第三章 Reasons

 一夜限りの乱行だとは思いたくなかった。
 あの夜から3日、週が明けた学校での真雪の態度は酷くよそよそ
しいものだった。
 授業が終わった後、それとなく声を掛けると、ほとんど視線も合
わせず、「何か質問?」と見当外れな答えを返すだけ。
 帰宅時に捕まえようとしても、赤いミニワゴンはいつのまにか駐
車場から消えていた。
 そして水曜日の今日、当てもなく校舎の中をさまよい、最後には
美術室のドアを開けていた。
 部に出るのは何ヶ月ぶりだったろうか。
 真雪のことを考え続けて、うまくまとまらない頭の中。不意に始
まる動悸に、叫び出したくなる衝動。
 なぜか絵筆を持てば落ち着くような気がして、今、カンバスの前
に座っている。
 こんな感覚は初めてだった。麻衣の時も、麗佳の時も、もっとク
ールで決めていられたはずだ。
 何故だ。真雪先生のことを考えると、何もかもが宙に浮いたよう
で身体が熱くなる。
 秋のままで止っている素描の上に、赤い絵の具を重ねて行く。一
度塗り始めると、執拗に赤い色が欲しくなって押さえられない。
『…イ、イイよ、圭吾君』
 先生……。
 想像していた以上に美しく、魅惑的な曲線を描いた白い裸身を抱
きしめた瞬間を思い出している。
『ほら、気持ちいいでしょ?』
 真雪先生!
 自然に膨らんだイメージは、勝手に先へと進む。少し大きめの口
元から覗いたピンク色の舌先が、勃ち上がり切った剛棒の先端を捉
える。
 ねっとりと暖かい感触が包み込み……。
 おい、何を考えてんだ、俺は。
 秋の校庭に葉を散らす木々は、真っ赤に染め尽くされ、火に包ま
れたようだ。
 圭吾は、絵筆でパレットを叩くと、身体を反らせて天井を見上げ
た。
 あの日、ベッドの上でまどろんでいる俺の隣で、膝を抱えていた
真雪先生。暫く背中を見つめていた後でついた、大きなため息。
 きっと、俺が眠っていると思っていたに違いない。
 でも、姿見に映ったあの表情。頭に手を当てて、何かを振り切る
ように首を振って、閉じられた目……。
 圭吾は、天井を見つめたまま考えていた。
 何かを打ち消そうとしているようにも見えた。やっぱりそれは、
生徒と寝てしまったからか?
 それだけでないような気もした。
「……圭吾」
 ああ、どうして、こんなに先生のことばかり考えてしまうんだ。
「圭吾」
 ん?
 背中からの声に気付き、反らしていた身体を起こして振り向く。
 圭吾の斜め後ろには、長い黒髪をお下げに束ねた黒ぶち眼鏡の少
女が立っていた。
「おう」
 ……麗佳か。
 レンズの奥で丸い瞳が輝くと、押さえた声が圭吾だけに聞こえる
ように響く。
「来てくれたんだ」
 まだ頭の中に残る真雪のイメージを覆い隠すと、真っ直ぐに見下
ろす視線から逃げるように、身体をカンバスへと向けた。
「勘違いすんなよ。描きたいから来ただけだからな」
「うん」
 麗佳の声は、嬉しげに弾んで聞こえた。
 こいつ、絶対見当外れなこと考えてるに決まってる。
「ね、今日一緒に帰らない?」
 ……ほらな。
「お前、今俺の言った事、聞いてたか? 文化祭とか、お前が呼ん
だとか関係ねぇ。久しぶりに描きたくなったから……」
「わかってるよ。いい感じだもの、絵。圭吾、赤使うの上手だよね
ぇ。なんか、いいことでもあった? よかったら、帰り道で聞かせ
てよ」
 額で綺麗に切り揃えられた髪の下で、丸顔がニコニコと微笑んで
いた。今の気分を見抜かれた決まり悪さと、発した言葉が伝わらな
いもどかしさがない交ぜになって、自然にため息が出てしまう。
「麗佳」
「あ、ごめん。描くの、邪魔してるよね。でも最近、話できないし。
携帯も出てくれないじゃない、圭吾」
「あのなぁ・・・。お前、本当にわかってんのか」
 他の部員達の視線を感じながら、声を低くして麗佳の顔を睨み付
ける。
 彼でも彼女でもないんだからな。わかってるな。
 3学期末、あれほど念を押したのに。
「一緒に帰るくらい、いいじゃない。だいたい、拘ってるのは圭吾
の方でしょ」
 そうなのか? 普通、もうこれっきりだって言ったら、ちっとは
距離を置かないか?
「先輩」
 言い返そうと思った時、隣りで絵筆を持った見覚えのある長髪の
男子生徒が、視線をカンバスに向けたまま抑揚のない声で言った。
「集中できないんだけど。話なら、外でしてくれない?」
 圭吾は横を向くと、険しくなりかけた眉根を一瞬で緩めて、息を
吐いた。
「……悪い。やっぱ、俺が部に出ると、迷惑にしかならんみたいだ
な」
 席を立ち、画材をしまう準備を始めると、麗佳が険しい眼差しを
隣に向ける。
「ちょっと、中村君……」
「やめろよ、麗佳」
「だって…、せっかく来てくれたのに、」
「お前が自己チュウだからだろ。ちっとは周りのこと、考えろよ」
 準備室へカンバスを片付けると、足早に美術室を後にする。後ろ
から、ペタペタとスリッパの音が続いた。
「待って、わたしも一緒に帰るから」
 圭吾は廊下を歩きながら、後ろに向かって叫んだ。
「馬鹿か、お前は。部長が帰ってどうすんだよ」
「だって……」
 立ち止まったセーラー服を背後に、昇降口へと角を曲がる。
 まったく、何もかんも、しょうがねぇ。
 それでも身体の中の何処かに、ほのかな熱を感じていた。さっき
まで絵筆を持っていた手の平を見つめ、一瞬目を閉じた。
 家で、描くかな……。
 重なった想いを振り切るように頭を振ると、唇を引き締める。そ
して、再び目を開けた時、瞳にはすっかり色が戻っていた。
 うん、悪くないモチーフだ。
 少し軽くなった足取りと共に、圭吾は春の空を見上げた。

 ……どうしたものかなぁ。
 デスクに肘をついたまま、真雪はぼんやりと時計を見つめていた。
 暗くなり始めた職員室には同僚の姿もまばらになって、物思いに
ふける姿を気にかける者もいなかった。
 「マジ? 参ったなぁ。瓢箪からコマじゃない、何て言ったっけ」
 あの日、久しぶりに会った美佳は、気の強そうに切れあがった目
に、何処か冗談めかした光を浮かべて、真雪の前に座っていた。
「わかってたのよ、でも……」
「心が勝手に動いちゃった? だからって、」
 ウェイトレスが注文のケーキセットを運んでくると、美佳は声を
潜めて、吸っていた煙草を灰皿に押し付けた。
「後先考えなさ過ぎなんじゃないの。もしバレちゃったら、仕事だ
ってヤバイんだよ」
 直裁に言われると、考えるのを避けていた部分に踏み込まれて、
胸に言葉が響いた。
 でも、違う。
 言い返さずにはいられなかった自分の言葉を思い出していた。
「わかってるけれど、圭吾君はいい子だから。わたしがしっかりし
ていれば、なんとか収まると思う」
「はあ〜。こりゃ、ダメだわ。冗談でも言わなきゃ良かったかな、
けしかけるようなこと。大体、担任したばかりで、しかも、一回ヤ
ッただけの高校生の何がわかるって言うんだろ。あの年頃はね、暴
走するよ。思い込み激しいんだから」
「ヤッた、なんて言わないでよ。失礼だよ!」
 思ったより激しい口調になると、乗り出した真雪の身体に押され
るように美佳はソファーに身体を預け、セミロングの髪を掻き揚げ
た。
「悪い。でもさ、事実でしょう。まったく、普段の理屈は何処へ行
っちゃうのやら」
 そして、別れ際の言葉が、まだ胸の中に残っていた。
「羨ましいけどね、正直。結局、真雪ってさ、真ん中では恋に憧れ
てる乙女なんだと思うな」
 勝手に決めつけないでくれる、あの時はそう言い返したけれど…
…。
 ベージュのブリーフケースにファイルを押し込むと、デスクのラ
イトを消した。窓際の柱に取りつけられた時計を見ると、時刻は7
時に近くなっていた。
「お疲れ様です」
 誰に言うでもなく挨拶の声を響かせると、蛍光灯が淡く光る廊下
に出た。
 確かに、そうなのかもしれない。大学に入ってからこっち、何人
もと肌を合わせたけれど、いつも、思っていなかった?
 この人となら、ホントにいい恋ができるかも、って。
 でも、壊れた後で気持ちが帰っていく場所は、いつもあの秋の日。
坂中先輩が、一人で泣いていた、あの日。
 職員用玄関で茶のパンプスに足を通し、星が輝き始めた空の下に
出ると、首筋に風が冷たかった。
 まだこのスーツじゃ、薄手過ぎたかもしれないなぁ。
 胸元が開いた淡い紺のスーツの前で腕を組み合わせると、春の夜
空を見上げる。
 校舎の裏手にある駐車場へと歩きながら、再び圭吾のことを考え
ていた。
 避けているばかりじゃ、どうにもならないな。やはり、はっきり
言わなければ。謝って、許してもらえるものじゃないけれど。
 昼間でも校舎の影で見えにくい暗がりに、赤いミニワゴンを見つ
け出すと、取り出した鍵を差し込む。
 背中の気配に気付いたのは、ドアを開けた時だった。
「先生」
 目がそのシルエットを読み取るより速く、少し高い声が名前を告
げていた。
「……圭吾君」
 一度振り向きかけた顔をドアの方に戻すと、低い声で答えた。
 落ち着いて。彼の事を先に考えるのよ。
 息を吐いてゆっくり振り向くと、頭半分高い、すらりとした長身
を見上げた。
 意志とは裏腹に、高まる動悸。
 坂…、ダメ。
 重なろうとするイメージを、今度は押さえ込むことができた。
 唇を引き締め、月明かりだけでぼんやりと見える面長の顔を見つ
めて、言葉を紡ぐ。
「ごめんね、圭吾君。先生、捕まらなかったでしょう。少し、考え
をまとめたかったから」
 圭吾は黙って真雪を見下ろしていた。
「先生、なんて言えるもんじゃないわね。でも、受け持った生徒に
は、しっかり先へ進んで欲しいから。多少は人生を経験した先輩と
して、けじめをつけないといけないと思うのよ」
 黙っていられると、言葉が暗闇に吸いこまれていくようで、不安
になる。目の前にいる男性は、自分が考えているのとはまったく違
うことを思っているのではないだろうか。
「あの時、わたしも、ちょっと勢いついちゃってたから……。ごめ
んね、誘うみたいなことして、言い訳にもならないけれど、やっぱ
り良くないと思うのよ。仮にも、先生と生徒なんだし……」
 なんで、何も言わないの? これ以上続けられそうになくて言葉
を止めた時、押し殺した声が暗がりに響いた。
「先生は、それでいいの?」
 たった一言が、固く作り上げたはずの心の堰を一瞬で破壊してし
まう。
「……わたしがいいとか、悪いとかじゃなくて…」
 弱々しく言い繕おうとした時、圭吾が一歩、自分の方に近づくの
がわかって、少し後ずさりをした。
「他に、何があるのかわからないよ、俺には。だって、俺は真雪先
生のこと、好きだから」
 視線が絡み合った。
 「好きだ」という言葉が頭の中でリフレインする。誰も、こんな
風に真っ直ぐに見つめてはくれなかった。
 そして閉ざそうとしても、視界一杯に広がるその姿が、せつない
記憶も喚起して止まらない。
 動悸が一層高まっていく。身体の前を守るように抱え込んだプリー
フケースの下で、息がうまくできない程に激しく心臓が鼓動して、
瞳を反らすこともできない。
 更に身体が近づき、押し付けた車体を背に、息がかかるほどに傍
に唇があった。
 ……ダメ、キス、してしまう。
「ダメ、とりあえず、乗って」
 辛うじて身体を逸らすと、車に乗って、助手席のドアを開ける。
黙ったまま、隣に乗り込む圭吾。
 心臓の激しい鼓動は収まっていかない。
 わたし、流されてる……?
 エンジンをかけて、あたりに気を配りながら発車した。圭吾に目
配せをすると、助手席を倒して身体を隠す。
 一瞬通い合った視線とともに、落ち着いた色を浮かべて頷いた瞳
の色が印象を残した。
 その色の中に、ただの勢いだけでない深みを感じて、真雪は更に
ドギマギする自分に気付いていた。
『先生は、それでいいの?』
 ハンドルを握る手に力がこもった。
 自分の気持ちを、どう扱っていいのかわからなかった。

 切れ長の目に、長い睫毛。少し大造りな唇。
 その時、先刻まで記憶を手繰って筆を走らせていた顔が、すぐ隣
にあった。
 家に帰り、絵筆を取っていた。イメージだけで素描をしても、特
徴を捉えた画を、簡単に描く事ができた。そして、改めて真雪の振
る舞い一つ一つをはっきりと思い浮かべた時、身体中の血液が沸騰
するような気がして、自然に動き出す気持ちを止めることができな
かった。
 この曖昧な状態のままでいるのはどうしても我慢できない。どん
な答えでもいい。先生の口から言葉を聞きたかった。
 どうやって学校に着いたかは憶えていなかった。ただ、車を背に
した真雪の目をみつめて、「好きだから」と言った言葉は、間違い
なく本心だった。
 先生を困らせている――そう思わないわけではなかった。けれど、
見つめあった視線の奥に、もっと熱い、訴えかけるような何かを感
じてもいた。
「真雪先生……」
 何を問うでもなく呼びかけた言葉を、軽く結んだ唇と、伏せた目
が少し思案げな表情で受け止めた後、気持ちを決めたように真っ直
ぐに見つめ返して言った。
「今だけを感じましょう。ね、圭吾君」
 ベッドで向かい合ったまま、密やかな声で告げられると、哀しく
切ないような感覚さえして、自然に唇を合わせていた。
 本当に、あの人を好きになってしまったに違いない。
 今、圭吾は、目を閉じて机の上に足を乗せ、自室の天井を仰いで
いた。
 そして、唇が裸の胸を下り、温かさが下半身を包み込んだ時の事
を思い出している。それは妄想ではなく、つい数時間前まで現実に
起こっていた事。
 その時、下腹へと降りて行った唇は、手を触れることもなく、怒
張した肉樹の先を捉えていた。仰向けになったまま目を閉じた圭吾
は、圧力をかけながら包み込まれる感覚に、背筋まで震えるような
快感を覚えていた。
「イヤじゃ、ないよね」
 唇を離して問うと、今度は根元に手を添えて、柔らかく上下に摩
擦して見せた。そして、再び口の中へと飲み込まれ、捻るような刺
激を加えられた。
 真雪先生が、自分の逸物を愛撫してくれていたこと。その瞬間も、
今も、現実ではなかったような気さえする。
「ダメだ、出るよ!」
 でも、肉樹が限界まで膨らんだその瞬間、包み込んだ唇をそのま
まに、溢れ出た精を喉を蠢かして飲み込んでくれた一瞬は、あまり
にリアルだった。
「真雪……」
 小さな声で呟いてみる。あの後、身体を合わせて、汗が飛び散る
まで腰を律動させていた。
 セックスが、こんなにも我を失わせる事は今までになかった。
 俺の心は、先生に奪われてしまったのだろうか。
 そして、浅い眠りについた真雪の唇が呟いた、あの言葉。
 圭吾は目を開くと、握った拳で軽く太ももを叩いた。
 全ての行為が終わった後、疲れからか、眠り込んでしまった真雪。
 明日は、先生も休業だよな。そう思って寝顔を見つめていた耳に
届いたのは、読解することのひどく難しい台詞だった。
「……ごめんね、先輩……」
 切なく寄せられた眉毛と、への字に曲がった唇。悲しげに見えた
表情の意味は、いったい何なのだろう。
 当てのない想像をすることしかできなかった。
 机の上に乗せた足を下ろすと、冴えてしまった意識をそのままに、
ベッドサイドに置かれた時計を見る。
 3時半、か。
 到底眠ることはできそうになかった。部屋を出て、弧を描いた大
きな階段を降りていく。そしてだだっ広い玄関から、冷蔵庫のある
台所に向かおうとした時、車のドアが閉まる音が微かに聞こえた。
 立ち止まって玄関の鉄扉を見ていると、話し声と共に、扉が開い
た。
「……ほら、仲瀬さん。自宅に着いたわよ」
 ライトブラウンのスーツの女性に抱えられ、足元をふらつかせな
がら入ってきたのは、圭吾の兄だった。
「兄貴」
 慌てて踵を返すと、自分より一回り大きな背広姿の兄の腕を自分
の肩に回す。女性一人では、さぞかし重かっただろう。
「すいません。兄の同僚の方ですか?」
 セミロングの髪に、顔立ちがはっきりした女性に軽く会釈をする
と、その細い瞳が、異様なものを見たように見開かれているのに気
付いた。
「おお、悪いな」
 圭吾の兄は、ばたりと玄関先に腰を下ろすと、縺れた口調で言っ
た。
「お〜、こちら、佐野さん。佐野美佳さん、な」
 そして、クックッ、と笑うと、圭吾の耳元に口を寄せて小声で言
う。
「俺の、彼女。美人だろ」
「はいはい」
「で、美佳、こっちが俺の弟。似てないだろ。これが、性格もそう
なんだよ。こいつ、アウトローでさぁ」
 『彼女』はぎこちなく微笑むと、軽く会釈をした。しかしその視
線は、どこか値踏みでもするように自分を見ているように思えた。
そして、その感覚には憶えがあった。
「それじゃ、仲瀬さん。わたしは帰りますから。それじゃ、圭吾君、
よろしくお願い……」
 彼女の整った表情が、一瞬、しまった、という感じで歪んだ。
「え?」
 圭吾は一瞬、表情の変化の意味が掴み取れなかった。しかし、す
ぐに気がつく。
「あれ、お前ら、知り合いか?」
 酔っていても、流石に回転は速いな。
 兄を見遣ると、大きく欠伸をしながら靴を脱ぎ、立ちあがる所だ
った。
「いえ、まゆ…、知り合いから、名前を聞いてたものだから」
「ふーん、じゃ、どっちにしろ会った事はあるわけだ。圭吾、お前
も何処で何をやってるやら、だな」
 ボン、と拳で圭吾の肩を叩くと、短く刈られた髪を撫で付けなが
ら兄は奥へと歩いて行く。
「じゃ、美佳。また来週」
 振り向きもしないで自室へと消えていく姿。
「じゃ、じゃあ」
 圭吾は一瞬、どう振舞っていいのかわからなかった。しかし、美
佳がそそくさと玄関から姿を消した瞬間、即座にスニーカーを突っ
かけると、扉を開けて後を追う。
「佐野さん!」
 門の鉄扉の前に停められたタクシーに乗ろうとしているスーツの
後ろ姿を呼ぶと、美佳は屈めていた身体を起こしてゆっくりと振り
向いた。
「ふう〜」
 1mほど手前に立った圭吾にも聞こえるように息を吐くと、片手
を腰に当てて呟いた。
「失敗したなぁ。わたしとしたことが……」
 そのすかした表情は、明らかに自分が何を尋ねるかわかっている
ように見えた。
「佐野さん、先生の知り合いですね、真雪先生の」
「……そうよ。で、何が聞きたいわけ? ただの知り合いかもよ」
 圭吾は、僅かに組み合わさったパズルのピースを言葉にした。
「俺の顔に、何か意味があるんですか? それに、真雪先生の、
『先輩』との繋がりって?」
 美佳は、激しく見つめる圭吾から、一瞬視線を逸らした。
「そっか、鋭い子だね、圭吾君は」
 そして、もう一度息を吐いた。
「真雪もまんざら、過去の思い出だけってわけじゃないのかもしれ
ない、ってことか。……圭吾君?」
「はい」
 その表情は、圭吾には読み取れない複雑な色合いを帯びていた。
「一緒に来る? わたしに話せることは、話してあげる。でも、約
束して」
「何を、ですか」
「いいから。こんな時まで、賢くならないで」
 無言で頷く。
「真雪を悲しませないって誓って。あの子、目一杯突っ張ってるけ
ど、本当は純なままの女の子だから」
「…はい」
 短く、けれど強い声で言うと、美佳はタクシーに乗り込んだ。
「圭吾ぉ」
 家の中から小さな声が響いたが、圭吾はそのまま美佳の隣に身体
を滑り込ませた。

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