「不思議な、こういう言い方は失礼かもしれないが、そんな体験だ
ったんだね」
 越部さんの家で、暖かい夕食をいただいた後、俺は、越部さんと
居間でグラスを傾けあっていた。いつの間にか、俺は過ぎて行った
過去のことを語り、越部さんは辛抱強く、筋道だたないこともある
昔話を、最後まで聞いてくれた。
 俺は、これほどに過去が胸の内を過ぎる日に、誰かに自分の言葉
を聞いてもらいたかったのかもしれない。
「いいえ。本当に、不思議な日々でした。そして、心洗われる時で
もありました。私の家の炉の上には、あの時描いていた絵が、まだ
塗りかけのまま飾ってあります。あれを見ていると、まだBay−
Side Parkがあの時のまま、絵の続きを待っているような
気がするんですよ。そして、そんな気がした時にはすぐに、ここへ
出てくる前に見た、寂れて枯れた眺めが思いを否定するんです」
 俺は、言葉を止めてウイスキーに口を触れた。それは、店で飲ん
でいた頃のものには及ぶべくもない舌ざわりだったが、そんなこと
は気にならなかった。
 越部さんは、コトリと木のテーブルの上に、グラスを置くと、俺
に言った。
「・・・そうか。それで、彼女達は、どうなったの? 真奈美さん
は?
それに、理絵さんは」
「理絵に関して言えば、行方がわかりません。あの時、インドに発
ったまま、二度と帰ってこなかったんです」
「真奈美さんは?」
「真奈美は、一月前の一枝さんの手紙によれば、まだ、大学病院の
一室で、眠っていると思います。彼女が望んだように、何も食べる
事なく」
 越部さんは思い深げに目を細めると、息を吐いた。
「植物のように、か。私のような人間には、大きな示唆を与えてく
れるなあ」
「私も、そう思う時があります」
 俺はうなずいた。越部さんの言いたいことはよくわかった。この
人も、若い頃に人間の反自然的な側面に気づき、それがこの共同体
を作り上げた大きな理由の一つとなっていたはずだから。そして理
絵が言っていたように、生きている以上、人間はきれい事だけでは
済まないのだから。
「・・・私は、未だにわかりません」
 しばらく思いをさまよわせた後で、俺は言った。それは、全て本
心だった。
「自分の生きる意味とは、どこにあるのか。人は、何のために存在
し続けるのか」
「そんなことは、誰にもわからないよ。もちろん、私にも」
 ぼんやりと光るランプの火に、越部さんの角ばった顔が照らされ
ていた。
「ただ、これは、日頃私が思っていることとも符合するから、少し
話すよ。こうして影山君と話す機会を得たのも、何かの縁だろうか
ら」
「縁、ですか」
「ああ。少しいいかな」
「ええ」
 越部さんの視線は俺には向けられず、瞳には赤い火が映っていた。
「さっき、理絵さんという人の話を聞いたとき、少し悲しくなった
んだよ。人の多面性・・時に破壊的でさえある衝動と、建設的な創
造性が相まっている・・それは真実で、まったく否定できない。た
だ、その全てを認めてしまうのは、たやすいことなんだろうなって
ね。人間が、善であるか、悪であるかはわからないよ。ただ言える
のは、人がその間を揺れ動いているということだろう」
 俺は、小さくうなずいた。
「うん、その多面性は確かに真実だし、それを認めてしまうことは
できる。けれど、私は思うんだよ、我々は、その両極の間を揺れ動
きながら時を渡っていく。私は、人が努力できると信じたいんだ。
時に邪悪になろうとも、良いものを作ろう、目指そうとする姿自体
に価値を見たい。それは、抽象的で、捉えどころのない見方かもし
れないが」
「いえ、よくわかります」
「ありがとう。・・・そうだね、我々は、いつも皮肉な視点で人間
の存在を見つめ、認めてきたみたいだ。それが、現在の社会の歪み
を生んだのかもしれない。“認め”、“わかってしまった”と思う
時、人は独りになってしまう。動き続ける自分を忘れ、停滞の殻の
中にとどまってしまう・・・」
 越部さんは、考え込むようにして黙った。俺は、自分が独りだっ
た時のことを考えていた。確かに、越部さんの言うことは正しいの
かもしれない。
「たぶん、」
 再び声がした。
「私は、社会や、人を感じていたかったんだな。そうすること、具
体的にはこの村を作り、動かしていくことで、少しでも“良い”方
向に行きたかったんだ。人が独りになり、我欲の渦の中で、そうと
気づかぬ内に全てを破壊していく、今の社会のあり方が許せなかっ
た。たとえそれが人の一面の姿だとしても、手放しに認めてしまっ
たなら、我々は、どう生きていける?人は滅びの運命にあるのかも
しれないよ、理絵さんの言ったように。確かに、自然からはじき出
されようとしているのかもしれない。この盆地にすら、雨がよく降
るし、気温が毎年高くなっていくことを思うと、決して否定はでき
ない。それでも、私は、それを知ってしまいたくはないんだなあ。
全てをわかるとは思いたくないし、少しでも動き続けていたいんだ
よ。あきらめが悪いと思うかい?」
 俺は、首を振った。
「いいえ。よくわかります。いえ、今わかったような気がしますよ」
「たぶん、」
 うなずいてから言った。
「だから、今、進み続け、変わり続けるために、人との関係、世界
との関係をつかんでいかなければならないんじゃないか。そのため
には、“知って”しまい、耳を塞いで独りになってしまったら、何
も見えない。痛いかもしれないが、心を裸にして、感じ続けなけれ
ばいけない。
 きっと、真奈美ちゃんは、それが、わかっていたんだと思うよ」
 そして、越部さんは、悲しそうに言葉を切った。それは、俺と同
じ思いだったと思う。
「他人の、他の物の存在の受け皿になる、そうでなければ、人を愛
することも、世界を守っていくことも、自分が変わっていくことも
できないのに、なぜ人はそれを忘れてしまったのだろう。そして、
逆に、感受性を持ちすぎた時、なぜ人の受け皿はこぼれてしまうん
だろう。真奈美ちゃんがそうであったように」
「それは、たぶん、」
 俺は言った。それは、俺自身に対する言葉でもあった。
「皆が分担しないからでしょう。社会の全ての汚れを、一人で受け
止めてしまうことなんて、真奈美であれ、誰であれ、絶対にできる
ことではないと思います。だから、耳を塞ぐ方が楽なんです。俺が
そうであるように、自分の欲望だけに、耳を傾けて・・・」
「いや、影山君は、最初から違っていたさ。でなければ、真奈美ち
ゃんを受け入れたはずはない。そのことに関して、私は、真奈美ち
ゃんのお姉さんと同じ見解だよ。そんなに自分を責めることはない」
「ええ、ありがとう。でも、そう思わずにはいられないんです。そ
れに、あの時のことを忘れないでいることが、まっすぐに歩いてい
ける、条件のようにも思えるから」
 俺は、乾いた唇を、水で潤した。
「・・・なんか、重たくなってしまったね」
 息を抜いた越部さんが言った。
「そうですね。でも、いいじゃないですか。たまには」
「そうだな。もう一杯、飲むか?」
「ええ、いただきます」
 俺は、グラスを持ち上げると、越部さんに言った。


 少しほろ酔い加減で、集落の中を抜ける、固い黒土の通りを歩い
ていた。余分な電気は使わないこの村では、夜になると、光るもの
は、家の窓から漏れるわずかな明りと、そのほかは、空に輝く星々
の群れだけだった。
 家の密集地を過ぎて、村のはずれまで来てしまえば、獣よけの柵
のポツポツとした明りが、それに加わる。
 俺は、家の前まで歩いて来ると、晴れた空を見上げていた。気候
自体が本土とは違う循環を持った北海道では、気候変動の影響も少
なく、星の見える日もあった。
 何かが変わっていく。俺の中で、何かが。
 何をなすでもなく、ただ満天に輝き続ける星々を見る時、俺はい
つもそんな気がしていた。
 人は、動き続ける。その姿が、真実だ。そして、感じる心が、身
体に火をつける。
 一陣の風が吹き抜け、俺の頬を洗った。
 既に一年も無政府状態が続く日本、自然の暴走にさらされる世界、
いや、地球。その中で、ここは、嘘のように平和だ。
 しかし、俺の心の一部が覚えている、汚れた東京の景色は、決し
て消えることはない。そして、今ではあの都市の、ひいては日本の
痛みが、確かにわかる。それは、自らの痛みでもあるのだろう。
 俺は、動き続けよう。今だ、心の真実はわからない。だが、それ
があることはわかっている。ならば、知りえぬそれが、行き着くま
まに。
 家の中にはいると、炉の上にある真奈美の肖像が、俺を見つめて
いた。俺は、その視線に微笑み返すと、奥のドアを開けた。そこに
広がる裏庭には、俺の植えた多種多様な植物が繁り、俺を囲んでい
た。
 彼らの声は聞こえない、けれど。
「おやすみ」
 俺は言うと、ベッドルームに入っていった。

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