8.過去と現在

 大学病院のカフェテリアで、時紀は、今日初めて出会った女性と
向かい合っていた。
 長く延ばされた黒髪に、目立たない紺系の上下を着た落ち着いた
女性は、真奈美とはあまり似てはいなかった。
 時紀は、ひとつひとつ言葉を噛み砕くように、この半年の出来事
と、医者の診断について語った。昨日聞いたばかりの信じられない
ような検査の結果が、また頭の中で回り始めたように感じられた。
『私も、信じられないんですよ。なぜ、1月以上も何も食べずに生
きながらえてきたのかを考えると』
 その時、診察室で、若い医者は時紀に言った。
『・・・彼女の細胞の中には、どう考えてもクロロフィルとしか見
えない組織があるんです。そんなことは、考えられないのに。それ
が、極限まで代謝が落ち込み、ほとんど仮死状態ともいえる中で、
小量のエネルギーを作りだしていたのかもしれません。もちろん、
そんなことはないと信じたいが。しかし、他に生きてきた説明がな
い以上、そうかもしれない』
 時紀は、暗い社の中で、真奈美の肌が、薄緑にさえ見えていたこ
とを、不思議な気持ちで思い出していた。
『ただ、もう、真奈美さんの神経系が、正常に動き出すことはない
でしょう。つまり、もう、血液が充分に行き届いていないというこ
とです。それほどに、心臓の鼓動が弱く、代謝も衰えています。脳
波はありますが、重大な損傷があることは間違いありません。つま
り、俗にいう植物人間の状態なんです。今は、点滴を行っています
ので、生き続けていますが、打ち切ったら、どうなるかわかりませ
ん。今までのように、生きながらえるか、それとも死ぬか。ただ、
脳波がある限り、処置を続けざるを得ないでしょうが』
 その時時紀は、費用はあるから、彼女が生き続けることができる
かぎり、なんとかしてやってくれ、と頼んだ。医師は、わかりまし
た、ただ、いかに医学が進んだとはいえ、人を蘇らせることはでき
ない、だから彼女にとっては苦痛なのかもしれない、と言った。
 時紀は、いや、真奈美はそれでも生き続けることを望んでいるは
ずだ、と思った。植物のようになってさえ。彼女は言っていた。物
を食べずに生きていけたなら、と。それは、なんと純粋な思いだっ
たろう。
 そんな過去を振り返りながら、時紀は話し終えた。
「そうですか」
 真奈美の姉は静かにうなずいた。
 彼女、樹一枝は、捜索願を出して以後、三カ所ほどの住所を点々
としていたので、連絡が取れなかったのだ。それが、真奈美が発見
されて三日という時に、運よく、彼女の方から警察に連絡を入れた
のだった。
「真奈美は、小さい頃から、感受性の強い子でした」
 もう、25、6才にはなるのだろうか、頼んだコーヒーをゆっく
りと飲みながら言った。
「植物とも、話を?」
「・・・そうでしたね。朝起きると、外に出ているんです。家の外
には大きなブナの林があって、そこにいるんですよ。それで、よく
木の幹に頬を当てて、何か話していましたね」
 そう言うと、彼女は医者や患者が行き交う、ガラス窓の向こうを
見つめた。
「本当に、いい子だった・・・私がもう少ししっかりしていれば、
こんな事にはならなかったのに」
 時紀は、消え入りそうな声で話す、この真奈美の姉が、既に生き
ることに疲れているような印象を受けた。それは、3時間ほど前、
初めて顔を合わせた時に感じたのと同じ印象だった。
「・・・いいえ、俺も、本当に、いい加減だったんです。真奈美の
ためには、何も考えていなかった。もっと早くに連絡をとって、一
枝さんに引き渡してあげれば、こんなことにはならなかったんです」
「いいえ、」
 一枝は言った。
「あなたの話を聞いて、なさったことは、真奈美の望みそのものだ
った思います。たぶん、無理に言っても、あの子は帰ってこなかっ
たでしょうから」
「そうでしょうか」
「そうです」
 一枝はきっぱりと言った。そして、またゆっくりとした調子に戻
ると続けた。
「あの子は、あなたに何も言わなかったみたいですから。それを話
せば、少しはわかっていただけると思います」
 時紀は、いつ自分から切り出そうか迷っていたことを、真奈美の
姉の方から持ちかけられて、ほっとしていた。
「・・・私達は、最初、五人家族でした」
 一枝は、抑揚のない声で、淡々と語り始めた。それは、懐かしむ
でもなく、辛さを堪えるでもなく、ただ事実のみを伝えようとして
いるようだった。
 時紀は、一枝の静かな目を見て、真奈美が兄を慕った気持ちがわ
かるように感じた。それは、再生せぬであろう、仮死状態の妹と3
年ぶりに声なき対面をした、たったひとりの肉親のとる態度ではな
かった。
「母は、兄の裕治が21才で死んですぐ、跡取りを失って少し気の
おかしくなった父の暴行に耐えかねて、家を出て行きました。今で
もどこにいるのかわかりません。そして、その後、私と、真奈美だ
けが残されました。私は、18才、真奈美は、10才でした。その
ころ町の役場で働いていた父は、すぐに、私に性的な暴行を加える
ようになりました。でも、私は良かった。もう、思春期も終わりか
けていたし、そういう父を、どこか醒めた目で見ることができまし
たから。でも、真奈美はそういうわけにはいかなかった。父が私だ
けでなく、真奈美にまで手を出すようになった時、あの子はまだ、
11でした。どれほど辛い日々だったか考えると、二年たって、1
3で家出してしまったのは当然のような気がするんです。
 きっと、あの寒さがいけないんです。全てを閉じ込めてしまう寒
さが・・・。
 あの子は、11の頃から、ぱったりと背も、身体も、成長しなく
なってしまいました。あなたのしてくださったお医者さんの話を考
えると、自分の意志の力で、成長を止めてしまったのかもしれない。
今日、あの子を見ても、出て行ったときと、ほとんど変わっていま
せんでした。もう、3年もたつというのに・・・」
 言葉を切ると、真奈美の姉は、浮かんできた涙を拭った。時紀は、
いくつかの事実を思い浮かべながら、真奈美の過去に結び付けてい
た。
「もう、父は死にました。2年前、自宅で首を吊って。だから、実
際には真奈美に怖がるものはなくなっていたんです。でも、あの子
の心の傷は、このことを聞いていたら、かえって深くなっていたか
もしれない」
 時紀は、強く目を閉じると、再び激しい悔恨に捕らわれていた。
 俺のしなければならなかったことは、なんと大きかったのだろう。
それほどに辛い過去を持つ真奈美が心を許した俺は、彼女の呪縛を
解いてあげることのできる、唯一の人間だったのかもしれない。そ
れなのに、俺は、彼女を自分の気持ちを落ち着けてくれる、持ち物
のように考えていたのだ。
 それは、理絵が俺に対して持っていた感情と同じものだ。
 またBay−Side Parkで自分の手を振り払ったときの
真奈美の悲しい瞳が浮かび、消えていった。
 俺はいつも、自分が蔑んでいるものと、同じ道を歩んでしまう。
「・・・本当に、真奈美には、何も弁解することができない気がし
ます。もう、何を言っても遅いのでしょうけれど。俺は、この後一
生、真奈美に対して償い続けなければいけないでしょう」
 しばらくの後、時紀は言った。
「影山さん、自分を責めないで下さい。全ては、運命だったんです
から。むしろあなたは、真奈美によい時をくれたと思います」
「じゃあ、俺は、何をしてもあの状況を変えられなかったと?」
 強い口調で時紀は言った。
「・・・わかりません。ただ、私には、人生そのものが、全て定め
られているような、そんな気持ちになることが多いんです。きっと、
真奈美のこともそうだったんでしょう。だから、あなたに自分を責
めて、償いなんて考えて欲しくないだけです」
「すいません、少し、かっとしました」
 時紀は詫びると、それでも言った。
「でも、一枝さん、俺の気持ちはそれでは治まらない。だから、で
きるだけのことをしたい」
「それが、おっしゃたように、東京を離れて、北海道にいくことな
んですか?」
「一つはそうです。でも、」
 時紀は、遠くを見るように言った。
「夫婦村へは、二人で行くはずだったんです。俺と真奈美で。そこ
で俺は、もう一度、自分が生きている意味を考えてみようと思って
いた。真奈美といれば、それがわかるような気がしたんです。だか
ら、その目的を果たすためにも、新しい環境に触れてみたいと思っ
ているんですよ。たぶんそれが、真奈美に対する俺自身の償いにも
なるんです」
「そうですか」
 一枝はうなずくと、時紀の目を見た。
「うらやましい気がします。影山さん、私と同じ年なのに」
 時紀は、その目に理絵と同じ、深い絶望を見たような気がした。
 そして、二人はしばらく黙って外を見つめていた。
 お兄ちゃん、お兄ちゃん・・・。
 もう16才になろうとしていた少女はどんな気持ちで俺に呼びか
けていたのだろう。
 時紀は軽く目を閉じて、記憶の声に耳を澄ましていた。
「影山さん」
「はい」
 一枝の呼掛けに応えた。
「やっぱり、このお金は、いただくわけには・・・。最初は事情が
わからなかったので、とりあえず収めさせていただいたけれど、そ
れではあなたが困るでしょう」
 話を始めたとき、一枝に渡した銀行の預金残の小切手は、六百万
以上あった。
「いいえ」
 時紀は、首を振った。
「それは、俺のけじめでもあるんですよ。今の生活を過去のものに
したいんです。だから、全部、真奈美のために使って下さい。俺は、
もうこれ以上、真奈美の側にいてやれないけれど。これ以上は、自
分が暗い方へ、過去の中に引きこもってしまいそうで、苦しいんで
す。だから、あなたにお願いします」
「それは、肉親として当然のことです。でも、このお金は・・・」
「じゃあ、心配要らないですね。さあ、出ましょう」
時紀は一枝の言葉を遮ると、病院のカフェを出た。白いリノリウム
の敷き詰められたフロアーに出ると、時紀は、深々と頭を下げた。
「真奈美のこと、お願いします。転居先はまた、連絡しますから」
「影山さん・・・」
 一枝が気遣って、手を出そうとすると、時紀は顔を上げた。そし
て、一枝の手を強く握りしめると、すぐに病院から駆け出して行っ
た。


 東京を離れるその日、時紀は、Bay−Side Parkに一
人立ち尽くしていた。
 既に、そこは真奈美と絵を描きに来ていた頃とは、まったく違う
場所になっていた。
 あれほど繁り、枝を張っていた数十本の木々は、今ではしおれ、
枯れかけていた。
 真奈美が好きだった桜の木も、太い枝が何本も折れ、無惨な姿を
さらしていた。
 時紀は、小雨の降る中、公園の中央でその全てを目に焼き付けて
いた。
 真奈美の死と共に、この公園も死に、都会のオアシスは失われた
のだ。それは、この街の申し子たる俺自身が、気が付かぬ内に踏み
つけにした、その結果なのだ。
 もう二度と、同じ過ちを繰り返すまい。
 時紀は心に誓うと、灰色の世界を後にした。

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