第一章 Bigining

 さて、と。
 ざわめく教室の中の音を入り口のドア越しに聞きながら、真雪は
軽く深呼吸した。
 初日が肝心。第一印象でなめられると、修復するのが困難なのは
去年の経験でよくわかっている。
 ライトグレーに細かい黒のチェックが入ったスーツの胸元を直し、
ショートに刈り揃えられた襟元を軽く手で梳くと、勢いよくドアを
開け放った。
「ダッセーぞ、てめえ!」
「おーい、マサシぃ〜」
「ホラ、この間のさ、街でさぁ・・・」
 雑多な声を耳元に流したまま、教壇へと一気に歩を進める。入り
口一角の数人の女生徒が居住まいを正すと、あちこちに散らばって
いた学ラン姿も徐々に席へと戻り始めた。
 それでも残る、教壇に立った自分へ向けてのヒソヒソ声。
 真雪は、落としていた視線を上げると、切れ長の目を見開いた。
そして、脇に抱えていた出欠簿とファイルを勢いよく壇上に叩き置
いた。
「はい、立つ」
 人より大造りな口元を引き締めれば、今日は強めに描いた眉とあ
いまって、少なからぬ威圧感があるはず。商業の方よりは扱い易い
よ、と聞いてはいたが、男子生徒が大部分のこの高校では、わたし
みたいな若い女教師には押し出しが肝心だ。
 のろのろと立ちあがった黒い壁に向かって声を張り上げた。高音
域が伸びた、凛とした響きが教室に満ちる。
「おはようございます」
 やや間があってから、ばらばらで間延びした挨拶が返る。
「はい、元気がない。Look out the window.」
 窓の外を指差すと、3階から見下ろす広い校庭には、春の穏やか
な光が注いでいた。
「How fine it is! こういう陽気で若者が元気がないのは情けな
い。もう一度」
 今度は幾ばくかトーンが上がって、『おはようございます』の声
が響いた。
「Good. Sit down,Please.」
 がたがたと椅子に腰掛ける生徒達。露骨にうざったそうな顔を見
せる生徒も幾人かいたが、取り敢えずは教壇を注視している者が大
多数だった。
 うん、掴みはオッケーかな。
 視線を教室全体に行き渡らせると、黒板に自分の名前を自書した。
「はじめまして、沢渡(さわたり)真雪(まゆき)です。商業の方
から転属になりました。担当教科は、ご想像の通り、英語。今年一
年、よろしくお願いします」
 軽く頭を下げると、出欠簿を開いた。
「・・・じゃ、まず出欠をとりましょう。阿部・・・」
「センセぇ〜」
 後ろの方で足を伸ばして腰掛けた長髪の男子生徒が、調子はずれ
の甲高い声を響かせた。
「こういう時、恒例のアレは?」
「そー、そう」
 斜め前に座った短い金髪の生徒があいずちを打った。
 さっきこちらを伺いながら何事か囁き合っていた二人組みだ。ま、
何を話していたか見当は付くけれど。
「恒例の、とは?」
 だらしなく座った二人組みに、教室の視線が集まる。
「質問でしょ、こういう時は。お約束、お約束」
 最初に声を上げた長髪の生徒が、斜に構えて、皮肉っぽい視線を
投げてよこした。
「スリーサイズは?とか、初体験は、とかぁ、」
 少し間が空いた後で、にやっと笑って言う。
「好きな体位は、とかさ」
 真雪は、小さく鼻から息を吐いた。
「答える必要はありません」
 まったく、本校のレベルも知れるってものだ。中学生じゃあるま
いし。
「性的侮辱、セクシャルハラスメントって言葉は知ってるわね。高
校2年生にもなる、大人なあなた方なら。言葉による侮辱も、充分
に該当することを知りなさい」
 短く言うと、感情のほとんどこもらない視線を真っ直ぐに投げ下
ろした。二人の男子生徒は、唇をへの字に曲げると、それ以上続け
るのをやめた。
「・・・では、阿部純也君」
「はい」
 平然と出欠に戻ると、次々に名前を呼んでいく。
 男子30人、女子8人、か。これじゃあ、がさつくのも当然かも
ね。
 返事を聞きながら、顔を頭の中に焼き付けていく。まず顔を覚え
ること、それが秘訣なのはよくわかっていた。
「仲瀬圭吾君」
「はい」
 少しハイトーンの短い返事。その響きが耳に入った瞬間、頭の奥
底に走った電気が、懐かしい何かを呼び覚ますのがわかった。
 真雪は、僅かな動悸と共に、視線を声の方へと向けた。
 ・・・ウソ。
 窓際に座る座高の高いその姿は、声の呼び覚ます像と一致して、
時を凍りつかせる。
 面長の顔に、大きめの鼻。意志を感じさせる引き締まった厚い唇
と、濃い眉毛。それでいて、眦の下がって涼しげな目が遠くを見て
いるようで・・・。
 坂中先輩?
 記憶とは唯一異なる、ミディアムでナチュラルレイヤーにまとめ
られた髪が軽く掻き揚げられると、視線が正面から絡み合ってしま
う。
 ドクン。
 心臓が再び大きく鼓動するのが聞こえて、慌てて目を逸らした。
「ぬ、沼田道明君」
 声がうまく出なかった。6年前の記憶が一気に蘇って、教壇に立
っている自分を忘れそうになる。
 落ち着いて。そんなに似ているはずがない。気のせいよ。
 点呼を続けながら、もう一度横目で窓際の席に座る姿を確認した。
 気のせい・・・、じゃない。
 真っ直ぐにこちらを見上げる色合いの深い瞳を確認した後、動悸
と、頭の奥に残る痺れた感覚が薄れる事はなかった。
 その後、どうやってホームルームを終えたか、ほとんど記憶にな
かった。

「言葉を失うって、ああいう感じなんだと思う」
 夜、10畳一間の部屋で、ベッドに仰向けになったまま真雪はコ
ードレスの子機を握っていた。
『似た人間は世の中に3人いる、と聞いたことはあるけどねぇ。親
戚かなんかじゃないの?』
 電話の向こうの女性の声は、少しからかうような調子を帯びてい
た。
「書類見たんだけどね、全然関係ないんだ、それが」
 くすくすと笑い声が耳に響いてくる。
 もう、冗談じゃないんだから。
「・・・美佳。マジなんだからね」
『あ、ゴメゴメ。この間までさ、もう教師を続けるモチベーション
が、なんて言ってたその口で言うからさ。真雪らしいな、って思っ
て』
「どういう意味よ」
『クールに装っても、中身はまんま、でしょ』
 痛い所を突かれて、風呂上りで下着にロングのTシャツだけの胸
元に玩んでいたペンギンのぬいぐるみをフローリングの床へ投げ出
した。
「仕事が相変わらずなのは確かよ。みんなガキばっかだしね。所詮、
ルーチンワークなのは教師も同じ・・・」
『はいはい。わかってるって』
 はあ、美佳には勝てないなぁ、まったく。
「人のことばっか言ってるけど、美佳こそ、この間捕まえた3高男
はどうしたのよ」
『その言葉も死語だよねぇ』
 人ごとのように言うと、ため息混じりの声。
『確かに、ルックスから能力までまったく問題ないんだけどね』
「うん」
『深みってやつかなぁ。ま、そんな事はどうでもいいんだ。求めて
たわけでもなし。それより真雪、あんたこそ、だよ。教え子とロマ
ンス、なんてことあるんじゃない? やばいよ〜』
「そんなわけないよ。17なんて、ガキ過ぎて。見た目があんまり
先輩に似てたからびっくりしただけ・・・」
 窓の外を眺めて何かに想いをさまよわせている不透明な表情が、
記憶の中の像と重なって浮かび上がる。
『ふーん。じゃ、また会社の男でも紹介しようか?その職場じゃ、
出会いもあったもんじゃないでしょ。そろそろ仕事ばっかじゃ、っ
てこの間言ってたじゃん』
「う、うん」
 どうして胸が高鳴るんだろう。こんな感情、意味がないのはわか
っているのに。
『干からびちゃうよ、たまには男と付き合わんと。ちっとは解消し
てんの?カラカラのオールドミス女教師、なんてありがち過ぎだか
らね。たまにはオンナの喜びって奴に身を浸さんと・・・』
「美佳ぁ、すぐそういうことを・・・」
『あ』
 受話器の向こうから別の発信音が聞こえる。
『携帯、鳴ってるわ。じゃ、後日談、期待してるから。ケーゴ君と
の』
「こら!」
 言葉を継ぐ前に、通話が途切れた。
 まったく、美佳こそじゃない。冗談ばっかりで、どこまで本気や
ら。
 子機をガラステーブルの上の充電器に置くと、もう一度ベッドの
上に身体を投げ出す。
 2年目だと、こんなもんなのかなぁ。
 年度替りの提出書類をまとめていた印象ばかりが残る始業の一日
だった。去年の事を思い返せば、新任の緊張と目新しさで、必死だ
った記憶しかない。
 曲りなりにも、教師としての使命感を抱いて、決意するところも
あったっけ。
 遠い過去のような気がした。実際待っていたのは、高校生と言う
にはあまりに幼稚で、欲望や快楽、情報にだけはやたら敏感な、身
体だけ育ったコドモの群れ。
 干からびちゃうよ、か・・・。確かにそうかも。
 真雪は、ベッドサイドで揺れる銀色の自転車を象ったアンティー
クをぼんやりと見つめた。
『男女の付き合いは控えるように』
 校長の言うことももっともだ、なんて思ってたんだから、わたし
も相当なお人よしだ。プライバシーの問題なのに。
 不意に、緑のTシャツの裾から出た太腿が意識に上った。指を水
色のショーツに覆われたヒップへのラインに乗せてみる。
「あ・・・」
 微かに声が漏れた。
 指先が外腿に当たるだけで、ゾクゾクした感覚が腰の周辺へと広
がっていく。
 少し、しちゃおうかな。
 自慰行為すら、いつしたのか記憶がなかった。
 少しレーシィになったショーツの裾から指を忍び込ませてみる。
もう、外側にまで潤いが漏れ始めているのがわかる。
 ・・・もう、こんなになってる。
 目を閉じてTシャツをたくし上げた。
 下腹部から上り詰めた指先を、焦らすようにブラジャーの上から
頂きに這わせると、乳首の周辺からじわじわとした快感が芽生え、
身体の中心へと降りて行く。
 最初は、何も考えていなかった。ただ、愛撫する指先だけを意識
に浮かべて、昂まっていく官能を味わっていた。
 でも、うつぶせになり、ショーツを脱ぎ捨て、ブラのホックだけ
を外して腰を高く上げた時、閉じた目の中に、背後から抱きしめる
逞しい影が浮かんでいた。
 ダメ・・・。
 淡い円形の草むらの中の核を玩んでいた指先が泉の中へと沈みこ
んだ時、スパークしたイメージが、後ろから侵入してくる熱い昂ま
りに変わる。
 胸に添えられた手は、後ろから揉みしだく大きな手に変わり、貫
かれた身体の中心は、激しく出入りする剛直に喜びの震えを始める。
 抱きしめる影は、黒髪に濃い眉、涼しげな瞳。
 そんなにされたら・・・。
 指先が内壁を押し広げ、手の平の下で尖り出した核が押しつぶさ
れた瞬間、押し殺した高い声が漏れた。
「あ、ぁぁぁ・・」
 上り詰めた瞬間、黒髪の男性のイメージは、現代風のブラウンに
ミディアムレイヤーの髪に置き換わっていた。
 一瞬、その妄想に制御を効かそうと思ったが、湧きあがった官能
の波に身を浸してしまう。
 それほど深くはない絶頂が通り過ぎると、腰をへたり込ませてう
つぶせに埋もれながら、ぼんやりと部屋の中を見た。
 ・・・溜まってる、みたい。ストレスも、寂しさも。
 最後にまだほとんど知りもしない教え子の影を、自慰行為の触媒
に使ってしまった罪悪感と共に思う。
 美佳の言う通りだ。
 わたしは高校の時から全然変わってない。夢見がちで、寂しがり
で・・・。
 でも、どうしようもないから。世界にこの孤独を満たす場所は何
処にもない。
 一段落したら、久しぶりに街にでも遊びに行こう。わたしが誰か
も紛れてしまう、大きな繁華街に。
 真雪はため息を付くと、新しいショーツを出すために、衣装ケー
スの引出しを開けた。

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