ジャーティアはむっつりと黙り込んだまま、鍋のかかった鉄棒の下、積み上がった木片に火を灯していた。
 検問事件から二日。黄緑の地平と夕刻を迎えた赤褐色の空は、相変わらず遥か遠方で交じりあい、昨日までは西の空で微かに姿を見せていたサリナスの山々も、霞みの向こうに地平との区別を失っていた。
 三つ並んだ鍋の下にすべて火を灯し終わると、少し離れた草むらの中に腰を下ろした。膝を抱えたジャーティアの周りには、先が八方に分かれた茎の細い草や、短く枝分かれした、腕の長さほどもない小さな黄色い花が疎らに生えている。先端がふさふさとした緑色の一本を抜き取ると、茎を指に絡めた。
 夕陽が地平にかかると、辺りは急速に夜の空気へと落ちていった。やがて、ジャーティアが灯した火の周りには男達が集い始め、料理の煮える香りが、一息離れたこの場所まで漂って、鼻腔をくすぐった。
 楽しげな笑いや、声高に何事かを叫び合う音が響いてくる。首を伸ばし、四台並んだ荷馬車を背景に、輪を作って食事を始めた十数人の男達の様子を眺めた。
 星が光り始めた蒼い空に、四方に立てられた赤いかがり火が色を添えている。輪の中心には、波打つ黒髪と裾の広がった青い服が際立つ美しい女性が座っていて、時折、ハスキーな声がジャーティアの耳に届いてきていた。
「ふぅ……」
 声に出して言うと、皮履きの先で地面を蹴った。
 やっぱり、お腹が空いたな……。
 その時、右下の草むらで、ガサリと音が響いた。
「何呆けてんだよ」
 甲高い声の主は正面に回りこむと、茶色の布帯が巻かれたくるぶしの辺りを、白い毛の生えた前足でポンと叩いた。
「呆けてなんていないわよ。ほら、見て」
 指に巻きつけていた草を示すと、ふさふさと茂った緑色の先端を鼻先に突き出した。
「あんたの尻尾にそっくりでしょう。ほらほら」
 草を揺らして見せると、リスタンは円い目の上、疎らに黒い毛が生えた眼窩の縁をハの字につりあげると、呆れ加減に口を開いた。
「分けのわからんこと言ってないでさ、メシに混じれよ。いい加減、ツッパリ疲れたんじゃないか?」
「……ヤダ」
 間髪入れず、ジャーティアは言い放った。そんなこと、できない。火をつけるのは、乗せてもらってる代償だけど、邪なことをしている人達に交わるわけにはいかないもの。
「ほんと、強情だなぁ。ま、無理にとは言わんけどねぇ。一応、今日で最後の晩になると思うしさ。それだけ」
 マーブルカラーの毛並みが翻ると、かがり火に囲まれた輪の中へ走り去って行く。ジャーティアはもう一度、煤けた繋ぎに皮の上衣を纏った商人達の背中を見遣った。
 そっか、もう着くんだ。王都の入り口に……。
 荷馬車に揺られていた数日間、隊商の男達にかけられたいくつかの言葉が思い浮かんだ。
『俺もさ、十で奉公に出たんだよな。あん時は寂しくてなあ』
『魔法が使えるってのはどんな気分よ。取り柄があるってのはいいなぁ。俺っちなんてよ、計算だってままならないもんなぁ。よく商売やってると思うよ』
『空飛べるか? 荷物持ち上げられるか?』
『十四才ってほんとか? うちのガキなんて十なのに生意気でよ。あんたみたいなのが娘ならな』
 ほんとうは、悪い人達じゃない。ジャーティアにはわかっていた。
 でも、どうしたらいいのかわからない。だって、あの人達の運んでいるものは……。
 その時、何か、低くかき鳴らされる弦楽器の音がした。
「モディナ、頼むよ!」
「取り引き前の景気づけでさ」
 男達の声が響いてきた。モディナの斜め横にいる一人が、水滴型の胴をした大きな弦楽器を抱え込み、腕を上下に動かしている。
「ああ、もう、しょうがないねぇ、あんた達は。明日、いい値を付けないと承知しないよ」
 赤い光と影との対比が目に焼き付いていた。ゆっくりと立ちあがるモディナ。激しくかき鳴らされていた弦の音が一瞬止まり、低い和音が短く響いた。
 口笛。掛け声。食器を打ち鳴らす音。
 長い睫毛が、半ばまで閉じられた目蓋から瞳にかかり、斜め下方を見遣る。
 もう一度、今度は高い和音。
 目が見開いた。波打つ黒髪が揺れ、剥き出しの肩口を抱き締めるように両手が組み合わされた。
 一瞬の静寂。
 そして、かき鳴らす弦の音がリズムを刻み始めた時、解かれた手は激しい腰の動きに同調して、上下左右、変幻自在に振り上げ、振り下ろされ始めた。
 そして、鋭角的なステップを取る足元で、裾の青が翻り、僅かに土色を帯びた太腿の稜線が覗く。
 回転。反転。そして、静。
 止まった弦の音は、モディナが動き始めると、再びリズムを取ってかき鳴らされる。
 赤い光の落とす影が、ひどく間近にある―ぼんやりと意識した時、ジャーティアは男達の輪のすぐ側に立っていることに気付いた。
「モディナ!」
「いいぜ、最高、最高」
 ステップと腕の振り下ろし、時に扇情的なほどの腰の動きは一層ペースを上げていった。額には汗が滲み、視線は焦点を定めず、酩酊の態を伺わせるほどで、見る者を惹き入れていく。
 ジャーティアは胸元で手を組み合わせた。
 胸の高鳴りを感じた。こんな激しい情熱を目の当たりにしたことは決してなかった。身体と心が同時に高揚する、見知らぬ感情の潮。
 動きを止めたモディナの腕が、豊かな胸元から腰までを自愛するように添い下ろされた瞬間、弦の響きも最後のリズムを刻んだ。
 胸元にまで流れ落ちる汗。かがり火の赤に照らされ、張りのある肌の表面で輝いている。
 右奥の一人が口笛を吹いた瞬間、歓声と食器を打ち鳴らす音が、遮るもののない広い平原を包み込んだ。
 伏せられていた目蓋が開いた直後、モディナの黒い瞳が、ジャーティアの暗緑色の瞳を正面から捉えた。そして、肉感的な唇が慈しみさえ思わせる豊かな笑みを浮かべた。
 ジャーティアには、高鳴る胸を抑えて、目を逸らすしか術はなかった。


 陽が天頂に差し掛かった頃、轍が響かせる音が、明らかに硬質なものに変わるのがわかった。荷の間から顔を覗かせたジャーティアの目に映ったのは、枝を大きく広げた緑の木々と、何本かの勅令角柱だった。
 眼下には、荷馬車二台分ほどの幅に敷き詰められた、黄土色の石畳。土に埋もれかけ、草が生え出してはいたが、人の手を経たものに違いはなかった。
 やがて、人の往来が見え始めた。ほとんどが、上下の繋ぎに細い腰紐を着け、軽い感じの袖なし上衣を纏った人々。
「おい、危ないって」
 リスタンの静止も聞かず、荷馬車の後から顔を突き出して、前方を見やると、明るい色の壁が小さく立ち並んで見えていた。
やがて、煤けていた石畳が、長方形が隙間なく並んだ灰色の路面に変わった頃、前方で馬の軽いいななきが聞こえた。
「あんた達、しっかりやるんだよ」
 広くなった往来で馬車を降りたモディナは、男達に軽くハッパをかけた。そして、胸の前で握りこぶしを作ると、唇を引き締め、うなずいて見せた。馬の手綱を握るそれぞれが、大きな身振りで同意を返した。
 轍の音を響かせつつ、馬車は四方へと散っていく。
「さて」
 腰に手を当てて、背の低い街並みの向こうへと荷馬車が消えるのを見送ると、モディナは踵を返して、斜め下を見下ろした。
「……あ、りがとうございました」
 ジャーティアはぎこちなくお辞儀をした。目を合わせるのが少し怖かった。取りあえずお礼だけはして、立ち去らなくては―黙ったままのリスタンを肩に手早く辞去しようとした時、七色の腕輪をつけた手首を、がっしりとした手が掴み寄せた。
「待って。ジャーティアちゃん。あたしの方の礼がまだだよ」
 モディナは上半身を屈めると、白やベージュの壁が緩やかな坂に沿って並ぶ、北の方に顔を向けた。
「いろいろしてもらったし、あんたには話したいこともあるんだよ」
「で、でも。それは、乗せてもらった代わりで……」
「はいはい、ごちゃごちゃ言ってない。おい、使い魔クン」
「……なんだよ、モディナ」
 顔の横で、ふさふさした毛が揺れて、面倒くさそうな声が響いた。
「あんたのお嬢さんを借りるよ。構わないだろ?」
「取って食うなよ。で、何処へ連れてくつもりだ」
「霧浴さ。王領内に入ったら、一度は行っとくべきだろ」
「ふ〜ん」
 鼻を鳴らしたリスタンは、ジャーティアの肩から駆け下りると、灰色の石畳の上に着地した。そしてそのまま、立ち並ぶ家々の壁の間へと姿を消してしまった。
「リスタン」
 相棒の素っ気無い態度に呆然としていると、モディナは強引にジャーティアの腕を取って、カーブしながら上っていく北の街並みへと歩き始めた。
「お目付け役の許しも出たし、行こうかねぇ」
「も、モディナさん。わたし……」
「はいはい、くどくど言わない」
 半ば引っ張られる格好で、白やベージュの壁が並ぶ、二十歩幅程度の石畳の道を進んでいく。繋ぎの服を着た街の人々が何人か行き過ぎ、ときおり自分たちの特異な服装に注視するのがわかった。
 低かった家々の壁が高さを増し、綺麗に塗り固められた壁に据えつけられた金属のレリーフが見えた。そこに刻まれたラフレア文字―どうやら宿泊街に来ているようだった。
 バルーの司道院に匹敵するほどの大きさの建物も見えた。広い壁はむらなく真白に塗られ、見上げた屋根の色は、鮮やかなオレンジ系の色で装飾されている。
 いくつ部屋があるのだろうか、五階くらいまで並んだ窓には、レースのカーテンがかけられているのが見て取れた。
「ほら、こっちだよ」
 こんな状態でなかったら、ゆっくりと街並みを眺め回していただろう。でも、今は気持ちの落ち着けどころがなくて、腕を引っ張るモディナのなすがままになっていた。
「邪魔するよ」
 水瓶を抱えた女性の彫像が入り口の両脇に置かれた、ベージュ色の建物の平たい屋根には、半円形の煙突のようなものが沢山突き出ていて、白い湯気が立ち上っていた。
「はい、らっしゃい……。おや、モディナじゃないか。ジェナスから戻ったのかい」
 鈍く緑色に光る大きな石台の向こう、小さな椅子に腰掛けた恰幅のいい中年の女が驚いたように唇を尖らせた。
「まあね。ちっと身体を休ませたいんだけれど、開いてるかい?」
「ああ、ここんところ、閑古鳥でねぇ。王宮の検問のせいさ。まったく、いちいち荷を調べられたら、商売人が逃げてっちまうよ」
 モディナはふんふんとうなずくと、鈍く光る金属の札を受け取った。そして、ジャーティアの方を振り向いた。
「行くよ」
「あ、あの……。ここは……」
 緑色の絨毯が敷き詰められた広いホール。立ち並んだベージュの柱の向こうには、幾つかの扉が見て取れた。高い天井、縦長の窓に掛けられた草が絡まり合う模様のカーテン。装飾は質素だったが、どこか特別な雰囲気が漂っていた。
「ありゃ、バルーの子じゃないかい。いいのかい、モディナ……」
 立ちあがってジャーティアを見下ろした大きな顔に、モディナは首を振った。
「今日はそう言うんじゃないのさ。ここの霧浴は最高でしょ。この子にも浴びさせてあげたくてね」
「ふ〜ん。ま、そんな子供じゃ、違うとは思ったけれど」
 モディナは唇に苦笑いを浮かべた。交わされた言葉の意味がわからず、ジャーティアは眉を潜めた。とにかく全てが初めての状況で、どんな態度を取っていいのかわからない。だいたい、モディナに対して、気持ちをどう整理すべきか迷うばかりだった。
「ほら、こっちだよ」
 幾枚かの銀貨を投げ出したモディナに言われるまま、狭い扉をくぐった。石造りの棚には黄土色の籠が置かれていて、奥にはもう一つ、重そうなベージュの石扉があった。
 入り口の扉を閉めると、モディナはおもむろに着衣に手をかけて、手早く脱ぎ捨てた。
 な、な……。
 目を丸くして固まっていると、麻色の下着もあっという間に取り払い、籠の中に放り込んだ。
「なにやってんの。そのまま入るつもりかい?」
「え、でも、どういう……」
 モディナの一糸纏わぬ豊かな身体をまともに見上げる事ができず、ジャーティアは俯いたまま手を前で組み合わせていた。
「お風呂。知らないのかい? ラフレアに来れば、誰でも来るところさ」
 地理の講義が頭に浮かび、ジャーティアは心の中でうなずいた。フルエ川の豊かな流れ。そして、地下から噴出する温かい水。
 のろのろと服を脱ぎ始めると、モディナは籠の横に畳まれた緑色の布を指差した。
「それを巻いてくればいいから。恥ずかしければね」
 そして自分は何も身に着けず布を手に持つと、くびれた腰と豊かな双丘を左右に振りながら、奥へと向かっていった。
 織布を丁寧に畳み、胸から腰までしっかりと布を巻きつけると、ジャーティアは奥の扉の取っ手に手をかけた。思ったよりずっと軽く内側に開くと、その瞬間、異様な熱気が肌に絡みついてきた。
 石造り、縦長の部屋の中は湿気と煙で満ちていて、ほとんど視界がきかない。両側に長いベンチのようなものがあって、その上の壁の穴から、蒸気らしきものが噴出してきていた。
 モディナは、ベンチの真ん中に足を組んで座ると、腰の辺りに緑の布をかけて、額の汗を拭っていた。
 凄い熱気……。肌が押されるみたいだ。
 反対側のベンチに腰掛けると、太腿に熱が伝わった。石造りの出っ張りの下にも、熱い空気が流れているようだった。
「ああ、気持ちいい」
 モディナが肩をぐるぐると回すと、逸らした視線の端でも、豊かな乳房が大きく揺れるのがわかって、目の置き場所に困ってしまう。
「最近、疲れが溜まりやすくてねぇ。二、三年前までこんなことはなかったんだけど」
 ゆっくり立ちあがると、モディナはジャーティアのいる側に歩んできて、隣に腰を下ろした。旅の最中にも何度か感じた、匂い立つ香りが鼻腔に届き、ジャーティアは下を向いたまま膝に手を置いていた。
 同性とは言え、裸で狭い空間を共有したことなど初めてだった。そして、モディナの醸し出す雰囲気は重さと優美さを兼ね備えていて、ジャーティアの意識の指先は、この女性が隊商の女主人とは何か別の顔を持っている事を探り出さずにはいられなかった。
「あたしはさ、どうにも嘘がつけない性格でね」
 温かい霧に包まれた空間を見上げると、モディナはざっくばらんに話し始めた。
「構えて話すのが苦手なのさ。なんか、堅苦しくてね。この間は、ちっときついこと言ったけどさ、ジャーティア。どうも、あんたは若い頃のあたしに似てる気がしてね。真っ正直で、不器用でさ。そのくせ、何にでも首を突っ込まなきゃ気が済まない。……決めつけられると、嫌かい?」
 ジャーティアは首を振った。捉えた意識の指先が、モディナの言葉が真摯なものだと伝えているせいもあった。そして、不思議なほどに明確に感じられるモディナの心の内が、あのこと以来取っていた自分の態度が、ただの経験不足から出た不安の裏返しだったのだと、強く示唆していた。
 そう、全部が綺麗にはいかない。モディナさんは悪い人じゃない。商売を拒否する事で、あの隊商の男の人達が路頭に迷うなら、それこそ独り善がりな行動になってしまう。
「……ごめんなさい、モディナさん。凄く良くしてもらったのに、失礼なことして」
 モディナは微笑むと、ジャーティアの肩に自分の腕を軽くぶつけた。
「いいや、あん時あんたが言った事は本当さ。麻薬なんか取り引きして生きてるあたしらは、決して褒められた人間じゃない。たとえそれが、たいして害のないものでもね。でもさ、あいつらの子供を飢え死にさせるわけにはいかないじゃないか」
 ジャーティアは俯いていた顔を上げた。横を向いて見上げると、大きな黒い瞳が、湿気で濡れた顔の中で優しげな光を湛えていた。もう、所在のなさは無くなっていた。
「『旅』の子はさ、世界中のいろいろな事を見聞きしなきゃならないんだろ?」
「うん」
 その時初めて、ジャーティアはモディナの豊かな胸の隆起の始まり、鎖骨の下辺りに、赤い痣のようなものがあるのに気付いた。矢尻に円形とバツ印の楔が打ちこまれたような図形。
「あ、わかったかい。これは、あんまりいい印じゃないのさ。あんたがもし、ロイセリアまで行く事があったなら、意味がわかる日もあると思うけれどね」
 そして、一つ息をついた。
「クロニア共和国の出だって言ったよね、ジャーティア」
「……六才ちょっとまで。もう、ほとんど覚えてないんだ」
「あそこも貧しい国だけどさ。多分、貧しい事にかけちゃ、ロイセリアよりね」
 ジャーティアは、麦の粥を分け合って食べた幼い日の朧げな記憶を手繰り寄せていた。
「ただ、クロニアは、貧しくても人の誇りを失わない立派な国だ。ロイセンの民は、心まで力に売っちまった哀しい国だからね。ガーゼインって男を知ってるかい?」
「少しは……」
 軍事専制国家、ロイセリア帝国の王。偏狭な世襲制によって続く、同じ名の帝王の系譜。
「ディオニーン、モラーンに続く第三の帝王。馬鹿な話だろ、あそこにはあるのは、どうしようもない身分制度と、抑圧された密告社会なのにさ。
 いまの四代目ガーゼインは、先代より遥かに機知に富んだ男だ。南への野心も強い。あいつが王位についてから、マジーリアとの国境では小競り合いが続いてる。マジーリアもだてに唯一神ウムを祭る宗教国家じゃない。全面的な戦争になるかどうかはわからないけれど、常に国境線じゃあ、傷ついた人達が後を絶たないってわけさ」
 モディナは流れ落ちる汗を、布で拭った。ジャーティアの額にも汗が滲み、手足がじんわりと痺れる感触が広がり始めていた。
「もしかして、モディナさんは、生まれた場所に戻れない……?」
 小さな声で反応をうかがうと、モディナは乾いた笑い声を立てた。
「まあ、そんなところさ。言いたい事を先に言われちゃったな。賢いね、あんたは。やっぱり『司道師』になる子だ。そう、別にあたしが特別じゃない。大陸中にそんな人間が山ほどいるのさ。マジーリアだって、大なり小なり、ロイセリアと似たようなもんだ。……ラフレアだってね……」
 最後の言葉は小さくて、ジャーティアの耳には届かなかった。
「そんなことを、あんたに言っておきたかったのさ。世界はそんなに落ちついたところじゃない、時にはしたたかにやることも必要だってね。どうだい、『旅』の糧になったかい? 火をおこす手間と、絶体絶命のピンチを救ってくれた礼には足りなかったかな」
「ううん」
 ジャーティアは首を振った。やっぱり、モディナさんは素晴らしい人だった。みんな、何かを抱えて生きてるんだ。頑張って、生きていこうとしてるんだ。
 そして、汗で濡れた額を拭いながら、モディナの目を見つめて言った。
「ありがとう、モディナさん。ほんとうに、ありがとう」


 隊商との別れは、至極明るいものだった。ラジェスの葉も含めた馬車四台分の荷は、最近の検問による品不足もあって、予想以上の高値で売れたようだった。
 手綱を握る男達の誰もが明るい顔で、町外れで向かい合ったジャーティアとモディナを見下ろしていた。
「じゃ、元気でやるんだよ。ジャーティア。また、どっかで行き会うこともあるかもしれないしね」
「うん。また会えたらいいね」
 今日は緑色の服を着たモディナは、傾きかけた日を見上げてから、名残惜しそうにため息をついた。
「さ、もう行かないと。隣町につく前に日が暮れちまう」
 と、麻の繋ぎに緑のチョッキを羽織ったジャーティアの小さな身体が踊り、モディナの首筋に飛びついた。
 そして、頬の辺りに軽く口付けた。
「ありがとう、モディナさん。大好きだよ」
 瞬間、呆然とジャーティアを見つめるモディナ。足もとの石畳で、二人の様子を見上げていたリスタンが、クックッと喉を鳴らした。
「……つらいなぁ、モディナ。大丈夫か」
「うるさいよ、変に頭の回るミティアンは嫌いだね」
 それでも、リスタンの笑いは止まらない。ジャーティアは、視線を斜め上方に逸らしたモディナを不可思議そうに見上げた。
「あたしもだよ。あんたと一緒で楽しかった」
 すぐに笑い顔に戻ると、モディナは荷馬車の手綱を握った。
「さ、行くよ」
 軽く綱で打たれた黒馬が、力強い足取りで荷車を引いた。
 轍の音が響き、それぞれが手を振りながら、四台の荷馬車は街を出て行った。
 緑茂る森の影に、黄土色の幌が消えて見えなくなるまで、ジャーティアはじっと見送っていた。そして大きなため息を一つつくと、空を見上げた。
「な、ジャーティア。その格好してると、ほんと、どっかの小間使いみたいだな」
 麻の繋ぎを着たジャーティアは、眉をひそめて小さな犬鼠を見下ろした。
「しょうがないでしょ。いつもの織布、宿に干してきたんだから。だいたい、なんでこんな時にそんなこと言うのよ」
「人が感傷にふけってると、茶々をいれたくなるのさ」
「……悪人」
「人じゃないよ、俺は」
 ジャーティアは呆れたように振り返ると、街の方角へと踵を返した。リスタンは、小さく喉を鳴らすと、ジャーティアの肩によじ登る。
「乗らないでよ!」
「楽なんだよ」
「あんたみたいな偏屈に顔の横にいて欲しくない」
「毛玉だと思えばいいだろ」
「しゃべる毛玉なんていない」
「じゃあ、黙ろう」
「乗らないで!」
「………………」
「変わり者…」
「………………」
「もう、しょうがないなぁ……」  

章選択に戻る 前へ 次へ