最終話

 ボンッ、激しく手が叩き付けられて、
「勝手にしろ! 二度と戻ってくんな!」
 投げ捨てるみたいなでかいガラガラ声が響き渡った。
「冗談じゃない、戻ってくるかって! わたしこそ!」
 二倍返し! わたしは思いっきり叫んでやった。
 何押しつけてきてんだよ。いい加減、切れたっての!
 ドアを叩き閉めて、蹴飛ばしてやった。くそぉ、これくらいじゃ
収まらない。
 うざい、うざいんだって! このバカ!
 わたしの気持ちなんてね、シンジにわかるわけないっての。働い
てりゃそれでいいっての?
 だいたい、あ〜だこ〜だ、ホントはわたしを使い回してるだけじ
ゃない。
 ぶるぶる震えながらきしむ安アパートの階段。最後の四段を飛び
降りると……、ああっ、足が痛い。
『二度と戻ってくんな!』
 上等だよ、こっちから願い下げ。もう、おしまい! 終わり!
 だいたい、何様のつもり!
 ここんところずっと我慢してきたけど、もう、限界。
『何だよ、オレの服は? おいおい、あれ、困るんだよな。今日、
着てこうと思ってたのにさ』
 うだ〜っと座ってて言う台詞? だいたい、態度がデカすぎ。
『お前なぁ、いっつも言うけどさ、ズボンくらい履いてろよ。朝か
ら平ったい尻が見たいわけじゃないんだからな』
 家ん中で楽にしてて何が悪いって。いちいち、いちいち、うざい!
 服がどうとか、もうちょっと化粧をどうにかしろとか。言う事は
それだけかって。TV見て、へらへらしてるばっかのクセに。
『おい、めぐ。やっぱ可愛いと思わん? な、あの胸、お〜、最高』
 そう。
 オトコがそんなんだってのはわかってるけどさ、いい加減、呆れ
るって。エログラビア見るのもしょうがないサガって知ってる。で
もね、口を開けば、ムネムネ、ムネムネ。
 埋もれてみたいって、男のロマンって……そういうこと、平気で
言うかな。わたしの胸が小さいってバカにしてるのとおんなじじゃ
ない。
 ああ、それはまだ、いいんだ。それぐらい、わかってる。シンジ
だけが特別、なんて思ってない。特別、なんて……。
 でも、ここんとこのあれは何?
 わたしはあんたの奴隷じゃないんだから。しかも、エッチまで込
みの。ううん、エッチがあるからこそだ、きっと。
『そうそう、そっち、いいわ、やっぱ』
 左側のカリのところ、弱点を舐め舐めして……。
 そして、あの時の、この間の。自然に浮かんでくるほどに、ああ
もう、むかつく。
 こんなんじゃないって、思ってたなぁ。わたしが甘かったのか…
…うん、たぶん、そうだ。
『こっちは?』
 袋の裏側からたどって、毛のもわっとした太ももを押し広げると、
奥への小道をちろちろと――そう、昨日だって。
 上目遣いにうかがうと、仰向いたままはあはあ、あいつはすっか
りマグロ状態で。
 (ふふ、感じてる、感じてる)
 なんだか可愛くて、もっとしてあげたくなって……それは、いつ
も感じることなんだけれど。
 舌を尖らせて一番深いところを割ると、ちまっとしたシワシワに、
ツンツン。それで、片手は太もものあたりをぐるぐる、もう一方の
手は、根元から上の方を優しく。
 当てた手で、緊張してくるのがわかる。先っぽへ指を這わせると、
あ、もう限界かも。
 ……わたしも。
 一緒に感じたい、中でビクッとして欲しいな。動いて、上から入
れて。思った瞬間、あっ……。
 うっ、喘ぎ声が聞こえて、手の中で膨らむ。ダメ、ちゃんと気持
ちよくしてあげないと。
 唇で包み込んで、すぐに口の中で弾ける。袋に当てた手を、柔ら
か、お尻をギュッと抱き締めて……。
 ……でも、何だっての。
 終わったら、話す事ぜんぶに、「ああ」「おお」。気がついたら、
いびきかいて寝てるし。
 ああもう、思い出せば、ここんところそんなのばっかり。普段は
ゴロゴロ。したくなったら、それらしいこと言って、おざなりに触
ってきて。
「今日はしてやるか?」
 そんなさ、付け足しみたいに言われても、ちっとも嬉しくなんか
ない。結局、気持ちよくなりたいだけでしょ?
 わかってるけど、そんなの。
 エッチばっかりじゃない。他だって、そうだ。結局、何もかもお
世話して欲しいだけじゃない。
 うまく使いまわして、楽して、ちょっと愛想ふるって。
「どっか食べにでも行くか?」
 思いつきで言われたって、底は見えてるんだ。そんなの、見てき
た。よく知ってる。人間なんて、すぐ自分に甘えちゃうんだ。いつ
だって、うなずいてる方がいつの間にかゴミ箱行き。捨ててる方は、
その後どうなるかなんて、気にしない。
 あ〜あ。
 わかってるけど、こんなだって。
 でも、でも、ね。
『俺はめぐみのこと、道具になんてしない』
 …………。
 ああ、やめよ。むかついてくるばっかだ。やれないなら言うなよ
な、そんなこと。口だけのオトコなんて、いちばん嫌い。
 ネオンが一つ、二つ。空も、真っ暗。
 もうこんな時間かぁ……ミスドの時計、8時半。どうしよっか…
…。
 お金、持ってるっけ? 引っつかんできたポーチの中身……四千
円。こんなんじゃ、二晩食べるので目一杯だ。
 あ…。
 いつもより軽い感じ、しまった、ケータイ!
 テーブルの上、充電器に置いたままだ。
 ああ、どうしよ。参ったなぁ……。
 ドン、肩にぶち当たってきた高校生。この、ちょっとは気を付け
てよ。フラフラしてると、また、ドン。もう。あ、後ろから凄い勢
いで人が溢れてきてる。
 腰を下ろすと、駅の端っこ。考えてみたら、今日は金曜日だっけ。
だよね、だから慎二、出かけるって言ってたんだもん。
 ……バカ。帰ってくるなり勝手ばっか言ってさ。
 あごに手をついて、ぼんやり光を見つめてた。
 いろんなことが頭を巡る。昨日見たTVの音、さっきの怒鳴り声、
この間、コンビニのおばさんと話したこと、あ、あのレイヤードの
ミニスカ、いいなぁ……。
 ぐるぐる、ぐるぐる、頭の中で回る。通り過ぎてく人、人、人。
キラキラ、光る。楽しそうな話し声、バカ笑い。叫んだり、遠くで
鳴ってる音楽……。
 こんなとこで座ってるの、久しぶりな気がする。そうだよ、ずっ
と慎二と一緒だったもの。ずっと、って、どれくらいだっけ?
 去年の夏は、一緒だった。海も行ったし。その前は……、なんか
よく思い出せない。あの時、久しぶりって思ったんだ。中学の時、
家族で行って以来って。
 もうすぐまた夏。どうしよう、今年は……。
「バカ」
 言いたくなった。
「バカ!」
 ほっぺたに空気を入れて、口をぷぅ。もう、どうでもいいや。
「……したの。寂しい〜って感じじゃない」
 いきなり頭の上から降ってきた。なんか、鼻にかかったオトコの
声。わたしに……?
 見上げると、いかにも、な感じの奴。目の色だけでわかる。細め
て、ちょっと湿った感じの。
 ああ、今、取り込み中〜。あっち行って。あたし、今一人モード
なんだよね。
 言おうと思って、
「え……と、あ……」
 声が出ない。にやけて、そこのコンクリート壁に手をつくと、
「あ、その服、かわいいなぁ」
 あれ、どうしてだろ、えっと……。
「ねぇねぇ、ちょっと遊ばん? ほれ、連れもありだしさ」
 ズルッとしたシャツの腕で指差すと、
「お〜い、山崎ぃ〜」
 宝くじ売り場のとこで、長めの髪の男がオッと口をとがらせて…
…。
 背中がズンとして、手を握り締めてた。
 自然に立ち上がってて……怖い。
「お、オッケー? そうこなくっちゃね」
 無造作に肩に回される手。
 イヤだ! やめてよ。
「やめて!」
 怖い。すごく、どうしよう。お腹と胸の中に、じわっと重くて暗
いもの。
「お、ちょっと待って……」
 走り出してた。人の肩、振られてる手、手。声の嵐。光がごちゃ
ごちゃに降りかかってくる。
「いてぇ」「おい」「何、あの子」
 やめて。誰も、来ないで。イヤだ!
 走って、走って、走って。……息が切れてる。だんだん、声と人
の波が少なくなって。
 しゃがみこむと、ああ、苦しい。
 胸を抑えたら、手が震えてる。ギュッと握りしめて、唾を飲み込
んだら、少し……。
 怖かった。
 あの、にやって笑った顔。目が、ダメ。怖い。
 息が吸えるようになる。見上げたら、デパートのでっかい広告…
…。裏の地下道の入り口だ、ここ。
 目を閉じて、唇をぎゅっ――どうして?
 まだ背中が震えてた。地下道からスロープを上がってくるカップ
ル。帽子のカレシがこっちを見下ろすと、腕を組んだカノジョが、
ふざけた調子で耳元に何かを言って……。
 イヤだ。
 はっきりした言葉が、胸に上がってきて、また……。
 奥歯をかんで、押さえ込む。だめ、落ち着かないと。なんで、も
う。急にこんなになるの? 誰かに……どっかに行かなきゃ。
 ジーンズのポケットを探ると、鍵は……持ってた。
 ケータイを取りに行こう。ないと、どうしようもない。ケイも、
このはも、たぶんまだ連絡とれるはずだもの。この間、話したばっ
かりだし。
 事情話して、ちょっと泊めてもらおう。
 それから……それからのことは、あとで考える。

 アパートの階段を上がってドアを開けると、部屋の中は真っ暗だ
った。
 窓の外の光に照らされたテーブルの上――食べかけの惣菜がその
まんま。まだ、飲み会行ったまま、だよね。所長のなんとか祝いだ
っけ……たぶん、遅くなる。
 ケータイ、あった。荷物もいろいろ持ってかなくちゃ。どうせだ
もの。
 冷蔵庫を開けて……あ、まだこの間買ったピザがある、お腹減っ
たし、食べてこう。レンジでチン……ああ、あったかい。もう五月
だし、そんなに冷えるはずないんだけど。夜だから、かな。ケータ
イの表示、十時、かぁ……。
 ピザが美味しい。この間、ダブルチーズだ〜って、買ってきた奴。
やっぱり、正解だった。
 はあ……。
 息を吐いて、背中がジンとする。台所の窓がガタガタ……風が吹
いてる。
 ……このままここで待ってて、あいつに話したら。それで、ちゃ
んと気持ちを伝えれば、また……。
 やめよ。そんなの、無理だ。だって、わかってる。『二度と戻っ
てくんな!』無理して一緒にいたって、いいことなんて何もない。
押し付けたって、ダメなんだ。
 テーブルに腰かけたまま、ひと息。バック、出さなきゃ。シンジ
が帰ってこないうちに、出て行こう。
ケータイ、誰にかけよう。近いところがいいな。さっきみたいな
こと……、駅前は今ちょっと、行きたくない。
 ……あれ?
 電気に照らされた入り口をなんとなく見て、初めて気づいた。入
ってきた時は、真っ暗だったから。
 あの、いっつも履いてる茶色の革靴――。
 ミシ。
 奥で何かがきしむ音がした。ベッド?
 まさか……寝室のドアを開ける。
 え、どうして?
 暗がりの中で、影がもそりと動く。布のずれる音が、低く響いた。
布団かぶって出てるのは、顔、だけ?
「シンジ……」
 どういう……もう、帰ってきたの? ううん、たぶん違う。だっ
て、様子が……。
「……おぅ」
 小さくて、掠れた声だった。なんだか、視線も合ってない。もし
かして。
「熱?」
「ああ、ちょっと、な」
 背中に何かぞくっとした感じがして、ぜんぶ吹っ飛んでた。
 電気をつけて、ベッドの横にしゃがみ込んだら、ひどい。目は真
っ赤で、顔全体がむくんでる感じで……。
「大丈夫? 高い?」
 額を触ったら……うわ、あつ。
「八度ちょい」
 短く言った。
「ウソ、そんなんじゃないよ。もう一回、はかって」
 枕元に置いたままの体温計を渡すと、ちらっとこっちを見て、黙
ったまま脇にはさんだ。
 ピー。
 すぐに音がすると……やっぱ、ひどい。三十九度五分、高熱だ。
 どうしよう……まず、氷枕出さなきゃ――立ち上がりかけた時、
横で電話が鳴った。手がすぐ伸びてきて……ちょっと、シンジ。
「はい……。あ、さっきはどうも、篠原さん。スマンっす、ちょっ
とやばくて、熱高いもんで。あ、所長には言っといてください。は
い、すいません」
 ぼそぼそ話し声が続く。わたしは、冷蔵庫を開けて氷枕を出した。
薬は、飲んだのかな。薬箱……あ、開けてある。
 氷枕をタオルに包んで戻ってくると、まだ話してる。今は、さっ
きよりトーンの高い声。
「あ、所長、ええ、え? ひどいっすよ。俺だって風邪引くんすか
ら」
 もう、無理して。変なとこで愛想いいんだから。
 通話が終わると、受話器を布団の上に投げ出したまま、その場に
ばったりうつぶせ気味になった。
「あぁ、きっつい」
 小さく呟くと、こっちに向けたトレーナーのでっかい背中が苦し
そうで。
 ああ、もう。
 背中に手を当てて、
「大丈夫? 何か買ってくる?」
「……いい。いらん」
 また短く言うと、そのまま布団をかぶって横になった。と、また
子機がプルルルル……。
 もう、何?
 動きかけるシンジ。わたしは、上げられた手を軽く押しのけると、
通話ボタンを押した。
「メグ、出るなって……」
 小さい声。そんなの、聞こえない。
「はい」
 と、受話器の向こうから、ガヤガヤした声が響いてくる。間違い
ない、飲み屋かなんかのBGMだ。
『あ〜、やっぱ〜』
 ちゃらけたオトコの声がいきなり。
『どうもね〜、カノジョぉ。シンジは〜? 楽しくやってる〜?』
 何だっての? メチャクチャ酔ってんじゃん、こいつ。
「あの、それどころじゃないんだけど。今……」
 叫んでる声が聞こえた。
『所長、やっぱ、オンナっすよ。あいつ。まったく、あのバカ!』
「ははは」「エロバカ!」――うるさい合いの手。
「ちょっと、ねぇ……」
 言っても、全然聞こえてない。と、プチ。いきなり通話切れるし。
「バカじゃないの」
 受話器をベッドサイドに投げた時、
「出るなって言ったろうが……」
 小さいうめきが聞こえた。
「……何言ってんの。もう、電源切った。バカじゃない、あんなの」
「違ぇんだって。おまえ、何もわかってねぇな。……あぁ、きっつ
ぃ」
「はいはい。いいから、寝てなって」
 普通じゃないよ、あいつら。ただの熱じゃない、三十九度五分だ
よ。声聞きゃわかるじゃない。ホント、脳みそあるのかって。
 持ってきた氷枕を置いて、ほら、シンジ、ここ。
「ああ、月曜、やべぇなぁ……」
 目を閉じたまま眉根が寄ると、
「バカめぐ。ほんと、おまえバカ。出るなって言ったろうが」
 色のない唇が小さく悪態をついた。あのねぇ……。
「出て何が悪いのよ。クソ飲み会じゃない、あんなの」
「わかってねぇ。ホント……、ああ、きっつぃ」
 わかってねぇって、どうせ、いつも聞いてるアホ所長のご機嫌取
りでしょ? ゴマ擦ったって、結局ダメな奴じゃない。
 無理してまですること? あんな会社、過労死したって「そんな
つもりありませんでした」だよ。この間、朝のニュースで見たみた
いに。
「飲み物は? ポカリでも買ってくる?」
 投げたみたいなため息が聞こえた。
「……ああ。頼む。さすがにちょっとやぱい」
 自販機で飲み物を買ってくると、シンジはもう、目を開けてなく
て。
 ねえ、飲む?――声をかけても、はぁはぁ、苦しそうな寝息が返
ってくるだけだった。
 もう一度、額に手を当てる。
 やっぱり、すごく高い。額ににじむ汗。半分開いた口。すごく疲
れて見える顔全体……。
 大丈夫かな。やっぱり九度五分なんて、簡単な熱じゃないよ――
もしかしたら、救急車、呼んだ方がいいのかな……。
 布団をかけて、横に腰かけた。
「シンジ……」
 自然に口から声が出て、なんだか、胸がグッとなった。
 急に変な眺めが頭をすぎる。
 ああ、何考えてんの、やめなって。
 ……どうしよう。
 違う、そんなこと、考えても。
 どうしよう、このまま、シンジが死んじゃったら。
 ダメだって、そんなこと……。
 喉の奥が冷たくなった。
 シンジが死んだら、わたし……。
 目を閉じると、頭の奥が真っ黒になって、それ以上考えられない。
 抜けて何もかもがなくなった黒い黒い穴の中に、何もないわたし
がいて、わたしは……。
 目を開けて、シンジの顔を見た。
 大丈夫、大丈夫だよ。そんなこと、あるわけない。大丈夫。
 繰り返して、また戻って……。いろんなことが頭に浮かぶ。そし
て、時々……。首を振ると、合わせた手を握り締めた。お願い、ひ
どくならないで。それだけは、イヤだ。
 じっと座ったまま、ずいぶん時間が経った気がした。
 何度か替えた、氷枕と汗でベトベトになったTシャツ、それと、
無理やりに水分補給。できることが他にぜんぜん思いつかないのが、
ホントにバカだ、わたし。
 また、額ににじんだ汗――タオルで拭うと、少し、楽そうになっ
たかも。
 ちょっと目元が動いた。
「シンジ?」
 小さく言うと、目が開いた。
「う、喉乾いた」
 ペットボトルを渡すと、ゴクゴクゴク。
 着替えを出してあげると、今度はそれほど汗をかいてなかった。
そのまま、また、何も言わずに横になる。額に手を当てて……ああ、
だいぶ低くなってる……。
「メグ」
 下目遣いで低い声が聞こえて、うん。
「悪いな。寝ろよ、お前も」
「うん」
 うなずくと、柔らかくなった氷枕を外した。
 新しい奴に取り替えると、シンジはすぐに目を閉じる。楽になっ
たような息の感じ……よかった。
 カーテンの向こうが少し明るくなってる。もう、朝なんだ。
 もういっぺん、顔をのぞき込んで――やっぱり、大丈夫そうだ。
 一度目を閉じて、何だか、毛布からのぞいてる背中がすごくそば
にあるような気がして。
 押入れからふとんを引っ張り出すと、ベッドの下にひいた。
 横になると、自然に息がはぁ……。うん、なんだか、よかった。
あったかい、感じ……。
 眠くなる……、うん……眠い………。
 うん……。
 あったかい。
 じんとして、手が、頭にあって。
 あれ、ええと……。
 ゆっくり目を開けた。あ、シンジ。
 頭がボーっとしてる。ああ、寝てたんだ、わたし。
「戻ってきてたんだな、お前。やっぱ、夢じゃなかったのか」
 ベッドの上から手を伸ばしてるシンジの目も、まだ、開いたばか
りみたいだった。
「……うん」
 うなずくと、息を吐くみたいな小さい声で、
「メグ」
「ん」
「昨日は、ごめんな」
 ごめん……ああ、そうか。もう、どうでもいいよ、そんなこと。
「ううん」
 太い指先を握った。
「よくケンカすんね、わたしら」
 そうだな、シンジの目が笑った。
「でもな、もう戻ってこないと思った。昨日は」
「うん」
 わたしはうなずいて、
「もう、帰らないつもりだったもん、わたし」
 そっか……シンジは言って上を向くと、わたしは聞いた。
「大丈夫? 熱」
「ああ、楽になった。……久しぶりに風邪ひいたな。ホントはここ
んとこ、仕事がバタバタ……」
 言いかけて、シンジは一度言葉を止めた。そして、少し黙ってか
ら、
「俺さ」
 ふぅ、と息をする音が聞こえる。わたしは横になったまま、言葉
が降ってくるのを待ってた。
「お前とは、嘘なしでやろうと、そうやってやってきたいと思って
てさ」
「うん」
「なんてのか……うまく言えんけど、まあ、馬鹿だしさ、しょうも
ねぇけど、正直っても、お前にしてみりゃ、イヤなだけかもしれん
けど、さ」
「うん……シンジ、エロ馬鹿だもんねぇ」
「言うか、お前は」
「うん、だって、ホントじゃない」
「そうだな、ホントだ」
「わたしも、バカだけど。思いっきり」
「すぐ怒るし」
「そう」
「料理下手だし」
「そう」
「ホント」
「ホントに」
 どっちともなく笑い出した。クスクス、ふふふ、あははは。
 おかしかった。もう、こんなのばっかり、シンジとわたし。
 ホント、バカ。
 それからしばらく、わたしたちは二人で笑い続けてた。

 いつものコンビニでレトルトのコーナーをのぞき込んでると、横
から声をかけられた。
「今日はなんにするの、メグちゃん」
 あ、おばちゃん。
「こんちはー」
 昼過ぎだとあまり込んでないお店。すぐ話になって、
『おべんとじゃないんだね、今日は』『うん、おかゆとかないかな
ぁって思って』――シンジが昨日熱出した事を話すと、そりゃ大変
だねぇ、丸いメガネでニコニコ、いつも通りに。
 あ、そうだ。
 梅がゆと鮭ぞうすいってのをレジ打ちしてもらいながら、思いつ
いた。
「おかゆの美味しい作り方って、わかる? おばちゃん」
「お、作ってあげるの? だんなさまに」
 あははは、まったく、そんなんじゃないって。たまには、手作り
も悪くないかなぁってことで。
 そうね、たまにはいいかもね。いつもじゃ、うちの店も困るけど
――笑いながらおばちゃんは、おかゆの作り方を教えてくれた。お
コメを研ぐ所から始めて、卵はふわっと最後に……。
 そっか、できたご飯使うんじゃないんだ、へぇ……。ちょっと前
に作ったぐちゃぐちゃの一品を思い出しつつ、やっぱり、主婦は違
うなぁ。
 コンビニを出る時、ポンと肩を叩かれた。シンジくん、大事にし
てあげなさいよ。なかなかいないよ、あれだけカッコいい男の子は。
 そんな、あいつ、外っ面だけはいいから――言ったら、ふんふん、
ニコニコ笑いながら頷いて。
「じゃあね、メグちゃん」
 外は、空が抜けるみたいで、とても暖かかった。
 横断歩道を渡って、いつもの通りに入ると、すごく風が気持ちよ
くて。
 すぅ。ゆっくりカーブしてる道を抜けてきて、木が揺れてて……。
 空を見上げて、いつもの公園の前。
 なんだか、すごく、身体がぽかぽかする。あ〜あ、髪切ろうかな
ぁ……。
 すぅ……。また、風が吹いた。木が、葉が鳴ってる。うん、ホン
トに、あったかい。
 足が風の方に向いて、ずっと、木のざわざわの中。
「はあ……」
 まっさお。すごい。空を見上げて、目を閉じて、木々の真ん中。
 向こうの方で、歩いているちっちゃな子。お母さん。前のベンチ
で、自転車を横に停めて話してる女子高生の二人組み。
 もう一回、息を吸った。
 手の先がじんじんして、頭の中に、一杯の息吹が入ってくる。身
体中が何かで溢れて、すごく……。
 小さな声が、心に降ってきた。
 めぐみだ。
 心の中で、め・ぐ・み。音をたどって、それは、とても大きな声
で広がって。
 めぐみだ。
 うん、そうだ、
「わたしは、めぐみだ」
 声に出して言った時、弾け飛んだ。わたしの胸の中で、身体の中
で、世界全部で!
 わたしは、めぐみだ。
 いろんな声が、降ってくる。めぐみ。めぐみ。めぐみ。みんなが
呼んでくれた声。バカなオヤジのも、入院してる母親のも、死んじ
ゃったお姉のも。誰のかなんて、区別がつかないくらいに、たくさ
んの人の声。
 ありがと、ありがとう。誰に、でもなくて、自然に湧き上がって
くるそんな言葉、気持ち。
 わたしは、歩き始めた。ベンチの横を抜けて、木の枝が揺れる小
道を通って。
 どんどん溢れてくる気持ち。
 誰かに伝えたい、すぐに、伝えたい。
 ……あいつに、シンジに伝えたい!
 走り始めてた。風と一緒に。風になって。
 わたし、生きてるよ、わたし、今、生きてる。
 階段を駆け上がって、ドアをバタンと開けた。
「ただいま、シンジ。ねぇ、聞いて!」
 


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