緩やかにカーブを切っていく列車の窓には、なだらかな山なみが
映っていた。ゆっくりと流れていく遠景と、すぐそばで素早く流れ
去る緑の木々と。ぼんやりと眺めていても、思い浮かぶのは一昨日
の試合の結果ばかりだった。
 狙い済ましていたはずの内股をすかされ、弧を描いて一回転。
 外から見ていたかのように、状況を絵で脳裏に描くことができた。
それほど、言い訳のしようもない一本、完敗だった。
 あの時、引き手が切れなければ……、いや、そんなことじゃない。
いつの間にか、二高のやつらとは大きな差がついてしまったと言う
ことだ。
 俺たちの三ヶ月があいつらに劣っていたとは思えない。春からこ
っち、柔道場の景色と畳の匂いの他にほとんど思い浮かぶものもな
い。
 単に才能の違いか。それとも……。
 ああ、やめだ。くだらない。負けに理由なぞ付けたところで、結
果が変わるわけじゃない。
 もう、終わったんだ。
 重なり広がる濃緑の葉の間に、水の流れがちらほらと見えてきて
いた。
 線路は、前の車両が見えるほどにカーブの度を増し、ゆったりと
流れる河を眼下に、杉の木に覆われた山の連なりが背景全てになる。
 駅まであと一時間くらいか。そろそろ、連絡を入れておいた方が
いいかもしれない。
 待てよ。こんな山の中だと、電波が――。
 バックの横ポケットから携帯を出すと、受信状況を確認する。と
りあえず、何とかアンテナの表示はされていた。
 背もたれから身体を出して改めて辺りをうかがうと、ガタンガタ
ンと車輪の音だけが響く車内は、俺の他には端っこに年寄り二人が
乗っているだけで、閑散としている。
『あ、潔。今、どこ?』
 いつも履歴の先頭にある番号を呼び出すと、聞き慣れた声がした。
「ちょっと前に電車に乗ったとこさ。三時過ぎには着くからな」
『早かったね。私も、すぐ出たいんだけど……』
 いつものはしゃいだ調子とは違って、珠美の声は少しくぐもった
感じだった。
『もしかしたら、少し待たせちゃうかも。いい?』
「なんか、用事か?」
『うん。ってのか、父さんたちいないから、稔たち、家に置いとく
わけにいかないでしょ。たぶん、あと一時間くらいで戻ると思うん
だ。三時には戻るって言ってたから』
「そっか。別に無理じゃなくてもいいさ。どうせ、腐るほど時間は
あるしな、今年の夏は」
『だめだめ』
 即座に返ってきたのは、低いけれど、断固とした声だった。珠美
がどんな顔をしているか容易に思い浮かべられた。かまぼこ目の上
の少し太めな眉を寄せて、小鼻を膨らませているに違いない。
『迎え行くって約束でしょ。父さんたち帰ったら、ダッシュで駅前
まで行くから。待っててよ』
 待っててよって、まったく、しょうがないな。それは、俺も会い
たくないわけじゃないが、今年はもう、秋まで学校に戻ることもな
い。だいたい、川向こうのあいつの家まで、どれほどの時間がかか
るというわけでもなし。
『もう、こういう時に限ってなんだから。しょうがないんだけど…
…』
 ため息混じりな調子を聞きながら、そう言えば、かき入れ時の日
曜日、理髪店を営む珠美の家の両親がこの時間に家を空ける理由を
思った。
「そう言えばさ、珠美。今日、店閉めてるのか?」
『うん、そうだよ。ほんと、困っちゃう。用事が用事だからしょう
がないんだけどね。ほら、川辺に住んでる………』
 突然、携帯の先の声が切れ切れになって、通話が途絶えた。ディ
スプレイには「圏外」の表示が浮かび、俺は鼻で小さく息をついた。
 待っててやるか。あいつが来るって言ったら、何を曲げてもくる
だろうからな。もし両親が戻らなければ、弟たちの手を引っ張って
でも。
 なんだかんだ文句を言いながら、十も年の離れた弟の手を引いて
面倒を見ている様子を思い出せば、それもまあ、悪くないか。
 駅前のハンバーガーチェーンにでも連れてってやるさ。春に出来
たんだったよな。もの珍しさで滅茶苦茶に混んでたけど……、もう、
あれから四ヶ月か。
 だいたい一ヶ月に一度の帰省。部活が忙しくなれば、こうして何
ヶ月も帰らない時もある。そんな生活も、これで終りだ。これから
は、他の寮生と同じように週末には自宅へ帰ることができる。
 窓の外の景色は、いっそう山深さを増して、薄曇った空は、緑の
稜線の切れ目に見えるだけになっていた。
 窓際に肘をつき足を向かいの席に投げ出して、窓の外を眺めてい
た。
 やがて、見下ろす形になった川面が白く霞み始め、山の間からも
濃い白が溢れ始めた。全ての色が淡く、モノトーンに近くなってい
く。
 一雨、くるな。
 靄の下に溶けた緑が暗い色に落ちて見え始めた時、水滴が窓にパ
チンと弾けて散った。
『まったく、部長がよ』
 全てが終わり、顔を洗い流していた洗面所で、投げやりに吐き出さ
れた言葉が突然、頭の中で鳴った。
『自分から気ぃ抜いてたら勝てるもんも勝てんさ。ああ、これで終
りかよ。つまんねぇ』
 気抜いてたわけじゃないさ。いや、お前より、俺の方がずっと…
…。
 ふぅ、どうしてだ。つまんないことを思い出す。
 膨らんだバックを足先で軽く蹴った。中には着古した道着も入っ
ている――いや、それがいつも、一番の荷物だった。
 どうしてあの時、あの言葉が出なきゃいけないのか。ずっと一緒
にやってきたじゃないか。何のためだったんだよ。
 その時、背中できしむ音がした。
 すぐにYシャツと黒い学生ズボン姿が通り過ぎ――何だ、他にも
客がいたんだな――背中を見せてから不意に立ち止まると、ゆっく
りこちらを向いた。
 丸刈りのその学生は、俺の目を見つめてから軽く頭を下げた。
 身体の大きさに似合わない、丁寧で上品な仕草だった。
 何だ?
 知り合い、ではなかった。顎を軽くしゃくってほとんど目だけで
礼を返すと、男は口を開いた。
「一緒に座っても、いいかな」
「あ……、ああ、いいよ」
 間違いなく、車内はがら空きだ。どういうつもりだよ――思いな
がらも、取り立てて断る理由があるわけでもなかった。
 細目で眉の太い、背の高いそいつは、すぐに喋り始めた。
「雨、降ってきたねぇ」
「あ、ああ」
「自分、好きなんだ。この辺りのこの景色。夏のこういう時期も、秋
の紅い頃も、冬の玄妙な雰囲気も」
 あいまいに頷くと、にっこり笑ってこちらを真っ直ぐに見つめる。
変わった奴だ。列車にはたまにいるこのタイプは、適当にあしらっ
ておいた方がいい。
 それにしても、ずいぶん襟の尖ったYシャツだ。真っ黒な学生ズ
ボンも、妙に絞った感じで、着ているものからして相当に外れた雰
囲気だった。
「何か武道やってる、君? ……柔道かな」
「あ、ああ。まあね」
「やっぱりか。普通の運動部には見えなかったからね。剣道なら竹
刀を持っているだろうし」
 立て板に水式で言葉を繋ぐ少し高いトーンの声。しかし、いきな
りやっている競技の名前を当てられたのに、不思議と驚きはなかっ
た。
「この辺りだと、二高かな? それとも、山東?」
「山東さ」
「山東かぁ。いいね、武道は。自分は、あんまり得意じゃないけれ
どね」
 わかったようなことを。膝を揃えて座り、うんうんと頷く背の高
い姿を横目に、心の中で言葉を作った。
 と、景色がいきなり途切れて、黒い壁になった。車輪の音が響き
渡り、またすぐに光が戻ってきた。
 トンネルを抜けると、さっきまでと同じく折り重なる山々が見え
る。しかし、視界はほとんど白で覆われ、かすかに稜線を浮き上が
らせるだけだ。雨は……、どこからか降り落ち、窓を叩いている。
「勝負事は、勝ったほうがいいよね。負けるよりも。でも、それよ
り悲しいのは……」
 声が通るようになって聞こえたのは、静かな呟きに似た言葉だっ
た。視界に広がる白い海と響き合っているようで、俺は名前も知ら
ない男の方に向き直っていた。
「いや、いいんだ。それは」
 自分に頷くように、出しかけた言葉を止めると、太い眉の下の細
い目が真っ直ぐにこちらを見た。しかしそれは、結ばれた口元とは
裏腹に、優しい感じだった。
 瞬時、この表情を何処かで見た、自然にそう感じていた。しかし、
いつ、どこでだったか、それとも、こいつ自身を知っているのか、
思い当たることができなかった。
「もうすぐ八月だね」
「ああ」
 俺がさっきより気を入れてあいづちを打つと、一度目を閉じてか
ら、
「この列車ね、昔からここを走ってるんだよ。ずっと、八十年も昔
から」
 鼻でふうん、と頷くと、彼は気持ちを入れ直すように細い目を見
開いた。
「石炭を運ぶ鉱山用列車だったことも、木材を運ぶ林業列車だった
こともあるそうだよ。それに、出征の兵隊を次々に乗せて、駅から
駅で歓声に包まれていたこともある」
 静かな声だった。抑揚もなく、淡々と語る。でも、耳を傾けずに
はいられなかった。俺と同じくらいの年に見える、何処かで聞き覚
えのあるこいつの声に。
「……乗り換えた山陽線の列車から広島の兵学校、それで、内地へ。
不安より、これで自分も一人前、そんな誇らしい気持ちだったのかな。
田舎じゃ働き口どころか食いぶちを減らすだけの役立たずだもの、
戦線に出て奉公ができる。これで戦果を上げて、意気揚揚とクニに
帰れれば……」
 小さくため息をつくと、一度窓の外を見てから、ゆっくりと言った。
「ねぇ、君。弱いと思わないか、人間は」
「あ、ああ、だな……」
「そうだよね。人は、みな弱い。でも、それを隠してどうなるだろ
う。隠せば、虚勢を張って、無理を作るしかない。そんな人間が集ま
れば、きっと、暴力になる……」
 再び思い返すような調子になった。何が言いたいのかほとんどわ
からなかった。ただ、この男の話は聞かなければいけない、その気
持ちだけが止まらなかった。
 列車の轍の音が、小さくなっていく。窓の外はほとんど白だけに
なって、淡々と続く声だけが、響き続けている。
 ……踏み止まれたのは、どうしてだろうね。弱い人間なのに。
 でも、できなかった。どれほど蔑まれても、誓いを破れなかった。
 ――切れ! こうしてやるんだよ。やっぱり腰抜け小坊主だな。
 水をかけた軍刀が線を引いて、首がポンと後ろへ飛んだ。そして、
二本の赤いしぶきが上がる。
 ずっと殴られ続けだった初等兵時代。死んだ方がましだと思って
も、意味もなく人を殺すことはできなかった。もちろん、軍のため
にも、国のためにも、尽くしたい。
 でも、何より誓っていた。
 君のために、人でいること。人でいることは、全ての人が仏と共
にある信じること。だからこそ、君と自分は出会ったに違いないん
だ。
 それでも、たくさんの戦闘と、過ぎていった光景。無為に殺され
ていく人を、見送るしかなかった。身体を突かれ、自分の掘った穴に
次々と埋められていく誰一人を、救うことはできなかった。
 そして自分も、前線では幾度となく銃を取った。
 罪業は、他の皆と同じように、自分の背にもある。しかし、無為に
それを流すことで、味のない塩になることはできない。
 しかし、これほどの罪を負った自分は、もう一度君に会うことが
できるのだろうか。本当に、会う、ことができるのだろうか。
「ああ、何も変わっていないね」
 話を聞き続けながら、駅についた列車を降り、改札をくぐって古い
木のベンチに腰掛けた。
 駅前の狭い繁華街にも、靄がかかり、雨がぱらついていた。
 俺の頭の中も、同じように霞んでいるかに思えた。
 聞いていたのは、誰についての話だったのだろうか。この、俺と
そう年の変わらない男自身のことであるはずはない。そして、今こ
うして霧雨に浮かぶ駅前の広場は、こんな様子だっただろうか。
 どこかひどく、古びて見える。低い建物しかないのはいつものこ
とだけれど、これほど車が少なかっただろうか。道幅もひどく狭く
感じる。濡れて光る商店街への路面は、土のように見えた。それに、
雨だれを落としている待合室の屋根は、こんな煤けた木の柱で支え
られていただろうか。
「本当に、何も変わっていない。あの日も、雨だったんだ。みんなに
見送られてね。でも、あのひとはこなか……」
 ずっと耳元で囁き続けていた声が、止まった。小さな影が、薄れて
いく靄の中に浮かび、近づいてくる。
「…………来た」
 かすれた声が漏れた時、何もかもが色を取り戻した。低い街並み
の上で雲が切れ、そこから陽光が降り注ぎ、全てを明らかにする。
 傘を下げた彼女が、天を仰いだ後でにっこり笑って、俺たちの方を
見た。
 肩までの髪を簡単にざっくばらんに後ろで留めて、額にかかった
前髪を手のひらで払いながら。
「待った? 潔。いきなり、天気雨だね」
「あ、ああ」
「うん、いい感じだね。私が着いたら、陽が差してくるんだから」
 一瞬、微笑んだ珠美がまったく違う人間に見えた。切れ長の目に
静かな色を浮かべた、思慮深げな顔に。そうだ――。
 脇に座った道連れを紹介しようと思って左を向いた時、俺は言葉
を失っていた。
 隣には誰もいない。そして、目に入る景色に重みが戻ってきた。
光に照らされているのは、タクシー乗り場にバスの停留所、三階建て
の「駅前ビル」に、数軒だけの商店……。
「どうしたの? いきなり目逸らせて。あ、久しぶりで照れてるん
じゃない?」
「馬鹿か。俺はな……」
 俺は、さっきまで間違いなく隣で話し続けていた男の姿を思い、出
かけた言葉を飲んだ。
 こんな途方もない話、まともに受け取ってもらえるとは思えない。
「照れない照れない。ホント、久しぶりだね。待った? ほら、先
に来てるつもりだったんだけど、急だったから。あ、それ、持つよ」
 いつもどおり、一方的に喋ると、珠美はバックの他に持っていた
革カバンに手を伸ばした。
「ほら、川辺に住んでる大叔父さん、知ってるでしょ。お母さんの
方の叔父さんの」
「あ、ああ」
 まだ、頭がよく働かなかった。でも、橋向こう、川辺を思い浮べ
た瞬間に俺の頭の中で小さな電気が弾けた。
「あの大叔父さん、亡くなったのよ。それで……」 
「待てよ、珠美。それって、住職さんやってた人だろ! そうだろ、
珠美!」
「な、何? 急に大声。そうだよ、橋から見える山にある、お寺の
住職のおじいさん。だから、母さんも父さんも、行かなきゃならな
くて」
 俺は、反射的に目を閉じて、Yシャツの上の顔を思い返していた。
そうだ、あの太い眉、細い目、少し高い声………。年は違っていて
も、重なるところがある。
 何てことだ。
「あ、いきなり何止まってるの、行こうよ」
 俺の家から、歩いて二十分くらいの寺。同じ字(あざ)で、小さ
い頃はよく境内で遊ばせてもらった……。
 でも、どうしてあの住職のおじいさんが、小坂さんが、俺のとこ
ろに。
『……来た』
 耳元で、もう一度声が聞こえた気がした。その瞬間、俺は気付いて
いた。
「ね、どしたの? ほら……」
 胸元から見上げる丸い目を見下ろした時、俺は珠美の肩を両手で
掴んで、奥歯を噛みしめていた。
 いつだったか、聞いていた。
 戦争が終わって三年後、小坂さんが中国から戻ってきた時には、結
婚するはずだった女性は弟と家庭を築いていた。それが、珠美の母
親の両親――珠美のおじいさんとおばあさんだ。そして、二人とも、
もう亡くなっている……。
 そのまま髪の下の首に手をかけて、抱き寄せた。
「き、潔」
 普段なら、こんなことは絶対にしない。俺の身体が、俺のものじゃ
ないような気がした。まだ、たくさんの言葉が胸の中で鳴っている。
「どうしたの、何か、あったの?」
 すぐに身体を離して、俺は首を振った。見上げている珠美の顔が、
ひどく心配げだった。普段の態度よりずっと、芯に細いところがあ
ることはわかっていた。
「大丈夫さ。話、聞いてくれるか。嘘みたいな話だけどさ。珠美に
話しながら、考えてみたいんだ、いろいろと」
 丸い瞳を一層大きくして、珠美は強く頷いた。気持ちが伝わって
いるのが嬉しかった。
 俺は道着の入ったバックを担ぎ直すと、珠美と肩を並べて、駅前の
小さな商店街へと歩み入って行った。





謝辞
 この物語を書くにあたって、深く、多くのインスピレーションを
頂いた書籍、『戦争と罪責』(岩波書店刊)の著者である野田正彰
さんと、この書籍の中で、壮絶な体験と頭を垂れる他ない生き様を
示されていた小川武満さんに深く感謝申し上げます。
 甚だ拙いものではありますが、わたしなりの広げ方をしながら、
物語にしてみました。
 強張らず感じ続けることは、これからもわたしにとって永遠の課
題であり続けると思います。