第1部 ラフレア聖王国


第1話 古えの時―マルダウンの会戦

 杉木立の間から見える太陽が、重なる山並みの稜線へと近づいてきていた。つい何刻か前までは頭上にあったはずが、まるで空から滑り落ちたように思える。
 ジャーティアは肩紐で結わえた背中の麻袋を外し、茶褐色の四角いなめし革を取り出すと、目の前に広げた。つい先刻の休憩で見たばかりの、ラフレア聖王国との境界までの地図。そこに黒い顔料で記された『湖』からの道程。そろそろ、最初の集落に出てもいい頃だった。
 今、何刻限くらいなんだろう。
 木立の間を下って行く踏み分け道。所々で黄土色の岩が顔を覗かせ、湿った木の根が、皮履きの足に引っ掛かり滑らせる。バルーからなら陽の傾きだけでおおよその刻限がわかったものが、この斜面と行く手を遮る深い山並みでは推測しようがない。
 ジャーティアは上空を見上げた。彫りの深い目をさらに大きく見開いて、青い空に小さな影を探す。けれど、望んだ者の姿は何処にもなかった。
 まだ未熟な彼女には危険な方法。でも、これ以上の不安には耐えられそうにもなかった。
 ……どんな鳥でもいいから。でも、できれば鷲や鳶は避けたいけれど……。
 しかし、木立に狭められた空には、軽やかな声を響かせる小鳥すら見えない。ジャーティアは、左手に填められた光る十数本の腕輪に手をかけ、大きく息を吐いた。
 どうしよう。まだ、山道が切れそうな気配なんて全然無い。このまま、夜になったら……。
 ジャーティアは心の中で首を振った。そんな恐ろしい事を考えるのはやめなければ。きっともうすぐだ。だって、もう随分歩いてきたもの。
 身体に巻いた織布が、膝の辺りに纏わりついて歩きにくい。この出で立ちは、自分がバルーの者である証でもあるけれど……。
 陽は益々地面との角度を浅くし、既に山並みと接触し始めていた。木立を抜ける風が、つい一息前とはまるで異なる冷たさを含んで背中を撫でた。
 どうしよう……。このまま集落が見えなかったら、野宿になってしまう。
 夜、無防備に眠る自分を、コーラル・ウルフの群れが取り巻き、鋭い歯で食いちぎる様を思い浮かべた。
 ジャーティアは心の中で小さく首を振ると、息を吐いた。
 とにかく、早くこの道を下ること。焦れば、その分判断力が落ちていく。まだ時間はあるはずだから。
 と、小さな音が耳に届いた。
 ぉぉぉぉ〜ん……
 な、何?
 うぉぉぉ〜ん。
 背筋から胸へと、重い鉛が捻じ込まれる圧迫感が襲った。
 嘘でしょ? 私、サ・ラ・ウムの修行僧じゃないわ。予知は、禁呪法なんだから!
 うぉぉぉ〜ん。うぉぉぉぉ〜ん。
 しかし、遠くから聞こえる複数の音は吠え声に違いなかった。ジャーティアは反射的に木立の向こうを仰ぎ見た。陽はもう、その姿を半分ほども隠しつつある。
 どうしよう、どうしよう……。森が抜けられないなら、野宿する場所だけでも見つけないと。でも、見渡す限りの杉木立。岩場も、枝を広げる登れそうな木も見当たらない。
 早足から駆け足になって木立の間を抜けていく。もう、立体的な思考を組み立てる事はできなかった。斜めに落ちた長い影を踏みながら、前だけを見つめて木々の切れる先を待ち続けた。
 ダメだ。もしかしてわたし、道を間違えたの?
 考えるのを避けていた不安が頭をもたげる。でも、さっき地図を見た時は……。
 ガサッ!
 唐突に左手後方で響いた音。編んだ黒髪が、水色の布紐と共に振り揺れ。
 ―緑の瞳に映った、影。
 上げそうになった声を、喉の入り口で押し止めた。
 木立の根元に茂った雑草と低木。そこから、細長い顔だけが突き出していた。くすんだオレンジ色の毛並み、斜め後ろに突き立った三角形の耳。そして、耳元まで裂けたかに見える口蓋から覗く白い牙。
 コーラルウルフ!
 間違いなかった。実物を見るのはもちろん初めてだったけれど。
 毛の中に埋もれた細い目が、ジャーティアの姿を捉えた。視線が合ったまま、その場で立ちすくんだ。
 お、落ち着いて。目を逸らしたらダメ。旅の心得を思い出して……。
 細長い全身が草むらから姿を現した。ジャーティアの四身長ほど先で、品定めをするように首を左右に振るしなやかな姿。
 わたし、美味しくないよ。あんまり肉付きもよくないし……。
「ウォオウ!」
 吠えた。大きく開かれた口に、並ぶ数十の歯。瞬間、全ての自制が身体の外に飛び出していってしまう。
 ダメ!
 理性の声とは裏腹に、背を向けて走り出してしまう身体。
 逃げられるわけない。背中を見せたら、負けなのよ。
 転がるように坂道を駆け下りて行く。四本の足が地面を蹴る音と共に迫りくる気配。
「ギャゥ……」
 唐突に潰れた鳴き声が響いた。明らかに、何かに驚いた声。立ち止まり、振り向いた視野に捉えたもの。
 コーラルウルフは鼻先を前に押し出して、斜め下を見下ろしている。
 ……何が起こったの?
 ジャーティアは一瞬、事の成り行きがわからなかった。しかし、すぐに狼が睨みつける先の小さな影に気付いていた。
 四本の足を突っ張って、白と黒のマーブルカラーの毛並みを逆立てた小動物。リスのような尻尾に、犬に似た鼻の長い顔。両手の平に乗るばかりの身体全体が、幾回りも大きい狼をもたじろがせる強い威嚇の気を滲ませている。
「火を!」
 甲高い声が、睨み合い、食いしばった口元から響き出した。
「え?」
 人の言葉が小動物の口を突いたことが掴み取れず、ジャーティアは呆けた表情で立ち尽くしてしまう。瞬間、コーラルウルフの身体が前に飛び出し、鼻先が犬鼠を捉えようとする。寸前で斜め前方に飛び上がると、小さな前肢が振り出され、狼の眉間の辺りを痛打した。
「火だよ、火! お嬢さん。小さいのでいいんだ!」
 火球の呪。ごく基本的な魔法。
 そうか、獣は火が苦手。わたしの作れる小さな火でも……。
 小動物の意外な反撃にたじろいだ狼は、やや警戒しながら低いうなりを上げている。
 ジャーティアは、回りの空気を手繰り寄せた。この程度の呪なら、印を結ぶ必要はないはず。
 集まって……。
 え?
 狼の鼻先で弾けるはずの炎が、微塵ほども姿を見せない。どうして。こんなの、バルーに来たての小さい子だって……。
 唸りから吠え声に変わった狼の口元が、犬鼠を飲み込むばかりに大きく開かれた。
「おい、何してんだよ! 火も起こせないのか?」
 キンキン声が耳に痛い。わかってるわよ、でも、うまく熱が集まらない。
「……しゃあねぇ。お嬢さん、リングを使え」
 一度目より更にすんでの所で狼の突進をかわすと、僅かに緊張の色を帯びた声が響いた。
「でも。火くらいだったら……」
「ゴタク言ってる場合か!」
 小動物を挟んで見える、獰猛な口元と鋭い目つき、そして唸り。このままじゃ、わたしだけじゃなくてこの子もやられてしまう。
 ジャーティアは左手に填まった輝くリングの一つを外し、眼前に掲げた。
 すぐ掌に凝縮された力が伝わり、脈動を感じた。
 ……火に!
 リングを前方に投げると同時に、力を全て熱に変換する。辺りの空気が歪み、爆音が轟き渡る。
「ちぃ!」
 犬鼠の甲高い声と共に、巻き上がる煙と熱風。考えていたより遥かに大きな爆発に、ジャーティアもその場にしゃがみ込み、額の前に腕を翳して煙を避けた。
 再び視界が晴れた時、コーラルウルフの姿は消えていた。大きく息を吐くと、暫し目を閉じてから立ち上がる。
 リングを一つ使ってしまったけれど、どうにか助かったのだ。
「なんてぇお嬢さんだ!」
 唐突に足元から響く声。視線を落として張り出した木の根の上を見ると、先刻の助太刀の主が、小さな歯の並んだ口を開けていた。
「リングを使うなら使うで、少しは制御したらどうなんだい! 俺まで焼けちまうとこじゃないか!」
 子犬のような顔立ちからは連想しにくい、皮肉に満ちた甲高い声。少し寄せられた黒く円らな瞳が却って挑発しているように思えて、ジャーティアは唇を片側に歪めた。
「そんなの、無理よ! だいたい、リングはいざって時のとっときなんだから。わたしだって、どれくらいの触媒が入ってるか知らなかったんだよ!」
「そんなもの、手にすりゃわかるだろう。いったい、何年バルーで訓練してたんだい」
 後ろ足で立ちあがると、首の周りのふさふさとした毛並みが際立って、もたげた顔が毛の中に埋もれたように見えた。
「まったく、審査会議もとんでもない未熟者を外に出したもんだ!」
「な、何よ偉そうに! だいたい、あんたの何処にそんな事言う権利があるのよ」
 未熟者、と言われて頭に血が上った。ジャーティアの浅黒い頬に朱が入り、大きな瞳は見開かれて小生意気な犬鼠を凝視した。
 だいたい、この動物は何者よ。そりゃ、助けてもらったことにはなるけど……。
「あるとも。俺はマグ……、痛つつ……」
 更に甲高い声を張り上げようとした鼻先が顰められ、首が内側に捩られた。不自然に曲げられた左の前肢。気が付くと、第二関節の辺りに赤い色が滲み、毛皮を濡らしている。
「あなた、ケガしてる!」
 ジャーティアはしゃがみ込むと、掌の長さもない小さな前足を手に取った。
「……ち、かすり傷さ。俺とした事が、あんなはぐれ狼ごときに。まったく、しょうがない。…おい、そんな大した傷じゃないって」
 血に濡れた白い毛皮を、指先で露わにすると、ジャーティアは布袋から灰色の小瓶を取り出した。
「結構、深く切れてる。甘く見ちゃだめだよ。相手は、野生のコーラルウルフなんだから。どんな邪が入るか……」
「そんなこと、お嬢さんに言われなくてもわかってるさ」
 小瓶の栓を抜くと、素早く中の液体を振りかける。そして、掌をかざすと目を閉じた。
「だから、大げさだって……、おい、嬢さん、そりゃ……」
「黙って」
 ジャーティアは火を起こそうとした先程とはまったく正反対の方向に力を動かした。傷の周辺に滞っているエネルギーを、徐々に拡散させていく。
「……ごめんね。ケガしてるなんて気付かなかった」
 足を捧げ持った左手と翳した右手の間に、淡く青い光が輝いたように見えた直後、白い毛並みは元のふさふさした感じに戻っていた。
「ふぅ」
 息を付いたジャーティアが前肢を離すと、神妙な顔で見つめていた小さな顔が上に向けられた。
「……ヒーリングか。どうやって覚えたんだい?」
「うん。何か、自然に」
 本来は、サ・ラ・ウムの修行僧に伝わる術法。それはバルーの『司道師』の使う呪法とは両立し難い能力のはずだった。
「ふ〜ん」
 黒い瞳を横に逸らし何事か思案する犬鼠の姿は、人以上に人らしい表情を浮かべて見える。ジャーティアはすっと立ち上がると、左肩に掛かる織布を直し、布袋を右に背負った。見上げると、既に太陽は山の向こうへ完全に姿を隠し、残光が空を淡い暗青色に変え始めていた。
「大変だ……。野宿する場所を探さないと」
 辺りを一回り見回した。けれど、相変わらずのうっそうとした杉木立。隠れ場所になりそうな場所は見当たらなかった。
「野宿だって? どうして」
「……当たり前でしょ。またさっきみたいになったらどうするの?」
「ははあ、」
 唇を尖らせたジャーティアの表情を見ると、犬鼠は訳知り顔で頷いた。
「それでさっきから落ち着かなかったんだな。何を焦って地図を何度も広げてるかと思えば」
「な……」
 ジャーティアは眉根を寄せた。この子、わたしのことずっと見てたの?
「あなた、わたしの後を付けてたの? どういうつもり?」
「いやね、マグベダー様お気に入りのお嬢さんがどんな子かと思ってね」
「マグベダー様?」
「そうだよ」
 犬鼠は首をすくめると桃色の舌を突き出した。犬のする様子とは違う、すかした感じの仕草。
「頼まれでね。お嬢さんについて行ってやってくれとさ」
「マグベダー様が?」
「……そういう事」
 身体をそびやかして頷く小動物の姿に、ジャーティアは秀でた額にかかった黒髪に指を差し込むと、俯いて鼻から息を吐いた。
「もう、マグベダー様も……。わたしだって、一人で大丈夫なのに……」
 犬鼠は、そびやかしていた身体を少しすくめて、小さな声で鳴いた。
「キュゥ…。珍しい子だねぇ。マグベダー様に気遣われてそういう言い方をするなんて」
「どういうこと?」
「誇りじゃないかい? 『司道師の師』、バルーの頭脳のお墨付きだよ」
「う〜ん。そうなのかな? マグベダー様、わたしを子供扱いしてるだけじゃない?」
 それは、気遣ってくれるのは嬉しいけれど。なんかちょっと悔しいなぁ。
「ふ〜ん」
 先程も聞いたような調子で言うと、小さな身体が翻った。ジャーティアの足元から、緑と白と赤の迷彩状の織布に足をかけて、一気に肩までよじ登る。
「な、何よ」
 ふさふさとした毛が、左頬の近くにあった。
「決めたよ。お嬢さんと一緒に行くことにした。あ、俺の名前はリスタンだからな。よろしく」
「ちょ、ちょっと。一人で何を納得してるのよ。だいたい、肩の上になんて乗らないでよ」
「じゃ、頭の上にするかい?」
「……そういうことじゃなくて!」
 リスタンはくっくっくっ、と笑うと甲高い声で言った。
「道はあっちだよ、お嬢さん。渓谷ってどんな所か知ってるかい? 川の流れてる谷間のことだよ」
「……そんなこと、知ってるわよ!」
「そう。じゃ、水の気配は?」
 あ!
 ジャーティアはまったく思案の外にあった要素に虚を突かれながら、感覚の領域を広げた。
 大した努力は必要なかった。直ぐに右手の方角に流れ落ちる流体の息吹を感じ取っていた。それも、今まで感じたことがない程に激しく溢れ出している。
「あ……」
「だろ?」
 じゃ、わたしはずっと渓谷と平行に歩いてたって事?
「さて、そのズルズルじゃ、引っ掛かるかもしれないけれど」
 木立の間を前肢で指しながら、リスタンは面白そうに言った。ジャーティアはすんなりした眉をいからせると、おもむろに膝下まで巻きついた織布をたくし上げた。
「馬鹿にしないで。…リスタン」
「おお、勇ましいこと」
 太腿の大部分を露わにした状態で、雑草や低木が生えた杉木立の間へ踏み入っていく。茶色の布帯が巻かれた膝下まではともかく、覆うもののない太腿に枝や葉先が痛い。
 ジャーティアは奥歯を噛み締めた。これくらいのことで負けてられるものか。
「上等上等、その調子だよ、お嬢さん」
「その、お嬢さんってのやめてくれない?わたしにはちゃんと名前があるんだから」
「はいはい、ジャーティア」
 肩の上のリスタンは、至極上機嫌そうに喉を鳴らした。木立の中を抜けていくジャーティアに、さらに声が響く。
「ほんと、楽しいよ。さっきのコーラルウルフだってさ、はぐれものなんだからねぇ。ジャーティアが逃げさえしなきゃ、あんなことにはならんかっただろうけどね」
 無言で歩いていく。踏み込んでいくと、杉木立は所々で切り株になっていて、下草が綺麗に刈られている場所さえあった。
「これから、どんな旅になるのかねぇ。この俺にも予想もつかない楽しい体験ができそうだよ、ジャーティアといれば」
「うるさいわね! 耳元でそんなことばっかり言ってると、振り落とすから!」
 リスタンは再び喉の奥から搾り出すように、くっくっくっと笑った。
 道連れになったバルーの少女と奇妙な小動物は、夕闇迫る木立の間を抜け、初めての集落へと渓谷を目指して行く―。

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