3.
麦藁帽子ごしに照りつける太陽の光が痛いほどだった。時刻はま
だ朝の九時。しかし、気温は既に三十度を超えているのではないだ
ろうか。
小さな剪定バサミで、次々とナスの実を切り落としていく。程よ
く雨も降り、陽射しもある今年の夏はどの野菜も元気がよかった。
キュウリも、トマトも、ピーマンも、トウモロコシも青々とした葉
を茂らせて、大ぶりの実をつけて気持ちがいい位だ。
もちろん、ただ天候が良いせいだけじゃない。爺ちゃんはとても
まめな性格だから、丁寧に畑の世話をする。雑草取りに水遣り、無
駄な枝落としに適度な追肥。殆ど無農薬で育てた野菜は、いつも婆
ちゃん自慢の食卓の具材になる。
特に出荷するために作っているわけではなかったが、俺にとって、
この六十坪余りの畑でできた野菜以上のご馳走はなかった。
高校に行けば、たまには近隣のファーストフード店で食事をする
時もある。そんな時は、フライドポテトくらいしか食べる気にはな
れなかった。舌に残る調味料の味が気持ち悪く、どうしても食事に
は思えないのだ。
持ってきた竹かごに取ったナスを並べた。長ナスに米ナス。今日
は、天ぷらかもしれないな……。そんなことを考えていた。
農作業は、決して嫌いじゃなかった。むしろ、好きと言えるかも
しれない。もしこの村の空気が外へと広がっていて、何にも気兼ね
せずに作物と向かい合うことができるなら。
それならば、こうやって畑の世話をして生きるのも悪くない。
でも、なぜだろうか。美しい水に緑、そよぐ風。環境はこれほど
に開いているのに、蜘蛛の網に掛かったように重苦しく、動くこと
ができないかのように感じるのは。
如月さんの俯いた顔が思い浮かんだ。
『楽しい人には、楽しいのよね』――その通りだと思う。こんな息
苦しさは、感じない人間にはまったく無縁のものだと思う。狭い、
何もない。そんな単純な理由で外へ出て行ける奴らをどれくらい羨
ましく思うか……。彼女なら、何処かでわかってくれる気がしてい
た。
「おい、雪。手が止まっとるぞ」
はっと気が付いてしゃがんだまま上を向くと、半袖の下着に作業
用の灰色のズボンを履いた老人が、大きな麦藁帽子の影を落として
俺を見下ろしていた。
「あ、悪い。爺ちゃん」
「そろそろ引き上げるか? だいぶ暑なってきたしな」
眉と髪が灰色になっている他は、鉄のように焼けた黒い肌が逞し
い祖父は、腰に手を当てて真っ青な空を見上げた。
「今日は、天ぷらでもするかい?」
「そだな」
四角い顔に微かな笑みを浮かべると、祖父は頷いた。俺は竹籠を
持ち上げると、滲み始めた汗を拭った。
遠くに見える山の稜線から、道を挟んですぐとなりの小さな林ま
で。相変わらず泣き続けるセミの声に、『ツクツク…』と声が混じ
ったような気がした。
「お……」
祖父が小さく呟く。やはり空耳ではなかったみたいだ。
八月も半ばに入ったんだなぁ。かい間聞こえたツクツクボウシの
鳴き声と共に俺は思っていた。
「婆ちゃん、行ってくる」
裏口から土間の方へ顔を突っ込んで言うと、「はいよ」と声だけ
が返ってきた。
俺は、マイケルの首輪に散歩用のロープを付け替えると、錆びた
ポストの脇を抜けて、外へと出た。
五時を過ぎて夕方の風に変わった川沿いの道を、いつものコース
で橋の方へ向かう。生後二年の茶毛の雑種犬は元気一杯に俺の手を
引っ張って、先へ先へと身体を進めようとする。
そして橋のたもとへと登ってくると、少し小高くなったその場所
から、村の東半分を一望した。四方をなだらかな山に囲まれ、所々
にうずたかく茂る森。川が下っていく先には緑なす田が一面に広が
り、白や灰色の鷺が優雅に上空を舞っていた。
あの辺か……。
田の間を走る細い舗装道路。数百m先、まだ記憶に新しい場所に
自然と目をやっていた。
『あ、これ見つけたんだ。懐かしい〜』
細い指が赤い実を摘み上げ、唇に含んだその瞬間。ありがとう、
言って見上げた額には黒髪が疎らにかかっていた。そして、
少し謎めいた光を帯びて合わせた瞳は、言葉にならない何かを伝え
ているような気がして。
俺の胸元を撃ちぬいた指先。悪戯っぽく笑った顔。長い髪は緑色
のリボンで結わえられ……。あの時、落としさまよわせていた視線
の先で、彼女は何を考えていたんだろう。
如月さんの姿が頭から離れなかった。
祭りの日から二週間。気が付けば、彼女の言葉、そして姿が頭の
中でリフレインしている。
胸が苦しい。
どうしてこんなにも彼女のことを思い出すのだろう。ずっと、も
うずっと昔から知っているはずなのに。
紐はどんどんと手を引っ張って、橋は遥か後方へ消えていた。
このところの散歩の度に、曲がることをためらっていたため池の
林の角を折れて、足はどんどんと西へと向かう。
緩やかにカーブする細い道を過ぎると、林の影から白く高い壁が
姿を見せた。綺麗に舗装された四台分の駐車場が広がり、長方形に
張り出した入り口のガラス扉には、青く大きく『如月歯科』という
字が貼り込まれている。
だめだ。なんのためにこんな所まで来る必要がある?
紐を引っ張って方向を変えようとしたが、首をすくめて低姿勢に
なったマイケルはぐいぐいとリードを取る。横目に見た飾り気のな
い医院の四角い建物の後ろには、瓦屋根が重層的になった豪奢な邸
宅が白壁の中にそびえ立っていた。
俺より頭一つ高い壁の上に顔を出した庭木は、どれもが手入れが
行き届いていて、少なくとも五、六部屋はありそうな二階部分と和
風の調和を見せていた。
「ほら、マイケル。行くぞ」
鼻先を雑草の中に突っ込んだマイケルを引っ張り上げながら、す
ぐ頭の上にまで近づいていた如月邸を見上げた。二階には綺麗な格
子が見える幾つもの窓が並んでいる。
あのどれかが如月さんの部屋の窓なのだろうか。
一度も中に入ったことのない村有数の豪邸。何処に彼女がいるの
か想像することもできなかった。
足を上げてマーキングをしたマイケルが、ようやく向きを変える
と、俺も如月邸に背を向けた。もどかしい気持ちが胸の奥に残る。
なぜこんな所まで来てしまったのか、理由はわかっていた。ただ、
それを認めてしまうのが怖かった。認めてしまえば、到底止まるこ
とができるとは思えなかった。
ウォン!
その時、マイケルが小さく吠えた。何かが上から肩口を通り過ぎ、
風と共に地面に落ちた。
白い、かたまり……?
飛び付こうとしたマイケルを制して、舗装された路地にしゃがみ
込むと、すぐにそれが何かのぬいぐるみであることがわかった。
瞬時に振り向き、斜め上を見上げた。
歯を喰いしばるほどに突かれる胸の奥底。
二階の横の小窓が開き、そこから小さく手を振っている姿。淡い
ピンクのロゴ入りTシャツに、嬉しそうに笑う顔。
俺も微笑んで小さく手を振ると、如月さんは林の方を指差した。
目を見開いて身体をそちらの方に振りながら、立てた親指を同じ方
角に向けると、無言の大きな頷きが返ってきた。
そして、先を急ぎたがるマイケルを抑えながら、如月邸が見えな
くなる林の影で、俺は待っていた。
拾い上げたあざらしのぬいぐるみを持ったまま、乱れ飛んだ考え
をまとめる間もなく、淀みのない声の響きを耳にしていた。
「飯山くん」
窓から見えた淡いピンクのTシャツに、ベージュのソフトパンツ
を履いた彼女は、少し後ろを気にしながら、小走りにこちらへやっ
てきた。
何を喋っていいか見当もつかない。黙ったままの俺の二歩ほど手
前で立ち止まると、如月さんは長い髪を手で梳きながら言った。
「びっくりしちゃった。外を眺めてたら、下に見えたでしょう。ど
う考えても飯山くんにしか見えなかったから」
「……あんなところから落ちたら、こいつ死んじゃうだろ」
ぬいぐるみを差し出すと、如月さんは微笑みながら受け取った。
「大丈夫。この子、飛べるから」
「あざらしが? どうやって」
「訓練してるもの。ヒレをこう、伸ばして、すぅーっと……」
「ムササビかい! そりゃ」
俺が肩を揺らして笑うと、手まねをしていた如月さんは笑いなが
らマイケルの目の前にしゃがみ込んだ。
「こんにちは。ハンサムね、お前」
頭を撫でると、すぐに茶色の顔を寄せて顔を舐めようとする無節
操な我が家の番犬未満。
「こら、マイケル。やめろ!」
「マイケル君って言うんだ。見かけによらず、アメリカンな名前ね」
如月さんを見下ろしながら、動悸を抑えようと必死になっていた。
つんと立った耳の辺りを撫でる様子はどこにも構えたところがなく
て、俺ばかりがこんなに意識するのは釣り合いが取れないような気
がした。
「柴犬系の雑種だと思うんだけどね。お姉さんはラトーヤって言う
んだ。もう、家にはいないけど」
「それ、冗談?」
くすっと笑いながら立ちあがると、如月さんは俺の目の前に立っ
た。
「ホント。ちょっと性悪なメスでね。貰い手がなかなかつかなかっ
たんだ」
「ほんとに〜?」
「嘘」
あっけなく認めると、彼女は大きな目にたっぷりの茶目っ気を浮
かべて、俺を見つめた。
目を逸らしたくなかった。そして、初めて思った。なんて綺麗な
人なんだろう、と。
一瞬言葉の継ぎ目が解けた後、彼女の方が視線を逸らした。斜め
下に向けられた目蓋の縁で、細い睫毛が揺れた。緩やかに結ばれた
唇。たおやかな表情は、さっきまでとは打って変って、何か深いも
のを秘めているように思えた。
「少し、歩く?」
静かな声で言った。
「うん」
頷いて橋に通じる道へと歩こうとすると、青いポロシャツの袖が
引っ張られた。
「こっち」
林の裏、未舗装の細い道を指差す。車も通れない、『小観音』に
通じる踏み分け道。
「蚊に刺されるよ」
「いいよ、別に」
確かにこの道なら、誰かに会う恐れは殆どなかった。俺は、マイ
ケルを促すと、夕日の赤い光を疎らに通す小道に歩み出した。
如月さんも、俺の横に並んで歩き出す。肩がほとんど触れ合うく
らいの距離で、マイケルの動きだけを追って、言葉もなく歩いてい
く。
彼女の手が、また髪の毛を梳いた。
「飯山くんは、音楽はもうやらないの?」
「……あ、うん。どうだろうなぁ」
唐突な質問に、答える適当な言葉が見つからなかった。
「凄く好きだよね。放送部も音楽好きが多いから、よくわかるよ」
「う〜ん。そうでもないんじゃないかな。ブラスも幽霊部員だし」
「嘘ばっかり」
決めつけるような調子の言葉に横を伺うと、視線を落とした表情
が少し陰りを帯びて見えた。
「『音楽は自己表現だ。どんな立場にあっても、それを禁止する権
利は誰人にもない』って、よく憶えてるよ。何回もマイクで叫んで
たじゃない」
「……若気の至り。あん時はかなり頭に血が上ってたからね」
去年の文化祭、南高とちょっとした暴力沙汰を起こした、あるバ
ンド。その事件をきっかけに、文化祭のライブは全面禁止になった。
そして、俺達は……。
「停学になるし、最悪。もっとスマートなやり方があったと思うけ
ど」
「後悔してる?」
小道は少し開けた場所へと繋がった。俺は、かぶりを振った。
「全然。やり方はともかく、当然のことをしたと思ってる」
「……よかった」
安堵した様子の如月さんが、何を思って息を吐いたのかわからな
かった。
高い木々に囲まれた空間には、小さな堂が建っていた。格子戸の
填められた大人の背丈ほどの煤けた木造の堂。鎮守の森にある社と
比べて、村では『小観音さま』と呼ばれている場所だ。
マイケルの綱を木の幹に括ると、二人で堂の前に立った。
夏とは思えない清涼な空気が流れていた。俺はまた踏むべき言葉
のきざはしを見失い、茂る木々の葉を見渡していた。
本当は、後ろで手を組み、同じように回りを見渡す女性に尋ねた
いことがあった。
あの文化祭の前日、俺達に放送室占拠の決行を勧めたブラス部次
期部長―その人との関係を。中学時代からただ一人だけ尊敬してき
たあの先輩と如月さんは、どんな話をしているんですか?
尋ねられるわけもなかった。そんな権利があるとも思えなかった。
ピンク色の肩が動くと、ソフトパンツの前ポケットから折り畳ま
れた小さな機械が取り出された。
「雪生くん」
突然名前を呼ばれ、少し驚きながら見下ろすと、携帯電話のディ
スプレイが開かれていた。
「携帯、持ってるよね」
「あ、一応。ほとんど待ち受け専用だけど」
「番号、教えてもらっていい? 嫌ならいいけれど……」
小さな声で呟いた。肩を窄め俯いてボタンに指をかける姿に、ど
うしようもないくらい強い想いが湧き上がって、身体を止めるのが
精一杯だった。
「あ、いいよ。み…如月さんなら、もちろん」
「美紅でいいよ、雪生くん。むか〜しはそうだったでしょ? 忘れ
ちゃったかもしれないけど」
言葉の端をすぐに捉えると、軽く笑った。
この気持ちはなんだろう。目の前にいるのはもう、北高の先輩じ
ゃない。きっと、如月美紅という名前の一人の女性。
俺は心の中ではっきりと認めなければいけなかった。この人に誰
よりも惹かれていることを。恋してしまったことを。
「…4365の……」
番号を告げると、手際良くボタンを繰る指が、アドレス帳の名前
を『雪生くん』と入力するのが見えた。
「時々、かけてもいい?」
「もちろん、美紅さんなら大歓迎。どこでも、何時でもいいよ。寝
てても起きるから」
「ホントに? そんなこと言うと、真夜中にかけるよ。私、夜更か
しだから」
「ゼンゼンO.K。俺も夜更かしだもの」
「CD聞きながら?」
「ご名答」
「……やっぱり、私達、気が合うみたい。ね? 雪生くん」
激しい動悸。胸の高鳴り。見上げた瞳を見つめ返すと、俺は大き
く頷いた。
「相性バッチリってか?」
彼女はふふふ、と小さく笑った。逸らさずに視線を合わせ続けた
その瞳の色に、ただの友達以上の感情があるように感じたのは、俺
の独り善がりだったろうか。
その日の深夜。
時計の針が三時を回っても意識が冴えたままで、眠気が一向に襲
ってこなかった。ベッドに横になって、小さな窓の向こうをじっと
眺めていた。
漏れ出た光に呼ばれて、ガラスには小さな蛾や羽虫が集まってき
ていた。そして、その向こうに輝く下弦の月。寄り添うように輝く
星の光をぼんやりと眺めながら、何度も繰り返し思い浮かべていた。
音楽をかける気にはなれなかった。彼女の姿や声を思い返す度に、
胸奥が燃えるように熱くなる。でも、身体は驚くほどに冷静で、心
だけがどんどんと先へ進んでいく感覚。
こんな気持ちは全く感じたことのないものだった。
きつく目を閉じて頭の上に手を重ねた時、机の上に置いた青い携
帯電話が、低い振動音を立てた。
とっさに飛び起きて、ディスプレイを見た。
発信元には、如月美紅の名前。
「はい」
通話ボタンを押した俺の手は、少し震えていただろうか。
『あ……。雪生くん。起きてた?』
躊躇いがちな声。
「もちろん。夜更かしはお互い様でしょ」
『うん、そうだね。でも、もうすぐ三時半だよ。いっつもこんなに
遅いの?』
「……いや、今日は特別。何か、眠れなくて」
言ってから、深い意味に取られないだろうか、そんなことを考え
た。
『私も。どうしても眠れなくて……』
嬉しかった。彼女もそんな風に感じていたんだ。
『……あ、うん。ほんとは一言だけ言いたくて』
「何?」
『ありがとう、雪生くん』
また所在のわからないお礼の言葉。俺は、携帯を持ったまま苦笑
いをした。
「また、ありがとうなの? 俺、何もしてないけど」
『いいの。私がそう思うんだから』
少し拗ねたような声が可愛かった。もう、どんな表情で言ってい
るのか想像することができた。
『ほんとに、雪生くんと話してるとホッとする。多分、雪生くんと
私って……』
その後の言葉は止まり、携帯の向こうで沈黙が流れた。
『……何でもない。また、今度ね』
「あ、言いかけはズルイ。気になる」
『いいの。今日は、もう、おやすみ。明日、きついよ。登校日でし
ょ』
あ、そうだ。すっかり忘れてた……。
『じゃ、おやすみ。雪生くん』
「おやすみ。きさ…、じゃない、美紅さん」
小さな声でくすっと笑った。
『おやすみ……』
通話が切れた。携帯を机の上に戻すと、ベッドの上にドサリと勢
いよく仰向けになった。
そして、目を閉じる。
私も、どうしても眠れなくて……。
俺と同じ気持ち。そして、優しい声。胸の熱さは、次第に穏かな
温かみに変わっていく。
そんな気持ちをどう捉えていいかわからないまま、俺はまんじり
とし続けていた。いつか、東の空は明るくなり始めていた。