6.Pure Mind

 一月以来の大暴動が発生し、クラブが開店を諦めた十月最後の日、
TVを消した時紀は、真奈美と二人で、緑の部屋にいた。
 部屋の両側には、スチールの段の上に、たくさんの鉢がところせ
ましと並べられ、赤やオレンジの花を咲かせていた。
 そして、南側の窓の近くには、シダやポトスが伸びだし、その下
にはシンゴニウムやカポックが緑の葉を繁らせていた。
 時紀は、中央部にできた何も置かれていない空間に寝そべって、
薄いパンフレットを読んでいた。
 真奈美は花をつけたグラジオラスの鉢の近くにいて、家庭園芸と
書かれた小冊子をぱらぱらとめくっていた。
 いつものように濃い花と草の香が部屋中にたちこめていた。
 本を読むのを辞めた真奈美が、大きく枝を広げたベンジャミンの
木の横に立つと、寝そべってパンフレットを読んでいる時紀を見つ
めた。
「なに?」
 時紀は真奈美の視線に気が付くと、肩ごしに振り向いた。
「んん、別に」
 答えると、時紀の側に腰を下ろした。時紀は、自分の見ていたパ
ンフレットに、北海道の原野が広がっているのを見て、真奈美の方
に示した。
「これさ、夫婦村って一般には言われてるナチュラリスト達の共同
体の畑の写真なんだって」
「ちょっとは聞いたことはあるよ」
「んん。本当は正式な村の名前があるらしいんだが、移り住んでく
る人達が、みな家庭を持っている人ばかりだったんで、こういう通
称になったらしい」
 真奈美はいつものように黙って時紀の話にうなずいていた。
「あのさ、」
 時紀はこの二月ほどの間、何度か切り出そうとしていた台詞を口
にした。
「真奈美は、俺がここへ行くと言ったら、ついて来るか?」
 時紀が指さした広い畑の写真を、真奈美はしばらく見つめていた。
「ここ?」
「そう、北海道、道東の夫婦村」
「だって、家族しか入れないんじゃないの?」
「いや、」
 真奈美の反応を見ながら、注意深く言った。
「通称がそうなだけで、家を立てるだけの蓄えがあって、農作業の
分担を果たせるならば、誰でも土地を貸してもらえるんだ。一人で
も構わない。家は辺りの木でログハウスを作るから、ほとんど費用
もかからないらしい」
 真奈美は答えを捜すように、茶色の瞳で時紀を見つめた。
「やっぱり、田舎に帰るのはいやか?」
「そんなことは・・・・」
 真奈美が言いかけた時、ドアの向こう側でテレコムの呼び出し音
が鳴り始めた。時紀はごめん、と言うと、緑の部屋を出で、ターミ
ナルの前に座った。
「はい」
 多少乱暴な声で言うと、回線がつながった。
「はーい。時紀」
 理絵だ。
 すぐにわかった。
「ああ、理絵か。今、絵も出すよ」
「出さなくていいよ」
 すぐに理絵の声は言った。
「どうして」
「いま、帰ったばかりで、ひどい顔してるからね」
「今帰ったって?やっぱり延びたのか」
 わかりきっていた事だったが、時紀は言った。
「そう。ようやく解放されたって感じかな。ねえ、明日、いいかな」
「あ、ああ」
 時紀は真奈美と出掛ける予定を心に止めて、曖昧な答えをした。
「なんかあんの?店?」
「いや。店は休みだ」
「じゃ、いいんじゃん。あたしにいい顔、見せてね。こっちから出
かけるから」
「俺が・・・」
 言いかけると、矢継ぎ早に言葉を発した理絵は、一方的に送話を
打ち切っていた。
 こんな時に。時紀はため息をつくと、ディスプレイを軽くこぶし
で叩いた。理絵の事など、この半年間、ほとんど意識に上ることは
なかったというのに。かえって、南米で死んでしまえばいいとさえ
思っていた。
明日はなんとかして帰ってもらおう、時紀はそう決意していた。


 その夜、普段よりずっと早くベッドにはいると、時紀は腕枕をし
て、天井を見つめながら、隣のベッドで目を閉じる真奈美に言った。
「明日、ちょっと客がくるけれど、すぐに帰ってもらうから。そし
たら、どっかへ出かけよう」
「・・・別にいいよ」
 真奈美は、静かに言った。時紀の方を向くように、寝返りを打つ
と、青い毛布を寒そうに引き上げた。
「寒い?」
「ううん、そんなことないよ。ねえ、お兄ちゃん」
 いつからかそう言うようになっていた自分への呼びかけに、時紀
はうなずいた。
「人がくるなら、私のために無理しないで。わかってるから」
「え?」
 時紀が真奈美の方を向くと、向いのベッドの中で、彼女は目を閉
じていた。
「・・・お兄ちゃんの仕事って、女の人を楽しませること、だもん
ね」
 いつからかは真奈美も知っていたろうと思いながら、それでも時
紀は胸が痛んだ。そして、答える言葉を選ぼうとして、それが無駄
だと悟った。
「・・・ああ、そんな所かな。でも、無理してるわけじゃないさ。
どんな相手の時でも、俺の心はそこにはないからね。動いているの
は身体だけで、そういう自分と、相手とは何の精神的つながりもな
いと知っているんだ。わかる?」
「わかる。私も、似たようなものだったから・・・」
「え?」
 時紀は意外な言葉に声を上げたが、真奈美はそれ以上何も言わな
かった。
 そして、もう眠ってしまったのか、と思った頃に、もう一度声が
した。
「ねえ」
「うん?」
 時紀も閉じかけていた目を開けて応えた。
「私、行ってもいいよ。お兄ちゃんとなら」
 何の事かはすぐにわかった。時紀はうなずくと、「ありがとう」
と小さく言った。
「ううん、私がお礼言わなくちゃ。ただ、お兄ちゃん、私のために
決めないでね。自分のために決めてね」
 時紀は、真奈美の優しい言葉を受け止めながら、ゆっくりと言っ
た。
「二人のために決めよう。家族のいない俺と真奈美は、兄弟だ。俺
達は家族なんだから、二人のために決めればいいんだ」
「・・・うん。うん」
 真奈美は小さくうなずいた。そして、しばらくしてから、「あり
がとう」と言った。
 その言葉が、時紀に向けたものなのか、ベッドルームの片隅に立
っているゴムの木に言ったものなのかはわからなかった。
 ただ、時紀は、考えていた。
 俺は、誰のためにこの街を離れるのだろう。それは、この息苦し
さから、自分を見失う汚れた環境から逃げるためだったはずだ。な
らば俺は、真奈美の事は、何も考えてはいないのか。自分がついて
きて欲しいがために、彼女も連れて行くのだろうか。
 家族だ、と言った口調は、自分にとって聞き慣れた、言葉の上だ
けでの虚像だった。整形で年を30も若返らせた富豪の未亡人に、
美しい、とささやくように、ホモの政治家を、キップがいい、さす
が先生だ、とおだてあげるように。
 いや、それだけではない。真奈美に対する俺の言葉と気持ちは、
それだけではないはずだ。
 時紀は激しく否定すると、思いを収束させて、やがて、眠りにつ
いていった。
「おまえは、真面目すぎるよ」
 中道芳則がよく時紀に言った言葉が、夢の中でささやいたように
思えた。


玄関で呼び出しのベルがなると、時紀は、真奈美に緑の部屋に入っ
ているように言って、理絵を迎えに出た。
 玄関のキーを外すと、勢いよく扉が開いて、久しぶりの顔が、時
紀の目の前にあった。
「出迎え、ありがと」
 理絵は、少し痩せたようで、えんじ色のジャケットの引き締まっ
た肩が、半年の海外取材の厳しさを想像させた。
「入るよ」
「いや、理絵」
 時紀は、玄関で制止しようとしたが、おかまいなく理絵は中へ入
っていった。
「なに、ときの・・・」
 理絵は時紀に応えようとして、室内の様子の変化に、言葉を止め
た。
「あれ、随分と、きれいになったな。あんた、観葉植物なんて、世
話する趣味あったっけ?」
 背の高いベンジャミンが、リスニングルームの奥に置かれていた。
 時紀は、少しはらはらしながら理絵の様子を見ていた。
「ま、いいか。ここには一年は来てないしな」
 そして、いつも抜け目ない瞳を、時紀に向けていたずらっぽく光
らせると、首に手を廻した。
「ベッドに連れてって」
「おい、まだ、朝だぜ」
 理絵の瞳の色を見たとき、時紀にはこうくることはわかっていた。
「それが、どうしたの。あたしが欲しいときには、あなたは与える
義務があるんだから。あんたはあたしの欲望なのよ。わかってるは
ずだよ」
 時紀は、じりじりと後ろへ下がると、ベッドルームのドアを背に
する形になってしまった。
 この会話の全てを、真奈美が聞いていると思うと、なんとかして
理絵を諦めさせなければ、と思った。
「抵抗するね。でも、ここまでだよ」
 理絵は言い、ドアのノブを押さえている時紀の手をひねると、一
気に部屋の中に倒れ込んだ。
「あれ?」
 理絵は、時紀の身体の上に乗りながら、狭くなったベッドルーム
を見上げた。そして、すぐにベッドがもう一つ付け加わっているこ
とに気づくと、時紀の顔を両手で夾んで、面白そうに言った。
「なるほど。そういうことなんだ。かわいいねえ、隠すなんて。別
にいいのに。時紀も、女の子を囲いたくなったわけだ」
 時紀は、理絵に調子を合わせて言った。早くこの状況をなんとか
したかった。
「そういうことだ。だから、今日は勘弁してくれよ」
「だめ」
 理絵は断固たる調子で言った。そして、既に時紀のシャツの胸ボ
タンを外し始めていた。時紀は理絵の手を止めようとしたが、押さ
えつけられている時紀に、あらがうすべはありそうになかった。
「別に、あんたが誰とつき合っても構わないけれど、あたしの望み
を断わることは許さない」
 理絵は、時紀のシャツをはぎ取りながら、言った。
「あんたは、わたしの肉体的な欲望の行き場なんだから。そのため
に、高いお金をはらってる大事なアイテムなのよ。しかも、そうは
見つけることのできない最高級のね。だから、わたしが望んだ時は、
逆らうことは許さないよ。それが、時紀の義務だからね」
「わかってる」
 時紀は観念したように言った。理絵の自分を見つめる底知れぬ瞳
が恐ろしかった。
「ただ、待ってくれ。このベッドは、俺の恋人のベッドじゃない。
まだ、生理もないほど年のいかない女の子の、眠る場所なんだ。そ
の子はこの家の中にいるし、たぶん、この話も聞こえてる。だから、
別の場所に移ろう。それで、いいだろう」
「きれいごとばっかり」
 理絵は時紀の身体を放すと、ジャケットを脱いだ黒いTシャツの
まま立ち上がった。
「そんなこと、信じられるわけないだろ。どこの女の子が、あんた
みたいなでかい男と同じ部屋で寝るもんか。諦めが悪いよ、時紀く
ん」
 言うと、理絵はベッドルームを離れ、リスニングルームの方へ出
て行った。
「どこへ行くんだ?」
 時紀が身体を起こすと、理絵は言った。
「ここにいないとすれば、奥の洋間だろう。時紀ほどの男を落とし
た女の顔、見たくてね」
「おい!」
 時紀は叫んだが、理絵は、別に何もしやしないよ、というふうに
微笑むと、ダイニングを抜けて行った。
「なに、これ」
 理絵は、“緑の部屋”のドアを開けるなり、小さな声でつぶやい
た。
 全てが植物で覆われた六畳ほどの洋間は、無機的なマンションの
調度の中で、異様な感じを与えていた。あるべきはずのない所に、
緑の世界が開けていた。
 そして、後からきた時紀は理絵の肩ごしに、部屋の一番奥、南側
の窓際に置かれたシダの下に、真奈美が膝を抱えて耳を塞いでいる
のを見つけていた。
「あれ、本当に女の子だ」
 理絵は部屋の中に入って行くと、真奈美の前にしゃがみこんだ。
「お嬢ちゃん、どうしたの」
 そう言うと、膝を抱えている真奈美の頬の辺りに手を触れようと
した。
「理絵、やめ・・・」
「いや!」
 理絵を突き倒すと、真奈美は立ち上がり、時紀の横をすり抜ける
と、一目散に飛び出して行った。
「真奈美、待て」
 後を追いかけようとした時紀の手を、理絵がつかんだ。
「追いかける気?」
「当り前だろう。理絵のせいだぞ。あの子は、普通の子より、ずっ
と潔癖なんだ。だから、俺は・・・いや、そんなこと言ってる場合
じゃない」
 時紀は理絵の腕を振り払おうとしたが、理絵は手を放さず、さら
に言った。
「あんな変な子、ほっときなよ。だいたいあんた、いつからロリコ
ンになったんだ?」
「理絵、おまえ!」
 時紀は余っていた左手で、理絵の頬の辺りを殴りつけると、床に
倒した。
 そして、うずくまった理絵を後にして、時紀は外に駆け出した。
下を見ると、ちょうど小さな影が、居住区を走り出ようとしている
ところだった。
「真奈美!」
 下に向けて叫んだが、十階のこと、下に届くわけもなかった。
 しかし、時紀は、真奈美の駆けていく先から、それがどこである
のかだいたいわかっていた。
 そして、なぜあんなに簡単に理絵を受け入れてしまったのか、取
り返しのつかない悔恨に襲われながら、非常階段へ走って行った。


 細かい雨の降るBay−Side Parkに足を踏み入れると、
そこには誰もいなかった。桜の木の下でうずくまっている、白いワ
ンピースの少女以外は。
 時紀は、ゆっくりと近づいて行った。何を言って、彼女の気持ち
を静めればいいのだろう。いったい、あの会話のどこまで、真奈美
は聞いていたのだろう。
「・・・真奈美。奈美ちゃん」
 時紀は、ゆっくりとしゃがみこむと、膝を抱えている真奈美の目
の高さまで下りた。
「悪かったよ。俺が悪かった」
 雨のしずくが降り注ぎ、短い茶色の髪が濡れそぼって、小さな顔
にかかっていた。
「顔、上げてよ。あの人は帰ったから」
 真奈美は、ゆっくりと顔を上げた。
「本当?」
「ああ」
 時紀は言うと、真奈美が拒まないのを確かめるように、頬に手を
当てた。真奈美は、大きく目を見開くと、時紀を見つめた。
 いったい、何がそうさせたのだろう。
 濡れた髪がかかった、その深く、茶色の瞳か。
 それとも、時紀の全てを信じるように緩められた、赤い唇か。
 いや、押せば折れてしまいそうな、無防備で細い身体か。
 いつの間にか時紀は、頬にかけていた手を引き寄せて、真奈美に
キスをしていた。
 それは、心からの優しさのためで、決して、性的な目的ではなか
った。
 しかし、引き寄せた肘が、真奈美の頬にかかっていた腕が、偶然
に真奈美の左胸の辺りに触れた。それは、まったく時紀の意図して
いたことではなかったが、はっとした感触があった瞬間、全ては終
わっていた。
 時紀の耳に、何か声が聞こえた。そして、真奈美は再び駆け出し
ていた。
 時紀は、我に帰った。真奈美を初めてマンションに連れてきたと
きのような不思議な空気に、再び包まれていたのだ。
「真奈美!」
 湾岸道路に向けて駆け出した真奈美の横から、ちょうど、バスが
走ってきていた。時紀は、必死に後を追い、もう少しで追いつくと
思った瞬間、真奈美の姿はバスの向こう側に消え、振り向いた目の
前には、バスのライトがあった。
 時紀は、引っかかるようにして、バスに弾き飛ばされると、公園
を作っている土盛りの上に投げ出された。
 耳に、乗客のものと思われる叫び声があった。
 なま暖かいものは、経験からして、頭から流れている血に間違い
なかった。
「真奈美・・・」
 時紀は、真奈美の姿を目で追おうとしたが、視線が定まらなかっ
た。
 どうして、立てないんだ!
 身体に力が入らなかった。足が震えて、意識が遠くなった。最後
に、真奈美のおびえて見開いた視線が、強烈な悔恨と共にきらめき、
意識がなくなった。

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