最終章 Affection

 1限目の英語の授業は、自習になっていた。
 朝のホームルームの時から、明らかに憔悴した様子の真雪は、短
く連絡事項だけを伝えると、教室を後にした。
 どうしたらいいんだ。
 話し声やふざけ合う声が支配する教室の中、窓際に座った圭吾は、
大粒の雨が降り落ちる中庭に、当てのない想いをさまよわせていた。
 ――校長室に呼び出されているらしい。
 何時の間にか噂が広まっていた。朝の当番が、職員室で真雪が叱
責されているのを目撃していた。
 あの日の夜、圭吾の携帯にもメールがあった。
『あんな女とは別れたほうがいいよ。センセイ失格じゃん』
 誰の仕業かは粗方予想がついていた。それを問い詰めることは簡
単だったが、今それをして、どうなるだろうか。
 それより、真雪のために俺ができることはないのか。
 おそらく、今、校長室で独り、深い苦痛を受けているだろう真雪
の姿を想像すると、息が苦しくなるほどの切迫感が胸奥を突く。
 そしてまだ、昨日の涙が記憶の中に残り続けていた。
 掴み取れない真雪の惑い。確かな置き場所を見つけないまま、襲
ってきた突然の事態。
 不安だった。
 どうしていいかわからない。なにができるのかすらも。
 雨の落ちる先を見つめたまま、手の甲に唇を当て、きつく噛み締
めた。くっきりと残った歯型をそのままに、手の平が痛くなるほど
強く、拳を握り締めた。
 その時、机に誰かの身体が突き当たり、ガタン、と音を立てた。
「仲瀬」
 窓の外から目を離し、声の元を見上げると、ヘアバンドで長い髪
を纏め上げた鋭い視線に行き当たった。
 クラスの女子の一人。名前は……、思い出せない。
「うん?」
「あんたさ、ここにいていいわけ?」
 心配げに後ろから見つめるさらに二人の女生徒。
「は?」
 意味がわからず、眉を潜めて大造りな顔を見つめた。
「わたしさ、あんたのこと、嫌いなんだよね」
「友枝ぇ〜、まずいよ」
「あんたは黙ってて」
 後ろを向いてピシャっと言うと、一層圭吾の方に詰め寄った。
「ほんとは何でもできる癖に、すかしててさ。ちっと人気があるか
らって、うちのクラスの女子だったら、みんなお見通しなんだから
ね! も、サイアク」
「……なんだよ。喧嘩売んなら、受けるぞ」
 高飛車な態度に怒りが湧く。座ったまま身体をそびやかすと、睨
み返した。
「でもね、真雪先生にはあんたでしょ。どうしてこんなとこでウダ
ウダしてんのか、って聞いてんの!」
 え?
 圭吾は虚を突かれて視線を泳がせた。どうしてこの女が……。
「おい」
 その時、前方から男の声がした。
「おまえ、言いすぎ。こいつに八つ当たりしたってしゃあねぇだろ。
結構きついと思うぜ、な、ケーゴ」
 町田。
 オールドサーファースタイルの長身が、立ち塞がった女子との間
に身体を割り込ませた。
「でもよ、基本は俺もおんなじ。真雪ちゃん、独りにしてどーすん
の? お前、どっかすかしてんだよな」
「ど、どうして、町田」
 動揺を隠せない圭吾に、町田は机にボンと手を突いて、ニヤニヤ
と笑った。
「バレバレだっての。3―Cの半分は気付いてると思うぜ。だいた
い、授業中にラブラブモード発動すんな。視線絡めてはにかんだり
すんの、真雪ちゃんなら、カワイイ!で済むけどよ、お前のはキモ
イんだよ」
 気が付くと、クラスの8割方が圭吾の席の方を見つめ、軽く頷い
ている姿も見て取れた。
「で、どうすんの? お姫様の救出場所、ワレテっけどね」
 圭吾は一瞬、その場で目を見開いたまま硬直していた。
が、程なく立ちあがると、集まったクラスメイトの間をかき分け、
教室の入り口へと向かった。
「がんばれよ〜」
「停学で済ませとけってぇ〜」
 無責任なエールを背に、圭吾は階段へと走った。
 ……真雪、今行くから。

 大机で腕を組み、厳しく見つめる白髪混じりの校長と、脇に立つ
針金のような身体の教頭の後ろでは、激しい雨が窓を叩いていた。
 湿気に満ちた校舎の匂いが、強張った身体を更に締め付ける。そ
して鈍く光る天井の蛍光灯が、下方に向けて視線を逸らした木の床
で揺らめいて、想いの在りかを曖昧にさせる。
「で、事実なのかな」
 眼鏡の下から鋭く見つめる瞳は、その場限りの言い繕いが到底通
じないことを示しているようだった。
 でも、もとより嘘をつくつもりはない。
 眠れない昨日の夜、煩悶しつづけたベッドの上で、守るべきもの
が何かをはっきりと確認していた。
 真雪は、落としていた視線を上げると、校長の瞳を正面から見据
え、淀みのない響きで声を発した。
「はい。わたしは、仲瀬圭吾君と、男女の交際をしています」
 痩せぎすの教頭が僅かに息を呑むのが聞こえた。校長は、眼鏡の
奥の大きな瞳を一瞬閉じると、再び真雪の顔を正面から見据えた。
「そうか。では、この写真は、そういうものとして捉えていいわけ
だね」
 大机の上に、無造作に投げ出された数枚のスナップ写真。街中で
親しげに腕を組む、圭吾と自分の姿がはっきりと映っている。
「……はい」
「沢渡君。その、男女交際というのは……」
 教頭の問いかけは、口篭もって聞こえなくなる。真雪は、小さく
息を吐いてから、やはりはっきりとした口調で言った。
「男女としての交際です。もちろん…、肉体、的な関係も含めてで
す」
「沢渡君、それがどういう……」
「高木教頭」
 荒くなりかけた口調の教頭を手で制すると、その校長の静かさが
却って背筋を鋼の棒で突くように感じた。
「……沢渡君」
「はい」
 ここで怯んではいけない。圭吾のこと、彼のことを真っ先に考え
るんだ。
「教え子と男女の関係を結ぶこと、それがどういう意味かわかって
るかね」
「はい」
 小さく頷くと、一度視線を落とし、再び校長の目を見据えた。
「学生の本分は勉学、鍛錬。心身の成長を日々勝ち取ることです。
おそらく恋愛は、さらに肉体関係を結ぶことは、ある意、欲望に身
を任せること。欲望は、ある種の停滞だと思います。最も成長でき
る時期だからこそ得られるものから、目を逸らし、恋の甘みにばか
り身を浸すこと。感情も起伏に富んだこの時期の学生を導くのが私
達の役割だと思います。その、導き手たる教師が、生徒と恋愛関係
に落ちるなどとは、決してあってはならないことです」
「ふむ。そうだな。しかし、君は仲瀬君とそういう関係になった」
「そうです。そのことに関して、弁解することはできません。ただ
……」
「もういいですよ、そこまでわかってるという事は、覚悟はできて
るわけですね」
 教頭が再び口を開いた。が、組んでいた手を解いて、顎に手を当
てた校長は、再び教頭を制した。
「ただ?」
「どうしようもない関係の中でも、わたしは仲瀬君を導きたいとい
う気持ちをなくしたわけではなかった、と思います。この関係を、
少しでも良いように……」
「沢渡君、言い訳はやめなさい。事実は事実でしょう」
 教頭の甲高い声。そして、思わしげに視線を落とす校長。
 ダンダン!
 不意にドアが鳴った。
 ダンダンダン!!
 激しく叩く音と共に、廊下から響いてくる声。
『すいません。開けて下さい。仲瀬です。仲瀬圭吾です』
 教頭の顔色が変わる。ドアの傍へ歩み寄ると、高い声を返した。
「今は授業中でしょう。教室に戻りなさい。今ここは、君の来る所
じゃない」
『お願いします。俺、言いたい事があるから。絶対、言いたい事が
……』
「わかってます。でも、君の気持ちは今、関係ないことです」
『関係あるんだ!』
 再びドアを叩く激しい音。困惑した顔で振り向いた教頭に、校長
は頷いた。
「開けてあげて下さい」
 ガチャリ、とドアの鍵が明けられると、圭吾が飛び込んできた。
 普段は何処か冷めたその瞳の色。今は、大きく見開かれ、激しい
情熱で輝いている。
「けい…、仲瀬、君」
「先生」
 教頭がドアを閉めた。真雪より一歩手前に踏み出した圭吾が、そ
のまま叫ぶように言う。
「俺、何も間違ったことはしてない。それは、真雪…先生もだ」
 校長は、顎に手を当てたまま、微動だにせず圭吾を見つめている。
「だって、俺は先生のことを好きだから。それで罰されるなら、俺
も同じだ」
 耳から入った、好きだ、という言葉が真雪の耳から身体中に染み
透っていく。心の奥底が熱くなり、保っていた自制が解けそうにな
る。でも、ダメだ。わたしが圭吾を守らなくては。
 わたしが誘ったも同然ですから。そう口を開きかけた瞬間、校長
の低い声が響いた。
「高木教頭、少し席を外してもらえますか」
「え? でも、校長」
「大丈夫です。わたしに任せなさい」
 教頭は、渋々うなずくと、職員室へと通じるもう一つのドアを開
けて出て行った。
「さて」
 ドアの閉まる音とともに、校長は真雪の方を向いた。眼鏡の奥の
瞳は、さっきまでの射るような感じを変えてはいない。
「沢渡君、さっき言っていたね。それでも仲瀬君を導きたい、と。
本当かね」
 その視線の強さにたじろぎながらも、真雪はなんとか踏み止まっ
た。
「は、はい。わたしはいつも、彼の、仲瀬君のことを考えています」
「ふむ」
 校長は目を閉じた。一つ息を吐くと、口を開きかけて止める。
 長い沈黙が流れ、雨の音が空間を支配し始めていた。隣に立つ圭
吾も、場の雰囲気を掴みかねて、言葉を発すことができずにいるよ
うに見えた。
 ……圭吾。
 こんな状態なのに、圭吾がここに来てくれた事が嬉しかった。圭
吾が処分されるような事だけは避けようと思っていたけれど……。
『好きだ』―はっきりと口にされると、教師として、年上として踏
ん張ろうとしていた一点も、斜め前で身構える背中に吸い取られて
しまいそうで。
「で」
 再び校長の声が響いた。聞き漏らすまいと身構えた瞬間、思いも
かけない言葉が校長の口をついた。
「君の気持ちはどうなんだね。彼をどう思っているんだ。導きたい、
では恋愛にならないと思うが」
「え」
 圭吾が真雪の方を振り向く。その紛れのなさに反射的に目を伏せ
てしまう。
 どういう意味。だって、わたしの気持ちなんて、そんなこと……。
「真雪」
 低い声が聞こえた。その瞬間、昨夜作り上げた全ての言葉が、頭
の中から消え去っていた。
「わたし、仲瀬君、いいえ、圭吾君が好きです。誰より好きです!
彼の言葉、身体、心、過去、未来、全部分かち持って行きたい。あ
りのままの彼を。……これは、先生とか、生徒とか、関係ありませ
ん。だから、わたし、わたし……」
 校長は静かに頷いた。そして、圭吾の表情。口の端が下がり、瞳
が内側に寄ると、何かを堪えるように真雪から視線を外し、前を向
いた。
「うん、そうだな」
 その声は静かだった。
「恋愛は、そうでなくては」
「校長先生……」
 二人は、同時に呟いた。普段は『引用演説王』で通っている堅物
校長が、何を言おうとしているのかがわからない。
「君らの付き合いが非常に真剣なのはわかった。そうでなくても、
仲瀬君、君の成績が急上昇、いや、本来のものに戻ったと言うべき
かな、そのことが話題になってたんだよ」
「は、はい」
 そして、校長は眼鏡を外すと、軽く微笑んだ。
「理事長は知ってるね」
「はい」
 真雪は、系列の学園を取り仕切っている到底初老とは思えぬ、ア
クティブな女理事長の姿を思い浮かべた。そして、この校長の妻で
もある……。
「もう、四十年も前になるが、アレは、この学園の生徒でね。理事
長の令嬢として、教師ですら指導を躊躇するような存在だったんだ
よ。ま、今の姿からでも想像できるかもしれないが」
 そして、再び眼鏡を填めると、ため息をついた。
「で、わたしは新任の国語教師。……あとは、説明しなきゃならな
いかね」
 真雪は思い出していた。そう言えば、聞いたことがある。校長と
理事長は、学内恋愛で、かなりすったもんだした挙句、結婚した、
と。
 でも、それが、教師と生徒だったとは……。
「そんなわけだから、君らの気持ちが真剣ならば、無理にどうこう
しようとは思わない。ただ……」
 圭吾!
 見詰めた合う二人。手を添えようとした瞬間、校長の声が響いた。
「これ。だから、節度を持つように、と」
 慌てて手を引っ込めると、再び校長の方を向いた。
「さっき沢渡君が言った通り、基本的にはここは学び舎だ。君らが
いくら付き合っていると言っても、教師と生徒の関係は守って欲し
い。それは、他の人達のためでもある」
「はい」
 真雪はハイトーンの声で返事をすると、圭吾の背中を指で突いた。
「はい、俺も、いや僕も、気をつけます!」
 校長はにやりと笑った。それは、白髪と太いフレームの眼鏡には
おおよそ似合わぬ、若やいだ表情だった。
「……だが、校舎の外ではそれ以上、問わない。もちろん、互いを
大切にすることは言うまでもないことだが。まあ、それ以上は年寄
りの繰り言になるな」
「真雪!」
 振り向いた圭吾が、真雪の腰を抱き締めた。
 け、圭吾、今言われたばかり……。
 でも、その抱擁の熱さに、一瞬身を任せてしまう。
「こら、まったく……」
 慌てて身体を離した二人は、深々と頭を下げた。
 そして顔を上げた時、垣間見た校長の柔らかい瞳の色。その深さ
と優しさに、真雪は愛情の深まりの行く末の妙を、おぼろげながら
に想像していた。

 圭吾は、美術室でカンバスの前に向かっていた。
 文化祭に出展する絵を、仕上げてしまおうと思っていた。実力考
査試験の直前で、部室で絵筆を持っているのは圭吾一人。殆ど音の
聞こえない校舎の中で、あの日の真雪を思い浮かべながら色を重ね
ていく。
 真雪の髪を染めた紅い光。美しさと共に、この世ならざるものを
思わせる色。しかし、繰り返し塗り込められた紅は、青と白の中へ
と溶けこみ、纏うもののない美しい身体を、空へと運び、浄化され
ていくかのようだった。
 圭吾は筆を止めると、長い間カンバスを凝視していた。
 ……よし。
 息を吐くと、大きく伸びをした。これで、完成だ。
 ちゃんと見る奴には、真雪ってわかっちまうだろうなぁ。ま、い
いけど。
 絵を眺めているだけで、不思議な気がした。付き合い始めた時、
こんな強い想いを抱くようになるとは思わなかった。
 本当に、出会いって奴は不思議だ。
 カンバスを準備室に収めようと思ったその時、美術室のドアが開
いた。
 そして、その少女は無言で圭吾のすぐ傍へ歩み寄った。
「麗佳」
 長い黒髪の下には、今日は眼鏡がかけられていなかった。一層大
きく見える丸い瞳は、瞬きもなしに圭吾を見つめている。
 いつか来ると思っていた瞬間だった。
 圭吾は、立ったまま麗佳を見下ろした。
「言いたいことがあるなら、言えよ。俺も、お前に偉そうなこと言
える立場じゃねぇから」
『木村さんって子、責めないで欲しい。だって、どうしても昔の自
分に重なっちゃうから。先輩の傍にずっといたわたしに』
 まったく、底無しのお人よしだな、真雪も。
「……どうしてよ」
 小さな声で麗佳は呟いた。
「理由なんて、ねぇよ」
 平手が、圭吾の頬を弾いた。乾いた音が空っぽの空間に響き渡る。
 痛てぇ……。
「何よ、あんなオンナ。先生の立場利用してさ。そんなの、反則じ
ゃない! 学校がダメなら、新聞にチクッてやる。そうすればあん
なオンナ、すぐにクビなんだから!」
「……好きにすればいいさ。一度お前と付き合ってたのは事実だし。
それに、俺も真雪も、覚悟済みだから」
 もう一度、頬を平手が打った。
「なんでよ、圭吾。なんであいつなの? なんで……。わたし、圭
吾のこと誰より知ってる。昔のオンナの事だって、どうして絵を描
いてるかだって、お兄さんへの気持ちだって、みんな知ってるんだ
……」
 言葉に詰まった麗佳の目が、傍らに置かれたカンバスの上に向け
られた。
 口が半開きになり、戸惑ったような視線が絵の全体を行き来する
のがわかった。
「……どうして」
 小さく呟いた瞬間、伏せられた顔で、目がきつく閉じられた。そ
して、涙が幾筋も頬を伝い落ちて行く。
「麗佳……」
「大っ嫌いだ、圭吾なんて!」
 圭吾の胸を強く突くと、長い髪を翻して教室を飛び出していく後
ろ姿。
 圭吾はよろめいて椅子に座り込むと、開け放たれたドアの向こう
にぼんやりと視線をやった。
 どうして、か。自分でも、わからないな。いや、理由なんて、最
初からどうでもいいんだ。俺は、真雪が好きなんだから。好きだか
ら、あいつと一緒にやっていきたい。きっとこの気持ちが、俺を変
えていく。
 そして、一緒に刻んだ時間は、何にも代えることができないもの
になる。
 ……きっと。
 圭吾は手に持ったままの筆を見つめると、額を軽く叩いた。
 これで俺は、少しはマシな男になれるかな。真雪の横を歩き、そ
して支えることができる男に。
 絵をもう一度見つめると、微かに肯いた。
 少なくとも、こいつにだけは手を抜くまい。たぶん、今の俺がで
きる最高のこと。
 カンバスを取り上げ、イーゼルを畳むと、圭吾は美術準備室に入
っていった。

 夏休みが目の前に迫った月曜の朝、真雪は学校への道を歩いてい
た。最近は車で通勤するのをやめて、電車を利用することが多くな
っていた。
 電車の中や、こうして歩く道々で、生徒達と何気ない会話を交わ
すことが楽しかった。もっとも、圭吾は、『痴漢に会うからなぁ』
と妙な心配をしたりもしていたけれど。
 夏の日差しの下、ライトブルーのソフトスーツを着た真雪は、そ
の軽やかな足取りと共に、誰より輝いて見えた。
 街路樹が立ち並ぶ校門への道へと角を曲がる。急ぎ足の生徒達が、
次々に真雪の横を過ぎて行った。
「おはよう、真雪先生」
「おはよう」
「おっは〜、真雪ちゃん」
「おはよ、朝練ないの?」
「沢渡先生、おはようございま〜す」
「はい、おはよう」
 緑の木々に夏の日差しが乱反射して眩しい。と、聞き慣れた声が
背後から響いた。
「おはよう、真雪」
 …あ。圭吾。
「おはよう、圭吾君」
 半袖のYシャツが爽やかな細身の姿を優しく見つめ返すと、自然
な素振りで脇を通り抜けようとした瞬間。
 ふっと身体が屈められると、唇に温もり。
「け、圭吾!」
 軽いキスを残して、小走りに校門へと走って行く圭吾。
「まだ、学校の外だもんねぇ〜」
「こら、そういう問題じゃ……」
 大声を出そうとした瞬間、女生徒の声が後ろから響いた。
「センセ、あんまり朝っぱらから見せ付けないでよね〜」
 そして、さらに別の声。
「俺ら青少年なんだから、暴走しちゃうよ、シゲキ強すぎってか」
 振り向いた真雪は、両手を顔の前で合わせると、ペコリと頭を下
げた。
「ごめん。今のは不意打ちだったから……」
「はいはい」
 なかば呆れたようにからかう生徒達。
 もう、圭吾の奴ぅ。学校が終わったらひどいんだから。
 真雪は心の中で言うと、足早に校門の中へと歩み入っていく。で
も、その顔には少しも曇った所はなかった。

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