エピローグ

 広輝は2001年の街並みを歩いていた。
 春の日差しが温かく降り注いで、寒かった今年の冬が遠くに去っ
たことを感じていた。何度も美奈と歩いたこの繁華街は、今日も人
で溢れかえっていた。肩を擦り合わせるように歩き過ぎた繁華街の
外れに、いつか美奈と並んでスナップを撮った、プリクラの筐体が
あった。
 あの場所で取った美奈との写真を見ながら、何とか過ごした19
30年代での2年間を思い出す。
 あのノートも、何処に行ったものだろう。
 よく思い出せなかった。もっとも、これはそのことを含めて確か
めるための旅でもある。
 昨日訪れた木元の家での会話が、まだ心の中に残っていた。
「おじいさんのことをなぜ、あなたが?」
 郊外の住宅街に建った、和風の二世代住宅で玄関を開けた四十く
らいの女性には、何処か木元の面影があった。
「・・・戦時中の事を調べているものですから。木元教授は、戦時
体制で様々な権利が抑圧されていく状況の中で、学問の自立を訴え
て積極的に活動されていた数少ない方だと聞きまして」
「・・・大学の研究か何か? 随分お若く見えるけれど」
「はい。日本の近・現代史が専攻で。個人的に研究してるんです」
 適当な大学の名前を口にした。
「そんな立派な事をした人だとは聞いていませんけれど」
 そして、記憶に残る祖父の面影を語ってくれた。
 無口で、非常に気難しかったこと。一方で、孫の自分にはとても
優しい人であったこと。
 15年前に亡くなる少し前、家族みんなを呼び寄せて、かなりの
額の遺産を、アフリカに全て贈ると言い出して物議を醸したこと。
 孫に当たるというその女性は、懐かしそうに言った。
「いい祖父でしたよ。戦争の頃のことで、『何かを犠牲にしなけれ
ば成り立たないなどという理屈だけは信じるな』と言っていたのは、
今でもとても含蓄のある言葉だと思ってますね。その後で、『結果
として、誰でもそうしてしまうのだから』って呟いていたことも含
めて」
 繁華街を過ぎて、上下3車線のパイパスの脇をしばらく歩くと、
大きな公園が広がっている。広輝も、何度か訪れたことのある場所
だった。
 ただ、東の端で小高くなった一角は、大きな池と庭園のようなも
のが設えられていたはずで、今、視野に入ってきた鉄筋コンクリー
トの校舎は、記憶の中には存在しないものだった。
 広輝は、黄ばんだ表紙の新書本を持つ手に力を込めた。
 その表紙には素っ気無い文字で、『瀬川緑詩集』とあった。
 日曜でも保育が行われているのか、幾人かの幼い子供達が、遊具
で遊んでいる。
 コンクリートの壁と青い金網で囲まれた園庭を、ぐるりと周回し
て反対側に出ると、3階建ての洋風の住宅が建っていた。駐車場に
なった1階部分の横にある階段を上ると、濃緑色に光る門柱には
『瀬川』と黒く刻まれていた。
 赤褐色に濡られた鉄の門扉を開けると、庭木が並ぶ前庭の石畳を
踏んで、大きな引き戸の玄関の前に立つ。一つ息を吐くと、インター
フォンの四角いボタンを押した。
 軽やかな呼び出し音の後、女性の声がした。
「はい。どちら様ですか」
「蓮見と申します。瀬川緑さんのことで伺いたいことがありまして」
 しばしの沈黙の後、少し低くなった声が続いた。
「少しお待ち下さい」
 扉の向こう側で影が動くと、二十才くらいの髪の長い女性が顔を
出した。太い眉の下の大きな目が、広輝を値踏みするように見ると、
いぶかしげに言う。
「おばあちゃんの知り合いですか」
「ええ、まあ」
 女性が二の句を継ごうとした時、扉の隙間から見える広い玄関に、
エプロン姿の女性が現れた。
「森香、どちら様?」
 後ろを向くと、森香と呼ばれた女性は言った。
「蓮見さんだって。若い男の人だよ」
 軽くパーマを掛けたセミロングの髪の女性は、表情を変えると、
玄関に下りて扉を大きく開けた。目鼻立ちから、若い女性の母親だ
と推測できた。
「・・・蓮見さん?」
 大きな目でまじまじと見つめられるときまりが悪かった。
「はい」
 そして、斜め後ろにひかれた少し曲った足を見下ろすと、大きな
声で続けた。
「もしかして、蓮見広輝さんですか?」

 居間に案内されると、その女性は風呂敷きで丁寧に包まれた書類
ケースをガラステーブルの上に置いた。
 そして、自分の名前は瀬川輝美と言って、3年前にこの世から去
った、瀬川緑の養子だと告げた。
 元の2001年では決して発行されることはなかったはずの詩集
を図書館で見つけて以来、心の中で鉛のように留まっていた思いが、
ゆっくりと溶け出して行く。
 緑は、あの時代を生きて抜け出した。そして、長く豊かな時間を
送ったのだ。その名前は、創作者としては1冊の詩集を送り出すに
留まったが、近しい人々には慈愛に溢れる存在として、現在も大き
く残り続けていた。
 最後に緑の養子になったという瀬川輝美は、戦後の緑の歩みを語
ってくれた。
 最初は、戦争遺児の緊急の避難所として立ち上げた施設を、保育
園へと発展させ、多くの子供達を教育してきたこと。その傍らで、
孤児の里親として幾人もの子供を育て上げ、草の根の教育者として
何度も顕彰を受けたこと。晩年は、フリースクールの運営に乗り出
し、最後まで教育が作る未来を信じ続けていたこと。
「どうしてか、男性には縁を持たない母でした。よいお付き合いを
している方がいる時、兄弟で話を進めたこともあるんですよ。事業
を進める上でも、力になるからって。でも、笑って断るんですよ。
『わたしは、心の中に永遠の恋人がいるの。いつもその人に恋して
るから、いつもこんなに若くいられるのよ』って」
 広輝は、手渡された緑の写真を見つめた。白くなった髪と、皺の
目立つ顔の中にも、秀でた額と真っ直ぐに前を見据える切れ長の瞳
は少しも変わっていなかった。
「兄弟はみんな知ってるんですけれど、妙に夢見がちな所があって。
『もしかするといつか、若い男性がここに来るかもしれない、もし
わたしが会えなかったら手渡して欲しいものがあるから』って。そ
れで、その人の特徴や名前まで言うんですよ。お伽噺みたいでしょ
う」
 そして、赤い書類箱を手渡すと、立ち上がった。
「自分の欲しいものは何も持たない、まるで地上にいるのが不思議
なような女性だったと思うんですよ。自分の母ながら。・・・でも、
あなたが本当にここに現れて、納得しました」
 自由に見ていって下さい、と言い残して輝美が居間を後にすると、
広輝はゆっくりと箱のふたを開けた。そこには、薄い緑に草花の絵
が散らされた封筒と、煤けた茶色のノートがあった。
 広輝は目を閉じると、想いをさまよわせた。ゆっくりと、時が流
れていくのがわかる。
 そして、封筒から取り出した白い便箋を開いた。
 伸びやかさは変わらない、上品で美しい筆致で綴られた言葉。
『蓮見さん、わたしはあなたにもう一度会えるのかしら。こんなお
ばあちゃんになってまで、そんなことを考えているわたしをお笑い
になるかもしれないけれど、わたしの心の中にはいつも、あの時の
お下げ頭の少女が生きているのです。
 もう、1996年になりました。あなたがいらした時代まであと
5年。その時まで朝日が昇るのを見ていられることを祈っています。
 ノートを見たこと、そして、返さなかったこと、許して下さいね。
あの時のわたしには、どうしても言い出せなかったことだったので
す。あなたには待っている女性がいて、そのことを胸にしまうだけ
で精一杯だったのですから。
 わたしは、生きるはずのない人生を生きることができました。き
っとそれは、全てあなたのおかげです。そして、その命を次のたく
さんの命に繋ぐことができました。
 この手紙だけをあなたが読むことがあったなら、わたしはもう、
この世にはいないということなのでしょう。
 でも、わたしがどんな場所にいても、あなたが元の世界に帰って、
ご自分の人生を豊かに送られていることを祈っています』
 煤けた茶色のノートを開いた。そこには、過ぎ去った日々、もう
戻ることのない時代を想って書き綴った文字が並んでいた。そして、
持ってきたただ一冊の、しかしあるはずのなかった詩集を開いた。
 そこに並ぶ緑の詩。読み進むうちに、広輝は胸の内の孤独が全て
溶け去っていくのを感じていた。

   わたしが、あの人に会ったのは、
   まだ寒い春の日。
   私に、時をくれました。

   穏やかな時、
   駆け足で過ぎていく時、
   私達の胸の中で、
   時計は気まぐれに刻んでいくようです。   
   あんなに正確な時計の針、
   けれど、皆の胸に同じ時は刻まない。

   あの人とわたしは、
   束の間だけれど、
   同じ時を刻んだと思います。

   私が生まれたこと、
   あの人が生まれたこと、
   全ての人が生まれてきたこと、
   そして、いつか死んでいくこと。
   束の間かもしれない、
   でも、わたし達は永遠を刻むのかもしれない。

   私があの人と会ったこと、
   ありふれたことだけれど、
   奇跡の一つだと思います。

   あなたが、大好きでした。

   あなたが、わたしの手に触れて、
   そして、
   「さようなら」と言った時、
   私達の時間は終わりました。

   さようなら、私のあなた・・・
   私はつぶやいていました。


 緑の暮らした家を出てから、12階建てのマンションを望む小さ
な公園のベンチに座るまで、何を考えていたのか思い出すこともで
きなかった。
 かつての世界で住んでいたマンションを見上げると、初めてはっ
きりと考えていた。
 これで、全ては終わったのだろう、と。
 二度目の帰還を終えた後、何度もこの場所で佇んでいた。
 すでに、自分の住んだ部屋は別の人のものとなり、学籍も、戸籍
も、両親の間で生まれた事実も、美奈の姿までも、かき消されてい
ると言うのに。
 そして、疎んじていたダブルビジョンもほとんど消え去っていた
 全てが終わって、手の上にはこの詩集が残った。
 広輝は詩集を見ながらぼんやりと考えた。
 もう、俺も、歩き始めないと。それが、緑さんの、そして美奈の、
一番望んでいることのはずだから。
 公園の丸時計が4時を指し、下校する中学生や高校生が行き交い
始めていた。俄かに強くなった春の風に、羽織っていた青いジャケ
ットの襟を寄せた。
「じゃあねぇ、バ〜イ」
 公園の入り口で声がした。聞き覚えのある響きに、左手に目をや
った。グレーのワンピース型の制服に、袖なしの上着を着た女子高
生が、同級生と別れ公園の中を行き過ぎようと歩み入ってくる。
 最初は、誰なのかわからなかった。ブレザーの印象が強かったか
らかもしれない。
 しかし、茶かかったレイヤーの髪を、毛先にウエーブのかかった
セミロングの黒髪に置き換えると、その女性が誰なのかすぐにわか
った。
「・・・美奈」
 声を出しかけて、突然名前を呼ぶことの不自然さを思って口をつ
ぐんだ。この時空での美奈は、広輝のことなどまったく知らないは
ずだ。
 その時、春の激しい風が狭い公園を吹き抜け、目の前を通り過ぎ
ようとしている美奈のスカートを舞い上げた。
 薄い黄色に、ブルーの花の刺繍があしらわれたショーツが、目に
入った。
「・・・ちょっと、そこの人」
 回りを見渡して、ベンチに座る広輝の存在と視線に気付いた美奈
は、2、3歩歩み寄った。
「見たでしょ」
 広輝は緊張が解けて、笑い出しそうになるのを押さえていた。眉
を寄せて、肉厚の唇を寄せた様子が、あまりに美奈らしかったから。
「・・・あ、笑ってる。ひどい奴」
「違うって」
 手を振って言いかけた時、丸い瞳があれっというように上目遣い
になる。
「まただ・・・」
 そして、腰掛けた広輝の前まで来ると、カバンを持った手を腰に
当てて、ふーん、と小さく呟いた。
「わたし、お兄さんと会ったことある? 」
「さあ」
 広輝は今吹いた春の風の様に心の奥が騒ぎ出すのを感じていた。
「・・・時々ね、このマンションの前を通ると感じることがあるん
だ。どっかで、この景色を見たことがある、って。そう、デ・ジャ・
ビュっていうのかなあ」
 そして言葉を切った瞬間、広輝も驚くような大声で叫んだ。
「あーっ!その本」
 緑の詩集を指差すと、本に手を掛けた。指と指が一瞬触れ合って、
美奈は済まなそうに手を引いた。
「あ、ごめんなさい。でも、その本、今日図書館で見たばかりだっ
たから」
「この本を?」
 広輝も驚きながら立ち上がると、美奈を見下ろした。すぐ傍に立
っているのに、少しも距離を取ろうとせずに美奈は頷いた。
「付き合いで行ったから暇で、書架の間をうろうろしてたんだけど、
なんかその本が気になって、開いてたんだ。普段、絶対詩なんて読
まないのに。それ、緑って人の本でしょう」
「そうだよ。いい詩だったでしょう」
「うん。皆の胸には同じ時間は刻まないけど、好きな人となら同じ
って言うの、ロマンティックだよね。で、やっぱり有名な人?」
 背筋が震えるような激しい想いが込み上げて、首を横に振るのが
精一杯だった。そして、自然に頬に流れ落ちていくものを感じてい
た。
「そうか・・。じゃ、すごく珍しいことなんじゃな・・・、どうし
たの、泣いてるの?」
「いや。大丈夫」
 広輝は袖で素早く涙を拭った。そして、手を差し出した。
「ね、少し付き合わない」
「う〜ん」
 考えるように頭の先から爪先まで広輝を眺めると、美奈はうなず
いた。
「いいよ。だって、とっても他人に思えないんだもの」
「俺もだよ」
 差し出した手を握り締めた手は、記憶にある通り柔らかく、小さ
かった。
「握手から始まるなんて、ちょっと不思議。わたし、宮沢美奈。お
兄さんは」
「蓮見広輝」
「広輝君か。ね、」
 手を離して見上げると、よく知っている笑顔で聞いた。
「ヒロでいい? 短い方が呼びやすいから」
「ああ。いいよ」
 広輝はうなずくと、美奈を優しく見つめ返した。
 新しい命の芽吹きを伝えるように、春の空を風が吹き抜けていっ
た。



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