7.独り

 事故のけがは、それほどの重傷ではなかった。
 ただ、時紀の心に残された傷は、二度と元に戻らぬ様に思えた。
 病院の中で思い出すのは、真奈美との数々の場面、そして、あの
十一月の日の、終わることのない繰り返す記憶。
 時紀は、独りよがりだった自分の心を悔い、蔑んだ。しかし、そ
うしたところで、真奈美が戻って来るわけでも、過ちが許されるわ
けでもなかった。
 ほとんど暗く、沈み込んだ入院生活の中で、面会も断わることが
ほとんどだった。個室の窓の外にはタウンの全景が見て取れたが、
そんなものは見たくもなかった。
 ただ、時紀は、クラブの同僚が見舞いにきたときには、真奈美の
行方を捜してくれるように頼み、マンションにも時々顔を出してく
れるように言っておいた。もっとも、行方不明の人間を捜してくれ
る所は、どこにもなかったが。そして、再び真奈美がマンションに
戻って来るとも思えなかった。
 理絵も幾度か面会にきたが、時紀は断わり続けた。一度、眠って
いる内に走り書きが置いてあったが、そこには、『ほんとうに申し
訳ないことをしたね。また来る。―理絵』とあった。そして、その
後入院生活も一月近くなり、まもなく退院という頃になって、理絵
が再び海外取材に出かけたという話を、芳則に聞いた。
 時紀は、二度と理絵と自分は元の関係には戻れないだろう、と感
じていた。それは、真奈美の最後に見せた瞳の色を思い出すとき、
どうしても、理絵に対する憤りと、自らの至らなさが胸を襲うから
だった。そして、真奈美の瞳の記憶は、決して消えることはないだ
ろう。
 同時に時紀は、もはや現在の仕事を続けることが出来ないことも
知っていた。それは、理絵に会う事ができないのと同じ理由に因っ
ていた。
 やがて、十二月も十日を過ぎた頃、時紀は退院した。
 その足で警察に向かった時紀は、今までの行きさつをすべて話し、
真奈美に誰かから捜索願いが出ていないかを調べてくれるように頼
んだ。
 警察では担当官が激しく時紀を叱責した後で、あたってみると約
束してくれた。
 マンションに帰るタクシーの中で、Bay−Side Park
の木々を見た時、いつもに比べ、まったく勢いがなく、そのうち枯
れてしまうようにさえ感じられた。そして、マンションに着き、緑
の部屋の戸を開けてみれば、そこは、力なくしおれた植物の廃虚と
化していた。
 時紀の心には、大きな穴が開いていた。そこを吹き抜ける風は、
どのようにしても止めることのできない強い風だった。
 そして、時紀は、暗いベッドルームに一ヶ月ぶりに足を踏み入れ
たとき、そこに並べられた二つのベッドに、理絵にはぎ取られたま
ま置き捨てられていたシャツに、涙がこぼれて止めることができな
かった。
 それは、6才で児童村がつぶれ、誰よりも好きだったマーチャー
の岸本お母さんと別れた時に流し続けた涙以来、一度もその頬を伝
ったことのない、真実の悲しみだった。
 そして、時紀は気づいた。
 俺は、独りなのだ、と。6才の時からずっと独りだったのだ、と。
 俺は、自分だけを愛していた。嫌悪していた人々と同じように。
そして、あの半年間だけ、俺は初めて人を愛した。いや、愛そうと
していた。あの間俺は、独りではなかったのだ。
 しかし、その日々は二度とは戻らない・・・。


 それから半月間の間、何度か店からテレコムがかかってきたが、
時紀はもはや、東京にとどまる気持ちはなかった。
 そして、真奈美の消息は、まったく知れず、手がかりさえなかっ
た。
 既にマンションの中は片付けられ、あとは電気機器だけが残るだ
けだった。もう、北海道へ移る手はずは整っており、いつでも出発
できるようになっていた。
 ただ、気にかかるのは、警察から連絡があったことによれば、や
はり真奈美の捜索願いは出ており、それは樹一枝と言う、真奈美の
姉から出されているものだった。ただ、彼女の消息もまた、真奈美
と同様にわからなくなっていた。
 TVスクリーンをつけて、荷物をまとめながら、時紀は思った。
真奈美の姉から警察に連絡があれば、彼女の最後の消息を知ってい
る自分に会いたがるだろう。時紀は、北海道に移り住んでも、定期
的に警察と連絡をとるようにしようと思った。
 いつでもここをひき払えるとはいっても、時紀はどこかで、真奈
美が帰ってくると信じたかった。しかし、一月半以上も経った現在、
真奈美がどこをどうさまよっているかはまったくわからなかった。
 時紀は、自分が身寄りのない彼女を助けたように、真奈美があの
不思議な魅力で、どこかで元気に暮らしていることを祈っていた。
そして、最悪の場合が意識に上るたび、できるだけ打ち消して考え
ないようにしていた。しかし、十月以来、秩序が完全に崩壊し、民
主政自体が危機に瀕しているマッドシティで、何の力もない少女が、
うまく生き抜いていけるとは思い難かった。
 少し手を休めてTVの画面をぼんやりみていると、街角の出来事
を拾う身近なニュースコーナーが始まっていた。
 まだ、こんな平和な事をやってる局があるんだな。
 すでに、暴徒の群れと化した一部の大衆運動組織は、TV局をも
その標的と見なし、いくつかのメジャー局は、放送中止を余儀なく
されていた。
 理絵が、一度だけ言ったことがあった。
『一般庶民と、実際に日本を動かしている富裕層との間には、意識
のギャップがある。だから、TV局も、社会の現状にそぐわない番
組を流し続けることができるのよ。それは、偽りの平和と言うわけ。
あたしはいつか、そのギャップが、今、かろうじて平和を保ってい
る日本の秩序を壊す時がくると考えてる』
 時紀は思った。そう、いつも理絵は正しかった。あまりに正しく、
残酷だった。なぜかはわからないが、正しすぎることはおそらく、
罪なのだ。
 その時、時紀の耳に街角ニュースの言葉の切れ端が引っかかった。
「・・・緑の奇跡です」
 画面を見ると、どこかの神社の風景が映っていた。
「付近の人達の話によれば、環境悪化が進んで以来、ほとんど枯れ
たようになっていたこの神社のギンナンの木が、みるみる内に力を
取り戻したということです。そして、驚いたことにこの十二月の時
期に、青い葉をつけたのです。ちなみにこの神社の由来は・・・・」
 どこだ?
 時紀は、耳を澄まして待った。これが事実なら、もしかすると、
真奈美が関係しているかもしれない。
 神社の中。それは、出会いの時、行き場のない真奈美が、そこで
過ごす、と言った場所だったはずだ。
 TVの女性キャスターは、新宿区にある、小さな神社の名を告げ
た。
 近い!
 時紀は、慌ててコートを羽織ると、片付けも、TVの電源もその
ままに、マンションを飛び出していった。


 こんなに息を切らして走り続けたのは何年ぶりの事だろう。
 時紀は、TVにあった神社の石段を駆け上ると、鳥居の下で激し
く息をついた。
 境内には、冬の珍事に集まって来たのだろうか、傘をさした幾人
かの人々が、社の周りに繁った何本かの緑の木を、物珍しそうに見
上げていた。
 時紀は、鳥居の下に立ち、境内を見回した時、すぐに社の周りだ
けに緑が集中しているのを見て取っていた。時紀の立つ鳥居の周り
の木は、よく見かけるように、枝をしおらせ、まったく元気がなか
った。
 強い予感に襲われると、時紀は激しい息遣いもそのままに、社に
突進して行った。そして、驚く人々の視線も省みず、さい銭箱を払
いのけ、御神体も押し退けて、社の中へ入って行った。
 境内にいた人が、時紀を止めようとして追いかけてきたが、時紀
は「さわるな!」と一喝した。
 社の中は、湿気がこもり、かすかにカビの臭いがした。そして、
薄暗く、ほとんど何も見えなかった。時紀は、腐りかけた床をきし
ませながら、広くはない社の中央部へ、暗がりを確かめながらゆっ
くりと進んで行った。
 気配と、影があった。目を凝らすと、床に横たわった人の姿だっ
た。
 それが誰であるかは、確かめるまでもなかった。暗がりに目が慣
れ始めた時紀は、その人影がまとう白いワンピースをすぐに認めて
いたからだった。
「真奈美・・・」
 もはや、彼女は応えるべき口を持っていなかった。
 床の間から、無数の雑草が伸びだしてきており、真奈美の身体を
包むようにして、内側に葉を向けていた。そして、目を閉じた真奈
美の肌は、薄く緑色に光っているように見えた。
 まるで、この世のものとは思えぬ光景に、時紀はひざまずくと、
草をかき分けて真奈美の胸に頬をあてた。
 もう、心臓は鼓動していなかった。いや、少なくとも、時紀には
聞き取れなかった。
 その時、慌ただしく警官が二人、社の中に飛び込んできたが、横
たわるひとりの少女の前にひざまずく、背の高い若い青年の姿を見
た時、気押されたように、足を止めた。
 時紀は、目を固く閉じてから振り向くと、
「救急車を、呼んで下さい」
と一言だけ言った。

扉ページに戻る 前へ 次へ