽く直すと、繁華街の方へ向かって歩き出す。
 そこは間違いなく、あの時代の眺めだった。軒の低い家々と、広
い空。ゆっくりと行き交う人々。
 時間跳躍は滞りなく成功したのだ。
 看板の立ち並ぶ店先で市電を待つ紳士に日時を尋ねると、11月
2日だと言った。
 十月末から前後一週間。吉川教授の計算に間違いはなかった。
 しかし、既に暦は11月に入っている。
 プロフィールの頁が記憶に浮かぶ。はな子の元書店兼下宿が調べ
られるのは、この11月の内だ。
 足を引き摺る音も気に留めず、歩く速度を上げて下宿街を目指し
た。
 間に合ってくれ。
 繁華街から曲がる狭い路地を曲がり、砂利道を歩きながら、下宿
の佇まいがそのままであることを祈った。
 時刻は夕方から夜に差し掛かり始めていた。角の家の生け垣を過
ぎて、細長い木造2階建ての下宿が見えた時、広輝は安堵のため息
をついた。
 裏口の戸をやや激しく叩くと、応答を待った。
 やがて、ガタガタと中で動く音がした。木の引き戸が半分開けら
れ、髪をひっつめにした中年の女性の顔が覗く。
 大きな目が一瞬、広輝の姿をまじまじと見つめたが、やがて驚き
の叫びに取って代わった。
「広輝君!」
「久しぶりです、おばさん」
 ほっとしながら割烹着姿を見下ろすと、奥の廊下が激しく軋む音
が響いてきた。そして、忘れもしないその姿が飛び込んできた。
「蓮見さん!」
 はな子を押しのけるように間口をくぐった作業服姿の緑は、勢い
よく広輝の首筋に抱きついた。
「あらあら・・・。まるで映画みたい」
 すぐに身体を離すと、恥ずかしそうにうつむいた。
「ごめんなさい。今、仕事から帰ったばかりで・・・。おばさんの
声が聞こえたものだから」
 広輝は首を振った。
「広輝君、いったい、何処に消えてたの? 急にいなくなってから
この半月、いろいろ聞かれて大変だったのよ」
「すみません。ご迷惑を掛けたことは心からお詫びします」
 頭を下げてから、すぐに言葉を繋いだ。
「それより、今は、して欲しいことがあるんです」
 切羽詰まった調子の言葉になってしまう。
「・・・どうしたんですか、蓮見さん」
「おばさん」
 一歩はな子の方に近づくと、辺りを覗いながら小声で言った。
「書店の中に、警察に見つかって不都合なものはありませんか。例
えば、プロレタリア文学とか、赤旗とか」
 はな子は、急に引き締まった表情になると、広輝を見つめた。
「・・・少しは。でも、見つかるような場所じゃないけれど」
「だめです」
 強い調子で言った。
「今すぐ、全て処分して下さい」
「もしかして・・・。警察の手が入るの?」
 広輝は目だけで頷いた。緑も強張った表情になると、下宿の中に
素早く姿を消した。
「僕も手伝いますから。手早く裏庭で焼いてしまいましょう」
 下宿の中に入ろうとした時、はな子は振り向いた。
「広輝君、まさか、このことのために?」
 再び緑が自分の部屋から飛び出してきた。その手には、何冊かの
ガリ版擦りの同人誌が握られている。
「これ、もしかすると」
 秀でた額の下で、切れ長の瞳が不安げに広輝を見上げた。
『無産階級文学』、『労働者詩集』、いくつかの文字がすぐに目に
留まった。そうか・・・。
「最近、同人誌に寄稿を始めたんだよね。それが、この雑誌?」
「どうして、それを・・・」
 言葉を発しかけて、緑は視線を落とした。そして、首を振る。
「これは、同人誌を紹介してくれた方がくれたものです。まだ、読
んでもいないんですけれど」
「・・・そうか。なら、それも燃やそう。いい?」
 早口で言った広輝に、無言で緑はうなずいた。続いてはな子も、
手に本と雑誌の束を持って現れた。
「これで、全部だと思うけれど」
 広輝は、全ての本と雑誌をまとめると、庭木に囲まれた裏庭に向
かった。辺りを覗いながら枯れ葉と木を寄せ集める。そして、如何
にも落ち葉たきをしているように振る舞いながら、本を火にくべて
いった。
 後ろに立ったはな子が、小さく赤い光を散らしながら燃え尽きて
行く本の残骸に視線を落としていた。全てが灰になると、落ち葉と
混ぜ合わせて痕跡を消した。
「終わりました」
 広輝が短く告げると、はな子は呟いた。
「こうやって本が燃えると、もっと大事なものも燃え去っていく気
がするわね・・・」

 事が終わったらすぐに辞去しようと思っていた。吉川教授から示
された力場の異常ポイントは、電車で行っても半日はかかる山奥に
あった。計算上、2001年に戻るために最も近い接合点は明日の
正午過ぎ。次の機会まで待てばそれだけ、元の時代に戻れなくなる
可能性が高くなる。
「また、工場に戻るのよね」
 当然のように尋ねたはな子に、広輝は首を振った。そして、口に
当てていた湯飲みを静かにちゃぶ台の上に置いた。
「緑ちゃん・・・」
 はな子が見やった緑の表情が一瞬悲しげに伏せられ、何か言葉を
紡ぎかけたが、瞼が開けられて真っ直ぐ前を見つめた。
「・・・蓮見さんは、大事な仕事があるんでしょう?わたし、一人
一人には、その人しかできない仕事があると思うんです」
「でも、緑ちゃん、あなた・・・」
 正座したはな子の膝の上に、緑は手を置いた。そしてもう一度、
広輝の目を見詰めた。白い肌の中で、切れ長の瞳が燃えるように輝
いていた。
「ありがとう、蓮見さん」
 広輝は頷いた。
「それじゃ、行きます。おばさん、緑さん、元気で」
「いつでも、戻ってきてね。同じ日本の中なのだから」
「はい」
 緑は微笑んでいた。そして、立ち上がった広輝に言った。
「さようなら、蓮見さん」
 この女性の未来が、美しいものでありますように・・・。
「さよなら、緑さん」
 その姿を心にしまうと、下宿を後にした。

 そして次の日、広輝はその時代にも別れを告げた。

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