2.Bay−Side Parkで

 2031年3月、時紀と真奈美が一緒に暮し始める以前のこと。
 時紀は、新居住区と本来の湾岸の間に掛かった短い橋を、湾岸側
に向かって歩いていた。
 右手には画材とキャンバス、左手には折り畳んだスタンドを持ち、
麻色の春物コートを羽織った182cmの長身は、一見美貌の画学
生といった感じだった。
 出番でもコール待ちでもない完全休暇の日が雨でないことなど、
そうそうあることではなかった。しかし今日は、薄い高層雲が空に
かかっている他は、雨の降りそうな兆候はなかった。
 時紀は、昼間で交通量の少ない湾岸道路を小走りに渡ると、公園
の中に入っていった。
 いつも陣取る公園の北側の端まで歩いていくと、スタンドを立て、
黒い鉛筆で素描されたキャンバスを置いた。キャンバスには、左右
に広がる木立の間に立ち上がるタウンと、さらに遠くに霞む巨大な
スペース・ポートが見て取れた。そして、右側の木の枝をつかむよ
うにしているのは、人の姿のように見えた。
 時紀は、この場所に立って絵筆を持つと、いつでも不思議な感触
が頭の奥をよぎるのを感じた。何が引き起こすのか、いつまでもこ
の場所で絵を描いていたい、そんな欲求が湧き上がるのだ。執着や、
強い欲求に駆られることのほとんどない時紀にとって、それは馴染
みのない感情だった。
 ちょうど、4Bの鉛筆を取り上げて下書きの完成にとりかかろう
とした瞬間、強い光が頭上から降り注ぎ始め、ギョッとして天を仰
ぎ見た。
 重なった雲を切り開いて、陽光が姿を見せ始めていた。
 時紀は目の上に手をかざすと、踊り狂う黄光色に目を細めていた。
それは、半年ぶりに目の当たりにする陽の光だった。
 そう広くはない“Bay−Side Park”は光で溢れてい
た。中央にある小さな噴水が、光を受けて数万色のきらめきを見せ、
名も知らぬ数十本もの木々が、その広げた葉に春の緑光を散らした。
 噴水をはさんで、時紀のちょうど真向いの青いベンチに座ってい
た老夫婦の会話が、ほんの少しだけ耳に届いた。
「・・・ありがたいね」
 ありがたい、か。この光景は、まさに祝福だな。
 祝福・・・児童村にいた頃、幾度か母親代わりのマーチャー(M
ochear)が20人もの“子供”達を前に聖書の説教をするな
かで聞いた言葉だった。
 もっとも俺が、祝福に値する人間であるわけもないが。
 しかし、大都会の真ん中で暮らす者なら誰もが知っていた。今や、
生気を放つ緑の眺めなど、少なくとも都内では望むすべはないのだ、
と。皇居の緑も、明治神宮の森も、既にほぼ失われつつあった。
 降り続く酸性の雨に、日照不足。その上、太陽が顔を出せば、オ
ゾンの薄層化で浴びせかけられる紫外線。そしてまた、世界規模で
の温暖化のために、あいまいさを増す四季の変化。
 それら生態系すら崩壊させる変化の中で、緑に輝くこのBay−
Side Parkは、まさに祝福であり、奇跡だった。
 鉛筆を手に持ったまま、時紀はしばし目を閉じ、ふくらんできた
イメージを心の中で具体化しようとしていた。それは、もう一ヶ月
も前に、この素描が途中で終わった時のことだった。
 あの時、右側の桜の木の下にはあの少女、真奈美という名の女の
子がいて、仰ぎ見るように、まだつぼみさえつけていない二月の桜
に語りかけていた・・・。
 過去のイメージと、春の陽光に満たされた現在とが胸の内で一つ
になり、定着した時、時紀は目を開けた。そして一瞬、自らが時間
を逆行したかのような錯覚に襲われた。
 穏やかな光の中、透き通るかのように軽やかで細い身体を揺らし
て、桜の木の下に、緑の精が立っていた。まだ丸みを帯びない、し
かし柔らかい線を持った小さな身体を包むのは、目にまぶしいライ
トグリーンのワンピースと、白いアクセントの入ったグレーのブレ
ザー。そして、白いファッションネクタイが、清楚さを強調するか
のように胸の間で光っていた。
 茶色の瞳が揺れると、静かに唇が開いた。
「こんにちは。影山さん。やっぱり来てたんだね」
 少年がかった所さえある少しハスキーな声が、時紀の耳を捉えた。
「こんにちは、真奈美ちゃん、だったよね」
 軽く首を縦にふった表情は、数限りなく相手をしてきた女性達と
は違う、飾らないそのままの素顔だった。
「学校は?」
 時紀の瞳を見つめると、一瞬の間の後、口を開いた。
「信じてないんだ、この間言ったこと。住み込みでお手伝いさんし
てるのよ」
「じゃあ、中学は卒業してるってわけ?悪いけど、そんな年には見
えないな」
「そう?」
 時紀の言葉にはそのまま答えず、まぶしそうに空を見上げた。
 時紀は鉛筆を置くと、後ろのベンチに腰掛けた。
「なら、昼間にこんな所をうろついてていいのか。今がお手伝いさ
んの仕事時間だろう」
「そう、ね。でも、あんまりきれいだったから。きっと、ここの木
や花も喜んでるだろうと思って」
「それを確かめにきたってわけ?」
 真奈美はうなずいた。
 ・・・かなわないな。
 この間も木の言葉がわかる、そう聞いたような気がしたが、本気
で信じているようだ。
 たぶん中学一年生ぐらいだろう、もしかすると小学生かもしれな
い、時紀は思った。
 さっきまで空か、それとも枝を広げた桜の木を見ている様子だっ
た真奈美が、時紀の視野の中を近づいてくると、ぺたりと隣に腰を
下ろした。それが、あまりにぴったりと近くに座ったので、時紀は
驚いていた。
 それは、まるで無防備で、この年頃の女の子としては信じられな
いことだった。
 時紀は、座ってしまうと頭が自分の肩までも届かない、きゃしゃ
な少女の表情を横目でみた。
 茶がかったショートカットの髪に包まれた静かな表情には、少し
の邪心も感じ取れなかった。いや、このような態度をとる女にあり
がちな、男に頼ろうとする姿勢ではなく、あまりに硬質な“少女”
の部分が、この子を支配しているように感じた。
「ねえ、影山さん」
「え?」
 向いの老夫婦がこちらを見ていることに気を取られていた時紀は、
真奈美の声に振り向いた。
 彼女は桜の木とは反対の東側に植えられた、何本かの背の低い木
を指さしていた。
「あの木の名前、わかりますか」
 小さな葉のついた緑の枝を四方に張り、紅の花をいくつも咲かせ
た美しい木だった。
「わかんないな。俺はそういうことは知らないんだ」
「ボケの木です」
「ボケ?」
「そう、変な名前でしょう。でも、すごく優しいの」
 真奈美は真面目な顔で続けた。
「この間、影山さんと初めて会った時、あの木が教えてくれたの、
あの人はいい人、友達だって」
「俺のことをか?」
 時紀は笑った。それでも真奈美の真面目な表情が崩れないので、
もう一度堅めの口調に戻した。
「真面目に言ってるのか?」
 また、口を閉じたままうなずいた。
「ボケの木の向こう側に白い花をつけた低い木があるよね」
「ああ」
 時紀はうなずいた。
「あのジンチョウゲの木は、すごく知的なのよ。私がいろいろ話し
かけても、ほとんど理解してくれる。もちろん、はっきりとした答
えをくれるわけじゃないけれど。わかってる、っていう感じだけは
伝わってくる」
 そう言うと、真奈美は立ち上がった。時紀は、一瞬、時のたつを
忘れて、桜の木に歩み寄っていく真奈美の姿を見つめた。
 それは、二月の時とまったく同じ光景で、その枝に、花開く前の
桃色のつぼみがついていなければ、これが初めての出会いで、あの
記憶は夢だったのではないか、と錯覚するほどだった。
「ん」
 桜の木の肌に頬を押し付けるようにしていた真奈美が、小さな声
で言うのが聞こえた。そして、閉じていた目を開くと、時紀に向か
って言った。
「いいんだ。信じてもらえなくても。聞いてもらえただけで。今ま
で・・・」
 言いかけて口をつぐんだ。もう彼女は、桜の木よりむこうに歩み
去りかけていた。
 時紀は、不意に思い浮かんだ言葉を口にした。
「・・・それ、桜の木に聞いたのか?」
 その声が届いた瞬間、真奈美の静かな表情に、初めて満面の笑み
が浮かんだ。
「もう、行かなくっちゃ。絵、また描きに来てね」
「ああ」
 もう、出口近くまで行っていた真奈美に向けて、時紀は大声で応
えた。そして、その姿が消えてしまってからも、じっと公園の出口
を見つめ続けていた。
 目に色を戻して、我にかえった時、公園には誰もいなくなってい
た。正面にいたはずの老夫婦も、いつのまにか姿を消していた。た
だ、きらめく陽光はそのままで、一時間ほど前に後にしてきたマン
ションが、銀色の光をはなって南の空にそびえていた。
 真奈美の言ったボケの紅い花を見た。
 優しいの、か。
 馬鹿げたようにも思えたが、最後にみせた満面の笑みがはっきり
と心に残っていた。
 その時、時紀は、重苦しかったはずの気持ちがすっかり晴れ渡り、
自然と絵のイメージが湧いてきたことに気づいた。
 そして、桜の木の下で空を見上げる少女を、ていねいに描き始め
た。

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