第四章 彼と彼女

 土曜の昼過ぎはいつも以上に客の姿もまばら、まったく、暇過ぎ
るってのもかえってだるいな。
 カウンターに肘を付いて、雑貨でごちゃごちゃした店内をぐるり
と眺めても、アクセサリー売り場に二人連れの女の子が一組、コッ
プ売り場に年寄りが一人。
 あー、ねむ。
 まったく、そうじゃなくたってやる気出ねぇバイトだってのに、
下がるよなあ、モチベーション。ホント、何考えてんだかわかんね
えわ、あいつだけは。
「海行くの、ヤメ。堅、金ないでしょ」
 だからさ、そのためにバイトしてんだろうが。雑貨屋の売り子な
んざ、一番合ってねぇバイトだってのに。
 だいたい、六月から言ってたじゃねぇか、杏奈の奴。どっか連れ
てって、夏はゼ〜ッタイ海だぞ、てさ。ない脳みそほじくりだして
補習やってたのは、ありゃなんだったんだ。
「……お兄さん」
 あ、客か。……はいはい、包装ね。
「包装紙、この柄でいいっすか」
 このコップなら、一番小さい箱で合うか……。ホイ。
 ん――なんだよ、おばさん。充分だろ、これで。かわいい女の子
が包むんじゃないんだからさ。
 ――ふぅ、うざ。もうちっと忙しくなりゃあなぁ。
「だからさ、何でやめんだよ。今からじゃ、キャンセル料かかるぜ」
「いいんだって。文句あんなら、そんくらい、アタシが出す」
 そうじゃなくたってタラコな唇、とがらせやがって。あれじゃ、
タコだろうが。
「逢沢〜、店内見回りしろよ」
 奥から店長の声。へいへい。
 ……でもな、ここんとこなんかブルー入ってるよな、あのヤロ。
テコでも動かんかったもんが、あっさり自宅に戻るし。なんかあっ
たか……、って、まあ、お気にのドラマが終わっちまったとか、そ
んなとこだな。
 ――お、誰だよ、まったく。元に戻せよな。
 一応それなりにディスプレイされたぬいぐるみコーナー、上段に
積んであった小さい奴が、下の段の大きい奴の上にバラバラに散ら
ばっている。
 さっきの子供連れしかいねぇな。まったく、適当そうな親だった
から……、ん?
 鉄棚の隙間、カバンやアクセサリーが下げられた反対側のコーナ
ーに、小柄な女の子の背中が見えて……、お、こりゃ。
 動きの不自然さにピンとくる。
 あのうつむいた感じ、こりゃ、やる。少し、静かにしててみるか。
 ショートの髪に水玉柄のTシャツが屈み込んで、並べられたカチ
ューシャに手をかけ……ほれ、やっぱり。
 手に持った小さなポーチにピンク色の奴を素早く押し込む――は
い、現行犯ね。
「はい、ごめん。そこの子。今の、見せてくれるかな」
 棚の陰から出て、俺より頭一個ぶんも低い顔を軽く睨むと、六四
に分けた髪の下で、細い目がしまった、と言うように。
 はい、残念でした。
「……ご、ごめんなさ……」
 はいはい、言い訳はなし。万引きは犯罪……って、なんだよ、そ
の目は……、ん、おい!
「さ…」
 瀬美ちゃん? なんで!
 そこで固まっているのは、確かにあの、沙瀬美ちゃん。きれいに
分けた黒い髪に、ヘアピン、面長の顔に、ちょっと涼しげな細い目
の……。
「け、堅一さん」
 ひそめられた声が、薄い唇の間から漏れた。
 おいおい、参った。これはどうしたもんやら……。

 「だからさ、そういう理由でパクるわけ? 聞かない話じゃない
けどさあ」
 三時にバイトが上がった後、通り沿いのファミレスで、沙瀬美ち
ゃんは取りあえず約束通り待ってくれていた。
 ――ムカついたから、気晴らし。
 俺の質問にぶっきらぼうに答えた目つきは、目茶苦茶不機嫌な感
じで窓の向こうに逸らされたままだった。
 まったく、ありがとうくらい言えんのか、この子は。店長に言い
訳するのに冷や汗もんだったってのに。見てただろうが。
 ホント、アイツの友達だってことはあるわ、この子も。とてもつ
いてけねぇ。
「別に、あんなの一つくらい、困らないでしょう。堅一さんだって、
やったことないって言わないよね」
「……そりゃ、ね。ないとは言わんけどね」
「じゃ、おんなじじゃない」
 いやさ、そういう問題じゃないんだよな。見つかりゃそれは、ヤ
バイでしょが。俺じゃなきゃ、どうするつもりだったんだよ。
「それじゃ、ありがとうございました。……あのバカによろしく」
 そそくさと立ち上がろうとする、水玉柄のTシャツに、ミディア
ムのスカート。
「ちょっと、待てって。そりゃ、ないでしょが」
「何が?」
 鋭い目。ホント、大人しいなんてもんじゃないな、この子。見か
けと大違いだわ。
「何の説明もないってのは、ひどいだろ。俺が取り繕わなきゃ、警
察呼ばれてるぜ」
「……だから、言ったじゃないですか、ムカツキ半分の気晴らし」
 はぁ……。わかった、わかった。それ以上喋りたくないってわけ
ね。ま、しゃあねぇか。実際、それだけなんだろうしね。
 まったく、イマドキの女子高生なんてぜってぇわかんねぇ。怒鳴
り倒そうってわけじゃないんだからさ、態度の取り方あるような気
がすっけどなぁ……俺が年寄りになっただけか?
「じゃ、行こうかね」
 オーダー票を取り上げて……あ、でもな。これくらいは言っとか
ないとな。
「……しょっちゅうはやるなよ。大学上がって思うんだけどさ、店
ってのはどこも結構大変だからさ」
「………だから……」
 あ?
 今度は俺の方が立ち上がって、彼女の方が動かない。うつむいて
形のいい旋毛をこっちに向けたまま。
「そんな調子だから……」
 そう聞こえた。
 眉間に寄った皺に、結ばれた唇。突然、こっちを見上げると、
「いい加減過ぎんのよ、わかってます?」
 隣に聞こえそうな大声。な、何だよ。
「は?」
「怒るなら最初からちゃんと怒れば? そんなんだから、愛想つか
されるのよ」
 はあ? 何のことだ? さっぱりわかんねぇ。
「……ちょっと、何のことだよ」
「わかってないの? こんなんだから、あのバカが暴走するのよ。
ホント、牛みたいな奴、アンタって」
「おい、何だよ、そういう口の聞き方、ないだろ。いきなり」
 何だ、この女。なめてんじゃないだろうな。
「何度でも言うわよ、ちゃんとカノジョの首には輪つけとけば。人
のモノ盗むような性悪には、特にね!」
「いきなり何わめいてんだよ……、」
 このオンナ、ちょっと頭押さえてやらにゃならん……って、待て
よ、
「…おい、って、誰のことだよ、そりゃ……」
 大きく息を吐く、ちょっと見には大人しい顔立ち。でも、こっち
を見据えた目は、ほとんど野獣並みの……。
 そして。
 静かさがかえって迫力に溢れる様子で聞かされたのは、杏奈の奴
の浮気話。しかも、その相手ってのが……。
 マジか、まったく。それでか、ここんところのどうもらしくねぇ
って思ってた態度は。
「とにかく、確認すっから」
 携帯の向こうの聞きなれた声は、あっけなく事実を認めた。そり
ゃもう、肩透かしなくらいだった。
『ご、ごめんね、堅……。いつか話そう〜、って思ってたんだけど
さ』
 謝って済む問題じゃないだろうが。何考えてんだよ、普通、自分
のダチの彼氏とどうこうすっか?
「おまえ、ホントに頭くさってねぇか? それとも俺のこと、なめ
てるのか?」
『……う、うん……。返す言葉、ないけどね。でも、堅もさ……』
「何だよ、俺がどうかしたか? まったく、信じらんね」
 話すほど、こっちが馬鹿らしくなるくらいだった。だいたい、コ
イツもコイツだが、要ってのもどういう奴だ。沙瀬美が言うみたい
に、杏奈の方が逆ナンしたってのも信じられね。
 携帯越しじゃどうしようもない。呼び出してやっか。思った瞬間、
通話口の向こうで、何か別の気配があるのに気付いた。これでもあ
いつとは半年の付き合いだ、話し方でわかる。
 マジか……、まったく、やってらんね。
「お前、誰かいるだろ、そこ。誰だよ。いい加減にしとけよ。俺だ
って、ぶち切れるぞ」
『………あ、んん。で、でも、今日は、たまたま……。ホントだよ、
ホント』
 図星かよ。バカだけど、こういうことだけはしねぇ奴だと思って
たけどな。
「いまさら下んない言い訳するな! 出せよ、要だろ。別にもう、
お前のことなんてどうでもいいけどよ、そいつだけは許さねぇから
な」
『け、堅……、もう、そんなんじゃないんだから……。あの時一回
だけだし、今日は……』
「うるせぇ! ゴチャゴチャ言ってると、家行くぞ。一応、お前の
おやっさんにも頼まれてんだからな」
 衝立の向こう側から、別の客がのぞき込んだ。知るか、今こっち
は取り込み中なんだ。
 ――あ? あんたは今はいいんだ。俺とこいつの話なんだから。
 隣の席から向かいに目を戻すと、沙瀬美がこっちへ手を伸ばして、
「よこして」と眉を怒らせている。
「堅一さん、携帯、代わって」
「……何だよ、こっちの取り込み中だよ」
 携帯から耳を離してすぐに話を続けようとすると、
「いいから、貸して。要くん、いるんでしょ。おかしいよ、そんな
の!」
「おい、ちょっと待ちなって」
 たく、なんて強引な女だ。
 無理矢理俺の手から携帯をひったくると、さっきまでの俺以上の
大声が響き渡る。
「ちょっと、杏奈。また要と会ってるわけ? え、私だって、もう
あんたなんかと話したくないって。ああ、わかった、わかった。自
業自得でしょ、堅一さんに何話そうと勝手じゃない。……早く要に
代わりなさいよ! ええ、だから、あんたとはお終いって言ったで
しょ、この間」
 エライ剣幕の会話は、しばらく続いた後、穏やかな調子に取って
代わられた。どうやら、要に代わったらしい。
 今度は俺が携帯をひったくる番だ、そう思ったが、何だかバカら
しくなってきた。だいたい、こいつらみんな、高校生のガキじゃな
いか。本気で腹立ててる自分が情けなくなってくる。
 好きなだけ話させてやっか、そう思った直後、どうやら責める風
だった会話はこんな台詞でいきなり終わった。
「わかったよ、要。私の勘違い、ってことね。もう……いいよ!」
 大きくため息をついた後、うつむいてさらされていた額が上を向
いた。
 そして、細く伏せられた目蓋が上げられた瞬間、瞳がわずかに潤
んで……、光るものが目の端から溢れた。
 ふぅ……。そりゃ、キツイよな。
 こりゃ、怒る気も失せたな。とりあえず、行くか――思った瞬間、
手で目の端を拭った彼女の唇が、少し強ばった感じの台詞を作った。
「少し付き合って。堅一さん、今日暇でしょ」

 ……どうして、こんなことになったんだっけ。
 狭苦しいバスルームの中、シャワーがちょっと熱い。考えてみる
と、杏奈もこのシャワーを浴びてたんだ……。あ、もう、そんなこ
と考えても、仕方ないよ。
 朝、腹立ち紛れにモニターの中のセイ君を苛めてる自分がうっと
うしくて、繁華街をぶらぶら、ちょっと立ち寄った雑貨屋で気晴ら
しに、と思ったら杏奈の彼氏に見つかって……。
 何だか、もう、どうでもよくなっちゃった。こんなことしても、
見返すことになるやら。
 ううん、でも、少しは後悔させてやらないと気が済まない。
 だいたい、ヒドイじゃない、要も杏奈も。
 いやもう、あのバカ女はどうでもいい。最初から壊れてるのはわ
かってるし、一応彼氏はいたって、誰にだって股開く奴だもの。
 ヒドイのは、要だ。
 それは、私だって勘違いしてたよ。
 あの時、杏奈さんの気持ちだったから――そう言われたら、どう
やったってあいつが誘ったと思うじゃない。
「ごめんね、沙姉。悲しくさせるつもり、なかったんだ」
「許す。要、私のこと、好きだよね」
 もう、二度と連絡しないで、って言ったのに。それが……
「僕からはしてないよ、杏奈さんが携帯くれたから」
 そんな言い訳、勝手過ぎるじゃない。理屈にも何もなってないよ。
 あれだけ怒鳴りつけたって、縁切った以上は杏奈のバカの止めよ
うがないのはわかってたけど……。
 ううん……、違うのか。
 さっきの携帯の、少しも照れたところのない、正直な声。
「ううん……。そんなこと言われても、僕、杏奈さんのこと、嫌い
じゃないから」
 結局、私の思い込みってことか。
 じゃあ……。
 じゃあ……、あれは何だったの。
「沙瀬美さんの言っている感じ、わかります。僕と同じだと思う。
嬉しいな……。沙瀬美さんみたいな人がいたなんて」
 ああ、もう、いい。あいつらがよろしくやるなら、私だって寝る
くらいは簡単だって思い知らせてやるから!
「マジ、俺はどっちでもいいんだぜ。沙瀬美ちゃん。まあ、正直、
どっちかって言うと、やめといた方がいいってのか……」
 嘘ばっかり。どうせあんたなんて、杏奈のバイブ代わりみたいな
もんでしょ。食事しながら、「どうする?」って誘いかけたら、軽
く乗ってきたじゃない。
 バスタオルから白の下着をちょっと見せて、「いいんだから」っ
て言えば、ほら、ね。
 ああもう、思いっきりのしかかってきて、メチャクチャなオッパ
イの揉み方。いい加減なキス。
 ほら、やっぱりだ。
 そんな風にいきなり下着取ったって、ダメなんだから。ホント、
牛みたいな奴。身体が、でか過ぎるの、重過ぎるのよ。
 マジ。前戯もなしじゃない。いきなり入れたって……、こんなの
に、杏奈、らぶらぶ言ってたんだ。
 って、それ、いきなり動き過ぎ。
 あ、もう……。
 そんなに強く、乳首摘まないで、よ。
「ふぅ、ふぅ……」
 荒い息。何必死になってんの。そんな、真剣な目、して。
「いいか、沙瀬美、持ち上げるぞ」
 ちょ、ちょっと。そ、そんなの……。
 いきなり深く、あ、ヤダ。
 腰持たれたまま、宙ぶらりんになって……。あ、アレが、奥まで。
「あ……」
 って、私の声? 嘘、嘘だって。
 ズン、ズン……。
 突き出されると、痛、……じゃない。何だか、当たってるところ
が、響いてくる。
 な、何で。こんなメチャクチャ、されてるのに。
 ベッドに放り投げられて、揺れる天井。そしていきなり、また、
中に。
「よし、どうだ! 沙瀬美」
 スゴイ勢いで動いてる腰。あ、ダメ。足が勝手に突っ張って……。
感じるわけ、こんなの……。
「あ、あん……、ヤダ」
 あ、ウソ。背中、駆け上がる感覚。しび、れる。
「行くぞ!」
 あ、ダメ、ダメ……。
 擦れ合う感覚が全部になって、息が止まりそう。ああ、ダメだ。
メチャクチャ、気持ちいい……。
 精が散ったのがわかった後、すごく大きなため息が出てしまう。
 そして、太い腕にグッて抱きしめられて。
「はあ……」
 汗をかいた胸が、大きく息を吸い込んだ。すご……、ベッドでこ
んな汗かいてるの初めて見た……。
 なんだか、少し気恥ずかしいような……。勢いでしちゃったけれ
ど、これで、よかったのかな。
 それに、それに……感じちゃった、んだよね。
 あ、裸のままだ。かけるもの、かけるもの。
「ふう……」
 また、ため息。ちょっと色の褪せたタオルケットを巻いて、身体
を離すと、太い眉の下の目が、何だか考え深げな感じだった。
 うう〜ん、ご飯食べてるさっきまで、あんなにバカみたいに見え
てたのに。
「……どうした、の」
「ああ、まあね。やっちまってこんなこと言うのはなんだけどさ、
しょうもねぇ、ってとこかな」
「ちょ、それって……」
 も、もう、なんてデリカシーのない奴。やっぱ、牛だ、こいつ。
そりゃ、私なんか、しただけの女だろうけど、そういう言い方は!
「いくらなんでも、酷くない? そりゃ、やり得かもしれないけど
ね、そんな言い方……」
「ああ、」
 煤けた枕の上で、軽く笑った顔。え、違うの?
「違う、違う。俺のこと。杏奈に怒鳴りまくってたけどさ、一週間
も経てば、これだろ、俺も。……沙瀬美ちゃんは……、ああ、可愛
かった。これは、マジ」
 え、え、え……。
 笑顔が、もう……、こいつは、牛。牛だったはずなのにぃ。
「どうすっかなぁ……、やっぱ、言い過ぎたか」
 ため息混じりに天上を見上げる面長の顔を、私は何だか不思議な
気持ちでぼんやり見ていた。
 嬉しいような、寂しいような、そんな感じだった。

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