プロローグ ジャーティアの旅立ち


 裸足の裏に、生のままの大岩のゴツゴツした感触が鮮明だった。
 ジャーティアは、自分の身長より遥かに高い岩によじ登ると、星の散りばめられた夜空を見上げた。
 麻の繋ぎを纏っただけの剥き出しの肩に当たる冷たい風が、またとないこの瞬間の緊張を、胸の内に張り詰めさせて止まらない。頭の後ろで太く短く編み込まれたお下げの黒髪の中で、暗緑色の瞳が決然と前方に視線を定めた。
 岩を囲んだ細く高い五本の円柱。その外側で揺らめく灯火の光。そして、さらにその周りに、開いた手を胸の前で交差させ、彼女の立つ岩を見上げる数十の瞳。
 燃える火が、蒼く溶けた地平と空の境界に赤い色を添えて、遮るもののない高台は、中空に浮かぶ瞑想の台座として目覚めていく。
 腕の長さにも足りない石造りのワンドを両手に捧げ持つと、顎を引いて目を閉じた。幼い頃、初めてバルーにやってきた日の事が頭の片隅をよぎった。
 でも、今は感傷に浸っている暇はない。
 やり遂げなきゃ。バルーの魔術師なら、絶対に誰もが通らなきゃいけない場所。わたしにだって、きっと力はあるはずなんだ。
 自分の中から力を出すのではない。『在るもの』に蓄えられている力を借りるのだ。道筋を見つけ出せば、必ず応えてくれる。
 暗闇の中で四方に意識を伸ばしてみる。でも、茫漠と広がる空間の何処にも端緒がない。
 大きさや重さは関係ないのだ。蟻が地を這うも、獣が地を駆けるも差異はない。全ての命を掴むのだ。
 教えの文言ばかりが意識の上を滑り落ちていく。足元の大岩は僅かな反応も返さず、沈黙の帳に包まれ、冷たいままだ。
 ワンドを強く握り締めて、更に意識の境界を広げる。暗色の虚に落ちていく辺縁が感じられた。世界の中心に独り。心臓の鼓動だけが意識の中で大きさを増していく。
 ……何も感じられない。
 ワンドを捧げ持った手が細かく震えた。確かであったはずの足もとの感触すらも抜け落ちて行く気がして、目を開けて二本の足を確かめてしまいたくなる。
 でも、その瞬間に何もかもが終わってしまうことはわかっていた。
 応えて、お願い。応えて……。
 接触点を探してやみくもに『意識の指先』を這わせた。腕の震えが止まらない。身体全体がその場に縫い取られたかの固く強張った絶望。
 このまま、この最後の日も終わってしまう―ジャーティアの胸の奥底で、畳み込んでいた最悪の筋書きが顔を覗かせた。最終試験に失敗すれば、待っているのは、何処かの宮廷の小姓になるのが精々の結末。いや、それもままならない身体だからこそ、こうやってバルーに登らされたのだから。
『不思議だよ。必ず人には自分にしかない持ち物があるんだから。身体の小さなお前には、知恵がある。私は信じてるよ、お前にしかない力が、お前を導いてくれると』
 もう朧げになった顔が、幼い日々の記憶から言葉を投げた。クロニアの片隅で暮らした遠い年月。それは、決して満たされた時ではなかったけれど、自分だけが持っている確かな記憶だった。
 そうだ、私には、行かなきゃならない場所がある。やらなきゃいけない事がある。私がどのような者であっても。袖丈に合わない場所を求めているのであっても。
 それで、いいんだ。この全ては、私のためであって、私のためじゃない。
 温かい何かが、胸の奥に吹き込んだ気がした。そのきざはしは、身体の中心を下り、腰を抜けて、さらに下へと集約していく。
 冷たい異物感しか返さなかった両足の裏に火が点った。意識の指先でその『在りよう』をたぐり寄せよう、ジャーティアが思うより遥かに早く、足元の大岩は目覚めていく。燃え上がる熱さ。激しい痺れ。
 人が触れなければ、この高台の上に置かれたままの岩。しかし、その奥に『在る』力を、確かに身の内にしていた。
 ……動いて。解き放って!
 ドン!
 低い地響きが夜空の下に轟いた瞬間、ジャーティアは目を見開いた。深い緑を湛えた彫りの深い大きな瞳は、遥か眼下の眺めを捉えていた。
 既に五本の円柱も、円形に囲んだ灯火も、大岩に乗った自分の遥か足元で微かな点になっていた。
 行けぇ!
 捉えた大岩の核に、強く呼びかけた瞬間。踏みしめるべき場所は消え去り、高台の斜面と激しく衝突する轟音に変わった。夜の帳に、岩が弾け上がる音がこだまし、最後には水のしぶく音が小さく残った。
 宙に浮いたまま、岩が飛び去り落ちていく様を見下ろしていたジャーティアの身体が、ゆっくりゆっくりと下降を始めた。
 小さく霞んでいた台座が近づき、五本円柱の中心の白い敷石の上で、地を足につけた感触が戻ってきた。
「ふぅ……」
 できたんだ、な。私……。
 大きく息をついた瞬間、膝が細かく震え、力を入れる事ができないことに気付いた。何とか踏ん張ろうとしたが、その場に膝を落としてへたり込んでしまう。
 頭の中に、空白が広がるばかりだった。成し遂げたことへの感慨など浮かぶ余地もない。唐突に小さな身体を襲った激しい疲労に、四つん這いになって耐え忍ぶことしかできなかった。
 近寄ってくる足音。祝福の拍手。しかし、ジャーティアはそれらを追うより先に、その場に倒れ臥していた。


 この世界を司る五人の神々―主神ウム、知識と論理の神ロジーカス、生死と運命の神ジャーダ、商業と快楽の神ミアドルア、自然と調和の神デミテア。遥か古えの時代、光の神ダミと、暗黒の使徒アーモが争った際に生まれたと言われる『守護五神』は、今もこの大陸の中央に聳え立つサリナスの山々の奥で、世界の行方を見守っていると言う。
 その神々の御座所の麓に広がる高原の中央に、世界の喧騒をよそに美しい姿を見せる『四つの河の源たる聖なる湖』。
 緑に黄に茂る草花が鮮やかなこの場所で、湖底までも手が届くばかりに澄んだ湖面は、雲を突いて聳える険しい山々を映し、今日も変わることなく佇んでいた。この湖の水は、大陸の四方に向けて全ての大河の源になっていると言われ、国の枠を超えた聖なる地でもあった。
 魔法都市バルーは、この湖のほとりにあった。
 大陸の歴史の中で、常に大きな位置を占めてきた自由都市。知識と論理の神、ロジーカスを奉じるこの街の人々は、時に畏れを持って語られてきた―『自然力を司る者達』と。
 試練の日から五つの夜を過ごした朝、ジャーティアはバルーの街から小道を辿った、その湖の水辺に立っていた。
 針葉樹が茂る小さな森を背後にした入り江。浅瀬になった一角に並べられた青白く四角い石。『旅』に出る前に、ここで身体を清め、心を安からすのが『司道師』を目指す者の勤めだった。
 青い踏み石から、一糸纏わぬ姿で湖面に足を付けたジャーティアの浅黒い身体は、優美にはまだ遠い固い稜線を描いていた。バルーに登らされた子供達の例に漏れず、彼女の身体もひどく小柄で、一見して十一、二才位にしか思えない。
 しかし、それなりの人生を歩んできた者であれば、腰に兆し始めた丸みや、肩に漂う柔らかさに、乙女の領域に踏み出した清なる輝きを見出すだろう。
 ゆっくりと水の中に身を沈めたジャーティアは、遥か遠くに雪を纏って聳え立つサリナスの山々を仰ぎ見た。解いた長い黒髪を頭の上に纏め上げると、冷たい水が身体の奥底に張り詰めさせる程よい緊張感に、これからの日々を思った。
 六才の時からずっと見上げてきた聖なる山々。今日から、この眺めは過去のものになるんだ……。
 ロジーカスよ、私の行く道が善きものになるようにご加護下さい。
 大きな目を閉じ、手を組み合わせると、俯いた彫りの深い細身の顔に、静かな祈りの表情が浮かんだ。すんなりと通った鼻筋の下で、淡い紅色の浮かんだ細い唇が軽く結び合わされ、遥かな山並みへと祈りを運ぶ。
 一陣の風が、山から湖へとそよぎ、湖面に漣を立てた。
 ……ありがとう。私、がんばります。そして、必ず二年の後には……。
 水から上がると、持ってきた布で丁寧に身体を拭った。そして、緑と白、僅かに赤い色が交じり合って細かい迷彩状の模様になった織布を身体に巻きつけ、肩紐を右肩にかけた。剥き出しになった左肩から、白地に鮮やかな青が縁取られた肩掛けを斜めに纏うと、下ろしていた髪をゆっくりと結い始める。短く、太く一本に編み込んだお下げにすると、薄い水色の布紐を螺旋状に巻きつけた。そして、外していた数十個、色とりどりのリングを両腕に通す。
 最後に牛皮でできた旅履きに足を通すと、紐を足に結いつけた。
 石の上から水面を覗き込むと、出立の準備の整った全身が映り、何処か誇らしい気分になる。
 『司道師』になる最後の年限を目の前に、絶望と戦っていた十日前までの日々が嘘のように思えた。
 後は、マグベダー様にご挨拶を申し上げるだけ。いよいよなんだ。
 ジャーティアは唇を引き締めると、バルーへ伸びる小道へと歩み始めた。


 「ティア、今日発つんだね」
 街の入り口に差し掛かると、古びたレンガの壁や、木の柵の向こうから顔を出した人々からひっきりなしに声がかかった。
「寂しくなるよ。とにかく、身体だけには気をつけて」
 首の長いサリナ牛を牽きながら、中央広場に通じる路傍から現れた皮のチュニックを来た壮年の男性。
「ジャーティアの笑顔なら無敵さ」
 まだあどけなさの残る若い男は、二年前まで修行を共にする仲間だった。
 誰もが笑顔でジャーティアに言葉をかけてくれた。この街にあるものがそんなに陽気なものだけではないことは良く知っていたけれど、今は皆の思いを素直に受けとめて出発したい、そう考えていた。
 路傍に生える雑草に縁取られた細い赤土の道は、レンガ造りから石積みへと建ち並ぶ家の壁が変わるにつれ、灰色の石が敷き詰められた広い通りに繋がっていった。そして、大通りの突き当たりには、アーチを描く大門が聳え、行く手を遮っている。
 ジャーティアの身の丈の五倍もある、閉ざされた木と鉄枠の門扉。その右下に小さく彫られた流線型の文字と、半円形の紋様に右手を添えると、ジャーティアは人差し指、中指、薬指で三角錐を作った。
(過ぎ去る者は、止めることはできない。開け、門よ)
 正面に小さな枠ができると、切り取られて入り口になった。素早く身体を入れると、何事もなかったかのように門は元の姿に戻る。
 灰色の石積みと、そこかしこに銀の装飾が施された堅牢な建物が立ち並ぶ、バルーの心臓部。高い城壁に囲まれた中には、自然力の解明と、その伝達を一生の仕事と定めた者達が、それぞれに与えられた場所で、実践と研鑚に余念がなかった。
 ジャーティアも、右手後方に立つ一際大きな四階の建物の中で、多くの言葉と方法を伝授されてきた。『不具な子はバルーの司道院に登らせよ』の言い伝えのままに。
 しかし今は、通い慣れた学校ではなく、一番奥まった南の一角に行かなければならない。旅に出るために、最後にするべき事。
 数分歩き、石畳が不意に途切れると、再び赤い土になった地面が広がっていた。粗末な木造りの平屋を奥に、広い庭には枝を広げた緑の庭木が繁り、水を湛えた円形の池が、正五角形を描いて並んでいる。その中央には、螺旋に捻れた銀色の細長い円錐が、尖って天を指していた。
 自然と摺り足になると、ジャーティアの背丈でも小さく思える木の扉の前に立った。
(お入り)
 静かな声が、心の内側に響き渡っていた。扉を押すと、身体の芯に力を込めながら中に入った。
 そこには外からは想像できないほどの空間が広がっていた。部屋らしきものは一つもなく、小さなホールになった壁には、膨大な書籍が隙間なく並べられている。すり鉢状になった中央は、ぼんやりとオレンジ色の光を発していて、積み重ねられた書籍の城砦に囲まれた大机の前に、小さな影があった。
(ジャーティアだね。こちらへいらっしゃい。わたしの前に)
「はい」
 幾分か緊張しながら、ジャーティアはすり鉢の底へと下りて行った。背筋を伸ばして机の前に立つと、くすくすとした笑い声が心の中で響いた。
 開いていた大部の書籍を閉じると、ジャーティアよりも更に小柄な、背の曲がった老人は小さな顔を上げた。
(すまないね、悪気があったわけではないのだよ。随分、身奇麗にしたものだね)
「ひどいです、マグベダー様。もしかして、案山子に衣装って思ってらっしゃいませんか?」
 再び笑い声が心の中に響いた。所々が破れたボロを身に纏った小男は、太い眉の下で抜けるように澄んだ緑色の瞳を除けば、到底責任ある地位にある者とは思えなかった。
(違うよ、ジャーティア。こちらにおいで)
 積まれた書籍の山を跨いで、粗末な木椅子に腰掛けた老人の前に立つと、節くれだった小さな手が、ジャーティアの頬に伸びた。
(わたしの様に長く生きてきたものには、お前のような若木は全てに輝かしく、喜ばしい。さ、もっとよく顔を見せてくれ)
 跪いた頬に当たった手は、皺やゴツゴツした感触よりも温かさを強く伝えて、ジャーティアは不思議な気がした。
 バルーを束ねる者、セライム・マグベダー。この百年、複雑な大国同士の攻めぎ合いの中で、常にこの街を正しい方向に導いてきた『司道師の師』。マグベダーの前に立つと、一分の緩んだ素振りも見せることができないほどの峻厳な気を感じると、バルーに住む誰もが襟を正しながら語る。
 しかし、ジャーティアはそんな風に感じたことはなかった。自然力を司る者の末席に加わって以来、この場所を幾度か訪れた。確かに、百数十年の時を超えたとは思えないほどの柔らかい態度と、奥深く秘められた知性に、尊敬の念は増すばかりだった。しかし、皆が言うような厳父の前に立つが如き緊張とは無縁の人に思えた。
(出発するんだね)
「はい。今日から二年間、行って参ります。世界の全ての場所に立って、あまたの人々を目にし、言葉を受け取って参ります」
(うん)
 長い鼻の下で、青ざめた唇が穏かに微笑んだ。ジャーティアの大きな瞳と視線が合うと、その笑みはさらに大きなものになる。
(最終試験では、随分苦労したようだね)
「え、ええ。聞こえてらっしゃいましたか」
(ああ。でも、見事にやり遂げたね。後はあの時に感じたものを確かにすればいい。そこから、全ては始まるのだよ)
「はい」
 マグベダーは、身体を捻って、書籍の山の中から小さな袋を取り出した。
(これを、持っていくといい)
 紐を緩めて中に手を入れると、金属の触れ合うカチャカチャという音が響いた。
「お金、ですね」
(そうだ。モラーリスとモラーンは既に亡いが、貨幣は生きている。何かの役に立つこともあるだろう)
 ジャーティアが、跪いたまま茶の布袋を受け取ると、マグベダーはもう一つ、灰色に光る小さな魔具を取り出した。先が歪んだT字になった、柄の根元に青く円形に光る石が填め込まれた、小さなワンド。
(これも持っていきなさい。これは師としてではなく、お前の行く末を思う一人の老人からの贈り物だ)
「マグベダー様……」
 ジャーティアの編み込まれた髪の上に、手が乗せられた。
(必ず、戻ってくるのだよ。どんなことがあっても)
「はい。必ず、ここに戻って参ります」
 ジャーティアは頷いた。そして、マグベダーから受け取ったワンドを、色鮮やかな織布を纏った胸の前に捧げ持つと、ゆっくりと辞去した。
 入り口の木扉が閉まる音が、書籍に満たされた空間に響いて消えた。
 気配がゆっくりと遠ざかって行くのを見届けると、マグベダーは静かに呼びかけた。
(リスタン。其処にいるのだろう)
 背後に置かれた、一際大きな棚の上に言葉を投げると、高みから小さな二つの目が覗き下ろした。
 掌ほどの小さな身体が素早く垂直に駆け下りると、机の上に後ろ足で立って、突き出た鼻を蠢かした。
「まったく、マグベダー様の目は、何でも見えるんですね〜」
 その生き物は、甲高い声でマグベダーに叫んだ。ふさふさと丸まった尻尾はリスの様にも見えるが、立った耳と、歯が並び、突き出した顔は、犬に近い感じだった。その一方で、毛並みは白と黒のマーブル状で、首元に長い毛が固まって暖かそうに見える。
(あの子に付いていってあげなさい)
 マグベダーの緑色の瞳は、机の前でオレンジ色の光を発する大きな輝石の色を映していた。
「……そんなに、価値のある子なんで?」
 長い舌をペロリと出すと、黒く円らな瞳が訝しげに斜め上方を見遣った。
(リスタン、魔力を持つと言う事がどういうことかわかるかね)
「特別な人間になるってことでしょ」
(そうとも言える。だが、人と違った力を持つという事、それは、人とは違った見方ももたらすものなのだ。
 だが、あの子の抱える思いは、その持っている力とはまったく関係がないように見える。それが、どれほど稀有な事なのか、お前にはわからないだろう。
 しかし、時に、方向の定まらない力は、大きな傷を付けることがあるのだ。自らにも、他者にも……)
 マグベダーは一度目を閉じると、本の上で口を開いて息をするリスタンを真っ直ぐに見据えた。
(力を貸して欲しいのだ。これは、命令ではなく、友人としての頼みだ)
「はいはい、そんなふうに言われたら、俺に断る口はないでしょうが。まったく、『司道師の師』様は、頼み事も上手でいらっしゃる」
 マグベダーは、微かに鼻で笑うと、閉じていた本に手をかけた。
(頼むよ、リスタン)
 小さな犬鼠の姿が本の上で翻り、素早く家の外へと走り出ていく。
 マグベターは暫し何事かを思い、視線を宙にさまよわせていたが、やがて分厚い本の表紙を開くと、ゆっくりと文字を目で追い始めた。


 高原からの降り下る道を、蛇行しながらひたすら下っていくと、一番高い司道院の石壁すら、僅かな間に視界の外に去っていた。
 旅立ちは、静かなものだった。マグベダーの家を辞去した後、他の誰に出会うでもなく、街の外に歩み出ていた。
 ジャーティアは知っていた。
 特別に送り出したりすることがないのは、決して『旅』に出る者を軽んじているためではない。年に数十人が出発する司道師への修業行。その内、バルーに戻ってくるのは、片手の指にも余る数でしかなかった。
 何処かの宮廷付きの魔導師になる者。出身地に逃げ帰る者。訪れた場所に運命を見出し、道を捨てる者。或いは、旅の最中に命を落とす者。
 全て、他者が詮議することなどできぬ、それぞれの道。しかし、旅立ちの時には誰もが誓ってバルーを後にする。『必ず、ここに戻ってくる』と。
 その高い望みが達成された日、初めてバルーは、華やかな色を帯びて、旅立った者を迎えるのだ。
 それでも、ジャーティアは寂しかった。大陸の西の端、クロニアからやってきた発育不全の少女に、いつもバルーは優しかった。
『君の親は君を捨てたのではない、君を生かしたんだ』―そう言って道を示してくれたのも、司道院の教官だった。そして、サリナ牛の乳の味を教えてくれたのは、自然力の片端を知り始めた時、最初に下宿した民家の主人だった。魔法と言っても、何も特別な事ではなく、牛の乳からチーズができるように、自然にあるものを借りるのだ。言葉が実感になった日、初めて指先で、蝋燭の先に小さな火を灯すことができた。
 浅黒く艶やかな頬に、一粒、真珠が零れ落ちた。
 ……ダメだよ。私らしくない。笑って、元気に行くんだ。
 高原からの道は、やがてゴツゴツとした岩場に姿を変え、ジャーティアはゆっくりと坂を下っていく。
『必ず戻ってくるのだよ』
 マグベダーの言葉が蘇った。
 そうだ、私は必ずここに戻って、司道師になる。そして、緑の織布と七色の腕輪を纏ってクロニアに帰るんだ。私を育んでくれた全ての人達のために。
 振り返った先には、サリナスの高峰だけが、その切り立った白い頂きを青い空に浮かべている。それ以外、バルーに繋がる眺めはどこにもなかった。
 ジャーティアは、視野を遮った岩壁の向こうを仰ぎ、大声で叫んだ。
「さよなら、バルー。私、必ず帰ってくるから!」

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