3.Twilight−Echoes

 次の日、時紀は渋谷の店への出番だった。
「影ちゃん、機嫌悪いんじゃない?」
 華美な欧風の鎧を身につけていた時紀の肩を叩いたのは、白いド
レスに身を包んだ女装の男性だった。
「別に。いつもこうだろう」
「そうだっけ?」
 そう言いながら、イミテーションのパール・ブレスレッドを腕に
巻き付ける姿は、時紀には、いつものことながら同じ男性とは思え
なかった。
 その男、中道芳則は、その微妙な視線に感づくと、声色を変えて、
時紀の首に手を廻した。
「ああ、王子、姫を守って下さいね」
 182cmある自分と比べて10cm以上背の低い、芳則のブロ
ンドのかつらに手を滑り込ませた。
「もちろんですとも、我が愛する姫よ。私はあなたのためなら命を
賭けても惜しくはない。なぜなら、あなたは私の命そのもの、ああ、
姫、あなたなしでは生きてはいけないのです」
 その時、後ろから声がした。
「おまえら、」
 くちずけを交わそうとしていた二人は、にやっと笑って振り向い
た。フロアーの入口の青い幕の所にこれまた装飾的な黒い鎧に身を
包んだ大柄な男が立っていた。
「そういうことしてっから、“本物”だって陰口叩かれるんだぜ」
「悪い?」
 芳則がパープルのアイシャドウをひいた瞳で流し目を送った。
「また、すぐそういう・・・。おまえのはきれいすぎてぞっとしね
えんだよな」
「俺もそう思うよ、」
 時紀は芳則の腕を離れると言った。
「で、岸、俺の指名だろう。さっき声が聞こえたから」
「ああ、そうだ。よくわかるんだな」
 時紀は鎧の上から、肩の張ったグレーのマントを羽織った。
「大事な人だからな。声くらいわかるさ」
「大事な大事なパトロン様、ってな。そういやあ、あの人も芳とお
んなじようなもんだな」
 岸は、高校時代アメフトで鍛えたという幅広い肩をすくめた。
「パトロン、てのは少し違うな、」
 時紀は芳則から細長い装飾用の洋剣を受け取った。
「それに、理絵は芳則みたいにハンパじゃないな」
 控え室のまん中に置かれたデスクでチェアーに足を組んで座って
いた芳則が、もう一度立ち上がると、口を開いた。
「確かにそうだよ。あの人には参るね」
 そして、軽く時紀の唇に触れると、
「・・・王子様、お気をつけて」
「ああ、姫。行って来るぞ」
 言うと、時紀はフロアーへ消えて行った。
 その後ろ姿を見ながら、芳則がつぶやいた。
「ほんと、ストイックなんだよね。影ちゃん」
「あいつが?先輩が前に言ってたぜ。寝技で今のポジション築いた
んだろう」
「・・・岸ちゃんもね、悪い人じゃないんだけど」
「あ?」
 岸は的はずれな高い声を上げた。
「人は自分の目で確かめなきゃだめだよ。僕も、だてに幾人ものラ
バーとつき合ってるわけじゃあないからね。問題は幾人とベッドを
共にしたかじゃない。そういう自分をどう受け止めてるかだよ」
「だから?」
「だから、影ちゃんの目がね、ちょっと違うんだな。醒めてるんだ
ったらよくわかるんだけど。そうじゃなくて、どっか真剣なんだよ
ね」
「そうかねえ」
「そうだよ。・・・僕としては、つらいよね。タイプなんだけど」
 ため息をつく芳則を、不可解な奴、といった風に岸が見つめた。

 絶対王政期の宮廷のように彩られたフロアーに、時紀は踏みいっ
た。
 ワルツのリズムが、ディジタルな音色で奏でられる中、四方から
のレーザー光と立体的に投射されたアーチ形の天井や壁画、多種多
様な彫像が妖しい雰囲気を作り、広く取られた中央部を、腰の膨ら
んだロココ風のドレスの女性や、裾の広がった華美な上衣にいくつ
かのリボンをつけたルイ王朝風の男性が、ワルツとも、ディスコ風
ともつかない、折衷型のステップを踏んでいた。
 そして、四方の壁ぎわには柔らかいソファと小さなテーブルが用
意され、踊っていない人々が、アルコールを口に歓談していた。
 時紀は、ベルサイユ王朝風のフロアーの中では多少異彩を放つ、
中世風の鎧とコートに身を包み、客達の間を歩き抜けて行った。そ
して、目的のテーブルの前に着くと、そこに座っている二人の男の
前で膝を折った。
 片腕を胸に当て、時紀はこうべを垂れた。
「お呼び出し、光栄に存じます。宮廷の騎士、シャドウでございま
す」
 すぐに声がした。
「堅苦しいのは抜きにして、座れば。影山君」
 それは時紀にとって、聞きなれた声だった。
「それでは、お言葉に甘えて。失礼致します」
 時紀は一見するとほとんど男にしか見えない、黒いジャケット姿
の女性の隣に座ると、すぐに口を開いた。
「どうしたの。店にはこないんだったろう」
「まあね」
「いや、わたしが頼んでね。いま、こういうアミュージング・スペ
ースの特集企画を練ってるんだよ」
 王朝風のフリルのついた衣装ですぐにはわからなかったが、やが
て時紀は、理絵の連れが誰なのか気づいた。
「・・・柏原さんですね。いつも番組は拝見させていただいてます」
「いやいや、それは。それにしても、こんな格好をさせられるとは
思わなかったのでね。市村君は、一言も教えてくれなかったし。無
理やり着せられてしまったよ」
 中年のTVキャスターは、少し酔った口調で言った。
「お断りになることもできたんですよ。実際、・・・理絵は、ジャ
ケットのままでしょう」
 時紀は、一瞬、第三者のいる場所で理絵をどう呼ぶか戸惑ったが、
いつも通りに言った。
「柏原さんがどういう格好になるかと思ってね。でも、思いの他似
合ってるかな」
 理絵は、ブルーのシャツのポケットに入っている黒いサングラス
に触れながら、口の端を上げて笑った。濃い眉と、鋭く光る目は、
相変わらず皮肉な色を帯び、身体もまたたくましくなったように見
えた。
「・・たく。いつも市村君にはおもちゃにされるな」
 たてロールの入った大きなかつらは、お世辞にも似合っていると
は言えなかった。
「何かお作りしましょうか、柏原さん」
「何があるの?まさか、アルコールまでベルサイユ朝風のものしか
ないとか?」
「いえ、そんなことはないですよ。今まで、黒ビールをお飲みにな
ってたんでしょう。ここは、ミュンヘンではありませんからね」
「なかなか詳しいね。それじゃあ、今度は、スコットランドに飛ぶ
かな」
「スコッチなら、ここはバランタインの三十年があるね、影山君」
「そうですね」
 理絵の意味ありげな視線に応えるように、時紀は、テーブルの下
で組んだ足の先で、理絵のスラックスの膝の辺りをつついた。そし
て、壁ぎわに立っている衛兵風の衣装を着けたウェイターの一人を
呼び寄せると耳打ちして、キッチンの方へ押しやった。
「・・・今は、西欧ではほとんど麦はとれないいだろう」
 柏原が理絵に言った。
「そうだね」
「じゃあ、とんでもない値段なんじゃないの?まあ、ショット十万
くらいならなんとかなるけど」
「そんなにいただきませんよ。まだボトル一本、百万にはなってま
せんから」
 時紀は答えた。
「そう、そんならいいや」
「豪気だね」
「そうかな?」
 理絵がいなすと、柏原は眉をしかめて首をふった。
 時紀はその表情を見た時、さっきは似合わないと感じた柏原の角
張った顔が、銀髪のかつらによくマッチして、まるで十八世紀のフ
ランス貴族そのものに見えるのに、かえって不愉快さを覚えた。
 理絵がちらっとそんな時紀の表情を見た。
「その衣装、重そうだな」
 肩あての角ばったあたりを指しながら言った。
「そうでもない。ぜんぶスチロール製だからね。ただ、ちょっと動
きにくいな」
 その時、柏原が口をはさんだ。
「でも、似合ってるんじゃないかな。シャドウ、君。きみは、モデ
ルにもなれそうだね」
「・・・カウンターで言われたんでしょうが、影山、で結構ですよ。
タレントネームはあまり好きじゃないんです」
「私が来てた頃は、シャドウじゃなければ困る、と言ってたはずな
んだけどな。少しは偉くなったらしいね」
 時紀はさあ、といったように鎧の肩をすくめた。
「そう言う理絵も、随分と日に焼けたようだけれど」
 ベリーショートの髪の下で燃える肌は、確かに一層褐色の度を増
したように見えた。
「アフリカ取材と言ったろう。一ヶ月もあそこにいれば、誰でもそ
うなる。あの肌の白い、中道君でもね」
 その時、奏でられていたワルツの音が止まり、踊っていた人達が、
各自の席に戻り始めた。
 今まで輝く七色の空間を演出していたレーザーの光が消え、壁画
と彫像の間に配置された炎の形をしたランプが、煙るような赤い光
を放ち始めた。
「まったく、凝ってるね。いつもこんな趣向なわけ?」
「いいえ。今日はメイクアップ・デイですからね。普段は、普通の
クラブなんですよ」
「なるほど。じゃあ、今日のために、こうやってセッティングとか、
その衣装とか、用意するわけだ」
「でなければ、たまりませんよ。こんなコスチューム、週一度だか
ら我慢も出来るんですよ」
「そうすると、」
 柏原は、理絵を通り越して、時紀の方に流し目を送った。
「普段の日に来れば、きみのタキシード姿が見られるというわけだ」
「そうですね。またおこしいただけるなら、嬉しいですよ」
 その時、「ちょっと」と言って理絵が席を立ち、その黒いジャケ
ット姿が奥に消えて行くと、ソファには柏原と時紀の二人だけにな
った。
 時紀はこの時には、理絵が何を企んでいるのか飲み込めていたの
で、彼女のいた分をつめて、柏原の横に座った。
 頼んでおいたバランタインがテーブルの上にのり、柏原は静かに
口をつけた。
「きみは、影山君、彼とはどういう付き合いなんだね」
「彼というと?理絵のことですか」
「そうだ。市村君には、男性型の代名詞の方が似合う。そういう女
性だ」
 その声は、心持ち震えているようだった。
「別に、特別な関係ではありませんね。もちろん、嫌いではありま
せんよ」
 時紀は、軽く目配せをした。
 敏感な男ならば、これだけでわかるはずだ。
「・・・誰か別の人間とでも、構わない、わけか?」
 当初の礼儀正しい調子はすっかり失せて、ぎすぎすした太い声に
変わっていた。
 時紀は柏原の質問には答えず、ゆっくりフリルのついた短いズボ
ンの膝に触れた。そして立ち上がると、テーブルの上に番号の走り
書きされた、小さな水色のカードを置き、静かに立ち去った。
 既に暗くなったフロアーには、会話は聞こえず、小さな声か、あ
るいは押さえられたうめき声のようなものが響いていた。
 時紀はフロアーの中央を静かに歩き抜けて行くと、鎧を止めてい
る紐を解きながら、控えに戻った。
 カードを目にした瞬間の、柏原の隈雑な笑みが浮かび上がって、
そして消えた。

 ホテルを出て、道玄坂を下っていく時紀の肩には、弱い雨が降り
つけていた。
 まだ夜は明けていなかったが、時紀は柏原が目覚める前にホテル
を出てしまいたかった。
 時紀自身、理絵の情報戦略のだしに使われるのは初めてではなか
ったし、KTVではかなり大きな権限を持っていると、以前彼女自
身が話していたことから考えても、柏原を自分にたきつけたのは何
か考えあっての事、と容易に想像することはできた。そして、夕方
の家族向け情報番組で穏やかな意見と態度を売り物にしているTV
キャスターが、ベッドの中でいかに隈雑でアナーキーな言葉を吐こ
うとも、ある程度の社会的地位がある人間なら、男女の別なく二重
人格性をあらわにするのはそう珍しいことではなかった。
 だから、昨夜以来、胸の悪くなるような不快感に襲われ続けてい
るのは、そんなわかりきった事実のためではなかった。まして、こ
の不愉快な気分は、店に出る前から、朝、マンションで目覚めた時
から続いているように感じるのだから。
 2015年に自家用車の全面禁止が法制化して以来、バスやタク
シーが通る他は有名無実と化している広い車道のまん中を歩きなが
ら、時紀はやり場のないわだかまった気分を引きずっていた。
 まるで、死んでいるようだ。
 見慣れた朝の渋谷の街に、そんな印象を受けるのは初めてだった。
しかし、言葉にしてみると、その通りという他はなかった。
 夜のネオンが消えてしまえば、雲に覆われた世界に光を投げかけ
るものは何もない。人通りが失せてしまえば、ビルばかりが立ち並
ぶ人の住まぬ都市には、生活の臭いもない。
 駅前広場のドームに近づいてみれば、雨を逃れて所々に崩れるよ
うにうずくまっている浮浪者のうめき声か、あてもなく叫び続ける
声だけが、雨の落ちる音とともに、不協和音を奏でている。
 時紀は、ごろごろと横になった浮浪者の間をぬうようにして、地
下鉄のホームへ下りようとしていた。その時、置き去りにしようと
していた原因不明の不愉快さを引き留めるように、左足が何かにつ
かまれて止まった。
「お兄ちゃん、お金、くれよう」
 泣くような高い声をあげて、すすけて黒ずんだ衣服の残骸をまと
った浮浪者の一人が、時紀のGパンの裾に取りすがっていた。
 時紀は無視して足を振り払おうとしたが、その時にはがっちりと
足首がつかまれていた。
「汚い手でさわるな!」
 足を振るようにすると、汚れた顔面の中で、白く浮き上がった両
目を、すがるようにして見上げた。
「お兄さん、お金、下さいよ。食べたいんだ。なんか、お兄さん」
 下を見た時紀は、浮浪者の目をまともにのぞき込む形になった。
そこには、狂気の影があり、かつての自らがいた。
 普段は人間でさえなく、気に止める物ですらない浮浪者の一人が、
急速に人格を持って、胸の内に立ち上がってきた。
「手を離せ!」
 それはもう、脅しに近い口調だった。わだかまっていた不愉快さ
もあわせて頭に血が昇り、怒りだけが全身を支配していた。時紀の
激しい目付きに、浮浪者は慌てて手を離したが、時紀は続けた。
「金が欲しいなら、働け!てめえの心に負けてるだけだろうが、え
え?違うのか、違うなら言ってみろ」
 浮浪者はもごもごと何かいいかけたが、時紀はその足の辺りを激
しく蹴り上げると、怒気をむき出しにして、叫んだ。
「できないといいかけたろう、ああ?できるんだよ。できるんだ!
やろうとしないだけだ。はい上がれるんだ。見返してやれ。てめえ
には覇気がないのか?うだうだしやがって。甘えんじゃねえ、金が
欲しいなら、勝ちたいなら、てめえの力でつかむんだ!」
 次々と言葉を吐き出しながら、うずくまった浮浪者の胸と言わず、
顔と言わず、続けざまに蹴り上げた。
「・・・許して下さい。許して下さい」
 一転してか細い声で謝り続けるその顔に向けて、さらに足をたた
きつけた。
 気が付くと、辺りにいた数十人の浮浪者がぞろぞろと立ち上がり
始め、時紀の方ににじり寄ってこようとしていた。
 下を見ると、足をつかんできた浮浪者は、鼻から血を流し、弱々
しい息をして、まだ小声で許しを請い続けていた。
「やめろう」
「そいつは、あやまってるんじゃないか」
 迫って来る他の浮浪者達に、時紀は身の危険を感じた。そして、
素早く振り返ると、階段を駆け下り始めた。
 浮浪者の一群は、階段の途中まで時紀を追ってきたが、やがて、
元の場所へ引き返して行った。
 走り続けて改札を通り、ホームで息をつくと、時紀は後ろを振り
返った。もう、誰も追ってきていなかった。
 馬鹿なことをした。相手にする価値さえない奴らだというのに。
『はいあがれるんだ!』
 しばらくしてから、浮浪者に向けて叫んだ言葉のかけらが胸の内
で反響し始め、皮肉めいた笑いを浮かべさせた。
 それは、はい上がった者の言い分か?
 それとも、俺もまだ、あいつらと同じ場所にいるだけなのか?
 それ以上深くは追わず、時紀は気持ちを静めるように軽く息をつ
いた。
 始発まではまだ30分以上あった。

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