第三話

 「雨の日って、大キライだな」
 めぐみの話は、低い呟きから始まった。
 小さな背中を包み込むように身体を合わせたベッドの上。窓を叩
く雨粒の音だけが部屋の空気を揺らしていた。
 肩口から回した腕に、添えられた手の平が冷たい。今湯に浸かっ
たばかりなのに、僅かな間に熱が逃げてしまっていた。
 こんなに体温の低い、小さな身体。一緒に暮らし始めて気が付く
ことの多さに、俺がこいつにしてやれることを思う。
 具体的なことが思い浮かぶわけじゃない。ただ、何かができる気
がする。
「いい思い出がないんだよね。だいたい天気が悪い時なんだ、イヤ
なことが起こるのって。そう言えば、わたしが生まれたのも、大雨
の日なんだって」
 素肌にTシャツだけの背中が、言葉を発するたびに小さく震えて
いる。俺は、めぐみの唇から流れ出す言葉を、背中越しに聞き続け
ていた。
「雨が降るとさあ、あの人のアタマが痛くなるせいかもね。ひどい
時なんて、家の中のもの、ぜんぶ目茶苦茶にしちゃうし。お姉が生
きてる時は、あんなにひどくなかったんだけどなぁ。病院でひどい
こと、されてないといいけど。シンジも行ってみてわかったと思う
けど、あんまいい雰囲気じゃなかったでしょ? クスリばっか飲ま
せるんだ。
 わたし一回、自分で調べてみたんだ。ほとんどヤクじゃん。てよ
り、ぜんぜんひどいかも。信じらんないよね。カクセイザイ止めま
すか、って、無理やり人間やめさせられるんじゃん。しかも、病院
でさ。特にあの主治医が最悪。
 でも、わたしにはどうにもできないんだから。あの馬鹿野郎が…
…、あ、ゴメン。またこんな話ばっかりして。
 ……でも、嫌だよね、雨って。シンジは好き?
 電話が鳴った時も、夕立だったって、話したっけ? 誰もいなく
て、玄関の電話台の上で鳴って……、あの電話台も、なくなっちゃ
ったんだっけ。
 最初に、あゆみさんのご家族の方ですか?って言ったんだ。
 声の感じで、何のことかすぐにわかった。だって、お姉、ずっと
死にたがってたから。そんなこと、わたしに一言も言わなかったけ
ど、わたしにはわかってたから。
 馬鹿だよね。うまくやればどんなことだってできるのに。ホント
にアタマ良かったんだよ。家の周りじゃ知らない人なんていないく
らい。
 ほんとうに、馬鹿だよね。あんな奴らのために死んじゃって。
 馬鹿……っ。
 ………。
 ごめん。
 最近、いっつもこんな話ばっかりだよね。思い出すことなんて、
意味ねぇ、って思ってたのに。なんか、不思議。
 シンジも、少しは年のコウってことなのかなぁ。無駄に年食って
ると思ってたけどぉ。腹の肉なんて三十代じゃん。え、人のせいに
しないでよ。肉買ってこいって言うの、ジンジじゃん。
 ふふ。
 あ、でも、いっこだけいいこと、思い出した。あれも、雨がすご
くひどい日だったから。あ……。でも、話すようなことじゃないか
なぁ。
 いいの? 怒らないでよ。エッチがらみだから。
 中学2年の時に、すごくかっこいい男の子がいたんだ。同じクラ
スに。テニス部で、身長が高くて、勉強もできて。
 どうしてだっけ、そうそう、斜め後ろに座ってから、時々話しす
るようになったんだ。
 わたしなんて、適当だったでしょ。今とおんなじで。なんでか知
らないけど、勉強とか教えてくれて、カンニングもさせてくれた。
絶対、そんなことしそうにない奴だったのに。
 もしかして、その時には好かれてたのかも。でも、そんなこと、
ないよなぁ。だって、彼女いたし。美人だったし。
 もう、わたし、その時には結構、無茶してたんだ。お酒も飲んで
たし、タバコもやってた。夜もコンビニとかの前でぶらぶらしてた
し、あとはヤッてないだけって感じ。
 誰にしようかなぁ、なんて。
 わたしらしいっしょ。
 お姉は、身体だけは大事にしないと、って言ってくれてたけど、
そんなの聞こえてなかったし。あれって、もしかしたら自分のこと
だったのかもしれない。うん、きっとそうだ……。
 やっぱり馬鹿だな、わたしって。
 でも、ホントにどうでもよかったんだ。お母さんは塾の先ちゃん
と泥沼中なの知ってたし、くだらない、って感じだったのかなぁ。
 よくわかんないけど。
 でね、ちょうど今頃だったんだと思うけど、学校から出る時、そ
の男の子と彼女って言われてる女の子が一緒に帰ってくのが見えた
んだ。セーラー服と、学ラン。夕方だったし、その子、すごく綺麗
なロングで、スポーツ刈りと目茶苦茶お似合いだった。楽しそうに
話してて、なにか、すごく……。
 違うよ、羨ましかったとか、って思ってるでしょ。そんなんじゃ
なくって。
 とにかく、ずっと後ろを歩いてついてったんだ。学校の傍を、小
さい川が流れてて、堤防沿いを、ずっと。
 二人とも、話に夢中で、わたしのことなんか全然気付いてないん
だ。時々、肩をつついたりしながら、笑ったりしてて。
 橋の近くまで歩いてきて、彼女が立ち止まって、キスするかもっ
て思ったんだ。でも、そんなことなくって、バイバイ。すごく自然
な感じ。
 ホントは家はそっちとは反対だったから、帰ろうかなって思った
んだけど……声かけちゃって。
 どうしたの、って、あんまり驚いた感じじゃなかった。
 よく覚えてる。ってのか、今思い出した。
 それで、ぶらぶらしてたから、って答えたんだ。わたしが、あま
り家に帰ってないの、知ってたんだよね。そっから二人で歩いた。
優しい奴だったなぁ。だって、彼女と別れたばっかだよ?こんな思
いっきりの茶髪と短くしたスカートと歩いてたら、何言われるかわ
かんないじゃん。でも、ずっと付き合ってくれるんだよね。普段学
校で話せないようなこともいっぱい話して。
 お前さ、もう少し自分大事にしろよ、なんて言われたんだっけ。
お姉と同じこと言われてるよね。でも、そうやって言われてから、
どうしていいかわかんなくなった。で、家のそばまで来たら、彼も
やばいじゃん。何となくわかるわけ、この辺で帰れよって。
 何で、あんなこと言ったかなぁ。別に、好きってわけ……、うう
ん、やっぱり好きだったのかも。どうせ、わたしなんてうざい女と
思ってるだろって。思いっきり。どうせ、面白がってるだけだろ、
って。あいつも、最初は黙ってたんだけど、馬鹿野郎、お前はお前
だろって。でも、全然納得できなかった。ホント、馬鹿だよね。大
事な女がいる男にそんなこと言うなんて。カッコだけならやめてく
れって。
 最後はあいつが折れて、裏口から家に入って。話したいように話
せよ、って言われた。そのときには、なんて馬鹿なことしたんだろ
って思ってて。意地になってるだけじゃん、わたし。こういうのが
一番ダサいと思ってたはずなのに、なんて考えてたんだ。
 それで、もういいや、って帰りかけたら、逆に手を掴まれちゃっ
て。どうすればいいか言えよ、このままじゃ、俺だって気分が悪い
だろ、って。
 最初は、もういいから、ゴメン、とか言ってたんだけど、ぐるぐ
るアタマでまわり始めちゃったんだ……。
 ここで、そんなら抱いてくれって言ったら、どうなるだろうって。
サイアクだよね。母親と同じじゃん。絶対、ああいうのだけはやめ
ようと思ってたのに。そんなの不毛だって、わかってんのに。
 でもね、あいつ、ちょっと考え込んだ後で、言うんだ。わかった、
やってやるって。抱いてやるって。
 あ〜あ、ほんと、やなオンナだよね。
 でも……、すごくよく覚えてるんだ。そりゃ、初めてだから、当
然かも、だけど。
 雨が降り始めて、静かだった。何がなんだかわかんないうちに裸
になってて。オッパイとか、むちゃくちゃに揉まれちゃってるんだ
けど、どうしようか、まだここまでなら止めてもいいんだ、とかば
っかり思ってた。でも、あいつもすごく必死で。彼女のこととか、
考えてなかったのかな……。結局、聞けなかったけど。
 最後は、早く、早く、って思ってた。こんなこと、早く済ましち
ゃいたい。でも、ちゃんとして欲しい。うん、そう。そうやって思
ってた。そうやって思ってたんだ。
 痛くなかった、あんまり。こんなもんかなってくらい。しばらく、
あそこが変な感じだったけど……。
 終わった後ね、ほとんどなんにも喋れなくて、傘借りて、家に帰
ったんだ。ボーッとしたまま、雨をぼんやり見てた。大丈夫だった
か、って、気をつけて帰れよ、って、それだけだったけど、なんて
言ったらいいのかな、嬉しかった。これでよかったのかな、って。
 そりゃね、シンジだってわかると思うけど、そうは上手く行かな
かったよ。次の日、どうやって話していいかわからなかったし、彼
の方から、それなりのサインは送ってもらったんだけど、ちゃんと
していきたいから、って。でも、義務感で付き合うなんて、最低で
しょ。このままいいんだって、思った。それで、もう話すこともな
くなって、そのまま。
 あーあ、どっか欠けちゃってるのかな、わたしって。初体験なの
に、今考えたら、好きだったのに、あのままになっちゃたんだもん。
おかしいよね。
 あ、やっぱり全然いい話じゃないのかな、これって。
 でもね、しちゃってから、お母さんに腹が立たなくなったのは確
かなんだ。しょうがないよね、って感じで。これは、ホントに確か。
だって、しょうがないよね。すごく楽になるってわかちゃったから。
やっぱり、親子なのかな……。そういうことじゃないのかな……」
 めぐみは俺の腕にもたれて上を向いたまま、小さく息を吐いた。
「ああ、口が疲れちゃった。あ、シンジ、怒ってる」
 馬鹿、そんなことがあるわけないだろ。俺は、めぐみの肩を抱き
寄せた。そんなことより、不意に呼び出された昔の眺めがあった。
「何言ってんだよ、そんな話で怒るかよ、俺が。だいたい、何して
俺誘った女だよ、お前は」
「へへ、そうだったけ」
 顎の下に寄せられる、小さな頭。何故だろうか、身体全体を覆っ
て抱き締めたくなる。
「そうだよな。……やっぱ、愛だよな」
「え?」
 顎の下で、上げられる顔。丸い瞳が、面白そうに輝いていた。
「だから、愛だって。俺も、高校の頃のこと、思い出した」
「もう、何想像したんだか。変な話でしょう、どうせ。振られ話と
か」
「お、ひでぇなあ……。ま、そうだけどさ」
 めぐみは、クスクスと笑うと、もう一度俺の胸に顔を埋めた。
 俺は、めぐみの話から思い出した高校時代の恋愛話を一しきり続
けた。
 中学時代にめぐみを抱いたっていう、その彼氏の気持ちが繋がる
ような気がしていた。話しながら考えると、どこがどう関係あるの
か、自分でもわからなかったが。
 俺の奴は、めぐみのようにオチがついた話じゃない。誰にでもよ
くある、失恋話だった。要は、俺の高校時代の憧れの君には、もう
想い人がいて、これといって取り柄もない体力勝負の俺には、届け
る言葉も、惹きつける魅力もなかったってことだ。
 ただ一つ特別なのは、彼女の想い人が、俺の親友だったこと。だ
からと言って、何をしたわけでも、何ができたわけでもない。いつ
のまにか、自然と結び付く同士は結び付き、彼女との間に起こる事
々を、折りにふれて聞かされる立場になっていた。
 そして、あの二人は結婚し、一児の父と母になった。
「どうしたよ、めぐみ」
 話が終わりに近づくと、茶化したり笑ったりしていた少しハスキ
ーな声は止まり、俺は、めぐみが物語の単調さに眠ってしまったの
かと思った。
「……なんか、シンジらしいね。でも、寂しくなかった?」
 短く響いた声は、とても穏やかな感じだった。めぐみの声かと聞
き間違えるほどに。
「全然」
 俺は、短く答えた。間違いのない本心だった。あの二人は、今で
も俺にとって一番の友達だ。
 もう一度、言葉が止まった。息を吐く音だけが、胸元から響いて
くる。そうか、雨が上がったんだ。話している言葉が、やけに通る
と思った。
 めぐみの身体は、俺の身体の中にすっぽり収まっていて、手を回
した背中が、ゆっくりと上下している。今度こそ、もう眠ってしま
ったに違いない。こんな夕方を何回過ごしただろう。思い巡った時、
絡み付けた足元で、何かが動く感触があった。
 股間に風が入った。すぐに、トランクスの中へ細い指が入ってく
る。そして、根元から先までが、ギュッと握り締められる感触が続
いた。
 刺激するように……、ではなかった。ただ柔らかく、十本の指が
全体を包み込んでいる。
 昂まりかけた俺のものは、中途半端なところで止まり、それでも
下半身の血が、そこへ分流していくのがわかった。
「シンジ、眠くなっちゃった……」
 舌の縺れた、寝言と区別がつかなくなる寸前の言葉。俺は、その
ままめぐみの髪の毛に指を差し込み、顎を寄せて目を閉じた。
 少し大きな息が吐かれると、後は紛れもない寝息が響き始める。
 めぐみ……。絶対に、俺は、お前を守っていく。
 いや、違う。俺は、めぐみが好きだ。幼くって大人で、分別なし
で賢い、恥ずかしがりやで開けっぴろげな、お前が。
 だから、これからもお前と一緒に生きていく。
 僅かに開けられた窓から、宵闇に浮かぶ雲が見えた。握り締めて
いた手が、緩んで解けた。少しもどかしいような感覚が残り、次第
に散っていく。
 もう一度目を閉じてから、めぐみの頭を枕の上に置き、静かに立
ち上がった。窓を半分だけ開けると、南の空にかかり始めた満月が
目に入り。
 霞が流れ、俺は、いつか手を合わせていた。


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