1.雨の日

 暗くかげり、曇った空から、永遠に止まらぬ雨が降り続いていた。
 2031年10月23日。本来ならば、秋晴れが続いていてもお
かしくはない時節だった。もっとも、今や人々に、正しい季節感が
残っているとも考えにくかった。
 降り続く雨はやがて一ヶ月になる。観測記録が再び更新されるか
もしれなかった。
 東京湾の埋立地にできあがったこの新しいタウンも、降り続く酸
性雨のために、本来のライトグリーンよりずっと黒ずんで見えた。
そして、慢性的な日照不足は、美観を整えるために植えられたモク
セイやカエデ類などの多種多様な広葉樹に致命的な打撃を与え、酸
性雨が追い打ちをかけていた。
 21世紀の初めに計画され、新しい世紀の象徴となるべく作られ
たこの湾岸再開発地域は、まったく別の意味での象徴となった。
 それは、挫折した夢、自然の暴走にさらされる人間と現代社会の
象徴だった。
 今日も降る雨の中を、肩を丸めながら歩いて行く人々の群れ。次
々と地下鉄の昇降口から吐き出され、そびえ立つマンション群へと
吸い込まれていく。彼らの靴の底との間に、水の跳ね返る音を立て
続けている泥まみれのタイルは、美しく白灰色に敷き詰められてい
るはずのものだった。
 そして、その5時とは思えない暗闇の世界を、うねるように配置
された流線型の街灯が、ぼんやりと照らしだしていた。
 無言の都市の中を、水の落ちる音と、跳ねる音だけが不気味に響
いていた。時折話し声が聞こえても、それは力なく、ぼそぼそとつ
ぶやくように交わされるだけだった。
「今日は残念だったな」
「うん・・・そうね。でも、それより、」
 タウンの居住区、“緑”の棟の一部屋にも、降り続く雨の音が響
いていた。
「雨が早く止んで欲しいな。いくらなんでも降り過ぎだと思うでし
ょう、お兄ちゃん」
「まあね」
 リスニング・ルームの南側の壁75%を占めるTVスクリーンを
見ながら、時紀は応えた。
 そろそろ店の方へ出る時刻が近づいていた。
「日が当たらないから元気がない・・・」
 12、3才くらいに見える少女は、その茶色い瞳で、心配げに鉢
植えのサルビアを見つめた。
 影山時紀はよく、彼女のことをまるで樹の精のようだと感じた。
そして、今また、澄んだ瞳に憂慮の色を映したその姿に、その思い
を一層強めたのだった。
『・・・国会議事堂前では、再び機動隊と学生が衝突し、現在なお、
混乱に収拾はついていない模様です。一般市民もこの暴動に参加し
ており、一月のいわゆる“予算暴動”に続く大暴動に発展する恐れ
も出ています。なお、このニュースは、新しいカメラが現場に届き
次第、続けてお知らせします。さて・・』
 時紀は、真奈美の方から注意をスクリーンに向けた。
 またか・・・。しかし、まだいい。貧民層が動き出す時、その時
は東京も終わりだ。
 時紀は、少なからずそうなることを望んでいる自らに気付いてい
た。
 全ての秩序は、一度灰になればいい。
 彼は立ち上がると、カーペットの上に座って、ぼんやりと雨の降
る夕方を見つめている真奈美の横を過ぎて、部屋の隅に置いてある
通信ターミナルの前に座った。
「みせ」
 音声認識装置に告げると、短いパルス音がして、回線が開いた。
「はい、Twilight−Echoesです。
「影山です」
「ああ、影ちゃんか」
 声の調子が変わると、すぐに続けた。
「今日はやっぱり、出だったかい?」
「はい、マスター」
 真奈美が立ち上がって、時紀の方へ近づいてきた。
「今日はいいよ。どうせ、こっちまでこれないだろう」
「やっぱりですか?」
「やっぱりって、知らなかったのか。そこは通信ターミナル入れて
るんだったな、ちょっと見てみなよ」
 時紀が身振りで示すと、真奈美はターミナルのスイッチを入れた。
すぐにディスプレイが立ち上がると、メニューが開いた。
 これ?真奈美が目で尋ねるのを見て、時紀はうなずいた。
 交通情報が展開すると、赤い字で停止中の路線が示されていた。
その中には、山手線も、ほとんどの地下鉄も含まれていた。
「また、どこぞの馬鹿が送電線を切りまくったらしい」
 店長の声は言った。
「こっちから入れるべきだったんだが・・・、今日の出番、中道と
変わったんだったな。すっかり忘れてたよ」
「いえ、俺も今、TVで見たものですから」
「まったく、電車も地下ケーブルにすれば、こういうことも少なく
なるものを。システム的に無理なのかね」
「どうなんでしょう」
 声は、諦めたように言った。
「ま、いいわ。影ちゃんもゆっくり休みな。じゃね」
 回線が閉じた後、真奈美が言った。
「明日、晴れだね」
 そして、時紀の方を見て、にっこりと笑った。
 ディスプレイには天気情報が映っており、東京―曇り時々晴れと
表示されていた。
 時紀は意味ありげに笑った真奈美の丸い顔を見ると、短く切られ
た茶がかった髪の上に手を乗せた。真奈美がすこし身体を固くする
のがわかった。
「明日、朝から出かけようか、奈美ちゃん」
「・・・花達を日に当たらせてからね」
 そう言って、また、西側の広いガラス窓の外を見つめた。
 この子は、あまり多くを口にしない。言葉は、時に目で、顔の表
情で、仕草で語られる。
 ならば今は、何を俺に語ろうとしているのか。
 半年の間に時紀は、幼く見えるこの少女が、実際は16才という
実年齢以上の知識と、何か重い過去を身の内に持っていることに気
付いていた。しかしそれでいながら、無垢な子供のように、世界を
感じている。
 初めて真奈美がこのマンションにきた頃を除いて、詳しい身の上
話をしたことはなかった。
 この子の事は、何も知らない・・。
 それでも時紀は、今では激しくこの少女に魅かれていた。それは、
数限りなく見てきた普通の男女の関係、つまり契約や駆引きを伴っ
た、自立的な関係とは異なっていた。
 重苦しい日々の中で、一陣の風のように心晴らしてくれる少女。
今では時紀には、彼女のいない生活など、考えられそうになかった。
言ってみれば、二人で一人、片方の存在自体が、もう一方の存在に
依っている、分かち難い関係のように思えた。
 いったい俺は、半年前までこの広い部屋の中、一人でどのように
暮らしていたのだろう。
 そう思うと、否応なしに、出会いの頃が思い浮かんだ。
 Bay−Side Park・・・。
 見つめていた真奈美の顔が、想いに気付いたように時紀の方を向
いた。時紀は、視線を避けるようにチェアーを回すと、スクリーン
を見た。
 さっきから続いているニュースは、再び国会議事堂前の暴動を映
し始めていた。
 降り続く秋の雨の中を、“平等・正義”などと書かれたハチマキ
をした多くの学生が、防具に身を包んだ数百名の機動隊と、激しく
衝突していた。
 誰も彼もがずぶ塗れになり、また傷つき、血を流しながら、いつ
果てるともない闘争を繰り広げている。
 真奈美の笑顔でできた心の空白に、再びニヒリスティックな思い
が湧き上がった。
 平等など、実現できる言葉ではない。
 正義など、元より存在しないものだ。
 真奈美が無言で立ち上がり、東側の“緑の部屋”へと入っていっ
た。
 時紀も、小さな息をつくと、TVスクリーンを消した。そして、
さまざまな花や植物の並ぶ、“緑の部屋”のドアを開けると、中へ
入っていった。

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