第二話

 夜は、わたしの時間。誰もわたしを知らない。誰も、わたしを
止めれない。
 まだあまり寒くなかった。でも、ピーンと張った空気の中、今日
も、街のネオンが綺麗だった。こうやってべったり座ってると、い
ろんな場所に反射してるのがわかる。投げ出した足先の小さな水た
まりにも、道路と歩道を分ける銀色のガードレールにも、ちょっと
向こうの駅の床にも。
 キラキラ輝いて、数え切れないほどの色を散らしてる。
 そして、光に照らされながら、てんでバラバラの方向に歩いてる
人達。若いのから、年寄り、学生からサラリーマン、地味な奴から、
ハデな奴まで。
 一人で歩いているのもいるし、何人もでつるんでるのもいる。い
ちゃついてるカップルも、ボーっとして誰かを待ってるのも。
 数え切れないほどの人と、光の海。
 そして、誰もわたしを気にしない。ずっとこうして座っていても、
誰もわたしを見たりしない。
 それが、凄く気持ちいい。
 あ、あれかな……。
 さっきのメール。
『茶色のカバン、刈りあげ、灰色の背広、40代位』
 人ごみの中を、左の繁華街の方から歩いてきたリーマン。駅前の
花時計の所で立ち止まった。間違いない。
 しばらく様子を眺めてた。決めた時間は9時だから、まだ10分
以上ある。割と律儀なオトコみたいだ。
 あの感じなら、大丈夫かな……。
 おとなしそうな様子だった。ずんぐりむっくりの体型で、時計を
見ながら左に右に、首を振って探してる。『ブレザー、長髪、背の
低い、丸顔』の女子高生を。
 今は、ストレートパンツに、長袖の横縞Tシャツ。どう探しても
わかるわけない。
 少し前だったら、遠くから確認したりしなかった。メールの印象
だけ。だって、ホントに誰でもよかったから。でも、いつからだろ
う。少しは身を守らなきゃ、て思うようになったのは。
 ちょっと、似てるかな……。
 わたしは舌を出して息を吐いた。馬鹿みたい。ゼンゼン関係のな
い記憶。あんまり思い出してたら、弱くなっちゃう。ただ、辛くな
るだけ……。
 脇に置いていたショッピングバッグを取り上げると、後ろのファ
ッションビルに向かう。
 ……着替えなきゃ。

 もらったのは3枚。わたしの決めたいつもの額。
「ユカちゃん、よかったよ〜」
 名前すら聞いていないオトコは、少し緩んだ裸の上半身をさらし
て、ベッドの上でうつぶせになってた。
「また、会える?」
 下着を着けながら、ベッドの端っこに座ってたわたしは、首を振
った。背中を向けたまま。
「5枚、いや、ユカちゃんだったら10枚出してもいいよ」
「ううん、いい。お金じゃないから」
 そう、必要な分だけあればいいから。食べて、ぶらぶらできる分
だけ。
 裸の肩に、柔からかい手が当たる。たぶん、毎日おいしいものを
食べてる、緩んだ手。
「う〜ん、ダメ? ユカちゃんみたいに可愛くて、それで……、上
手な子、初めてだから……」
 口篭る様子が、ひどい人じゃないって教えてくれる。でも、たぶ
んそれだけ。
「だ〜め。一期一会って言うでしょ?」
 背中に寄せられた裸の身体。暖かさが伝わった。……でも、今だ
けなら、いいかな……。
「でも……、今ならもう一回だけ、いいかな」
「いいの? 何でも?」
 何でも、って。何かのサービスと間違えてるのかな……。まぁ、
いいけど。さっきも凄く喜んでくれたし。
「何がいい? ナメナメする?」
「うんうん」
 頷く表情は、まるで小学生のオトコの子みたい。顔や身体は、し
っかり年取ってるのに。
「じゃ、ほら。見せて……」
 もう、すっかり立ち上がってるソレ。少しつんとした匂いをかぐ
と、頭の芯に、いつもの痺れるような感覚。
 手を添えて、舌をはわせ始めた時、身体の全部にその感じが広が
り始めてた。

 家に戻ったのは、たぶん半月ぶりくらい。いつも通り、たまった
服をバッグに詰めて、換えの服にするため。
 沿線にある小さな家。あの人たちの夢の家。でも、いまはただ、
希望の亡霊だけがさまよってる場所。
 靴を脱いで、せまい廊下に裸足をつけると、新聞や雑誌が無造作
に散らばってる。壁にかかった鏡は、この間寄った時のまま、大き
く傾いてる。もう、一年もこんな感じだった。
「だぁれ……」
 キッチンを横に、奥の階段を上ろうとした時、思い掛けない声が
した。
 ……いたんだ、あの人。
「服、持ちにきた」
 ぼんやりとテーブルに腰掛けてる、ボサボサに伸びた髪のおばさ
ん。血の繋がりでは、母親と呼ばなければいけない人。
「そぉう……」
 冷蔵庫の横に置かれた小さなTV。わたしの方にはまったく振り
向かないで、緑色のシャツの背中だけを見せてる。
「退院していいって?」
「退院? どこから? ママは元気だよ」
 TVからバカ笑いが響き渡る。でも、背中からでも明らかにわかる、
ぼんやりとした様子で、ただ画面に顔を向けてる。言葉は間延びし
た感じで、上げ下げがまったくなかった。
 ……クスリ、飲んでるんだ。
 白い錠剤が見えた。どうして、こんな状態で退院させたんだろう。
 本当は、こんなこと、したくなかった。
 荷物だけ持って、すぐに出掛けるつもりだったのに。
「精神科の、倉元先生をお願いします」
 だって、このまま放っておいたら、お姉ちゃんが悲しむから……。
 先生が言っている事は、ゼンゼン意味がわからなかった。たぶん、
まとめてみればこういう事。『よぶんな人を面倒みる場所も時間も
ありません』。
 そんな言い訳、聞きたくもない。
 あいつの会社に電話した。そして、誰だかわからない人に怒鳴っ
てやった。
「誰ですかって、そのバカ部長の関係者だよ。いいか、出張なんて
してんじゃねぇ、バ〜カ! てっめえ、何のために働いてんだよ!
死ね!」
 受話器を叩きつけて、荷物をまとめた。スニーカーを履いて、玄
関から飛び出しかけて……。
 できなかった。
「ママ、行くよ。どうせ、何にも食べてないんでしょ」
 できるだけ優しい声で言った。ぼんやりと振り向いた目。わたし
に似た、大きくはない、丸い瞳。
「何処? 買い物に行く? あゆみちゃん」
 あ、ゆみ……。
「……うん、行こう。ママ」
 本当は、こんなこと、したくなかった。
 でも、お姉ちゃんが可哀相だ……。わたしは、いくらでも耐えら
れるから。生きてるから。
 
 次の日とその次の日は、この間公園で友達になった子の家に泊ま
った。カラオケで歌ったり、お酒飲んで走り回ったり。
 『キャーちゃん』は気が置けなくて、明るい子。一緒にいると、
何にも考えなくてよかった。彼女も何も話さないし、わたしも何も
話さない。でも、だから、何日も一緒にはいられない。
 また来るね、バイバイを言って、夜の街に出た。
 今日は、ほとんどスッピンでネオンを眺めてた。風が強くて、短
いスカートだと少し寒かった。駅前のコンビニの駐車場。でも、こ
こにいれば、誰かは声をかけてくる。
「ひ・と・りぃ? 女の子ぉ」
「可愛い〜。そんな格好でいたら、さらわれちゃうよ。それとも、
俺達が誘拐しちゃおうか、なんてね」
 一人はチェックのブルゾン。一人はえんじのハーフコート。重く
ないくらいに長い、軽くパーマのかかった黒髪。
 いいところの大学生、かな……。
「遊んでくれる?」
「お、積極的じゃん。もち。友達は?」
「一人だよ。ダメ?」
「いや、全く異議なし、ナリ」
 そのあと、ちょっとクラブに行って。ショットバーで飲んで。お
金は、ゼンゼン払わなくてよかった。凄く、楽しかった。楽しくし
たかった。
 お酒が廻ってきた頃、背の高いほうが、わたしの剥き出しの太腿
に触りながら、囁いた。
「キモチ良くなろうか……」
 もう一人は、しょうがねぇかな、という感じで斜め上を向いてた。
「……いいよ。みんなで、スル?」
 え、という感じで目を見合わせる二人。だって、別に同じだもの。
気持ちいいなら、みんなでしても、同じ。
 ……こうやって触られるのは、別に初めてじゃなかった。オモチ
ャみたいにオッパイを捏ねくられて、足の間を舐められて。
 わたしはそんなに気持ち良くならない。でも、凄く興奮してるオ
トコの身体。息遣い。
 だから、どんどん使って欲しい。後ろから腰を抱きかかえられて
つらぬかれ、口の中に差し込まれて。
 動きが速くなると、わたしがどこにいるのか、わからなくなる。
ただ、心の中で呟いてた。
 わたしで、感じて。
 わたしで、感じて。
 一杯、いっぱい……。
 流れ込んでくるものを受け入れてた。身体全部で。
 その後の記憶は、ほとんどなかった。

 朝、目が覚めると、裸に毛布をかけて、ソファの上に横になって
た。
 テーブルの上には、ビールの缶が幾つも並んで、その両側には、
裸の男が二人。エアコンが回っていて、部屋の中は少し熱いくらい
だった。
 いびきをかいて、口を開けた姿。深い眠りに入ってるのは、まち
がいなかった。
 ぼんやりしながら、脱いだ下着を探して、身に着けた。
 大きな息を吐いてしまう。時計は、12時を過ぎたところ。
 もう一度、見知らぬ部屋を見回して、目をつぶった。ブラとショ
ーツを着けただけの身体を両手で抱きしめた。
 何でそんなこと、したのかわからない。
 でも、ぎゅっと、肩の関節が痛くなるくらい、自分の身体を強く
抱きしめた。
 あとは、服を着て、もう一度冬の街に出た。

 ここに来るのは、ずっと避けてた。なんとなく、恐かったから。
凄く優しくて、いい思い出。もう一度来たら、壊れてしまうのはま
ちがいないと思って。
 今日はもう、そんなこともどうでもよかった。とても寒くて、ど
うしようもなかった。誰でもいいから、抱いていて欲しかった。あ
の場所なら、あっためてくれる人がいるような気がした。
 でも、考えてみたら、今日は12月の23日。こんな格好じゃ、
身体が寒くなるのは当たり前だった。上に着た白のニットパーカー
はともかく、下は膝上までの淡いピンクのスカート。
 ううん、きっと、こんな格好で『見せ』ちゃったら、誰かは来る
はずだから。
 久しぶりに見た、繁華街からはるかに離れた裏通り。もうほとん
ど暗くなりかけた公園。
 鉄柱の立った入り口を通ると、少しカーブした遊歩道を歩いて、
小さな広場に出る。木の葉はすっかり落ちて、秋の頃とはまったく
違って見えた。
 土を、スニーカーでザッザッと踏みながら、ベンチが周辺にちょ
こちょこと並んだその場所に入ってく。
 ……誰か、いるかな。
 あ、ちょうどいい年頃のおじさん。ていうか、30ちょっと前位
かな。黒いベストに、茶色のハーフコートが渋い感じ。髪の毛も短
くて、カッコイイ感じだし……。
 ……え? でも。
 その顔は、何処かで見たことがあるような気がした。眉の太い、
楕円形の目の、丸鼻で、ちょっと冴えない顔。でも、あんなシック
な出で立ちじゃなくて……。
 違う、そうだ、そうだよ。シンジだ。なんで、どうして? なん
であんなとこに座ってるの?
 スラックスの足を組んで、少し斜め上を向いて目を閉じてる。
 ヤダ、どうしよう。
 近くの木の影に隠れようとしたその時、とつぜん、まぶたが上が
り、黒い瞳が見えた。
 視線が、合ってしまう。どうしよう、どうしよう……。
 口元に、大きな笑みが浮かんだ。動かない、身体が、動かないよ
……。
 真っ直ぐこちらを見つめて、早足でくる。後ろを振り返ったけれ
ど、どこにも逃げ場はなかった。
「めぐみ、めぐみだろ!」
 大きくて、太い声。わたしよりふた回りも大きな身体が目の前に
立つと、口元から白い息が漏れた。
「……な、なんで……」
「ずっと、待ってた。絶対いつか、ここに来ると思ったから。めぐ
み、あんとき言ってただろ、ここでいつもオトコひっかけるって」
 待ってた? どういうこと? 頭がうまく働かない。
「み、見間違えたじゃない。このオジサン。そんなキメた格好して」
「だろ」
 にやりと笑った。無遠慮だけど、すごく、すごく優しい顔。ダメ
だよ、何か、目が……。
「ダッサ〜、じゃ嫌だからな。少しは努力したんだ」
「バッカじゃないの、いい年して」
 どうしよう。抱きつきたい。ホントは。でも、どうしたらいいの
か……。
「いいんだよ。俺、めぐみのために待ってたんだから。馬鹿で大い
に結構」
「ばか、馬鹿! 勝手に思いこんでさ、わたしが、あんたなんかに、
シンジなんかに面倒みれるわけないじゃん」
 腕の中に身体を投げ出してた。信じられないよ、こんなこと、あ
るの?
「そうかもな。でも、俺はめぐみのこと、道具にしたりしない。手
に負えなくても、別れる瞬間までは本気だ」
 背中に回った手があったかい。ギュッと抱き締められると、目を
閉じてしまう。そして、後から後から、涙が止まらない。
「ああ、言えた。ずっと考えてたセリフだったんだ」
「バカ。自分でばらすな。ちょっと感動してたんだぞ……」
 ハハハ、と笑って、ずっと抱いていてくれる。足は地面について
なくて、持ち上げられる格好になってた。
「こんなちっちゃかったっけ。忘れてた」
「当たり前じゃない、一回抱いただけのクセに」
 その一回が、わたしにとってどれくらい大事だったか、今、わか
った。
「そうだよ。でも、これから回数増えるからさ」
「バカ、何決めてんの。まだわたし、オッケーなんて……」
 ……暖かい唇。憶えてる、憶えてる……。
 ずっと、ずっと、そこで抱き締めていてくれた。わたしが最後の
一言を言うまで。
「シンジ、好きだよ。今、わかった。あの時からずっと、わたし、
シンジが好きだった……」

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