第二話 ディオニーンの道―王都へ


 古えの聖王、ディオニーンが打ちたてたシャレア王国は、特異な秩序を持った国だったと言い伝えられ、また、幾つかの文書にもそう記されている。
 『営むるは聖なる道に拠れ』―彼が晩年に残した『統治論』の冒頭には、この一行が一際大きな文字で刻まれている。
 彼の王国は、明確な国境というものを持たなかったと言われ、また、軍隊も保持していなかった。直接的な統治域は、フルエ川の河口に広がる、肥沃な大平野のみ。国と言うより、彼の思想に共鳴する諸侯の連合体という要素が強かったと伝えられる。
 かの国を訪れる者に課された義務はただ一つ。それは、ディオニーン本人に会い、話をすることだった。しかし、その質素な王宮を訪れた誰もが、彼の類い稀な人格に感じ入り、進んでその政策に従う事を望んだと言う。
 彼の政策。それは、ドゥーランが用いた『剣の力』を、『文化の力』に置き換える事だった。舞踊、歌といった平易な民間の娯楽から、学術や宗教まで、諸侯領間の交流を活発に促進し、民族や習慣の違いより、人としての共通の基盤を重んじた。病院を各地に建設し、親のない子を積極的に保護し、無償の学校を開設した。また、市場を各地に設け、関税をかけず、商業を育成した。
 彼の治世四十年は、正に『道治支配』の名の通り、彼の指し示した聖なる道に、多くの人々が導かれた日々だった。シャ(在る)レア(道)の広がりのままに。
 そして今、縦に並んだ四台の荷馬車が、かつて聖王国の領域だった広大な平原をゆっくりと進んでいく。辺りに広がる黄緑色の草の原に比べて僅かにはだけ、茶色に踏み固められた道を。
 幌のついた木造の荷車は、足の短い、屈強そうな馬二頭ずつに引かれ、遥か地平線を手繰り寄せながら、ただただ轍の音を響かせ、止まる事はない。
 シャレア王国の時代から数百年。今だに残る、古えの『王の道』。現在はラフレア―道を継ぐ、と名づけられた大王国の空の下、司道師を目指す少女は浅い夢にまどろんでいた。
『はい、目を閉じて、内なる声に耳を澄ましなさい。そう、両手の人差し指と中指で、四角を作って……』
 院の中庭、石畳の上、横一列に並んだ少女達。それぞれが膝下までの質素でくすんだ土色の繋ぎを身につけ、修錬に余念がない。ジャーティアも目を閉じると、手を前方に突き出して、意識を集中していた。
『見えますか? 流れが感じられるはずです。それに意識を合わせるのです。さあ、数えて。一、二、三、四。一、二、三、四……』
 一、二、三、四。一、二、三、四……。何の手がかりもないまま、闇雲に数を数える。この訓練を何度繰り返しただろう。けれど、今まで一度も、『内なるリズム』が聞こえた事がない。
『……全てのものの内奥には、同じリズムが刻まれているのです。さあ、皆で意識を合わせて』
 一、二、三、四……。ダメだ。何も聞こえない。私には何も聞こえないよ。
 左隣で手を伸ばすジシナーラ。右手で小さく呟くゲイラン……。それぞれが伸ばす『意識の指先』が、張り詰めようとする自分の意志を、外側から盗み取るように空気をざわめかせている。
 ダメだ……。私にはどうしていいかわからない。ここには、雑多な思いが溢れているだけ。そんな深い声なんて、到底掴めない。
(ジャーティア。貴方だけ調子がずれていますよ。意識を集中して)
 教官の落ち着いた、しかし何処か冷たい内声が届いた。
 そんなこと言われても、わたしには聞こえない。掴めない。いつもそうなんだ。身体と同じように、呪法も半人前にしか使えない……。
 ガタン。
 藁を押し込め、背中を寄りかからせた固い木の板敷が、大きく跳ね上がった。一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなって、狭い空間を見渡した。
 ガタガタと揺れる、木板で仕切られた四角い荷車の中。木箱と木樽がひしめき合って積まれ、ジャーティアが横になっている僅かな空間を除いて、どこにも空いた場所はない。見上げた天井には、くすんだ土色の幌がかかり、透けて見える光が、今が日中であることを告げていた。
 ジャーティアは一つため息をつくと、織布を巻いた腰の脇、敷き詰めた藁の中で丸まった小さな毛皮を見下ろした。黒と白のマーブルカラーが、ふさふさとした尻尾の中に小さな首を突っ込んで、まるで毛玉のように見える。
 どれくらい眠っていたのだろうか。額から乱れ落ちた髪の毛を指先に巻きつけると、もう一度息を吐いた。
 どうしてわたしって、こう、何もかもが半人前なのかなぁ……。
 せめてこの髪の毛くらいは、モディナさんみたいに綺麗に巻いていれば良かったのに。何のアクセントもない黒いだけの髪だって、ああやって波打っていれば、凄く綺麗で、魅力的に見える。
 荷馬車の客になる前、サリナス高原を下り終えたジャーティアとリスタンは、小さな交易都市の街中に立っていた。
 黄土色の土造りの家々が並ぶ、殺風景な街。土にあらかた覆われた石畳の上、到る所に小さな市が立ち、雑多な身なりをした人々が何事かを大声で叫び合っていた。
 足の部分が膨らんだ繋ぎを纏った、頭の上に布を巻いた数人の男。ひだの沢山付いた白っぽいローブ状の布地で、足先まですっぽりと身を包んだ女性。腰に短い剣を帯びた皮鎧の兵士。見なれた茶皮のチュニック姿の一群……。
 それぞれが、地面に置かれた樽、山と積まれた木箱、野菜や果物が盛られた籠の前、身振り手振りを交え、時折鋭い声を上げながら何事かを話し合っていた。
「なあに目を白黒させてんだよ、ジャーティア」
 肩に背負った麻の袋から尖った顔だけを出して、マーブルカラーの毛並みの犬鼠はキンキンとした声を響かせた。
「だって、すごい状態だから……。これ、市って言うのかな」
「そうさ。お、あのずるずるはマジーリアの巫女だ。珍しいな……」
 ひだの付いた白く輝くローブから、色白の顔だけが覗く女性。ジャーティアが見つめると、薄い唇に機械的な微笑を浮かべて、視線をこちらに合わせた。
「……巫女って、ダミに仕える……」
 視線を逸らして小声で言うと、リスタンは何事もなかったかのように声を響かせた。
「そうだよ。ま、あまり位が高い娘じゃないみたいだから、そう気にすることもないさ」
 自在に心を読み、遥か彼方まで意識を飛ばす事ができると言われる古き宗教国家の巫女。バルーにとっても、ラフレアにとっても、微妙で難しい存在……。
 暫く立ち並ぶ市の間を歩いた後、リスタンは小さく喉を鳴らすと、生え揃った牙の間から、桃色の舌をちろりと覗かせた。
「ま、この街の市程度、ジェナスに比べたら、子供のママゴトみたいなもんだなぁ」
「ジェナスって、マジーリアの?」
「そ」
 短く答えると、リスタンは退屈そうに欠伸をした。
「で、どうする? ここから北へ街道を上がれば、マジーリアとの国境。『王の道』を東に進めば、ラフレアの中心部。行く方向は、ジャーティアの望むままだけど」
「そりゃあ、」
 ジャーティアは、くっきりとした眉の下、彫りの深い暗緑色の瞳を見開くと、にっこりと笑って言った。
「ラフレアの王宮に向かうに決まってるでしょ。『白の宮殿』は、バルーの女の子の憧れなんだから!」
「へいへい……。でも、ま、それが妥当だろうと俺も思うけどね。いきなりマジーリアに向かうのは、ちょっと避けたいよ。今のジャーティアじゃ、命が幾つあったって足りないっての」
「どういう意味!」
 唇を尖らすジャーティアに、リスタンは詰まらなそうに呟いた。
「言った通りの意味」
 そして、首を袋の中に引っ込めた。
 ジャーティアは、下唇を軽く噛むと、鼻から息を吐いた。とにかく、どこかの馬車か、馬に乗せて貰わなきゃ。この先に続く大平原が、人の足では到底越える事ができない広大なものであるのは、ラフレア周辺に住む誰もが知っていること。
 それから、商談が終わったと見える一団を見つけては、両手を前で組み合わせるバルー式の挨拶を繰り返した。しかし、結果は芳しくなかった。
「すいません。わたし、『旅』をしているんですが……」
 何度言っても、頷いて「そりゃ、ご苦労なことだ」と言うくらいが関の山。あからさまに手で追い払う仕草をする恰幅のいい商人までが存在して、日が高く上り始める頃には、ジャーティアはすっかり疲れ果ててしまっていた。
「やっぱり、お金を使わないとダメなのかな……」
 町外れの崩れた土塀の上に腰掛けると、ジャーティアは独り呟いた。正直、少し落胆していた。
 ラフレアを出れば、そういう事があるかもしれない、そう覚悟はしていた。でも、まさかサリナスの高原を下りてすぐ、こんな事態に立ち入ろうとは。
 膝の上についた両手に、顎を乗せて頬を膨らませると、三百六十度の地平を露わにした真青な空を、ジャーティアは物憂げに見上げていた。
 肩から斜めに巻いた、青で縁取られた鮮やかな白い織布の下、脇腹へと垂らした紐に括られた小さな皮袋に右手を伸ばした。中に入った銀貨が、手の平に重たかった。
 マグベダー様から頂いた『お金』を、もう使わなければならないのか……、暫し考え込んだ後で、ジャーティアは唇を引き締めて頷いた。
 いつまで迷っていても仕方ない。このままここで止まるわけにはいかないのだから―腰掛けていた土塀から勢いよく地面に下りたその時、前方の街並みから、ハスキーな女性の声が響いてきた。
「ねぇ〜、バルーの魔導士さ〜ん」
 ひらひらとした緑の布の翻りが遠くに見えた。そして、豊かに流れ落ちる波打った黒髪も。小走りに近寄ってくると、端麗で艶やかな容姿の女性は、ジャーティアの前で立ち止まって、その小さな姿を見下ろした。
「ああ、間違いないね。その織布に、腕輪。馬車に乗り合わせたいってのは、あんただろ?」
「あ、は、はい」
 腰でくびれ、裾がフリル状に広がったタイトな服は、豊かな胸元で大きく開き、肉感的な表情と合わさって、ジャーティアを少したじろがせた。バルーでは決して見かけることがなかった類いの女性。
「……ん? どうした」
 肩の布袋が揺れると、リスタンが顔を出した。少し腰を屈めて見下ろす、引き締まった黒い眉に長い睫毛で縁取られた大きな目を見つけると、喉の奥をぐるるっと鳴らした。
「ほう、これはこれは、豪華でお綺麗なお方なことで」
 流れる黒髪の下の起伏に富んだ女性の顔が、面白そうに歪められた。
「お。使い魔さんも一緒とは。なかなか優秀なお嬢ちゃんみたいだね」
 そして、ジャーティアの方に視線を戻すと、秀でた額に指を指して片目をつぶった。
「あたしら、ちょうどフルエ川の源の方に向かうんだけどさ、お嬢ちゃん、乗ってくかい?」
「ほ、ホントですか!」
 ジャーティアは、少し裏返った声になって、リングの填まった浅黒い手を、身体の前で組み合わせた。
「ああ。ラフレアで商いをする者なら、『旅』をしてるバルーの子は助けなきゃね。さっき、取り引きをしてたら、ちょっと小耳にはさんだもんでね」
「あ、ありがとうござ……」
 ジャーティアがお礼を言いかけた時、耳もとの低い声が遮った。
「ちょっと、綺麗なネエちゃん」
「ん?」
「言っとくけど、俺はジャーティアの使い魔じゃない。どっちかって言うと、俺がジャーティアを導いて……」
「はははは」 
 肉感的な唇を開いて屈託なく笑うと、緑の服に黒髪の女性は、リスタンの突き立った耳の辺りを指先で撫でた。
「どっちでもいいだろ? よろしくね、ええと、……ジャーティア。それに……」
「リスタン」
「ん、リスタン。あたしは、モディナ。ラフレアとマジーリア近辺で、商いをやらしてもらってる者だよ」
 モディナは、屈んで顔に掛かった長い髪をかき上げながら身体を起こすと、悠然と微笑んで見せた。
「ふぅ……」
 ジャーティアはもう一度小さく息を吐いた。荷車は、相変わらず低い音を立てながらゴトゴトと揺れている。
 モディナの思いがけない申し出を受け、こうして、たくさんの荷と一緒に東を目指しはじめてはや二日。平原の景色は、行けども行けども少しの色合いも変えることなく、ただ黄緑の草原を広げて、行き着く先を知らない。
 ガタン。
 大きく荷車が前に傾くと、足もとの木樽が鈍く軋む音を立てた。
「クゥゥ……」
 傍らで丸まっていたリスタンが、肩を竦めて首をぐるりと回した後、小さく伸びをした。
「昼飯かな」
「多分ね」
 ジャーティアは頷くと、木箱の上を乗り越えて、荷車から飛び下りた。


 「じゃ、ジャーティアちゃん、頼むねぇ」
 今日は薄青い服を纏ったモディナは、石積みの輪の中に枯れ木を組み上げた簡便な炉の前にジャーティアを残して、男達が集まる荷車の列の方へと戻って行った。
 さて。
 ジャーティアは意識を集中すると、組みあがった木の合わせ目に熱を呼び寄せる。ずっと遠くの空気までもに感覚の領域を広げ、眼下に集約させた。
 バルーはさ、気の集まり方が違うだろ。
 旅の始まりの日、コーラルウルフ相手に火球をおこせなかった事について、リスタンはそう言った。これからの旅先では、自然の気が散ってしまっている場所がたくさんある。だから、呪の扱いも変えなきゃならんのだ、と。
 程なく細い枯れ木にオレンジが光り、赤い火が点った。集中を解かないままでいると、すぐに燃え盛り始め、大きな炎になった。
 結局、リスタンにも世話になりっぱなしだし。マグベダー様、何も言わなかったけれど、わたし一人じゃあどうなるかって思ってらっしゃったんだろうなぁ。実際、その通りなんだけど。
 このままで、『旅』を無事に終えられるのだろうか、自然に弱気の虫が忍び込んでくるのに気づいて、ジャーティアは首を振った。
 前向きに行かなきゃ。モディナさんみたいにいい人もいるんだし。
「ジャーティア」
 荷車の側で何事かを話し合っているモディナと男達の近くで、岩陰に伏せていたリスタンが、ちょこちょこと四肢を動かしてジャーティアの背中に近づいてきた。
「また、つまらん悩み事かい」
「ううん、別に」
 意識の集中を解くと、両手を広げて大きく空を仰いだ。
「何か、火打石の代わりみたいだね、わたし」
「いいんじゃねぇの。ジャーティアでもちったあ役に立つってこと」
「もう、口悪いんだから。リスタンは」
「それが取り柄でね」
 ジャーティアの座るごつごつとした灰色の大石に乗ると、リスタンは後ろ足で立ち上がった。
「……モディナさんて、いい人だよね。わたし、あのままだったらもっと落ちこんでたかも」
「そうだねぇ……」
 気のない様子であいづちを打つと、リスタンは赤く燃え盛る炎に向けて、歯の生え揃った口を開いた。
「俺は早くメシにして欲しいよ。くだらん話し合いは後にしてさ」
 その呟きが聞こえたのか、解けた人の輪から歩き出した背の高い女性が声を響かせた。
「さあ、食事の準備に入ろうかねぇ」
「ほら、お昼ご飯だって」
 ジャーティアはリスタンの小さな頭を小突くと、モディナの方を向いて立ち上がった。


 日が傾き始めた頃、車中からでも荷馬車の速度が一段と上がるのがよくわかった。時折大きく跳ね上がり、積まれた荷の下敷きになるのではないかと、気を許す間もないほどに荒っぽい馬の駆り方だった。
「急ぎになったのかなぁ」
 唐突に馬のいななきが前方から響き、激しく軋みながら荷車が停まったのは、ジャーティアがそんな疑問を口にしたばかりの時だった。
「おいおい、荷が崩れるよ」
 木箱の上に乗り、幌の隙間から外を覗いていたリスタンも、呆れたような声を上げた。
「ど、どうしたの?」
 幌に光を遮られ薄暗くなり始めた車中で、ジャーティアは立ち上がってリスタンのいる方を見上げた。
「……どうやら、検問みたいだな」
 口の端を僅かに歪めたリスタンが呟く。
「検問?」
「ラフレアの兵隊が見える。そんな重装備じゃないから、多分、荷の検査だろう」
 いつもよりトーンが落ち、かすかに緊張の色を見せる道連れの態度に、ジャーティアは積み重なった木箱の上によじ登った。
「……でも、モディナさん達は大丈夫でしょ? ちゃんとした荷物を運んでるんだし」
 リスタンの横にうつ伏せになると、荷車の後方、幌の隙間から外の景色を覗きこんだ。
「さぁ、どうだろうねぇ」
 顔の横の低い呟き。ジャーティアは眉根を寄せると、外の様子を注視した。
 荷馬車の前で手綱を握る、薄青の服を纏ったモディナと、麻の繋ぎに皮のチョッキを着た、つばなし帽子の男。幌のかかった荷車の横を、胸と肩に茶褐色の当てを付け、短い剣を腰に帯びた二人の兵士がゆっくりと見回っている。やがて、一人がモディナの足元までやってくると、留め金のついた質素な丸い皮兜の下で、何処か野卑た笑みを浮かべた。
「如何ですか、お役人さん。わたし達も、急いでないわけじゃないんですよ」
 モディナのハスキーな声が聞こえた。
「そりゃあな、」
 聞くだけで背筋に悪寒が走るような高く、引き摺るような声。
「俺達だって、こんな面倒なことはしたくないんだよ。ただねぇ、王宮から指示が来てるもんでね……」
 モディナは上唇を大きく歪め、歯を僅かに見せて笑った。
 ……え?
 ジャーティアは、おもねったように艶やかな笑顔を見せる姿に、短い旅の間中、いつもからりと明るかった隊商の女主人の、全く異なった面を見出した気がしていた。
「ほんと、お疲れさまですわね。近頃は、王宮の方も何かと締め付けが厳しいなんて、ちらほら耳に挟んだりしていますから……」
 言って、身体を少し前屈みにした。胸の大きく開いた薄青い服の隙間から、豊かな胸元が覗く。そして、足もとの小袋から何か丸めた紙のようなものを出した。
「どうぞ、そちらで出して頂いた商いの証ですわ」
 兜の下の細い目が、暗く、なぶるような光を帯びた。そして、その視線を受けとめてなお、柔和でいながら、何処か艶かしさをたたえた表情を崩さないモディナ。
 悪寒は、吐き気に近い忌避の感情に変わっていた。何もかもが朴訥に行われていたバルーでは、決して有り得なかった暗澹たる感情のやり取り。
「ああ、間違いないようだな。じゃあ、前の奴を少し見せてもらって終わりにするかな。おい、お前!」
 皮鎧の役人は、荷車の後方を調べている背の低いもう一人に声をかけた。
「一番前の奴を見て終わりにする。来い」
 ジャーティアは見逃さなかった。豊かな黒髪の下で、モディナの唇が微かに歪むのを。
「あ、お役人さん。そっちの荷馬車には……」
「ちっ、あの女、やっぱタダ者じゃねぇ」
 リスタンは小さな声で呟くと、ジャーティアの方に首を曲げた。
「おい、ジャーティア、すぐにここから降りな」
「ど、どういうこと?」
 うつぶせになったまま、リスタンの円らな瞳を見つめ返す。
「いいから! すぐに飛び下りろ。そうすりゃ、大事なく済むはずだ」
「う、うん」
 ジャーティアは身体をずらすと、木箱を跨ぎ、幌を開けて外に降り立った。
「な……」
 傾きかけた陽の下、轍の残る茶色の路地に皮履きの足を下ろすと、見上げる程に背の高い皮鎧の役人は、太い眉を歪めて驚きの声を漏らした。
「なんだ、このちっこい女の子は……」
 一瞬歪められた色のない唇は、すぐに整った能面のような表情に変わった。
「……なんと、バルーの子か」
 胸から膝下まで巻かれた緑と赤と白の細かい迷彩と、肩から斜めに掛けられた白地に青の縁取りの輝く、鮮やかな織布。そして、両腕に填められた七色のリング。この大陸に住む者なら、その姿を見間違う者はいないだろう。
「こんにちは」
 どうしたらいいかわからないまま、ジャーティアは反射的に胸の前で腕を組み合わせていた。さっき見た、寒気のするような表情を思い出す。できれば、あまり話はしたくなかった。
「あ、ああ」
 よく見ればまだ三十にも満たないかに見える若い役人は、ぎこちなく頭を下げた。
「『旅』か? バルーの子」
「はい」
 短く答えると、役人は、後ろに立った背の低い一人に告げた。
「もう、いい。『旅』の子を乗せた隊商をいちいち調べても仕方ないからな」
 そして、モディナの方を見上げ、顎でしゃくった。
「行っていいぞ」
 モディナは艶やかに笑うと、恭しく頭を下げた。
「……ジャーティアちゃん、乗って。行くわよ」
 事の成り行きが半分も掴めず、乗っていた荷車に振り向いた時、リスタンの姿が目に入った。細長く伸びた顔から、大きく舌を出して、すかした苦笑いを浮かべたその表情。
 振り返ると、モディナも直線的な眉を吊り上げ、皮肉めかした笑いを返していた。
「……どういうこと!」
 再び荷馬車が動き始めた時、ジャーティアは、藁の中に丸まったリスタンに額を近づけて詰め寄った。
「子供は知らなくていいこと。知らない方がいい事もある」
 首を尻尾の中に突っ込んだリスタンは、抑揚のない調子で言うと、目を閉じた。
 バン!
 ジャーティアは平手で思い切り荷車の床を叩いた。
 確かに子供かもしれないけど、確かに半人前かもしれないけど。
「おいおい、激しいなぁ……」
 身体の側を激しく振動させられて、僅かに飛びあがったリスタンは、首だけを持ち上げて、再び目を開いた。
「ひどいじゃない。わたし、一人だけ桟敷の外って言うのはイヤ。半人前にだって、半人前なりの受け止め方ってのがあるんだから!」
「……やれやれ」
 リスタンは丸めていた身体を伸ばすと、暗緑色の中に燃えるような輝きを宿したジャーティアの瞳を見返した。
「話した結果、見えてるんだから。できれば知らない方がいいと思うけどねぇ」
 言って、耳の後ろを後足で掻いた。その悠然とした態度が、ますます子供扱いしているようでしゃくにさわる。
「……決めないでよ。そんなの、話してみなきゃわかんないでしょ!」
「キュゥゥ、たく、しょうがねぇお嬢さんだ。……わかったよ」
 ポン、と立ちあがると、ジャーティアの横の木樽を前足でトントンと叩いた。
「こいつは蓋が甘い。ちょっと開けてみろよ、ジャーティア」
 ゆっくりと立ちあがると、樽の蓋に手をかけた。さっきのやり取りから、自分達が共にしているのが、ただの荷でないことくらいは推し量れていた。
「引っ張るんじゃない。端っこをちょっと叩くんだよ」
 拳で縁を軽く叩くと、斜めに傾いた蓋は、たやすく開いた。
 手をかけると、おそるおそる中を覗きこむ。
 ……茶色い葉っぱが入ってる。それだけ……。
 しかし直後に、今まで嗅いだ事のない、甘苦いような香りが鼻をついた。
「……何、これ」
「多分、ラジェスの葉」
「何? ラジェス?」
「そうだよ。フィーリスの湿林で取れる、ツタ植物の大きな葉っぱ」
 フィーリス。マジーリア領内の古き聖霊の森。その奥に住まう緑の女王。そして、広がる湿った木々は、特殊な効果を持っていて……。
「……薬。ううん、麻、薬?」
「そういうこと」
 樽に駆け上がったリスタンは、蓋を元に戻した。
「ラジェスの葉を煎じて、火をつけてパイプで吸うのさ。ま、大した作用はないけどね」
 ジャーティアはその場にペタリと座り込んでしまった。何てことだろう。わたし、麻薬商人の荷馬車に同乗しちゃってるんだ。
「あのネエちゃん、最初から計算づくさ。『旅』に出たバルーの司道師見習いは、ラフレアのどこでも尊重されるからね。最近は、ラジェスやドロスを買う金がマジーリアに流れて、不穏な動きに結びついてるって噂もあるから、王宮にしてみりゃ、締め付けを厳しくしたってところだろうけど」
 どうしよう。『白き道』に従わなきゃいけないバルーの者が、あろうことか、もっとも悪い物を売り買いしてる人の仲間になってるなんて……。
「ま、俺の鼻はごまかせないけどね。にしても、モディナはタダ者じゃない。さっきの役人に話してる間、『別言』を使ってた。「ジャーティアに話させろ」って。あれは、ロイセンの民の一部しか使えない方法のはずなんだ……」
 リスタンの言葉は、もうジャーティアには届いていなかった。
 何とかしなきゃ、差し迫った思いだけが胸を占めて、太く編んだ黒髪を、荷車の木板に預けていた。


 ジャーティアがモディナに噛み付いたのは、その夜の食事が終わり、男達が酒盛りを始めた頃だった。
「わたし、あなた達とは一緒に行けないから!」
 満面の星空の下、大きく燃え盛る炎を後ろに、モディナの前に立ち塞がったジャーティアは、眉をいからせ、肩をそびやかして大声を上げていた。
 ひらひらとした裾から突き出た、僅かに土色を帯びた足を組み合わせると、モディナは流れ落ちる黒髪をかき上げながら、ジャーティアの口上が一息つくのを待っていた。
「わたしはバルーの子なんだから。だから、あなた達みたいな人を認めるわけにはいかない!」
 最後にそう叫んで荒い息を吐くと、ジャーティアは言葉を止めた。浅黒い肌は、暗がりの中でさえ、紅潮して上気しているのがはっきりとわかる。続けざまに喋ったせいで、いからせた肩は大きく上下し、後ろで編んだ髪も、逆立って見えるほどだった。
「ま、あんたがどう認めようと、あたしらはこうして商ってくしか道はないんだからねぇ」
 口調のざっくばらんさとは裏腹に、赤い光に照らされた起伏の大きな顔立ちは、微笑んでさえいるように見える。
「ま、ラジェスを売るのが褒められた事じゃないってのは本当だ。でもね、マジーリアの巫女でさえ、遠見をするのにもっと強い薬を使うし、ましてや、ロイセリアじゃあね……」
「そんなこと、麻薬は、麻薬よ」
 切れた息の中から何とかジャーティアは言葉を返した。
「そうかもね。そんな風に何もかもがはっきりしてるといいのかもね。でも、」
 肉感的な唇で大きな笑顔を作り、ジャーティアの秀でた額を人差し指で軽く押した。
「その汚いあたしらの助けを借りなきゃ、あんたはここまで来れなかった。そして、このままここに残れば、あんたはどうなるかな……、ね、使い魔クン」
「運が悪きゃ、そのまま大地の肥やし、かねぇ」
 ジャーティアの足元で、事の成り行きを眺めていたリスタンが、訳知り顔で頷いて見せる。
「裏切り者!」
 一言大声で叫ぶと、ジャーティアは踵を返して荷車から遠く離れた場所へと歩いていく。
「あらあら……」
 モディナはため息をつくと、可笑しそうに唇を歪めてクスクスと笑った。そして、リスタンの方を見下ろす。
「いいのかい、使い魔クン。あのままお嬢さんを放っといて」
「……大丈夫。ジャーティアは、感じやすいけど、弱くはないからねぇ」
「ふぅん……」
 長い睫毛の下の大きな目が、微妙な色合いを浮かべて細められる。
「面白い組み合わせだね。真っ直ぐ、純粋な司道師見習いさんに、ただ者じゃない、ミティアン」
 リスタンは喉を鳴らした。
「それは、お互いさまだろ。『尊民』がこんなところで、何をしてるやら……」
「ふふ、そんないいもんじゃないよ、あたしは」
 モディナは少し俯いてから小さく笑うと、腰掛けていた木箱から腰を上げた。リスタンもふさふさとした尻尾を振ると、身を翻す。
 そして、マーブルカラーの犬鼠は、ジャーティアが消えた地平の彼方へ向けて、一目散に駆け出していった。  

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