番外編 学園文化祭遊戯

 今日のホームルームでは、秋の文化祭へのクラス参加についての
話し合いがなされていた。
 薄紺のソフトスーツ姿で教室の後ろ端で椅子に座った真雪は、議
事の進行を無言で見つめていた。三−Cの生徒達は無難に事項を取
りまとめ、教師の自分が口を出す部分はほとんどなかった。
 隣のクラスとの合同参加、内容は後夜祭での演劇。演出・脚本は
予定通り三−Bから。そして、主要出演者の幾人かは三−Cで受け持
つ事に決定した。
 ざわつきながらも着実に進行する話し合いに、真雪は微笑を禁じ
得なかった。
 わたしが口を出す事なんて、なんにもない。みんな、落ち着いて
きたものだわ。
 三年生もこの時期になると、次への自覚が出てくるものなのだろ
うか。わたしが高校の頃は、もう少し幼かったような気がするけれ
ど……。
「では、開票します」
 教壇の前に立つ、髪を横結びにした女生徒が、張りのある声で言
った。
 結局、主演男優は投票で選ばれる事になった。まあ、好きこのん
で立候補する人間がいないのは当然のことだろうと思う。
「青島くん、一票。仲瀬くん、一票」
 読み上げられる度、「誰だ、入れやがった奴は!」「馬鹿やろう」
などの叫びが上がり、教室は騒然とし始めた。
「仲瀬くん、一票。鈴木くん、一票」
「マジかよ〜」
 真雪は立ち上がると、ポンポンと手を叩いた。
 ……まったく、ちょっと感心すれば、これなんだから。
「はい、静かにする。投票は、みなで決めたことでしょう?」
 担任の注意に、僅かに静けさを取り戻した教室。票の読み上げは
淡々と続けられた。
「金原くん、一票。仲瀬くん、一票。以上、全三十二票中、無効票
ゼロ票。結果、得票数十七票、過半数を獲得した仲瀬くんが主演男
優に決まりました」
 拍手と歓声がクラス中に響き渡った。
 あら、圭吾に決まったんだ……。
 廊下側の前方を見ると、机に片肘をついた圭吾は、やってらんね
ぇという感じで口元を歪ませ、あらぬかたに視線をやっていた。
 思ったより、静かな教室内。もう少し揉めるかと思った真雪は、
少し肩透かしを食らった感じだった。圭吾も、別段抵抗の色は見せ
ていない。普段なら、「俺は演劇部員じゃないぜ」くらいは言いそ
うな性格なんだけれど。
「では、次に主演女優役の開票を行います」
 圭吾の相手役かぁ。内容を考えると、ちょっと気になるかも。
 先刻より身を乗り出し気味にすると、一番後ろに座った女子の一
人が、面白そうにこちらを伺うのに気付いた。
 慌てて口元を引き締めると、背もたれに身体を預けた。
「城嶋さん、一票。鹿取さん、一票。佐藤さん、一票……」
 黒板にびっしりと名前が並んでいく。
「古暮さん、一票。小林さん、一票……」
 二、二、二、二……。何か、すごい事になってる。少なくとも決
戦投票になるわね、これは。
「大場さん、一票。以上、全三十二票中、無効票ゼロ票。結果は…
…、ご覧の通りです」
 担任としての記憶に間違いがなければ、黒板には女子十六人、全
員の名前が列記されている。しかも、その票数は……。
「なんだよ、これ」
「どうすんだよ〜」
 全員が横並びに二票ずつ。
「ジャンケンで決めれば」
「あみだくじ、あみだくじ〜」
 教室のあちこちから不規則な発言が飛び交う。
「静粛に」
 議長が軽く机を叩いた。
「この状況では、上位複数名による決戦投票もできません。何かよ
い意見があれば……。はい、織原くん」
 眼鏡の男子生徒が立ちあがると、素っ気無く言った。
「再投票じゃ結果が変わらないだろうから、何らかの抽選しかない
と思う」
「冗談! 向き不向きあるでしょ!」
「そんなの、誰も向いてないっての」
 女子の声が四方から飛ぶ。
 真雪はその場に立ちあがると、教室を見渡した。幾人かがちらり
と後ろをうかがう。その内一人が口に手を当て、堪えられないよう
に吹き出すのに気がついた。
「はい、発言は挙手をしてからお願いします。…小林さん」
 窓際で、背の高いセミロングの女子が立ちあがると、ちらりと真
雪の方を見遣った。
 ……何、友枝ちゃん?
 日頃から何かと話す事が多い、クラスのまとめ役の思わせぶりな
表情。真雪は軽く腕を組むと、妙に浮ついた雰囲気を漂わせ始めた
クラスを見まわした。
「……主演男優は決まってるわけだから、それに合わせて選ぶのも
一つの方法だと思う。ね、仲瀬」
 まだ肘をついたままの圭吾が、白けた表情を作ると、舌を軽く出
して息を吐き出すのが見えた。
 ちょっと、まさか。
「去年も確か、大島先生が特別出演なさってたと思うけれど。先生
が出ちゃいけなくはないよね、議長」
 友枝の視線が教壇に振られると、一時前まで能面のように議事を
進行していた議長の顔に、悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
「ええ、問題なしですね」
「ちょ、ちょっと待って……」
 慌てて前へ進みかけた真雪を、クラス全体の視線が振り返った。
「では、ここは拍手で採決しましょう」
「ま、待って、みん……」
「真雪先生を主演女優に推薦する事に賛成の人は、拍手で」
 う、嘘。
 教室全体が弾けるような拍手で埋め尽くされた。「先生ぇ」「ま
ゆきちゃ〜ん」――冷やかしの声が混じり、真雪はその時初めて気
がついた。
 圭吾が何も言わずに呆れた顔をしてた訳。
 もう、最初から出来ゲームだったんだ。まったく、悪ふざけする
んだから。しょうがない子達。
 教室中に広がった歓声とざわめきが収まるまで、暫くの時間を要
した。
「はいはい、もう。そんなこと通るわけがないでしょう? 職員会
議でバツが出るわよ。ちゃんと決めなさい」

 しかしその後、真雪は自分の読みが浅かった事に気付かざるをえ
なかった。
 かなりの人数がエスカレーターに乗っているとは言え、繰り返す
勉学の日々で蓄積した若いエネルギーは、予想以上のものだった。
『いいんじゃないかな、沢渡君。文化祭は学校全体で取り組むもの
でもある。いい息抜きにもなるだろう』
 頭を抱える教頭と教務を両脇に、眼鏡の下の目は悪戯っぽく笑っ
ていた。間違いなく、誰かが先に手を回していたのだ。
 その時真雪は、戦中生まれとは思えない校長の悪乗りに半ば呆れ
ながらも、少なからず胸を踊らせている自分に気付いていた。
 そして、文化祭の日がやってきた。
「まったく、いい見世物だよ。俺も真雪も、学園のオモチャじゃな
いんだからさ」
 白いタキシードを着た圭吾は、油で撫でつけた髪に触れながら、
暗い舞台の上を見遣った。
「言わないの。昨日、もう開き直るって決めたじゃない」
 少し蓮っ葉な赤いブラウスを着た真雪の頭には、バラバラに散っ
たセミロングのかつらが被さっている。
「たく、真雪はノリがいいからなぁ。ホントは目立つの好きだし…
…」
「もう、いつまでもぐちぐち言ってないで気合い入れないと。始ま
るわよ」
 その時、隣に並んだ圭吾の肩を、誰かの手がポンと叩いた。
「よ、キメキメじゃんか、ケーゴ」
 オールドサーファースタイルの長身が、ニヤニヤとした笑い顔を
こちらに向けていた。
「からかうな。結構キてるんだからさ、俺」
「ほ、お前でも固くなるんだな。と、先生」
「町田君、音声は?」
「オッケーっすよ、ばっちり。でもさ、めっちゃ嵌まってない、セ
ンセ。その格好」
「そう? プリティ・ウーマンぽいかなぁ」
「All Right、All Right。 相方は、イけてな
いけどね」
 細身のYシャツ姿が、舞台すそに積みあがった音響装置のブース
へと下りると、講堂内に流れ始めた音楽が耳に届いてきた。緩やか
で、繊細な調子のオーケストラの演奏。
「仲瀬君〜」
 大きな造花の花束を持った女子が、圭吾に呼びかけた。
 静かに息をつくと、圭吾は軽く唇を結んだ。
「じゃ、真雪。頼むな」
「あ、珍しくしおらしいんだ。もう、先生に任せて」
 目でうなずくと、花束を受け取った圭吾が、まだ幕が下りたまま
の舞台を通って、反対側のすそへと移動していく。
 ……うん。
 真雪は下に何枚かの服を着こんだフリルつきの赤いブラウスの胸
を、握った拳でトントンと叩くと、舞台へと歩を進めた。
 ダウンタウンのアパートメントを模した大道具の後ろに置かれた、
高い脚立に上る。下りたままの幕の向こうからは、講堂に響くアナ
ウンスの音が聞こえてきていた。
『……わたしは、思い出している。あの幼い日、何度も目にしたフ
ィルムの中の思い出を』
 下りた幕には、椅子に腰掛けた男のシルエットが映り、フィルム
を眺める様子が映し出されているはずだ。
 幕がゆっくりと上がり始めた瞬間、真雪はほどよい緊張と、むし
ろときめくような胸の高鳴りを感じ始めていた。
 演題、『ラブパレード』だもんね。それに、相手は圭吾だし……。
 天井からのライトが降り注ぎ、自然に浮かんだ笑みをそのままに
見下ろすと、暗い講堂内にびっしりと並んだ観客が目に入ってきた。
 真雪が上半身をのぞかせる、四角に切られた窓にスポットが当た
り、曲がR&B調に変化する。
 うわ、本当にその気になっちゃうかも……。
 客席がどっと沸くと同時に、見下ろした舞台の裾から、派手なオー
プンカーに乗ったタキシード姿の圭吾が、バラで満開の花束を捧げ
てアパートメントの下へと進んできた。そして、黒子の作った人間
階段を上がって、窓際へやってくる。
「へへ、悪くないかもな」
 近づいた顔が、小さく呟いた。花束を受け取った瞬間、拍手と口
笛が飛び交った。
 そして、アパートを象った背景が落ちると、衣装も早変わり。煤
けた路地裏に、鉄の非常階段。黒の皮ジャンに変わった圭吾を、フ
ラッパーなスカートを翻した真雪が斜め上から見下ろす。
 夜の雰囲気へ暗転する舞台。そして、舞台下から生の合唱が聞こ
えた。
 トゥ〜ナイト〜♪
 そして、舞台脇から出てくる雑多な格好の数十人。背景になって
いた大道具が下げられると、圭吾はモデルガンを、真雪はマイクを
受け取った。
 頭上でキラキラと光るミラーボール。効果音とざわめきが、舞台
上が何かの芸能プレゼンテーションの場である事を連想させる。
 舞台下から、大きな拳銃を持った黒ずくめの男が駆け上がると、
数人が悲鳴を上げた。
 人をかき分け、舞台奥でスポットライトに輝く、煌びやかなドレ
ス姿の真雪に駆け寄る圭吾。飛び付いて床に伏せさせると、モデル
ガンを構える。
 バンバン!
 効果音が響き渡った瞬間、拳銃の男はその場に崩れ落ちた。
 大げさな倒れ方に、場内が沸き返る。
「俺、かっこいい?」
 全員が伏せた状態の舞台上で、真雪と折り重なった圭吾が、悪戯
っぽく目を輝かせた。
「うん。かっこいいよ」
 暗転する中、軽く頬にキスをした。
「もう、先生。急いで」
 幕は開いたまま。黒子達が持ってきた衣装を素早く付けると、そ
れは地味な作業服。頭には髪を纏め上げた三角巾。
 白い軍服に変わった圭吾の首に腕を絡めると、足に手がかかって、
抱え上げられた。
 舞台脇からは、男女二人のデュエット。倒れていた脇役達が立ち
上がって列を作る。その間を、真雪を抱いたままゆっくりと歩き抜
ける圭吾。
「ま・ゆ・きちゃ〜ん」
 数人の野太い声が、講堂の片隅から響き渡った。
「死ねぇ! ケ〜ゴぉ!」
 どっと笑いが溢れる。
 そんな中、見上げた圭吾の横顔。白い軍帽が眩しい。真雪は、思
わず頬擦りしたくなる自分の気持ちを、何とか抑えていた。
 かっこいいよ、圭吾。
 そして裾に消えてすぐ、圭吾の軍服が外されると、真雪も三角巾
を外し、ベージュのネグリジェに纏った。
「やっぱ、これはちょっとハズイな〜」
 身体にピッタリと密着した青い布の胸には、赤いSのマーク。手
を繋いだ二人が、四人の黒子の肩の上に持ち上げられると、圭吾の
背中でマントが翻り、舞台後ろのスクリーンには月が輝いていた。
 空中を飛んでいるかの二人を、再び笑いと歓声が包み込む。
 ブラスの勇壮な響きが色を添えて、着地したのは、水色の布が後
ろへ前へと波打ち際を作る砂浜。
 水着一枚になった圭吾と、長い髪を散らした真雪は、横たわり背
中に手を回し合って折り重なった。
 講堂内は口笛が響きまわり、騒然とした状態。そこかしこから、
「やべえぞぉ」「マジだ〜」と声が混じる。
 真雪は、そんな雑音を遠くに、圭吾の顔を見つめていた。
 すごく気分が良かった。こんな学園。こんな生徒達。そして、目
の前にいる恋人。
 きっと、これは二度とない幸せな瞬間かもしれない。うん、絶対
にそうだ……。
 発作的に顔を近づけると、唇を合わせた。
「ま、ゆき」
 台本にはない、本当の唇の触れ合い。一瞬身体を固くした圭吾も、
すぐに柔らかさを受け入れると、そのまま、互いの吐息を側に聞い
ていた。そして、僅かに舌先が触れ合った瞬間、二人はどちらから
ともなく顔を放した。
「ふふ……」
「しょうがない奴。…たく、勃っちゃうだろ」
「バカ」
 眦の少し下がった目に、優しい笑みが浮かんだ。立ち上がった長
身は、黒く塗られた階段を後ずさりながら上り、背景の幕の中へ入
っていく。シルバーのスクリーンがかかり、ゆらめく巨大な上半身
のシルエットが映写機から投影され、そちらへ向けてひざ立てをし
た真雪が、切なげに手を伸ばした。
 叙情味を帯びて奏でられ、静かにフェードアウトしていく音楽。
そして、幕がゆっくりと下り始めた。
 手を伸ばして上を見上げ続けていた真雪は、幕が舞台に落ちる音
が響くと同時に、身体の力を抜いた。幕の向こう側から、歓声と拍
手の波が打ち寄せてきている。
「センセェ〜!」
 舞台の裾から、数人の女子が駆け寄ってきた。
「大成功!」
「かわいかったぁ、先生」
 手を握られ、満面の笑みに囲まれていると、自分も一人の生徒に
戻った気がして、嬉しくなった。背中ににじむ汗と、まだ動悸と緊
張が解けない身体と心を感じながら思う。
 そうだ、自分が高校生の頃、こんな思いを一度だって抱いただろ
うか。なんとなく過ぎてしまった、あの若い頃に……。
「ありがとう。うまくできてたかな」
「もちろん、ばっちり。でもさ、先生ぇ」
「ねぇ」
「うんうん」
 思わせぶりにうなずき合うセーラー服姿。
「なあに?」
 と、舞台の後ろから男子生徒の声が響いてきた。「やりやがって
ぇ」「エロ!」――振り向くと、背中を叩かれ、頭をグイグイと押
されながら、Yシャツと黒いズボンの制服姿に戻った圭吾が、男子
の輪の中から歩み寄ってきた。
「やっちゃえ〜!」
 集まってきた三−Cと三−Bの生徒達。誰かの掛け声と共に、す
ぐ近くにまで歩み寄った真雪と圭吾を中心に、大きな輪ができ上が
っていた。
「いけいけ!」
 真雪は、戸惑ったような色を浮かべて圭吾の瞳を見上げた。
「な、何?」
 照れたように口の端を歪めた圭吾が、少し身を屈めた。
「いっけ! いっけ!」
 拍手と掛け声が包み込むと、幕の向こうからは「アンコール」の
声が聞こえ始めていた。
「センセ、みんな見てたんだからね〜」
 ポンと背中を押された瞬間、圭吾の手が真雪の腰を捉えた。
「ごめ、真雪。でも、好きだ」
 呟く声。そして……。
 う、嘘ぉ。
 しかし、幕が上がり、再び観客席と舞台が一体になった時、真雪
の腕は圭吾の首に回されていた。
 柔らかい感触の他、頭は真っ白だった。
 拍手と歓声が講堂全体を満たす中で、真雪は一瞬目を閉じて、暖
かい感触に身を任せた。
 好きだよ、圭吾。好きだよ……。

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