最初に目に入ってきたのは、所々にこげ茶色の染みが滲んだ土色の天井だっ
た。
 最終試練に成功したんだっけ?――一瞬浮かんだ錯綜した記憶はすぐに打ち
消されて、今、自分がどこにいるのかを徐々に認識し始める。
 ジャーティアは、申し訳程度に掛けられた麻の上掛けの下で息を吸い込むと、
小さく吐き出した。
 軽くあたりを見回すと、狭い部屋の中には誰もいないことに気付く。堅いベ
ッドの上に身体を起こそうとして、入れかけた力を抜いた。まるでサリナスの
湖の底に沈んだかのように、周囲の空気が重い。
 ぜんぜんダメだ。試練の後で目を覚ました時とおんなじ。
 そこは間違いなく、あの宿だった。ひびの入った土の壁、低い天井、汚れで
黒い斑になった木のテーブル。そして、壊れかけた木のかんぬきが不安げな入
り口の扉。
 四角に切られた小窓からは、僅かに褪せた陽の光が注いでいる。たぶん、夕
刻に近づいている頃合いだろう。
 わたし、どこで気を失ったんだっけ……。
 ジャーティアは朧げな記憶の糸を手繰り寄せて、月と星の輝きが間近にあっ
た、昂揚した一瞬に辿り着いた。
 そうだ、飛べたんだ。あんなに高く、街より空が近い場所まで。そして……。
 その後の記憶が、定かでなかった。湿気と冷気が混じった夜の空気、頬に当
たるざらざらとした地面の感触、リスタンの甲高い声。
 だいたい、わたし、何であんなところで倒れたんだっけ――ようやく一番根
っこのところへ想いが巡った時、黄が鮮烈な色を引いた。
 夜の星の輝きを写し取ったかの瞳。
 続いて、束ねられた白銀色の髪と少し顎の張った顔の稜線が浮かび、合わさ
って一つの表情を形作った時、抜け落ちていた時間が元に戻るのがはっきりと
わかった。
 そうだ。わたし、何で!
 ベッドとは名ばかりの木台の上、上掛けを払いのけて身体を起こすのと、部
屋の木戸がガタガタと揺れるのはちょうど同時だった。
 身構えてテーブルの向こうを見つめると、戸の下方、床との間のわずかな隙
間に白と黒の毛が覗き、押し出されるように小さな犬鼠が姿を現した。
「リスタン……」
「お」
 身体を震わせて、撫で付けられた毛皮を元に戻すと、リスタンは円らな黒い
瞳をジャーティアの方へと向けた。
「目が覚めたかい。……にしても、この床の汚ねぇこと。擦り付けた日にゃ、
俺の自慢の毛皮が……」
と、ドンドン、と何者かが外から戸を叩く音が響き渡る。
「……はいはい、わかってるって」
 黒と白のマーブルカラーが飛び跳ねると、鉄の押さえからかんぬきが外れ、
すぐに扉が開いた。
「たく、せっかちな坊やだな。こんな狭いとこを通らされる身にもなれっての」
「何だい、急げってったのはあんたの方だろう。だいたい俺は坊やじゃない、
って何度言えば……、」
 戸を後ろ手に閉めながらリスタンを見下ろしていた白銀の髪が、気配に気付
いたように大きく振り上げられた。
「あ……。起きたんだ」
 太く、端が僅かにいかった眉の下、綺麗な弧を描く目の奥に、軽い安堵の色
が浮かんだ。そして、少し皮肉っぽく歪んでいた口元が、優しげに緩むのがわ
かった。
 間違いなく、あの時の少年だった。
 しかしジャーティアは、口を窄めて上目遣いに頷き、答える言葉を捜しなが
ら、その姿に違和感を覚えている自分に気付いていた。
「大丈夫かい? あのまま起きないんじゃないかと思ったよ」
 黄土色の皮のつなぎに茶の腰紐、ジャーティアより一回りは大きな身体が、
テーブルの横まで歩を進めて止まった。
 麻の繋ぎを着流して上半身を起こしたジャーティアを見下ろし、深くはない
眼窩の中で茶色の瞳が様子を問い掛けるように寄せられて。
「何黙ってんだよ、ジャーティア。あんたが助けた坊ちゃんだろ」
「だから、坊ちゃんじゃないっての。俺にはダレンって名前があるんだから。
ホントに口の減らないミ……じゃない、犬鼠だ」
 テーブルの上で後ろ足立ちをしたリスタンに眉を顰めると、銀髪の少年はも
う一度ジャーティアの方を向いた。
「よろしく、司道師の見習いさん。リスタンからあらかたのことは聞いた。俺
はダレン。ちょっとしたお遣いで、ラフレアの街に戻るところだったんだ」
「……こんにちは」
 ゆっくりと口を開くと、ジャーティアは正面から少年の顔を見据えた。
 そうだ。あの瞬間、鮮明に刻まれた黄の光。瞳の中心にあったのは、月の光
の照り返しだったのだろうか。そして、額に浮かんだ青い印も……。
 それでも胸の前に手を組み合わせて、緩やかに頭を下げると、ダレンはにっ
こりと笑って木椅子に腰を下ろした。組んだ足先がベッドの上で伸べた下肢の
すぐ傍に近づいて、ジャーティアは反射的に膝を抱え込んだ。
「はは、バルー式の挨拶だ。初めて見た」
 屈託のない笑顔だった。丸みを帯びた顔の稜線、悪戯っぽさを秘めた口元。
おそらくは自分とさほど変わらない年頃のこの少年に、なぜかほのかな親近感
を覚えて、伸ばしかけた意識の指先を引っ込めた。
「……あなたは、ラフレアの人? そういう色の髪って、ラフレアの人に多い
って勉強した。王家の一族とか」
「そう。ラフレアじゃ珍しい色じゃない。今の王妃さまも、輝くみたいな銀髪
だしね」
 ジャーティアの質問に直接には答えず、ダレンは面白そうに茶色の瞳を輝か
せて、テーブルの上に肘をついた。
「でさ、ジャーティア」
 甲高い声が間に入ると、
「お嬢さんが寝てる間、この坊ちゃんと話し合ってね。行く道が同じなら、ラ
フレアの街まで同道しようってことになったのさ」
「だから、坊ちゃんじゃ……」
「ちょっと待って、リスタン!」
 思いがけない相棒の言葉に、編み込んだお下げを振って視線を移すと、犬鼠
は深く切れ込んだ口の端を上げて、牙を覗かせた。
「悪いかい? 旅先は同じだって言うしさ、道連れは多い方が心強いだろ」
「そうじゃなくて。……急にそんなこと言われて、はいそうですかって言える
わけないじゃない」
「そりゃあね。でもさ、悪い話じゃないと思うよ」
 平然として応えると、リスタンは後足でふさふさとした首周りの毛をかいて、
気持ち良さげに目を細めた。
「あ、ああ、無理にっては思ってないんだ。ただ、俺もラフレアへの道は良く
知ってるし、助けてもらったお礼も兼ねて、と思って」
「そんなこと、言われても……」
 一つ小さな息をつくと、ジャーティアは右手のリングに指をかけながら、上
掛けがかかったままの膝を見下ろした。
 目覚めてから程はなく、まだまとまった思考の糸が紡げない。
 突然現れたラフレアの少年。確かに、悪い人ではないと思うけれど。
 ようやく実感を伴って蘇ってきた昨晩?の眺め。あんな風に男達に追われて
いる少年が、真っ当な旅を続けているとは考えにくい。無我夢中で助けたけれ
ど、それは、あれがのっぴきならない事態だったからだ。
「迷惑なら、さっさと退散するよ。ただ、ラフレアへの馬車は選んだ方がいい
んじゃないかな。中にはとんでもないぼったくりもいるから」
 無言で膝を抱え込んだままのジャーティアに、何事か口を開きかけたダレン
は、口を結び直して眉根を上げると、腰掛けていた椅子を立った。
「……わかった。でも、礼だけは言わせてよ。ほんと、助かった。あのままだ
ったら俺、あそこで命を落としてた。大事な届けものもなしになってたろうし
……、いや、これはあんたには関係なかったっけ。じゃあ、ジャーティア。あ
りがとう。あんたのこと、忘れないよ」
「キュゥゥ。もったいないねぇ。……司道師の願行」
 リスタンが呟く。ダレンは扉の横に置いたこげ茶色の布袋を持ち上げ、皮の
繋ぎの肩に廻して吊り下げると、戸を開いて出て行った。
 ――世界の全ての場所に立って、あまたの人々を目にし、言葉を受け取る。
 淡い紅色を浮かべた唇が鼻へと寄せられ、ジャーティアは決然と立ち上がっ
た。
「待って! ダレン」
 小窓から身を乗り出すと、狭い路地に足音を響かせ始めた後ろ姿に、頭上か
ら声をかけた。
「わたし、まだ駄目なんて言ってない。もう少し、話そう」
 顔を上げた銀髪の少年が、高い場所からでもわかる大きな笑みを浮かべるの
と、テーブルの上の犬鼠が小さく喉を鳴らすのは同時だった。

 二頭立ての黒毛馬が早足で引いていく荷車の後ろ、司道師への道を歩み始め
たばかりの少女と、新たに道連れになったラフレアの少年は、荷箱の上で丸く
なった人語を解する犬鼠を傍らに、路面と車輪の間でゴトゴトと響き上がる音
を聞きながら、広い空と大地を無言で目に映していた。
 平原は、彼方までもが鮮やかな新緑に覆われていた。
 丈の短い草の萌え広がりに、薄黄や紅の花々が所々で色を添え、遠くに見え
るこんもりとした広葉樹の群生には、鳥の群れらしきものが離れ集いを繰り返
している。
 空は抜けるほどに青く、涼しげな霞雲が穏やかな風に流されて、荷馬車がた
どる広い石畳を遥か地平の果てへと誘っている。
 緑と白、僅かに赤の添えられた織布に身を包んだバルーの少女は、かれこれ
一刻以上も口をつぐんだままだった。
 荷台後部の抑え板の下から茶色の布帯の巻かれた足を投げ出して、組んだ両
腕の上に顎を乗せると、細かな揺れに身を任せてぼんやりと景色を眺め続けて
いる。
 広いなあ……。
 さっきまでの憤りはいつの間にか霧散していた。遮るもののない頭上からの
心地良い空気に、ついに来るべきところへやってきた充足感が自然に湧き上が
る。今までの旅の何もかもが今日のこの一瞬のためにある気さえしていた。
 サリナスの山々からマルダウンの渓谷を渡り、一夜の宿と共に耳にしたディ
オニーンの逸話。高原と平原を結ぶ交易都市を旅立ち、モディナの隊商と共に
旅した数日間。そして、ラフレアの玄関口での別れと出会い……。
 バルーを旅立ってからずいぶんと時が経ったように感じていた。
 腕にもたれていた顎を離して空を仰ぐと、彫りの深い眼窩の中、暗緑色の瞳
を閉じた。
 もうすぐ、ラフレア王領の中心だ。司道院の授業で聞く度に夢見ていた『白
の宮殿』。世界に連なる五つの国々にあるどの街より美しく、豊かな場所。
『聖なる道』を体現する清き王宮都市。
 そうだ。ジシナーラも、真っ先にラフレアの王宮を目指すって言ってたんだ
っけ。
 自分より一年も前に『試練』を通過して旅に出た、亜麻色のお下げ髪の少女
の姿が脳裏を掠める。
 何処まで行ったかなあ。ジシナだったら、きっと今ごろマジーリアにも、精
霊の森にも、ううん、ロイセリアまで辿り着いているかもしれない。
 バルーに来て程ない頃から自由に空を飛ぶことのできた、同期一の才媛の端
正な顔を思い返した時、背中からハイトーンの声が響いた。
「……いい眺めだろ」
「あ、うん」
 振り返ると、側板を背中に足を投げ出した白銀の髪の少年が、茶色の瞳に少
し控えめな様子を浮かべてこちらを見つめていた。
「機嫌、直った? せっかく一緒してるのにさ、何にも喋らないままじゃつま
らないだろ」
「あ……、」
 半刻ほど前まで「絶対口なんてきくもんか」と息巻いていた自分を振り返る
と、所在ない恥ずかしさに頬が熱くなって、
「ごめんなさい、ダレン。わたし、ほんとにすぐ、かーっとなっちゃって。ど
こかに火がついちゃうって言うのか……」
「はは。確かに」
 ダレンは口の片端を歪めると、自嘲気味な笑いを返した。
「でも、俺が悪かった。女の子の年や容姿を軽々しく口にするなって、おふく
ろにも注意されてたんだ。でも、正直、納得したよ」
 あ、あれだ!――ダレンが勧めた『マセナ兄弟組合』の駅馬車は、ジャーテ
ィアの準備で出立に手間取った一行が街の東に立った時には、豆粒ほどの大き
さになって地平線に消えようとしていた。
「飛べるんだろ? あの速さなら、追い付ける。呼び止めてくれないか」
 ダレンの頼みに、あの夜の一瞬のままに、身体の周囲の空気を押し下げよう
とした。しかし、あれほど容易く動かすことのできたものが、指先ほども反応
を返さなかった。
 やり方は、間違っていないはずだった。身体を周囲から押し出すように、広
く意識の指先を広げて。
「ダメ。できない」
 大きく息を吐いたジャーティアに、ダレンがかけた言葉。
「ま、仕方ないか。いつもうまくできるもんじゃないんだなあ。まあ、バルー
の魔法使いって言ったって、あんたもまだ十才かそこらだもんな。まあ、なん
とかするか」
 そして、肩口ほどしかない黒い編み込みの頭をポンポンと叩いた――。
「……いくらなんでも、しっかりし過ぎてると思った。バルーの子に成長不、
じゃない、小さな身体の子が多いなんて、すっかり忘れてたよ」
 人差し指を立てて、少し顔を斜にした笑顔に、ジャーティアは唇から微かに
舌を覗かせて視線を落とした。
 飾り気のない言い方が胸に真っ直ぐ届いて、返す言葉が見つからなかった。
「まったく、この白黒毛玉、とんでもない食わせもんだ」
 皮履きのつま先で荷箱を蹴ると、立てていた指を、我関せず丸まって眠る犬
鼠に向けた。そして、揶揄するように尖らせた唇から短い息を吐き出す。
「一っ言だって、あんた……じゃない、君の年頃のことなんて言いやしない」
 眉を思いっきり顰めてリスタンを睨みつける表情が大袈裟で、クスクス笑い
が込み上げて止められそうになかった。
「もう……、ほんと、しょうがないひねくれ者よね」
「こいつらはこうなのさ。この犬鼠どもはね」
「へえ。リスタン達の仲間のこと、知ってるんだ」
 気持ちが軽くなって解けていくのが心地良かった。男の子相手に、こんなに
気楽に口を開いたのは、本当に久しぶりかもしれない。
「……ああ。北の方の種族さ。何処でも生きていける奴等だよ」
「北って、ラフレアの?」
「ううーん。ま、そんなところかな。数は多くないんだよ」
「ふうん……」
 ジャーティアは細かい寝息を立てるリスタンに目を移すと、一瞬、旅の道連
れの故郷に想いを馳せた。
 そうか。数が少ないんだ……。
「ジャーティア」
「なあに?」
 間髪入れずに掛けられた高い声に視線を戻した。
「ちょっと立ち入ったこと、聞いていいかい?」
「うん、いいよ。別に隠すことなんて、ないから」
「君は、どうして王宮に行きたいわけ? 何か特別な理由が?」
「ううん」
 ジャーティアはにっこりと笑って首を振ると、しばらく考えを巡らせた。そ
して、何一つ隠すところなく、正直に口を開いた。それは、『旅』に出るより
ずっと前から考え続けてきたこと。
「特別な理由なんて、何もないわ。あえて言うなら、ディオニーン様が打ち立
てなさった『聖なる道』を守る国を見たいと思うからなんだけど、それは、ど
こでも同じだもの。みんなが怖いと思う……、ううん、わたしも怖いと思うけ
ど、マジーリアだって、モディナさんの……あ、モディナさんて、この間まで
一緒だった優しい隊商の女の人なんだけど、そのモディナさんの言ってたロイ
セリアも恐ろしい軍隊の国みたいなんだけれど、それに、わたしが生まれたク
ロニアも、歩いていったら何ヶ月もかかるくらい遠い場所だけど、どこだって
行かなきゃいけない。
 だって、わたしは司道師にならないといけないから。そして、『旅』は、全
てを知る……ううん、そんなことは無理だけど、自分にできる限りを見るため
にあるものだから。
 だから、特別な理由、はないの。その時に行きたい、見たい理由はあるけれ
ど。
 でも、ラフレアには最初に行こう、って決めてたの。だって、今の世界の全
てはシャレア王国から始まったんだから」
 ジャーティアの言葉に肯いていたダレンは、軽く空を仰ぎ見た後で、太い眉
の端を穏やかに緩めて、静かな声で言った。
「そっか……。そうだったよな、バルーの魔……、司道師の旅って」
 そして、視線を落とすと、伸ばしていた肩膝を抱え込んで、小さな息をつい
た。
 ――そしてまた、轍を石畳に刻む音が戻ってきた。
 少し考え深げに言葉を止めた新しい道連れの表情を見つめながら、ジャーテ
ィアは控えめな調子で口を開いた。
「……ね、ダレン。わたしも聞いていい?」
 尋ね返すことが当たり前に思えた。
「あなたは、どうして一人で旅をしてるの? 届けものって言ってたけれ……」
 その瞬間、荷箱の向こうからあるはずのない眺めが、目の中に飛び込んでき
た。
「え!?」
 嘘……。何、あれ!
「うん?」
 抱え込んでいた手を離すと、ダレンも側板に寄せていた背を伸ばし、後ろを
振り返った。
「ああ……。凄いだろ? あれが母なるフルエの流れさ」
 石畳が斜めに近づいていく東側、緑の草原は青深く緩やかな水面に姿を変え、
滔々とした流れは遥か地平の彼方、天空と境を接するまで続き広がっている。
「海、じゃないの?」
「ああ、そうか。君はずっとバルーにいたんだっけ。じゃ、そう思うかもなぁ」
 立ち上がって荷車の端に並んだ二人の後ろから、甲高い声が響いた。
「お、いい風だこと。この空気が何とも……。ううん、いいねぇ」
 前足を伸ばして大きく伸びをしたリスタンが、荷箱を踏み台にして、ジャー
ティアの肩の上に飛び乗る。
「……すごいね、リスタン。これが、河なんだって……。信じられない」
「フルエは全ての交わりし場所、合わさりて広がる場所、てか。ま、これだけ
広い河、他にはないだろうねぇ」
 ジャーティアは濃青に流れる川面の果てへと、まばゆげに目を見開いた。河
の流れと空のみが世界であるかのように感じる。ゆっくりと走る荷馬車が、緑
の浮島に乗って後ろへ流されるような錯覚さえ覚えるほどに。
 ひたすら水面を映し続け、荷馬車がますますフルエの流れへと近付いた時、
頬の横に並んだ肩口の上から、小さな呟きが聞こえた。
「久しぶりだ……」
 短い言葉に込められた哀しさのようなものに刺され、弾かれるように斜め上
を見上げた。
 しかし、銀色の髪を後ろで束ねた少年の表情は、先に言葉を交わしていた時
と変化はなく、ジャーティアは視線を戻しうつ向きながら、額に落ちた黒髪を
ゆっくりと指で払った。
 肩の上で、白い毛に覆われた喉元が震え、クルルルと、車輪の響きに紛れ聞
きとれないほどに小さな唸りを上げた。
 そして、思わしげに視線を散らした浅黒い肌の少女の表情を見遣り、生え揃
った牙の間から桃色の舌を覗かせた後で、甲高い声を上げた。
「お、見えてきた。お嬢さん、お坊ちゃん。王宮の玄関口だ。ほら、ジャーテ
ィア、見てみなよ。でっかい帆掛け舟だぜ」  

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