第二章 Happening

 今日の6限は英語だった。
 放課後、圭吾はライトブラウンに染めた髪にヘアージェルを付け
ながら、トイレの鏡を覗き込んでいた。
 担任の真雪の視線が、まだ印象を残していた。
 新学期が始まって一週間、もうこれは気のせいじゃない。
 授業中やホームルームの最中、先生の視線が自分の顔の上に止ま
り、決まり悪そうに逸らされるのを何度か見た。
 俺、何かやったかな・・・。
 思い出せるようなことは何もなかった。
 ま、確かにお世辞にもがんばってるレベルじゃない。でも、全て
につつがなくやってきたはずだ。
 まさか、俺自身が気になる、とか?
 圭吾は心の中で首を振った。馬鹿らしい。俺も脳味噌に媚薬が回
ってるクチになっちまったか?
 初めて真雪が教室に入ってきた時、自然に惹きつけられてしまっ
たことは否定できなかった。
 ショートカットに切れ長の目。意志の強そうな口元から発される、
雄弁な言葉。スレンダーだが、曲線は優雅で柔らかそうな身体。
 けれど自分の顔の上で留まった、ためらうような光を湛えた瞳に
は、他の印象とはまったく違った瑞々しさが見えた気がして、今で
も忘れることができない。
 そして、今日も一瞬、固い殻の内側にある柔らかい核が見えた気
がして・・・。
 あぁ、何を考えてるんだ、俺は。
 妄想は、自分の性格とは対称軸にある習癖の一つのはずだった。
圭吾はトイレから出ると、肩掛けバッグにブラシとジェルを放りこ
む。
 バタバタと階段を降りて、下駄箱にスリッパを投げ入れた。
「圭吾ぉ」
 その時、下駄箱の陰から声が響いた。学ランのズボンを腰骨の辺
りまで緩めて落とした男子生徒が二人、傘立てに寄りかかるように
立っている。
「何だ。今日は付き合わんぞ」
 視線を合わせないままスニーカーに足を通すと、無視して帰途に
着こうとする。
 聞かなくても、用件が一つしかないことはわかっていた。
「圭吾ちゃん、それはないっしょ」
 短くソフトモヒカン風にまとめた茶髪の一人が、丸い目の片方を
閉じてウィンクする。
「ダシにするなっての。俺を」
「だってさ、お前いると成功率がメッチャ違うんだよな〜、これが」
 オールドサーファースタイルの黒髪の一人が、歩み寄ってきて圭
吾の肩に手を掛けた。
「たく、ウザイんだよ。今日は暇ねぇんだ」
 手を振り払うと、そのまま昇降口の階段を降りて行く。
「たく、オンナ嫌いな奴。お、そうだ」
 歩み去って行く圭吾の背中に、大声が響いた。
「木村がさあ、たまには部活に顔出してくれってよ。文化祭の出展
が足りんとやら、なんとやら」
 圭吾は手だけを振って了解の意を示すと、花が落ちて緑の葉が芽
吹き始めた桜の木の間を、レンガ造りの校門へ向けて歩を早めてい
った。

 食事が終わって部屋に戻ると、ようやく解放された安堵のため息
が出る。
 ・・・59番てのは、手を抜きすぎたかもな。
 学年替わりのテストの結果を見せた瞬間から、夕食を食べ終わる
まで続いた、叱責とも愚痴ともつかない母親の言葉は、聞き流すに
は勢いがありすぎた。
 都合が悪いことに、今日は父親も兄も残業で家にいない。話題を
逸らすこともできず、ただひたすら「今度はがんばるから」「わか
った」と繰り返すぐらいしかできなかった。
『どうして圭吾はそうなの。努力しないでできるのが、一番良くな
いってわかってるでしょう』
 どうだろうな。そういう問題じゃないと思うんだが・・・。
 にしても、どうしてこう、俺の周りの女は思い込みが強いのが多
いんだ。
 一瞬、眼鏡にお下げの少女の顔が思い浮かんだ。何か問いたげな
表情が記憶の中で言葉を紡ごうとしたが、眉根を寄せてすぐに打ち
消した。そして、サイドボードの横に置かれたTVのスイッチをつけ
ると、7時から始まるバラエティ番組にチャンネルを合わせた。
 回転式の座椅子に腰掛けて、Gパンの足を伸ばす。CMが終わっ
て、7時の時報がTVから響いた瞬間、テーブルの上の充電器で携
帯電話が鳴った。
 非通知の表示。一瞬、通話ボタンを押すのをためらったが、耳元
に携帯電話を持っていった。
「はい」
『おお、圭吾』
 たく、またあいつらか。
「なんだよ」
 通話越しに、街の雑踏の音が聞こえる。
『出てこれん? イケテルの3人、捕まえたんだけどよ、ワルイ、
お前ダシに使っちゃってさ』
「カッコイイのを連れてくってか?」
『・・・そうそう、いいだろ? 今ブクロで・・・・』
 バカ。自分らで始末しろ。
 通話を切ると、携帯をベッドの上に投げ出した。その瞬間、再び
鳴る携帯の呼び出し音。
 あいつら、いい加減にしろ!
 電源を切ろうとした瞬間、今度は通知先が出ているのに気付いた。
 キムラレイカ。
 麗佳か・・・。
 そのまま電源を切った。普段は涼しげに見える瞳の奥に、淀んだ
光りが一瞬宿る。
 やってらんね。人をなんだと思ってるんだ、どいつもこいつも。
 タンスの引出しを開けて、グレーのパーカーに袖を通し、ライト
ブルーのニット帽を被ると、部屋のドアを開けた。そそくさとスニ
ーカーを履くと、玄関の戸を開ける。
「どうしたの、こんな時間に」
「ちょっと出てくる」
 しまりかけたドアの向こうから、母の声が微かに聞こえた。
「どうしてあんたは・・・・」
 大通りへ出る角を曲がると、圭吾は地下鉄の駅へと一直線に走っ
た。
 ・・・落ち着かせてくれよな、まったく。
 瞳からはさっきまでの淀んだ色はすっかり消えていた。その表情
は、夜のライトに照らされて、むしろ嬉しげに輝いて見えた。

 地下鉄を降りて駅から出ると、金曜日の吉祥寺の街は、人波で溢
れかえっていた。今日は少し冷え込んでいたが、冬の影はもう何処
にもない。薄着の若者が目立つ夜の街は、春の躍動感で満ち溢れて
いた。
 圭吾は、陽気にざわめく人の間を縫いながらアーケード街を歩い
ていた。
 ゲーセンにでも行くか・・・。それとも。
 立ち並ぶ店のネオンを目に映しながら、二つ折りにした皮の財布
を開いた。
 1万5千、か。どうにかなるかな。
 道路に出る前の横丁を入ると、木の樽が置かれた狭い下り階段へ
の入り口で立ち止まった。『ミシシッピー』と黒く焼き付けられた
木の看板を見上げると、一つため息をついた。
 何も、変わってはいないんだろうけどな・・・。
 階段を下って、突き当たりのドアを開けると、カウンターと3、
4のボックス席が並んだ空間が、淡いライトの下に広がっている。
「いらっしゃい」
 混み合った店内、グラスに囲まれたカウンターの中から声がした。
「お、圭吾君じゃん」
 髪を後ろに撫で付けた若いバーテンが、少し驚いた表情で言った。
「おひさし」
「こっちこそ。そこ、空いてるよ」
 カウンターに並ぶ、低い背もたれの付いた椅子につま先だって腰
掛けると、タオルとナッツの入った小さな皿が差し出された。
「ビールでいいかい?」
「いいよ。バドの生にして」
 店内を見回すと、何処となく懐かしいような気がした。
「どうぞ。ほんと、ご無沙汰だったじゃん」
「まあねぇ。最近は、大学近辺で飲んでたから」
 細かい泡の盛り上がったビールグラスに口をつけると、一気に半
分ほど飲み干した。
 にが・・・。
『その内、おいしくなるよ』
 記憶の中の声が囁く。圭吾はナッツを一つつまむと、口の中に放
りこんだ。
 やっぱり、来てみればこんなもんだ。
 あれは、苦い記憶だったのだろうか? こうして時間が過ぎてみ
れば、もう、よくわからない。多分、全てはこんな風に曖昧に過ぎ
ていくんだろう。
 残りを飲み干した時、右手の一つ空いた席の向こうから、女性の
声が響いてきた。
「・・・結局、先輩だってそうよ。オトコなんて、み〜んなおんな
じ」
「ひどいなぁ、俺だって男だよ」
 バーテンの宥めるような声。何の気もなしに声の方を向くと、太
腿も露わな赤いレザースカートが目に入った。
「ああ、ヤダヤダ。頭じゃなくて股間で考えてんだから。立てたモ
ノ振り回してればいいってもんじゃないのよ」
 しょうがねぇなあ、酔っ払い女だわ。
「ど〜せ、谷口君だっておんなじでしょ? ヤラしてくれるオンナ
はいいオンナ。屁理屈こねる奴は死ね!ってね」
「まいったなぁ。そういうもんばっかりじゃないよ、結構、男も繊
細なんだから。ほら、真雪ちゃん、機嫌直す、直す。ストレス溜ま
ってるのは・・・」
 ナニ?
 圭吾は落としていた視線を反射的に上げた。露わな太腿から上が
って、白いニット風のタンクトップも、胸の谷間を強調したデザイ
ン。
 そして、恐る恐る更に見上げた先には、確かに見知った顔があっ
た。
 切れ長の目に、長い睫毛。細い眉毛は、教室で見る時より下がっ
て描かれていて、何処か愛嬌があった。そして、パープル混じりに
塗られた意志の強そうな唇は、間違いなく・・・。
 な、何でこんなところに先生が・・・。いや、違う、それは俺の
方だ!
 とりあえず、トイレにでも身を隠そう、そう思って椅子から身体
をずらした瞬間だった。
 ショートカットの黒髪が不意にこちらを向くと、いくらか焦点の
ずれた瞳が、まじまじと圭吾の顔を見つめた。
 なんで、こっち向くんだよ!
「あれ・・・?」
 舌のもつれた感じだった。
「ど、どうも」
 ニット帽を被った頭に手を当てると、気の抜けた笑いを浮かべる
しかなかった。
 こりゃ、停学もんだろうな・・・。
 怒鳴られる、そう思った瞬間、真雪の口から出たのは意外な言葉
だった。
「・・・仲瀬君、どうしてこんなとこに。あ、もしかして、今の聞
いてた!?」
「は?」
 教室で聞くのとは全く違った、ハイトーンの声。クリクリと動く
目が印象に残って、普段とのギャップにどう対処したらいいのかわ
からない。
「・・・男がやらすとか、やらさないとかですか?」
「違う違う、その前ぇ」
 圭吾は心の中でクスッと笑った。
 ・・・『鉄壁女史』じゃなかったんだな、やっぱり。
 同時に、今まで経験したことのない甘い痛みが何処かで疼くのを
感じて、わけもなく頬が熱くなる。
「真雪ちゃん、圭吾君と知りあいだったの?」
 会話を聞いていたバーテンが、興味ありげに声を掛けた。
「え?」
 真雪は圭吾から目を逸らすと、視線を上方にさまよわせた。
「・・・、ええと、その・・・教え子、じゃなくて・・・」
 何故か言い淀む真雪を遮ると、圭吾は告げた。
「高校時代、家庭教師してもらってたんスよ。ね、真雪先生」
「そ、そうなの。・・・もうお酒飲める年になってたのねぇ。隣、
座れば」
 ぎこちない笑みを浮かべて、隣の椅子をポンポンと叩く真雪。
 こりゃ、助かったかも。
 圭吾は真雪の隣に座ると、二杯目のグラスに口を付けた。さっき
始まった動悸は、まだ続いていた。

 ようやく時間ができたのは、新学期が始まってから一週間後だっ
た。
 学校の近辺に出かけるわけにはいかない。そうなると、学生時代
に下宿していた吉祥寺が一番良く知っている場所だった。
 あそこなら、行きつけだったショットバーもあるし・・。
 最初は、もっと大人しい服にするつもりだった。
 でも、ハンガーに掛かった服をベッドの上に並べている内、何時
の間にかタイトでお尻がようやく隠れるだけの赤いレザースカート
と、肩と胸元が露わなニットシャツを選んでいた。
 銀のチェーンベルトと、ブレスレッドをあしらえば、姿見に映る
姿は、大学時代と寸分変わらない。
 そして真雪は、妙に高揚した気分になってショットバーのカウン
ターに腰掛けていた。
「谷口君、もう一杯」
 水割りのグラスを差し出すと、オールバックのバーテンは困った
ように言った。
「まいったなぁ。久しぶりに来たと思えば、これだもん。そんなん
で、まじめに先生やってるわけ?」
「うるさいの、いちいち。客なんだから、さっさと出せばいいのよ」
 酔っ払っているのはわかっていた。でも、何かタガが外れてしま
ったようで止まらない。アルコールが回るほど、自分がこの一年や
ってきたことが馬鹿らしく思えて情けなくなる。
「はい、どうぞ」
 出された水割りを、3分の1ほど喉の奥に流し込んだ。バーボン
の焼ける感触が胃の中へ落ちて行くのがわかる。
「あ〜あ、まったく。そんな溜まってる訳? 高校生相手に張り合
い持ってやってるって、美佳から聞いてたけどなぁ」
「そう思ってたんだけどね。な〜んか、調子が狂っちゃって。先輩
に似た子がいたりして・・・。時々、まじまじ見ちゃう時があるの
よ。こんなことがあるんだ、って」
「そんなに似てるの? にしても、真雪ちゃんもほんと、一途だよ
ねぇ。で、ときめいたりしちゃったわけだ」
 バーテンは、少し身を乗り出すと、真雪に新しいタオルを渡した。
「そんなんじゃないわよ。まったく、すぐそういう事に結び付ける
んだから。・・・結局、先輩だってそうよ。オトコなんて、み〜ん
なおんなじ」
「ひどいなぁ、俺だって男だよ」
 バーテンの視線が、無防備に開いた胸元を覗きこんだように感じ
た。
「ああ、やだやだ。頭じゃなくて股間で考えてんだから。立てたモ
ノ振り回してればいいってもんじゃないのよ」
 もう一度グラスをあおる。
「ど〜せ、谷口君だっておんなじでしょ?ヤラしてくれるオンナは
いいオンナ。屁理屈こねる奴は死ね!ってね」
「まいったなぁ。そういうもんばっかりじゃないよ、結構、男も繊
細なんだから。ほら、真雪ちゃん、機嫌直す、直す。ストレス溜ま
ってるのはわかるけどさ。軽い奴、奢るからさ」
 ボトルの並んだ左手の方に歩いていくバーテンの姿を目で追いな
がら、大きく一つ息をついた。
 どうしようもないな、わたし。もう今年で24になる人間のする
ことじゃない。
 一層ぼんやりし始めた意識の端で、視界に入った人影が思い掛け
ない像と一致して、僅かに覚醒を促した。
 ・・・あれ?
 ライトブルーと白いラインのニット帽。パーカー。学ランじゃな
いけれど・・・。
「ど、どうも」
 きまり悪そうに頭に手をやってこちらを見つめている姿は、間違
いなかった。仲瀬圭吾君だ。
「・・・仲瀬君、どうしてこんなとこに」
 剥き出しになった太腿を隠すものがないか考えて、そんなものが
あるはずはないことにすぐ気がついた。 そして、カウンターの上
に置かれたグラスは、もう空になっている。
 そうだ、こんな近くにいて。やばい、さっきまでの話聞かれてた
ら・・・。
「あ、もしかして、今の聞いてた!?」
「は? ・・・男がやらすとか、やらさないとかですか?」
「違う違う、その前ぇ」
 少し裏返ってしまった声に、圭吾の瞳が面白そうに光るのがわか
った。
 まずい、ちょっと威厳を保たないと。
 そこまで考えて、初めて気がつく。ここは飲み屋だ。高校生がい
ていいわけがない。
 どうしようか、まとまらない思考をなんとかかき集めようとした
時、バーテンの矢口が声を掛けた。
「真雪ちゃん、圭吾君と知り合いだったの?」
「え?」
 確かに知っているけれど、こんな場所で、こんな格好で・・・。
でもわたしは彼の担任だから、ちゃんとしなければ。
「・・・、ええと、その・・・教え子、じゃなくて・・・」
 どうしても言い淀んでしまう。今更先生風を吹かすのもおかしい
ような気がした。すると、口の端を少し上げて、からかいとも優し
さともつかない微笑を浮かべて、圭吾が言った。
「高校時代、家庭教師してもらってたんスよ。ね、真雪先生」
「そ、そうなの。・・・もうお酒飲める年になってたのねぇ。隣、
座れば」
 その笑い方が、ただ顔が似ているだけではすまない深い記憶を呼
び覚まして、真雪は動揺していた。
 隣に腰掛けると、圭吾は顔を寄せて小声で言った。
「すいません。見逃してもらって」
「・・・見逃してなんて、いないわよ。こんな所で、わたしだって
先生って言いたくないから」
「じゃ、やっぱアウト?」
「・・・今、考えてるとこよ」
 間近に見つめられると、どうしてもペースが狂ってしまう。
 その様子を見て取ったのか、圭吾はビールの入ったグラスに口を
付けた。
「こら。もうダメ」
 手を押さえると、濃い眉の下の目がほとんど触れ合わんばかりの
傍にあった。
「・・・飲まないと、かえってアヤシイですよ」
「先生はそういうこと、言ってないでしょう」
「じゃ、先生が飲みますか?」
「わたしは、ビールは苦手なの」
「じゃ、俺が飲むから」
 そう言って、ビールを飲み干した。すっかり圭吾のペースになっ
ていた。
 ・・・こういう所は、坂中先輩と全然違うな。
 さっきあおった水割りが、さらに意識を痺れさせていくのがわか
った。
 本当は、仲瀬君を指導しなきゃいけないんだけど・・・。ま、今
日は見逃してやろうかなぁ。
「先生も、そんな格好するんですね」
 どれくらい時間が過ぎただろうか、もう何杯目かのビールを空に
した後で、圭吾がわずかにハスキーになったハイトーンの声で言っ
た。
「たまにはね。似合わないでしょ」
「そうかなあ、俺は、可愛いと思うけど」
 そして、にっこりと笑った。
 酔いのすっかり回った頭を置き去りにして、動悸が激しくなるの
を感じる。現在なのか記憶なのか、一瞬、今がわからなくなる。
「ね、それって、妹みたいってこと?」
「は?」
 意味がわからないというように、圭吾は太い眉を寄せて首を横に
傾けた。
「妹、なわけないでしょ。先生、俺よりずっと上だし、その格好で
そういうニュアンスはないと思うけど」
「そっか、じゃあ、女性としてって意味でいいんだよね」
 先輩がわたしに言う時は、そういう意味じゃなかった。もっとも、
わたしは全然気付いてなかったけれど。
「たく、よっぽど疲れてんですね、真雪先生。さっきも、大分悪態
ついてたみたいだけど」
 そして、悪戯っぽく厚い唇を歪めると、耳元に口を寄せて言った。
「そんな溜まってるなら、俺が相手になりますよ」
 ドクっと心臓が脈打って止まる。
「あ、冗談ス。冗談。そんな目で見ないで」
 まじまじと見つめた真雪の射るような視線に、圭吾は身体を後ろ
に逸らせ、両手を合わせて拝み倒すポーズを取った。
「・・・解消、しちゃおうかなぁ・・・」
 わたし、なんてこと言ってるんだろう。
 圭吾は、合わせていた手を離すと、クスクス笑いながら言った。
「先生も、結構冗談好きですねぇ。思ったより、話せる・・・」
 その瞬間、二人の視線が絡んだ。
 圭吾は言葉を止めて、長細い目を見開いた。
「マジ、ですか?」
 真雪は、ゆっくりと頷いていた。アルコールのせいもあったが、
何か身体全体が熱に浮かされたようで、理性の制御が利かなくなっ
ていた。

 わたしはとんでもないことをしようとしてるんじゃないだろうか。
 ホテルでシャワーに打たれながら、真雪は徐々に冷静になってい
く自分を感じていた。
 引き返すなら、今だ。
 しなやかな曲線を描く細い身体を、熱い湯が流れ落ちていく。隅
々まで綺麗に洗ったソープを落とす間も、身体の奥に残る熱い動き
を感じていた。でも、それで許されることではない。生徒とこんな
関係を結ぶこと、それは、教師としての資格を逸することに間違い
はなかった。
 やっぱり、やめよう。仲瀬君を傷つけるかもしれないけれど、ま
だ引き返せる場所だ。
 真雪は決心すると、バスタオルを身体に巻いて、ベッドライトだ
けに照らし出される薄暗いベッドルームに足を下ろした。
 まだ少し濡れている髪を掻き上げると、セミダブルのベッドの上
に、トランクスだけで横になった圭吾を見下ろした。
「・・・仲瀬君」
 ベッドの空いた傍らを示した裸の腕に、真雪は首を振った。そし
て、背中を向けて言う。
「やっぱり、やめましょう。わたし、どうかしてた。生徒と教師が
・・・・」
 それ以上を続けることはできなかった。不意に後ろから抱きしめ
られて、耳元で低い声が囁いたから。
「ウソだ。先生の心は、そんなこと言ってない」
 肩から回された手は、考えていたよりずっと逞しかった。胸が破
れそうになるほどの動悸を何とか押し留めながら、切れぎれの声で
言う。
「ダメ。だって、こういうことは、ちゃんと気持ちが通いあった同
士でしないと。こんな行きずりの・・・・」
「違う。俺は、先生が好きだ。多分、間違いない。こんなにドキド
キしたのは、初めてだから。今まで、自分からこんな風に感じたこ
と、なかったから」
 その言葉は、どこまで本気なのだろう。
 でも、バスタオルが剥ぎ取られ、背中越しに脈動する昂まりを感
じ、そして、後ろから顎に添えられた手が、持ち上げるように唇を
唇へ誘った時、真雪の理性の壁は、一気に崩壊してしまっていた。
 前置きもなく、激しく深いキスが始まった。廻された手は、大き
くはないが形のいい乳房をゆっくりと捏ねる。そして、もう片方の
手は、脇腹を滑り落ち、僅かに開いた足の間へと、静かに滑り込ん
でいく。
 この子、上手だ・・・。
 そんなことを考えていられたのは、始めだけだった。
 舌の絡まるスピードは速くなり、ショーツが手早く抜き取られる
と、焼けるように熱い感触が、尻の双丘に押し付けられていく。
 痛いほどに立ちあがった乳首が軽く摘み上げられた瞬間、潤い始
めていた泉に、一気に昂まりが侵入してきた。
 片足が持ち上げられると、立ったままの不安定な状態で抽送が始
まった。
 イヤだ、こんな格好で・・・。
 経験がない体位ではなかった。でも、いきなり年下の教え子にこ
んな形で挿入されると、快感に戸惑いが重なって、どうしていいか
わからなくなる。
 耳元に、圭吾の荒い息が響いてきていた。必死さが伝わってきた
時、戸惑いも充足へと形を変え、身体の官能のリズムと同期し始め
る。
「い、いいよ、圭吾君」
 剛直が出入りを続ける泉の入り口で、大きく尖り出した核が剥き
出しにされた時、戦慄が背中を走った。
 膣の入り口が少し揺らめき、うめきが耳元に聞こえた。
 そして腰が離れると、ベッドに仰向けに倒れ込まされた。
「・・・先生、ちょっと俺、もうやばいみたい」
 荒い息をつきながら圭吾は言うと、テーブルの上に置かれた財布
を開いた。
 最初は何をしようとしているのかわからなかった。でも、見覚え
のある丸いフィルムが現れると、驚きと感動が胸に湧いてくる。
 今まで、幾人かとベッドを共にした。でも、自分から避妊をしよ
うとした男は一人もいなかった。それどころか、止めようとしても
中で出したがる馬鹿ばかりだったのに。
「ありがと、仲瀬君」
「どうして?」
 意外そうに圭吾は真雪を見つめた。首をゆっくりと横に振ると、
答えの代わりに両手を広げる。
 再び昂まりが入ってきた時、今までの交わりでは経験したことの
なかった温かさが心を満たしているのがわかった。
 教え子と肉体関係を結んでいる。
 罪悪感はまだ心の奥に残っていたけれど、この瞬間だけは隠して
しまおう、そう思った。
「い、いいよ。先生」
 思ったよりずっと逞しい胸。腕。組み合わせた足を絡み合わせて、
深く奥まで導き入れる。
 内壁が、剛棒の震えを感じ取った。
 い、イィ、もっと・・・。
 腰を浮かせ、少しひねるようにして刺激する。
 薄目を開けると、快感に目を閉じて切なそうな表情を浮かべる圭
吾の顔に、かつて憧れた男性の顔が重なる。
 ・・・だ、ダメ。
 そのビジョンを消そうと思った瞬間、真雪の快感は頂きにたどり
着いてしまっていた。程なくうめきと共に、圭吾の分身も絶頂のし
るしを溢れ出していた。
 二人の荒い息だけが残り、身体が徐々に弛緩していく。
 憑かれたような熱情が去った後、真雪は大きなため息をついた。
 わたし、最悪だ。教師としても、女としても。
 生徒を欲求不満の捌け口に使った上に、別の男を重ねるなんて・
・・。
 きっと、この子を傷付けてしまう。こんなに優しい人なのに。
 真雪は、まだ汗を滲ませて大きく上下している圭吾の背中に、柔
らかく手の平を置いた。

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