第三話 王宮騒動―ラフレア王領にて


 粗末な木のテーブルに向かって座ったジャーティアの背中には、黄土色の壁に四角く切られた小さな窓があって、裏通りからの湿った空気がじんわりと忍び込んできていた。
 ところどころが煤けた天板の上には、マーブルカラーの毛並みの小動物がちょこんと乗って、欠けた陶器の椀の中に首を突っ込んでいた。
「それ、おいしい?」
 長い舌を突き出して、土色の粥のようなものを丹念に舐め取る様子に、突いた両手に顎を乗せたジャーティアは、小さくため息をついた。
「食べられるもんは、何でも食べないとね」
 犬に似て突き出た鋭い歯の並ぶ口元から、少しからかったような甲高い声が返る。
「もっといい宿にしてもよかったのに……」
 四方が五、六歩幅ほどしかない、黄土色の壁に囲まれた狭い部屋を見遣る。片隅には、汚れた毛布だけが申し訳程度に置かれた、ベッドらしき長方形の台。後は、今座っている壊れかけた木のテーブルと椅子、それに、入り口に置かれた手水用の黒い瓶。――それが、初めて『お金』を払い宿泊した部屋の全てだった。
「最初っから贅沢してどうするってぇの。これで充分。『世界のあまたの場所に立ち、あまたの人を目にし、言葉を受け取る』だろ」
「……うう〜ん、確かにそうなんだけど」
 ジャーティアは彫りの深い眼窩の上、整った細く黒い眉を僅かに歪めると、入り口の木戸を見つめた。
 細長い木のかんぬきは、どう控えめに見てもぐらついていて、外から強い衝撃を受ければ、扉は簡単に開いてしまうだろう。
 はあ……、こんなこと、バルーでだったら心配するようなことじゃないのに。
 およそ、家々に扉や鍵と言うものがなかった魔導都市のことを思い浮かべ、反射的に首を振った。
 そんなこと、考えていてもしょうがない。今は、街にいるのだもの。
 モディナに連れられて歩いた時、圧倒される程の大きさを感じたこの街も、リスタンによれば『ラフレアの玄関』でしかないと言う。そして、白の宮殿が聳える肥沃なる大平野の中心部までは、まだ馬車で丸一日はかかると。
 平たい皿の上、乾いた茶色のかたまりを手に取ると、口に放りこんだ。到底食物とは思えない、紙を噛んでいるような味がする。これに比べれば、最初は違和感があった隊商の鍋料理の方が、少なくとも味わいという点では遥かに勝っていた事がわかった。
 その料理ですら、バルーでは当たり前のように食べていたサリナ牛の乳粥やチーズに比べれば、なんて味のないものなんだろうと感じていたというのに。
 モディナさんたちに、少しでも恨み言なんて言うんじゃなかったなぁ……。
 粉っぽく黄がかったミルクの"ようなもの"で、パサパサに乾いた最後のひとかけを流し込むと、ジャーティアは木椅子から立ちあがり、窓の外へと意識を移した。
 木の格子戸が外側に開き、上半身の幅ほどに切られた窓からは、夜の闇に落ちた裏通りの路地が見えた。
 部屋のある三階から見下ろすと、レンガ造りの建物に挟まれた石畳からは、一層じめじめとした印象を受ける。光らしきものがほとんどないせいもあって、粗末な窓々からもれる明かりだけが、じんわりと狭い路地を照らし出している。
「ラフレアだって、街の裏の方ならこんな感じなのね……」
 ジャーティアが小さく呟くと、口の周りをペロリと舐めたリスタンが、後足でふさふさと茂った毛並みを掻き上げた。
「そりゃ、どこだってそうだろ。おかしな事に感心してるのは勝手だけどさ、俺は先に寝るよ。ったく、明日は『宮殿』行きの馬車か何かを探さにゃならねぇんだから」
 と、振り返った視野の中、入り口の扉の下辺りで小さく丸まると、ほどなく聞き慣れた寝息を立て始める。
 そのあまりの素早さに、何とも所在のない寂しさを感じる。リスタンは確かに頼りになる道連れだけれど、形容し難い不安にも似たこんな感情を分かち持つ、「仲間」という訳にはいかないとも思う。
 しばらくまんじりとしていたジャーティアは、テーブルの上に無造作に置かれた茶の皮袋を開くと、手を突っ込んだ。そして、一番奥にしまわれた小さな魔具を取り出した。
 上腕の長さほどもない、灰色に鈍く光るワンド。
 先端は歪んだT字になり、細くなった根元のあたりには青く円形に光る石が填め込まれている。
『必ず、戻ってくるのだよ。どんなことがあっても』
 太い眉の下、深く澄んだ緑色の瞳が思い浮かんだ。
 こんな大事な魔具まで携えてくださったマグベダー様。何の使い方も教えては下さらなかったけれど、とても力のあるものであることだけはわかる。だって、握った手が、こんなにも痺れを感じて、心臓の鼓動が乗り移ったようだもの……。
 ジャーティアは目を閉じると、大きく息を吸った。小さなワンドから、手の平を通じて流れ込んでくる穏やかな脈動。
 暖かさが急速に身体中に広がると、暗く湿ったみすぼらしい部屋の空気はたちまち遠ざかり、清く張り詰めた気に囲まれていくように感じた。
(ゆっくり、一歩一歩と、だよ……)
 数え切れぬほどの図書に囲まれ、オレンジの輝石のおぼろな光に照らされた部屋の眺めと、懐かしく穏やかな内声が眼前に迫り、いまそこにあるように心に触れた。
 え。
 閉じた目蓋の裏に、青い光を見た気がして、慌てて目を開ける。
 しかし、手に持ったワンドには何の変化もなかった。ただ鈍く灰色に輝き、はめ込まれた宝石も冷たく青い光を放つばかりだった。
 でも、今、マグベダー様のお声が聞こえた気がした……。
 それは幻だったのかもしれない。でも、穏やかな暖かさは確かに身体に満ち広がっていて、ジャーティアは少し唇を寄せると、目蓋を少し落として、視線を緩やかに散らした。
 当てのない思いを投げ、今度はすぐに戻ってくると、手の中のワンドをゆっくりと皮袋の中に戻した。
 そうだ。今、何刻限くらいだろう……。
 振り返った窓の向こう、立ち並ぶ建物に遮られた狭い空間には星さえも見えず、まして月がどのへんにあるかなど、推し量りようもなかった。さっきまで聞こえていた人の気配がすっかり途絶えたことから、ある程度夜が更けていることが推測できた。
 体感で測れば、通冥の刻――最も夜が深い刻限が迫っているように感じた。
 リスタンの言う通りだ、わたしも、寝なきゃ。
 隣の部屋の物音や気配、壊れそうな入り口のかんぬき。湿って淀んだ空気。
 気になっていた全てが些末なことに思えて、再び心が前を向いていくのがわかる。
 麻の繋ぎ姿のまま、腰紐だけを外してテーブルの上に置くと、固いベッドの上に横になった。汚らしく見えた土色の毛布も、手に取ってみれば毛足が長く柔らかい生地で、身体にかけると暖かすぎるくらいだった。
 今日も、いろいろあったなぁ……。
 横になると、急激に眠気が襲ってくるのがわかった……、けれど、その瞬間。
 頭の奥底を突き上げるような息遣い。
 ただならぬ焦りの感情。
 伸ばすつもりもなかった意識の指先が、捉えてしまっていた。
 ……な、何?
 飛び起きて、窓際に走る。
 そして次に捉えたのは耳。石畳に響く、複数の足音だった。
 ただごとじゃない。だってこの感じは、追い詰められた……そう、恐怖の感情。
 反射的に窓の横に身を隠すと、響いてきた足音の源を眼下に覗う。
 折れ曲がった道、建物の影から見えてきたのは、小さな一つの影だった。そして、その影を追う複数の大きな影。すぐそこにあるかの息遣いと共に、この建物のすぐ下を駆け抜けていく。
 後ろで縛られた灰色、いや、銀といってもいいほどの頭髪に、飾り気のない茶色の皮繋ぎ。体格からして、さほど自分と変わらない年頃の少年とわかった。
 そして、逃げる少年を追う、二、三……五人の姿。体格も遥かにまさった、屈強とも言えるほどの体格の男たちだ。
 男たち全ての意識から届いてくる、殺意にも似た凶暴な意志。捉えただけで、ジャーティアは後頭部を鈍く叩かれたような衝撃を感じていた。
 裏通りを走り抜ける一団は、あっという間に背中を見せ、路地の奥へと消えゆこうとしている。
 まずいよ、どうしよう……。
 反射的に入り口の方を振り返ったが、リスタンは身体を丸めて眠りに落ちている。今、階段を下りて出て行っても、見失ってしまうに違いない。
 窓の下に広がる、三階分の空間を見下ろした。
 なぜか、今なら簡単にできそうな気がした。
 ……よし!
 狭い窓から乗り出すと、身を踊らせた。
 ――落ちる感覚は一瞬だった。すぐに周りの空気が緩やかさを取り戻すのがわかる。最終試験以来、久しぶりに感じる浮遊感。自分の身体が重さのほとんどない羽根に変わり、地面から引きつける見えない力に均衡して、中空で止まるのがわかった。
 ジャーティアの細い身体は、二階の窓辺りで完全に宙に浮いていた。
 あの人達は、どこ?
 初めて意識的に『浮遊』の状態を作ることができた感慨に浸っている暇もなく、さっきの少年と男たちが走り去った方角を探る。
 気配が月の輝く風上の方から漂ってくるのが、すぐにわかった。
 不思議だった。
 人の意識を捉えることは、全ての科目で到らぬ部分が多いジャーティアにとって、唯一得意とする領域ではあったけれど、見知らぬ人の意識をこんなに簡単に追えたことはなかった。
 あ、ダメ。もう……。
 真っ先に捉えたのは、少年の意識だった。さっき感じた焦りと恐怖はさらに昂まり、今まさに男たちが、彼を捕らえるばかりになっていることがわかる。
 飛ぶ! 飛んで!!
 ――身体の周りの空気を、後ろへ押し下げるんです。
 実感がまるで伴わなかった院での教えが、意味を持って意識に形を取った。
 斜め上方に一気に舞い上がると、眼下では狭い通り沿いにひしめく建物の屋根が、暗い茶の波のように広がっていた。
 あそこだ!
 辻を三つほど先、家並みに隠れて見えるはずもない場所から、確かにはっきりとした意識を感じる。
 ……行って!
 屋根の上に出てみれば、バルーと同じ月と星に照らされた真夜中に蒼く輝く空。束ねて編んだ黒髪をなびかせた褐色の肌の少女は、羽ばたく鳥よりも早く、夜の密やかな空気を裂いて滑空した。
 ほとんど光がなく、一層狭い路地の上空についたのは、一瞬の後だった。
「……やるなら、やってみな」
 振り返った白銀髪の少年の背中には、黒く湿った壁。抜け道はどこにもなかった。
「苦しまずに逝かせてやるよ、食わせものの坊ちゃんよ」
 一際体格の大きな男が、皮のチョッキから突き出た太い腕を腰に回して、切っ先の鋭く尖った細い短剣を構えた。周りに並んだ髪の短い男達も、それぞれの眼の奥にいたぶるような暗い光を帯びさせると、少年を囲む輪を一歩狭めたところだった。
 初めて目前にする切迫した刃物沙汰。ジャーティアは、上空五身長ほどの場所で状況を見下ろしながら、どうすべきか激しく逡巡していた。
 待ったなしの状況。即座に一つの方法を思い付いてはいたが、非常に困難であることには間違いなかった。
 二つの呪法を同時に用いる事。しかも、高度で、方向性の異なるものを。司道院の教授にだって、そうはできる人がいない技なのに……。
 ううん、でも、やらなければあの子は殺されてしまう。このまま見逃すことなんて、到底できるわけがないもの。――そうだ、今ならできる気がする。身体の奥に不思議な力が漲っている、今なら。
 ジャーティアは地面と平行に空中で浮かんだまま、広げた手の平を額の前に掲げ、少し離して重ね合わせるようにした。そして目を閉じ、短剣を構えた男に意識の指先を伸ばした。
 ……大丈夫。これだけは、得意だったはずだもの。
 しかし、衝撃は想像以上だった。植物や、小動物に同調するのとは全く違う、うねる大波のような感覚。
 意味もわからない、濁水のようなうねりが、心の中を満たし、身体を締め付ける。
 血。暴力。狂気にも似た笑い。酔い? 裸の女性。蔑み。怒り。しかし奥底には、白く澄んだようにも見える欲求。年老いた女性の顔……。
 ダメ!!
 ガクンと身体が揺れて、僅かに下へと身体が落下する。済んでのところで立て直すと、男の心の奥底を握り締める。
 振り向くの! 振り向いて!
 掴み取ってみると、思ったほどの抵抗はなかった。身体から思わせる屈強さは心の内にはなく、なんとか行動を促すことができた。
「お、おい……」
 後ろで構えていた男達に動揺が広がる。構えた短剣をそのままに、震え始めた男は少年に背を向けようとしていた。
 少年の表情が、驚きに変わった。繋がった眉間から裾へと太さを増す髪と同じ色の眉が歪み、眦の少し下がった大きな目が見開かれた。
「な、ど、どうなってんだよ! 俺の身体!」
「て、てめえ、裏切る気だな!」
 逆に短剣を突き出された男たちの一人が、怒りの叫びを上げた。
 ……もう、少し。
 男の心が抵抗を始めた。噛み締めた顎が震え、寒気を禁じえない淀んだ眺めが、大水であふれた川の濁流のように激しく行き過ぎる。
 一歩、進んで。もう、一歩。
「て、てめえ!」
 別の男が叫び、懐からナイフを出した。残りの二人も、顔を見合わせる。
 少年を囲んでいた輪が少し広がり、一身長ほどの空間ができた。
 今だ!
 意識の指先を離し、身体を滑空させようとした時、さっきまで身体に溢れていた力が、急速に消えていくのを感じた。二身長ほども下へ落下し、男たちの頭が顕わに見える場所で停止する。
 ダメぇぇ!!
 そのとき、少年が自分の存在に気づき、束ねた髪の中、瞳が更に大きく見開かれるのがわかった。
 黄、色の瞳……。
 自分とさほど変わらないだろう年の頃。顎の張った形の良い顔の稜線。額を染めた青く丸い点。そして、月の光を思わせる黄色の瞳。その表情を捉えた一瞬、ひどく懐かしいような感覚が胸を満たし――それは、今のことではないような気もした――、消えかけていた力は、辛うじて源を失わずに済んだ。
「な……」
 空中から落ちる羽根のように、カーブを描きながら少年の前に着地すると、手を伸ばした。
「早く! 手を掴んで!」
 頭半分ほど身長の高い少年を背にして身体を寄せると、初めてジャーティアの存在に気付いた男たちが、どよめきながらこちらに注意を戻した。さっきまで操っていた男も、唐突に自由になった身体を見回した後、凶暴そうな目をくわっと見開いて、ジャーティアの身体を眺め下ろした。
「あ、間違いねェ!」
「な、なんだよ」
 再び剣を戻した男に、不信混じりの声がかかると、がらがらとした声が響いた。
 その声に反応して、未だ心の中に残る男の意識の残像が、背中に悪寒の粟立ちを作りつつよぎった。
「こいつだ! 俺を操りやがって!」
「……おい、あの腕輪! バルーの魔女だ」
「バルーの魔女……」
 男たちの内、気の弱そうな二人が怯み、後ずさる。
「手、しっかり握ってて」
 壁に後ずさりながら、小さな声で呟いた。思ったより遥かにがっしりとした手が、力強く握り返してくる。
 大丈夫。まだ、力は残ってる。
 初めて自由に飛べた内実を思い出しながら、今度は手を繋いだ二人分、感じ取られた周辺の空気を押し出す。
「いいや、このガキ、まだ見習いだ。『旅』の途中の……」
 ……行って!
 身体の奥で、ドン、と音が響いた気がした。
 男たちの顔が流れる風のように消え去り、黒い壁も瞬時に消え去る。
「お、おい!」
 少しハイトーンの声が、繋いだ手の向こうで聞こえた。
 ふと見下ろせば、一枚の絵のように小さくなった街よりも、暗い空に輝く月の方が遥かに近く感じる場所に舞い上がっていた。
「ご、ゴメン。二人だと、加減が……」
 言葉を口にしようとした瞬間、一気に力が抜け、急降下が始まった。
 だ、ダメだってぇ!!
 意識の奥底に渾身の力を込めて、中空に停止した。後は、ゆっくりゆっくりと、見知らぬ建物の屋根の上まで、何とか降下を終えた。
 薄く焼かれた煉瓦が積み重ねられた、傾斜のかかる茶色の屋根。裸足の足の裏に、ざらざらとした感覚が触れた瞬間、ジャーティアはその場に倒れ臥した。
「お、おい!」
 背中から切迫した声が響き、肩に手が添えられるのを感じた。
「だ、大丈夫。ちょっと、疲れ、が……」
 両手を付くと、首筋から汗がにじみ、煉瓦の上にぽたぽたと落ちる。
 心臓が激しく鼓動し、息ができない。
 最終試験が終わった時とまったく同じ、身体全てから力を搾り取られ、気が遠くなっていく忘我感。
「全然大丈夫じゃないみたいじゃないか、あんた」
 ざっくばらんだけど、嫌な感じじゃない……。でももう、声しか聞こえない……。
「お〜い」
 聞き慣れた甲高い声が、小さく響いてきた。もう、リスタン。何やってんのよ……。
 濡れて冷たい感触が、頬に押し当たっている。あ、わたし、完全にへたりこんでるんだ。ダメだなぁ、大きな呪法を使うと、こんな風になっちゃうなんて。
「たく、勝手に空を飛んだら付いてけないだろうが。この無茶なお嬢さんは」
 もう、また憎まれ口ばっかり……。
 あ、でももう、目を開けてられない。
「み、ミティアン! ロイセンの間諜か! くそっ!!」
「何言ってんだ、このお子様は?」
「何ぃ、お、お子様だってぇ」
 ミティアン……確か、モディナさんも、そんなこと……。
「俺は、このお嬢さんの連れだよ。ミティアンと見りゃあ、スパイ扱い。その思考法は……」
 リスタンの声が耳元で聞こえる。
 でも、ダメだ。もう、起きていられ、ない…………。
 甲高い響きと、ハイトーンの声のやり取りを他所に、ジャーティアは傾斜した屋根の上、全ての手綱を離して、深い眠りの世界へと落ちていった。  

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