うわ……。全然底が見えない。これ、渓谷なんて生易しいものなの?
『向こう側に渡るには、この吊り橋を渡るしかないのさ。でなきゃ、一日かけて東から廻りこむしかない』
 リスタンの言葉を信じるなら、道はここしかないことになる。しかし、その言葉の主は……。
「お〜い、ジャーティア。早くしないと日が暮れちまうぞ。走ってこいよ〜」
 揺れる吊り橋を渡りきった先で上下に飛び跳ねている米粒のように小さい姿。あそこまで辿り着くのが千里の道に思える。
 足元で飛び飛びに並ぶ木の板は、どう見ても朽ちかけているものが点在していて、慎重に一歩づつ確かめなければ、いつ踏み外すか予想もつかない。さりとて両手を目一杯伸ばして掴んだ綱は、丁寧に打たれ強固に作られているようではあったが、長い年月を経たせいか、表面は毛羽立ち、所々で解れが目立って、掴んでいるからといって信用できる類のものではない。
 そして、見てはいけないと思っても覗き込んでしまう眼下の眺め。
 川が流れていると思われる谷の底は見えず、中途から白く霞んで奈落に続いているようにしか思えない。まして、ちょうど真西から注ぐ陽の光は、まさに夕と夜の境を越えようとしている。
「おい、さっきから何歩進んだんだよ! 早くしろっての」
 甲高い声が響き渡った。
「うるさいわね! あんたと違って、わたしは重いんだから」
 ミシッ……。
 うわ!
 出しかけた足を即座に引っ込めて、もう一つ先の板に足を伸ばした。皮履きのつま先で慎重に具合を確かめると、もう一歩。そして、もう一歩。
 刻一刻と暗さを増す谷の景色を後ろに、迷彩状の織布を胸と肩から纏った浅黒い肌の少女は、ゆっくりと吊り橋を渡っていく。
「はい、到着」
 渡り切るのに一刻ほど使っただろうか。地面の感覚が足裏に馴染まず、腰の辺りが妙に浮き上がるような不安定さが残っていた。
 息をついて後ろを振り返ったジャーティアの肩に、リスタンが駆け上る。細い吊り橋はまだ左右に揺れていて、人が渡った余韻を残していた。
「さ、休んでる暇はないよ。マルダウンの集落まで、まだもう少しあるからねぇ」
 歩き出した渓谷のこちら側は、先程までの立ち並んだ木立の中とは様相を異にしていて、森の中に大きく切り開かれた道が緩やかな曲線を描きながら下っている。
 暫く歩くと、一際広くなった場所に何か大きなものが見えた。道の真ん中、辺りの杉木立より更に高く聳え立っている影。近づくと、明らかに幾何学的な構造物は先端へと僅かに細くなった五角柱であることがわかった。最先端部は尖った五角錘になっていて、薄暮の中でも朧げに白く輝いて見えた。
 ジャーティアはゆっくりと近寄ると、自分の身体より幾回りも大きな柱のたもとに立った。
「これ、何……?」
「勅令角柱さ。なんだ、初めて見るのかい?」
 司道院での授業が意識に上る。じゃ、これがディオニーン様の……。
「お嬢さん、どこの生まれだい? こんなもの、何処にでもあるじゃないか」
「……クロニア」
 上の空で言うと、何かがびっしりと彫られている表面に手を当てた。
「クロニア! そうか。あそこじゃ……」
 眉間の黒い毛を寄せて、思わしげな表情を浮かべるリスタンを横に、ジャーティアは彫りこまれた記号に顔を寄せた。
「い……依れ…。……よく見えないよ」
 それが古い文字であることはわかった。でも、すっかり暮れかけた空の下では、何が彫ってあるか読み取る事ができない。
「……ジャーティア、火を起こしてみなよ」
「え? でも……」
 先刻のコーラルウルフとの対峙が思い浮かんだ。あんな危急の時に起こせなかったのに。
「いいから。いい加減、暗くなっちまう」
「わかった」
 急かされて右の掌を上に向けると、回りの空気を手繰り寄せる。
 ……あ、何で?
 青白い炎がすぐさま灯る。
「な」
 リスタンが頷くと、ジャーティアは自らが起こした火で照らし出された角柱を見上げた。
 凄いな……。これを彫るのにどれくらい手間がいっただろう。
 見上げた身長の遥か先まで、楔形の文字がびっしりと彫り込まれている。――古代シャレア文字。今では使うものもいない、『白き時代』の言葉。
「営むるは聖なる道に拠れ……」
 ジャーティアは一際大きく彫られた文字を、小さな声で読み上げた。
「お、さすがにバルーの子じゃないの」
「ロジーカス様の『聖伝』の言葉よね……。ディオニーン様の勅令角柱、院で勉強はしたけど、本当にこんな綺麗なままで残ってるなんて」
「残ってるって、ジャーティアはクロニア出身らしいからしょうがないけどねぇ」
 リスタンは後肢で首筋を掻く仕草をした。ぼんやりと石柱を見上げるジャーティアが、指先をリスタンの耳元に伸ばした。
「お、ありがと。そこそこ。……とにかく、こんなものはこれから幾らでも見られるさ。マルダウンの集落を抜ければ、ラフレア聖王国の領土だもの。ディオニーンの遺構を見るには事欠かないよ」
 リスタンの言葉をよそに、ジャーティアは文字の彫りこまれた白い石柱の表面を見上げていた。
 知識と論理の神、ロジーカス様。その伝承の書を求めてサリナスに登ったディオニーン様。『白き書』によるシャレア王国の道治支配。様々な詩、絵、踊り、劇……。あらゆる人達が聖都を通り、集い、この大陸がもっとも平和で美しかった古えの時。
 わたし、本当にバルーから旅立ったんだ。世界は、確かにここにあるんだ!
 ジャーティアの暗緑色の瞳は大きく見開かれ、唇には輝く笑みがあった。
「行こう! リスタン!」
「な、何だよ」
 突然早足で歩き始めたジャーティアの肩に、リスタンがしがみつく。
「マルダウンの集落まで、どれくらい?」
「おい、俺は道案内じゃないっての」
「いいの、どれくらい?」
「……そうだねぇ。まあ、一刻限もないと思うよ」
 ジャーティアは頷いた。ますます早足になると、木立を切り開いた広い道を踏みしめ、どんどんと下っていく。
「おい、火、もつかい? そんなに体力使うと……」
 上に向けられた右の掌を見遣ると、青白い光は大きさを増して、光々と辺りを照らし出している。
「なんてこったい……」
 円らな黒い瞳を丸くした犬鼠をよそに、ジャーティアの歩幅は更に大きくなっていく。編みこまれた頭を振り上げ、引き締まった中に躍動の表情を浮かべて。それはまるで、今日一日の旅がなかったかのような勢いだった。
 やがて、杉の木立が切れた先に、小さな灯が見え始めていた。


 太い杉の幹をそのまま半分に切った重厚な卓。総てが木で作られた家の中で、唯一煉瓦造りになった炉では小さな火が燃え、暗い部屋の中を赤く照らし出していた。
「ふっふっ。まったく、バルーからの客は久しぶりだよ」
 丸い木の椀に盛られた赤いスープに口を付けるジャーティアの向かい側で、灰色の繋ぎに、何かの動物の毛皮だろうか、茶の袖なし胴着を身に付けた中年の男は、野太い声で笑った。
 逞しい腕の先、鷲掴みにしたいびつな形の木のジョッキには淡いブラウンのエールが満たされ、角張った顔の下で大きく開けられた口の中へ次々と流し込まれていく。
 ……何処に入っていくんだろう。もう三杯目、いいえ、四杯目だったっけ?
 ジャーティアは、自分より三回りも大きな自称『語り部』の男の顔を見上げた。ざっくばらんに刈られ、ツンツンと逆立った髪の毛の下で、細い目がジャーティアの視線を捉えた。
「さて、それじゃあ、本題に入るとするかな」
 空になった椀を置くと、ジャーティアは少し居ずまいを正した。
 マルダウンの集落は、思ったよりずっと小さなものだった。
 この家を訪れる前、ジャーティアがここに足を踏み入れた時に目にした眺め。木々に囲まれた窪地の中、所々でパチパチと音を立てる獣よけのかがり火、丸木造りの十数軒ほどの小さな住居、殺風景な広場に無造作に積み重ねられた材木。それがこの集落の全てだった。
 星が瞬き出した夜空の下、辺りを見回すジャーティアに、すぐに声がかかった。
「おや、バルーからの子だね」
「あ、今晩は。初めまして……」
 両手を胸の前で組み合わせてバルー式のお辞儀をすると、ゆったりとした青いスカートを着た恰幅のいい中年の女性は、朴訥な笑みを浮かべた。
「バルーからの子なら、ギダーのとこに行くといいよ。ま、そう決まってるみたいなもんだからね」
「ギダー、さんですか?」
「ああ、あの、西の一番奥の家さ。自分じゃ、『語り部』ってことらしいがね。あの飲んだくれの何処が、そんなご大層なもんかってねぇ」
 そして、西の奥まった一角を指差した。
 言われるままに歩き出したジャーティアに、集落の真ん中で燃える一際大きなかがり火の下に腰掛けた若い男も言った。
「バルーからの子か。なら、ギダーのとこだな」
「おう、そうだな」
 向かい合って大きな切り株に座った男も頷いた。
 そんなわけで、選択の余地もなかったジャーティアは、飾り気のない木の壁に囲まれて、ほろ酔い加減の大男を前にしていた。
「おい、お前。もうないのか」
 空になったジョッキを掲げて横を向くと、炉の横の木椅子に座るひっつめ髪の女に言った。
「あんた、もういい加減にしな。樽が空になっちまうだろうが」
 膝の上に置いた布を針で繰りながら発した声は、有無を言わさぬ調子で満ちていて、自称『語り部』のギダーは、空のジョッキを恨めしそうに眺め、卓の上に置いた。
「おっちゃん、奥方の言う通り。いったい、どれくらい飲むつもりだよ」
 自分用の小さな木の猪口を両手に持ったリスタンが、甲高い声で言った。
「まだ四杯だろうが。飲まないと調子がでないんだよ。せっかく半年振りのバルーからの客だってのに……、まったく」
「四杯って、その馬鹿でかいジョッキなら、充分だろ?」
 ギダーは大きくため息をつくと、諦めたようにジョッキを脇に寄せた。ちょうど背の高さくらいの縁から中を覗き込むと、強い異臭に顔をしかめるリスタン。
「で、どこまで話したっけな」
「おっちゃん、どこまでって、まだ何にも話してないってぇの。ジャーティアも俺も疲れてるんだから、話したいことがあるなら……」
 小さな拳がふっくらした首の毛の辺りを小突いた。
「こら、リスタン。ギダーさんに失礼でしょ!」
「いいってことよ。にしても、女の子はもっと久しぶりだったかなぁ。三年くらい前にやけに賢い子が来たような憶えがあるが。な、お前」
「ロージアのことかい」
 相変わらず針先に視線を落としたままのギダーの奥方は、抑揚のない声で言った。
「そうそう。綺麗な娘だったよな。それにしても、お嬢ちゃんは随分とちっちゃいが……。バルーの子はだいたいみんな小さいが、あんたは幾ら何でも……」
 ジャーティアの口の端が少し歪んだ。机の上からリスタンが面白そうに見上げる。
「『司道師』は確かに大変な仕事だって聞くがな、十やそこらの子を旅に出すっていうのは……」
 肩がビクンと震えると、中腰になったジャーティアの唇から高い声が迸っていた。
「これでもわたし、十四才になるんだけど! 十才って言うのはいくらなんでもひどくないですか」
 男の太い眉の下で、細い目が大きく見開かれた。リスタンが喉を鳴らしてくっくっくと笑うと、甲高い声で言う。
「こら、ジャーティア。ギダーさんに失礼じゃないか」
「あ…。ご、ごめんなさい」
 恥かしさに頭の中が真っ白になる。もう、かっとなる性格、直せって言われてるのに。
 沈黙があった後で、狭い家の中に響き渡る高笑い。喉の奥まで見せて暫し笑い声を響かせると、ギダーは頭を掻きながらジャーティアを見下ろした。
「そりゃ、すまんかったな。俺あどうも、女を見抜く目って奴がないみたいでな」
 ちらりと奥方を見ると、言葉を続けた。
「気を悪くしないでやってくれや。小さなレディ。でも、それくらい元気があった方がいい。『司道師』への道は、並大抵じゃないらしいからな」
「……ギダーさんは、『旅』の事、良く知ってらっしゃるみたいですね」
「このマルダウンを最初の宿にする子は多いからな。いきなり飛んで行っちまうようなせっかちもいるがね」
 そして、今までの磊落さが嘘のような穏かな瞳でジャーティアのほっそりとした顔を見つめた。
「で、俺の話を聞く元気はあるかい?」
「ええ、もちろんです」
「さっきの調子でいいさ。そうしゃちほこ張るこたあない。ま、もうだいぶ遅いしな、手短に話させてもらうよ」
「ええ」
 厳めしい顔に似合わぬ品の良い微笑みに、ジャーティアはギダーに対する印象が百八十度変わるのを感じていた。もしかすると、本当に大事な話を聞けるかもしれない。
 『世界の全ての場所に立って、あまたの人々を目にし、言葉を受け取る』こと。その最初の瞬間。
「ドゥーランって名前は知ってるかい?」
 ギダーは卓に片肘を突くと、ジャーティアを見つめた。
「ええ、確か、ディオニーン様のシャレア王国の前に、フルエ川の大平野にあった何とかっていう国の王様……」
「上等。院の勉強はそれなりにしてきたみたいだな。ドゥーランは、守護五神の内、商業と快楽の神ミアドルアに仕えた古の王。サ・ラ・ドルア国の蛮主さ。もう数百年も前に、この大陸の半分を平らげた圧制者だよ。
 俺の爺さんの爺さん、そのまた爺さん、ま、ギダーの家系の始まりって人が、ドゥーランの軍で、歩兵をやってたのさ。そりゃあ、ドルアの軍て言うのはひどい処だったらしい。平らげた国の若い男を、家族を人質に無理矢理徴用してな。戦いの度に次々に使い捨てる。
 そんな調子だから、ドゥーランが通った後には何も残らなかったらしい。街も村も、草一本、水一滴残らない荒地になっちまう。
 爺さんは頑丈な体質だったらしいからな、ま、俺を見りゃあわかると思うが。それで、戦いに次ぐ戦いでも生き残ってこられた。ドゥーランは戦で残った頑強な奴を取り立てて、自分の身の回りで重用したから、爺さんも程なく『親衛軍』に入ってな。この大陸史上初めての『王』の側で、その行動をつぶさに見ることができたってわけだ。
 実際、ドゥーランて男が何を考えて征服を志したかはわからない。贅沢をするわけでもなし、女を囲うわけでもなし。国の版図を広げるのに興味があったわけでもないみたいだ。
 爺さんの残した記し書きによりゃあ、『一つの街を滅ぼした後、必ず王は訊く。「次の街はどの方向だ」と。かの暴虐なる圧制者の頭には、ただ戦いのことのみがあったのだ』ってな。確かに、ドゥーランは時折、親衛隊同士を決闘させて悦に入ることがあったらしい。まったく、はた迷惑な趣味だよ。
 まあ、あの頃の大陸で、国らしい国って言えばマジーリアくらいだったから、そんな戦闘狂に抗える街があるわけもなく、大陸の南半分はあっという間に奴の領土さ。領土って言っても、戦で荒れ果てた不毛の土地だけどな。
 爺さんも終わりの頃にはすっかり戦いに慣れちまって、人を殺すのを作業みたいに感じてたらしい。そりゃ、いちいち考えてりゃあ、戦なんてものはできないだろうけどな。
『我、剣の下に屠る者を人と知らず。ただ肉塊として叩き潰すのみ』ってな。
 気分が悪くなったかい?」
 ジャーティアは首を振った。ギダーの言葉が眼前にあって、遥か昔の事とは到底思えなかった。
「大丈夫。続けて、ギダーさん」
「おう。でな、そんな時に現れたのがディオニーン様さ。古えの聖王が何処から現れたのか定かじゃないのは、知っての通り。お嬢さんのバルー出身って伝説もあるが、その頃、バルーがあったかもよくわかってないだろ?」
 ジャーティアは頷いた。
「最初はドゥーランも相手にしてなかったらしい。軍隊らしい軍隊も持たず、僅か数名の仲間とサ・ラ・ドルアに反旗を翻した命知らずの若者。
 けれど、狂王が気付いた時には、ディオニーンの軍は大波となってドルアの軍に迫っていたんだ。通る場所全てで、残った街や村の助勢を得て、一気に押し寄せた。
 そしてこのマルダウンの渓谷の入り口で、二つの軍は衝突したんだ。
 爺さんによれば、それは凄まじい戦いだったらしい。『休むことなく戦は続き、両軍の半分が倒れ臥した。フルエの流れは赤黒い血で染まり、三日の間、その色を戻さなかった』と。
 その戦いの終わり、疲れ切り、剣を振るう手も痺れ、朦朧とした意識の中で爺さんは見た。唯一人、こちらに向けて馬を走らせてくる長身の美男子を。左手には、青く光る『理力の剣』を掲げ、右手には白く輝く『白法の盾』を持った気高い姿を。
 兜も鎧も身に付けず、ただ白いマントを翻して走り込んできた男に、誰も手を出すことができなかった。
 そして、ディオニーンは高く高く青き剣の切っ先を天に向け、大音声した。
『もはや血はいらぬ。全ての痛みが償われるなら、私の身体で贖ってみせよう!』と」
 ギダーはここまで一気に語ると、息を吐いて天井を見上げた。
 炉の赤い光に照らされ、厳めしい顔に何処か崇高な輝きが宿って見えた。
「その後、ドゥーランの軍は総崩れさ。所詮は、志なき力のみの軍隊。後に聖なる国を打ち立てる者の輝きには抗しようがなかったのかもしれんな。
 ま、その後ディオニーン様が成し遂げたことについちゃあ、お嬢さんの方が詳しかろう?」
 ジャーティアは頷いた。ディオニーン様がシャレア聖王国で成した様々な聖業の前に、そんな戦いがあったんだ……。
「ただ、一つ言っておきたいのが、爺さんが残した言葉さ。ディオニーン様は、ドゥーランの軍の者も隔てなくシャレアの王宮に招いたが、爺さんも例外ではなく、シャレアの武道指南役になった。
 ま、軍隊そのものはディオニーン様が解体しちまったから、あくまでも競技としての剣術だけどな。
 そこで爺さんは、王国にやってくる様々な人々を見た。大陸の北から南まで、仕事も、言葉も、文化も、信条も異なる人間が王宮で聖王に謁見し、また旅立っていく。その姿を見ている内に、かつて自分が何をしたのか悟ったっていうのさ。
 『我、齢四十にして自らの成せし業を知る。何人たりとも生きるに能はざる者はなく、そを殺めしは、我が一生にても償うに能はず』ってな。
 要は人は誰もが美しいって事を、いろいろな人を見て、初めて気付いたんだよ。それで、このマルダウンに来て、木こりになったってわけさ」
 話し終わったギダーの顔を、ジャーティアは正面からしっかりと見据えていた。
「……ありがとう、ギダーさん。すごく大切な、大事にしていきたいお話だった」
 ギダーの顔がほころぶ。そして、ジャーティアの頭の上に手を置くと、大きく頷いた。
「ジャーティア、あんたには『司道師』になる力がある。その目のまま、前を向いて頑張るこった」
 身体を丸めて寝息を立てているリスタンを抱き上げると、ジャーティアはもう一度頷いた。
「ありがとう、わたし頑張るね。二年後に戻ってきたら、バルーに登る前に、必ずこのマルダウンに立ち寄るから」


 その夜、狭いギダーの家の片隅で固い木のベッドに横たわりながら、ジャーティアは今日一日の出来事を思い返していた。
 麻の夜着に、申し訳程度の薄い上掛け。深夜になって冷え始めた山間の空気。しかし、身体とは裏腹に胸の奥は燃えるように熱かった。
 旅立ち、リスタンとの出会い、吊り橋、勅令角柱、ギダーの話。どれもが、バルーでは決して得られなかった掛け替えのない体験。
 不安は感じなかった。
 ジャーティアの意識は前だけを向いて、過去を振り返ることはしない。それは、彼女がまだ余りにも若く、生命の輝きに満ちているからなのかもしれない。旅の先行きには希望だけがあって、未来には少しの淀みもなかった。


 マルダウンの集落が背後に消えた後、ジャーティアは肩口の犬鼠に唇を尖らせて話しかけた。
「リスタン、ギダーさんに聞いたよ」
「何を」
 まだ眠そうに大あくびをすると、首をクルリと廻すマーブルカラーの毛並みの小動物。
「あの吊り橋、もう何年も使ってなかったんだって。『よく落ちなかったな』って。どう言う事よ!」
「え? そうだったかい? 俺はいっつも通ってたけど」
「あんたは軽いからそうでしょうけど。わたしが落ちたらどうするつもりだったわけ? 何でも、木材運搬用のゴンドラで渡れば、何の危険もないって。しかも、あの吊り橋から一息もないって言うのよ!」
 彫りの深い目を寄せると、リスタンを睨み付ける。
「あ、ま、まあ」
 さすがに決まり悪そうに視線を斜め上に逸らすと、桃色の舌をちょろりと出した。
「落ちてる間にリングを使って、『飛翔』の呪法を使えば……」
「そんなこと、できるわけないでしょう! だいたい、そんな高度な呪法、リングを使ったってできないわよ」
「へぇ、そうなの? バルーから『旅』に出る時、半分くらいは空からラフレアに下りるって聞いてるけど」
「わたしはできないの! だって、ようやく『試練』の時に初めて……、じゃない。わたしが言いたいのは、何であんたはそんなにしれっとしてるのかってこと。落ちて死んじゃったらどうするつもりだったのよ!」
「はいはい。どう言えばご満足頂けるんで、ジャーティア様」
 相変わらずのすかした調子で言いぬけるリスタン。振り上げた拳のやり場を見失い、『司道師』への第一歩を踏み出したばかりの少女は奥歯をギリギリと言わせて肩の上の小動物を睨んだ。
 山道はまだ続いていたが、明らかに傾斜は緩やかになり、いつか広い平原に出ることを予感させた。そして、その先にはフルエ川の豊かな流れと、聖なる国の名を継ぐ王都への長い道が待っている……。

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