「現在とは何の関係もない過去の記憶が、誰もいない一人の空間
の中で不意に蘇ることがある・・・。そういう時、ひどく胸が痛い
のよ。時紀はそんな気持ち、わかる?」
俺はその時、それはノスタルジアだ、感傷にすぎない、そう答え
たと覚えている。
 今、理絵の気持ちもわかる気がする。
 俺は他人の気持ちを自分に当てはめるのは昔から苦手だった。い
つも、自分がその立場に立つまではわからなかったのだ。
 こうして北海道の広く、青い空を見上げる現在でも、そのことに
あまり変わりはない。
 それは、人が感受性と呼ぶもの・・・。
 おそらく俺が真奈美に見いだしたのは、何にも染まらないが故に、
全てを描き出せる無地の紙のような、その強い感受性だったのだろ
う。
 あの頃俺は、自分にないものをあの少女に見つけ、憧れた。そし
て思いはいつか、あの子の受け入れられる範囲を越えて、俺の独り
よがりになっていたのかもしれない。
 幾度となくあの、Bay−Side Parkへと足を運び、油
絵を描いていた頃、俺にはつかみ取るべきものが何であるのかがわ
からなかった。20数年に渡って続いてきた都会での生活は、どこ
か息の詰まる夜の臭いがした。幾度ささやいたか知れぬ甘い嘘は、
裕福になり、自由になることこそが、今まで自分を虐げてきた社会
を見返し、勝利することと信じてきた自身を、再び重苦しいかせに
はめていくとしか思えなかった。
 俺は、俺を知りたかった。俺の胸の内の真実は、あの泥沼からは
い出、成功するために燃やし続けてきた強固なエゴのために、ほと
んど省りみられることはなかったのだ。
 しかし、意識と裏腹に、空虚な思いは強まっていった。それは、
理絵ならば“アイデンティティー”とひとまとめにくくってしまう
であろうものの喪失感――自分の立っていた足場が、本当の地面か
ら数百メートルも離れていたことに気付きながら、本当の地面がど
こにあるのかわからない、そんな感覚だった。
 俺には、迫り来る空虚な思いを、外に向けて飛ばしてやることし
か思いつかなかった。それが、絵を描くことだったし、半年に渡っ
て続けられた真奈美との生活だった、と思える。
 だが、あの頃既に、それでは根本的な解決にならないとどこかで
感づいていた。
 今の俺が、見失った地面を見いだしたなどとは言わない。今だに
わかりはしない。今でも、針葉樹に囲まれた荒涼とした大地を、来
る日も来る日も見つめながら問い続けている。
 樹真奈美が愛し続けたもの・・・自然の木々、それらを育み、我
々を生み出した大地、そして、その大地を包む夜の星ぼし、その優
しさ・・・それらの意味を。
 問い続けているということ――それは、今だ俺自身が真奈美との
出会いを含む三年前からの「時の連関」の中にいるということかも
しれない。
 しかし、いつか俺の空虚な思いの行き場以上の存在と成りつつあ
ったあの少女は、俺の心の真実が、どの場所から生じているのかを
わからせてくれようとしていた。
 今だ行き着く先は定かではないが、自己探求の過程にある現在を
与えてくれたのが真奈美であることが確かである以上、俺があの事
件を引きずっていくのは仕方のないことだ。
 おそらく、俺にとって、夫婦村の豊かな景色の中で暮らしていく
ことは、彼女の心の中を知ることそのものなのだ。
 最近たびたび考える。俺の長かった青春時代も終わったのだろう、
と。そのような区別を好まない人もいるが、確かに俺は変わった。
 そして、その最後期にあたる二十代前半の日々を思い出す時、ど
こか刺すような痛みがある。後悔と憧れと、確かに過ぎ去り、戻る
ことのない時への感慨が、俺がもう、自分一人ではないことを教え
ている。
 ずっと以前、感傷だと否定した理恵の言葉が今、目前にあって、
彼女の醒めた瞳を思い出させる。あの時彼女はもう、行き過ぎる時
を見つめ、感じていたのだ。
 もちろん俺が、彼女の域に達するとは思えないし、達したいとも
思わない。ただ、今ならば、彼女の冷えきった心―今ではわかる―
その心を暖め、そして支え合える、あの頃よりも優しい関係を作る
ことができるかもしれない、そんな気がするのだ。
 しかし、それも過ぎ去ったことだ。
 けぶった思いを振り払うように空を見上げると、雲の合間からに
ぶい色の陽が、山の稜線を離れて昇ろうとしていた。
 早朝の時の終わりに、俺は広々と、しかし無造作にひろがったジ
ャガイモ畑を背にして、牛舎の方へ歩いていった。
 畑から百メートルほど小径を行くと、左側に放牧用の柵があり、
その片隅に暗い緑で塗られた牛舎がある。
 乾いた草と、牛の臭いがこもった牛舎の中に入って行くと、黄土
色の作業服に身を包んだ男性が、腰をかがめて牛に飼料を与えてい
るところだった。
「おはようございます」
「おはよう、」
 いつものように作業を続けたまま越部さんは言った。
「雨はどうだい」
「どうでしょう。風向きがよくないようですけれど」
 応えると、横でモクモクと口を動かしている牛の顔を見た。
「おはよう、マグ」
「何か言った?」
 背中ごしに振り向くと、越部さんは言った。
「・・・牛にあいさつしていただけですよ」
「いつも思うが、影山君には少し変わったところがあるな」
 もう夫婦村に暮らして二十年になるこの壮年の男性は、村の創設
者の一人だった。
「牛に挨拶を言っても応えないよ」
「私の気持ちです。前に東京にいたころ、変わった子と住んでいた
ものですから」
「どんな子だい」
 越部さんは立ち上がると、作業服をパタパタと叩きながら言った。
「樹木や、草花が好きな女の子で、よく黙って公園の木のそばなん
かにいるんですよ。「何してんだ?」と聞くと、「話してるのよ」
と答えるんですね。よく、朝、部屋の鉢植えに「おはよう」ってい
ってたし」
「ほう。話にはよく聞くけどね、本当にいるんだねえ。・・・東京
に?それよりここに似合いそうだね」
 越部さんと俺は、牛舎を出て、大小のログハウスの並ぶ集落の方
へ歩き始めた。
「・・・そう、彼女は北海道出身だったし、戻りたがってもいまし
たからね」
 越部さんが眉をひそめるのがわかった。
「亡くなったの?」
「まあ・・そうですね」
「そう・・」
 俺は、あいまいな答えかたをした。真奈美の事に関して、他人に
口を開いたのは久しぶりだったような気がする。
 平らにならされたかたい黒土の通りを歩いて行くと、程なく越部
さんの家の前に着いた。
「今日、夕食に来るといい。たまにはいいだろう」
「ええ、喜んで」
 俺は、家の入口の所で軽く手を上げると、越部さんと別れた。
 ようやく太陽は力を取り戻し始めていた。通りは朝の活気を帯び
始め、見知った顔が幾人も過ぎて行った。
 朝の畑に向かう浅田さん、ミルクの集配場にガラス瓶を抱えて行
く宮原さん、いつものように家の前でのんびりとパイプをふかして
いる本間さん・・・。
 顔の合う度に、朝の挨拶を交わし、天気の様子や、家族の事など、
当り障りのない会話をしては別れた。
 やがて、住宅地の一番はずれにたどり着いた。
 そこに作られた俺の家は、一人住い用の小さなもので、この通称
“夫婦村”の中でも三番目に新しいものだった。つまり、この二年
半にここへやってきた家族は、俺も含めて三家族ということである。
 まがりなりにも自分の力で作り上げたわが家の戸を開けると、ひ
とつ息をついた。穏やかだが変わりばえのしない一日の朝が、また
終わろうとしている。
 俺は、東京の薄汚れたスラムで育ち、23才まであの場所にいた。
いかに清麗な空気と、ありのままの自然に憧れようとも、否応なし
に心の奥底まで都会の色に染め抜かれている。
 そう、今でも、あの夜の香りに引きつけられている。それは、小
麦畑の向こうを意味もなく見つめている時、冷たい雨の上がった夜
空の下で星に照らされている時、そしてまた、畑の土にまみれて汗
を流している時、そんな時に感じる、くすっぐたいような充実感に
も負けぬ強い引力を持って、俺にささやきかけている。そして、あ
の頃俺があれほどに拭おうとしていたその力が、今の穏やかな日常
を退屈に変えていくのだ。
 TVをつけようとしてやめた。
 不意に蘇った夜の渋谷のイメージが、真奈美の言葉を思い出させ
たからだった。
『街は嫌いじゃない。でも、街が“ある”ことを、愛して作ってい
くことを忘れている人間が嫌い。きっと、みんな自分が、どこから
生まれて来るか忘れているのよ』
 ソファに座って、いまだ描きかけのままの真奈美の肖像を見つめ
た。緑溢れるBay−Side Parkの陽光の中で、今も微笑
み続けている・・・。
 過ぎていった言葉が、記憶が、ゆっくりと再生していくのを感じ
た。

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