4.リアリティ

 半月前、Bay−Side Parkで日の光を見てから、再び
雨と曇りの日が続いていた。
 そして、その三月第一週のメイクアップ・デイ以来、KTVのニ
ュースキャスター柏原忍は、二度ほどTwilight−echo
esを訪れ、時紀を指名していた。
 店の看板、“シャドウ”にまた一つ権威と、それに伴うおもねり
や嫉妬が付け加えられた。
 時紀にとっては、決して迷惑なことではなかったが、それをしか
けた肝心の理絵から何の連絡もないのが気にかかっていた。
 もちろん理絵は、時紀の現在住んでいるマンションの出資人であ
るのだが、仲間の他のパトロンのように、頻繁に接触を取りたがる
わけではなかった。
 これはもう、時紀が17才の時からの付き合いであるせいでもあ
ったが、最初の頃も、そう頻繁には会っていなかったように思えた。
 今日は自宅でコール待ちということもあって、時紀は、午後も3
時を回った頃に起き出した。
 ひげを剃り、軽く化粧をして短い髪を整えると、たぶん今日のよ
うに悪天候ではコールもあるまいな、と思いつつターミナルをオン
にした。
 デイタイム版の新聞を受信すると、主要なニュースに目を通した。
 目を引くニュースは出ていなかったが、今年はソビエトの穀物生
産が好調そうだ、というニュースに、時紀は多少の安堵を覚えた。
食料品、特に野菜や米、パンなどの主食の高騰に、月収百万をゆう
に越える時紀でさえ、物価に多少の不安を覚えていたからだ。
 明日も、雨か。せめて曇りならな。
 あれ以来、公園に絵の続きを描きに行く機会はなかった。
 ダイニングに行くと、沸かしていた湯でコーヒーをいれ、リスニ
ングルームのガラステーブルに置いた。特に見る番組があるわけで
はなかったが、TVスクリーンをつけると、CATV局の一つ、J
TNを選局した。
 JTNはドキュメンタリー中心の、ハードな時事問題を扱う局で、
理絵もときどき顔を出していた。
 南側の壁を占めるスクリーンいっぱいに、茶褐色の大地が映し出
されていた。やがて、オーバーラップして、黒い題字が現れた。
「アフリカ・人と大地の真実」。ナレーションが、この二十年余り
の気象変動の有様を概略し、そのために姿を変えつつあるサバンナ
の生態系を説明した。
 時紀は、ナレーションの声が誰であるかすぐに聞き分けていた。
 アフリカに行ってた、ね。嘘じゃなかったわけだ。
 倒れたキリンの死体が泥の沼の中に半分埋もれて、強い雨に洗わ
れている絵が、アップで映されたとき、部屋の隅の方からリズミカ
ルな呼び出し音が響いた。時紀はTVの音を消すと、新聞を見たと
きのままになっているターミナルの前に座ると、「はい」と音声認
識装置に言った。
 回線が開くと、聞き慣れたマスターの声がして、一言だけ言った。
「女王様からだよ。つなぐか?」
「ええ」
 少し長めのサーチ音がした後で、声がした。
「元気?あれ、絵、つけなよ」
「ちょっと待って」
 ディスプレイの横のスイッチに触れると、いままで全面に記事が
広がっていた画面の一部が切り取られて、人の顔になった。
「なんだよ」
 理絵の押しの強い顔が現れると、時紀はぞんざいに言った。
「つれないなあ。ほんとは待ってたんじゃない?今日は、あたしも
フリーなんだよね」
「断わりたくても、コールだからね。そのつもりで店を通してつな
いできたんだろう」
「わかってるじゃない」
 画面の中で理絵は笑うと、「じゃ、後で」と告げて回線を切った。
 時紀はもう一度店につなぐと、今日は終日理絵と行動を共にする、
と報告し、出かける支度を始めた。
 まったく、タイミングのいいことだ。
 すみれ色のえり無しシャツの上に、さっき理絵が着ていたのと同
じ黒い皮ジャンを羽織ると、昔もらったメタルのブレスレッドをつ
けた。
 つけられたままになっていたTVに、ちょうど理絵が映っていた。
幾人かのコメンテイターと、環境問題について論じ合っているとこ
ろだった。
 男装の美人キャスター市村理絵は、今や各局で人気番組に出演し
ていたので、TVで顔を見ることは希ではなかったが、時紀は、画
面で正論をはく彼女の姿を見ると、少なからず複雑な気分にさせら
れることがあった。今も、そんな気分だった。
 おそらくそれは、以前、理絵本人にも直接言ったように、プライ
ベートな印象とのギャップからくるものだろう。
 全ての電源を消すと、帰宅時間を午前2時に設定した。帰る頃に
は、室温は元に戻り、風呂もできあがっているはずだ。
 時紀は風の吹くドアの外に出ると、マンションを後に、地下鉄の
ホームへ下りて行った。

「気、使ってぇ。時紀のそういうとこ、好きだよ」
 羽織ってきた皮ジャンと、腕に巻いたブレスレッドを見るなり、
理絵は言った。
「職業意識さ」
 その時、時紀はそう答え、広々とした理絵のマンションに入った。
 それからリビングに移り、まだ早すぎるスコッチを口にしながら、
気の向くままに言葉を交わした。
 白地に絵の具を散らしたようなシルバーのチェックが入ったポロ
シャツを着て、タイトな黒いスラックスの足を組んだ理絵は、やは
り少し焼けたようで、いつものように皮肉っぽく笑うと、白い歯が
目立って見えた。
「また、だしに使っちゃったね」
 柏原の事を口にすると、理絵は笑って言った。
「あの人は、ファミリー向けの顔が売り物だから、ホモ志向だなん
て知れたら致命的だからね。あたしはああいう場所に顔だしてるの
がばれても、かえって宣伝効果になるぐらいだから、まあ、いい作
戦ではあったわけ」
「柏原をはめて、なんかメリットがあるわけか?」
「結構、コネ持ってるから。あたしが利用する価値はあるね」
「ひとこと、言っといてくれればな」
 時紀は軽くロックのグラスに口を触れた。
「時紀が臨機応変に対応するかな、と思って」
「・・・すぐ、俺を試すんだな」
 時紀がソファにもたれて言うと、反対側に座った理絵が目を見つ
めたまま応えた。
「あたしの一番大事なアイテムだからね、時紀は。ときどき磨きを
かけないと、その辺の奴と同じレベルになりかねない。まあ、そん
なこともないだろうけれど」
「ただ、擦り切れてるだけさ。これ以上擦り切れそうにもないから、
理絵のマイナー趣味も満たされるだろう」
「どうかな」
 理絵は立ち上がると、時紀の横に腰掛けた。175cmの背は、
時紀と並んで座っても、そう遜色なかった。
 いつもながら化粧の薄い理絵の顔を見ると、出がけに見たドキュ
メンタリーの中での熱を帯びた口調と、真剣な顔が思い浮かび、時
紀はそのギャップに笑いがこみ上げて来るのを押さえられなかった。
 軽く鼻で息を抜くと、理絵が横を向いた。
「なに」
「いや、アフリカ行ってたんだな、と思って」
「当り前のことを。店で言ったろうに」
「そういうことじゃないんだ」
 時紀は肩をすくめた。
「出て来るとき、ちょうど理絵の番組がやっててさ。汚ねえ策略し
てる人間がさ、ああいう真面目なことを言えると思ったら笑えてき
たわけ」
「ああ、そういうことか」
 理絵はアイスピックで氷をつぎたした。そして、グラスに口をつ
けながら、今度は思い出すように窓の外を見ながら言った。
「別に、それは真実だからいいんだけど。ただね、言っとくけど、
あの番組では真面目に言ってるつもりだ。確かにアフリカの生態系
は変わりつつあるし、それは地球全般にもあてはまることなんだ」
 外向けのより男性的な調子になって、理絵は言った。
「そりゃね」
 論点がずれたな、時紀は思った。
「・・・あそこじゃあ、でかい生物はどんどん死んでるんだ。象と
か、キリンとかね。それに、大型の肉食獣も。しぶとく生き抜いて
るのは、専ら小さい奴で、雨と食料不足を逃れてうまくやってる。
それに、驚いたことに、そういう今まで草食だと思われてた奴が、
雑食になって生き延びようとしているんだよね。いや、生き延びつ
つあるというべきかなあ。人間が起こしたにせよ何にせよ、自然淘
汰や進化は、いま種を保存するために急速に行われているんだよね。
そのことはあたしのしていることとは関係なく真実だよ」
「いやさ、それはわかるけど、俺の笑ったのは、理絵の阿修羅像み
たいな顔の多さで、わかりきってる自然破壊とは関係ないな」
「わかってる。そう、阿修羅みたいな、ね。あの三つの顔は、多面
性を表してもいるわけだけど、それは、あたしにもあてはまること
だね。もちろん、時紀にもね。でも、今言いたかったのは、あたし
がプライベートで何をしていようと、番組の中では本気ということ
よ」
 また視線を定めずに窓の外を見ていた。時紀は、あまり見たこと
のない、いや、自分が理絵に初めて心を預けた時、たった一度だけ
見た悲しげな表情が、再びその目に浮かんでいるのに気づいて、グ
ラスを置いて理絵の方を見た。
 ふざけて口にしたつもりだったが、もうそれだけではすみそうに
なかった。
 しばらく黙った後、理絵は言った。
「・・・真剣に自然の行く末を論じているときのあたしも、いいネ
タとコネを求めて汚い手を使うあたしも、時紀をおもちゃにして所
有してるあたしも、全てが本物よ。それが人間の持ってる多面性だ
から。あんたがギャップを感じても、全部のあたしが本物なのよ」
 時紀は、無意識に浮浪者を足下にした時の事を思いだしていた。
「だから、ね、人間は、いくら望んでも自然に生きることはできな
い。あたしも含めて、人の欲求は生きるためだけのものではないか
ら。自然保護を訴える人間自身が、既にそれと相反する欲求や必要
を満たしていかなければ生きて行けないし。時紀、地球上の生物種
って、20世紀にはどれくらいあったか知ってる?」
 少し考えて言った。
「50万くらいか?」
「違う。1960年代までは500万種くらいと言われてた」
「・・・今は、20万、てか」
「この間、言ったっけね」
 理絵はまた一つ息をつくと、続けた。
「燃料を燃やせば酸化イオウや酸化窒素が出るから、酸性雨が降り
やすくなるし、植物が育ちにくくなる。都市の灰塵や二酸化炭素は、
温室効果を産むし、南米やインドは貧困のどん底だから、どんな森
でも焼いて畑にしてしまう。それで森がなくなれば、土壌が流れて
生き物は死んで、空気中の二酸化炭素も処理されない。こんなこと
は、もう100年近くも言い続けられてきたけれど、結局、最終的
には必要の方が優先してきたしね。でもその必要は、人間だけの必
要で、地球のものではなかった。だから気が付いたときには、“地
球の風邪”だったわけ」
「ああ、児童村にいる頃習ったよ。あそこにいたマーチャーもいろ
いろ言ってたけど、まあ、理絵よりは希望的だったな」
「あたしは、いろいろ見てるからね」
 理絵は言って、ソファにもたれた。
「・・・くだんない。もう、この話やめよう」
「どうして」
 時紀は言った。理絵がこういう硬い話をするのは珍しかったし、
時紀は何かが見えてきそうな気がしていた。
「わかりきってるから。やな話だしね」
「俺は初耳だな。真面目な話はしたことがないだろう。いつも理絵
は、シナリオを棒読みしてるだけかと思ってたよ」
 理絵は時紀の頬を撫でると、顔を近づけた。
「生言うじゃん。時紀君。あたしの膝で泣いたこと、忘れたわけじ
ゃあるまい?」
「そりゃね」
 軽くいなすと、ナチュラルチーズの切れ端を一つ、口にいれた。
「・・・馬鹿やってるのも、あたしの顔のひとつよ。時紀みたいな
ガキの前で、理屈ぶってもしょうがないからね」
「まあね」
 時紀が皮肉に取り合わなかったので、理絵は諦めたように言った。
「ま、いいよ。たまには硬い話も悪くはないだろ。時紀も、身体だ
けが売り物のホストじゃ先行き暗いし」
 時紀は軽く笑った。
「結論出てたわけじゃないんだよね、結局。ま、だから、人間は自
然の一部でありながら、同時にそれを頭一つ越えた存在であるって
ことね」
「よく言われることではあるな」
「まあね。ただ、その意味を本当に理解しているかどうかが問題・・・。
そのことを知っていて、自然と共存していこうと考えるなら、人は
多くの物を捨てる必要があると思う。北海道で村を作っているナチ
ュラリストのようにね」
「ああ、“夫婦村”ってやつだろう」
「そう。でも、あたしにはああいうのは無理だな。今更、土いじり
なんてできるわけもないし。それに、麦さえ出来ない世界の有様を
見てると、人間の時代は終わろうとしていると感じるから。それな
ら、ヤヌス性を抱えたまま、自分の全てを愛して、認めていきたい
しね。それで滅びるなら、満足じゃない?人間らしくて」
「・・・自分勝手にも聞こえるな」
「たぶんね。正直と言うのは、そういうことよ。正直でいれば、ど
ちらかの極端に走ることになるでしょう?」
「そうなのかな」
 時紀には、理絵の気持ちは今一つわからなかった。
 生きるということに、理絵のような意味づけが必要なのか?時紀
は、自らが生きている事実を、客観的に考えたことはほとんどなか
った。
 ただ、夜が始まって、理絵の筋肉質で硬い背中を抱いた時、時紀
は尋ねた。
「理絵は、いま何の顔をしてる?」
 理絵は問いかけには直接応えずに、時紀の腰の辺りをまさぐった。
 そして、真正面から瞳を見つめると、
「これが、私の欲望よ」
 と低い声で言った。

 終電に間に合う時間はとうに過ぎていたので、時紀は祐天寺にあ
る理絵のマンションを出ると、タクシーに乗った。
 理絵は、朝が嫌いだった。繰り返す日々が始まろうとしているの
を思うと、やりきれなくなると言う。そして、何の価値もない卑小
な一人の女に戻っている自分を、誰であれ見て欲しくないと言うの
だ。
 だから時紀は、いつも夜明け前には引き上げることになっていた。
「帰るんだね」
 身支度を済ませて部屋を出ようとした時、理絵は言った。
「ああ、もう、2時半だ」
 時紀が言うと、理絵はベッドの中で眠そうに目をこすった。
「・・・またしばらく、海外に行くことになってるから。今度は、
三ヶ月は帰らないと思うよ。もしかすると、もっと長くなるかもし
れない」
「そんな長く、どこへ?」
「インドから、南米。来年のCATV各局の合同スペシャルの取材」
 理絵は暗がりの中、低い声で言った。
「あんな生き地獄へか。大丈夫なのか」
「大丈夫」
 まだ言葉を続けようとしていた理絵を遮って、時紀は今気づいた
事を口にした。
「あ、もしかして、そのスタッフに入るのに、柏原使ったな」
 理絵は低い声で笑った。
「当たり。いい子ね、時紀」
「たく、何を考えてわざわざ」
「生きがいよ」
 一言だけ言うと、毛布を引き寄せて枕に頭を埋めた。時紀はベッ
ドルームの扉を開けると、最後に一言言った。
「気いつけろよ」
「ありがと」
眠そうな声と共に、ドアを閉めた。
 今、タクシーに乗った時紀が、ウインドウのの外を見ると、今日
は激しく降るはずだった雨が止んで、流れる雲の合間に星が見えて
いた。
「雨、止んだね」
「そうだねえ。ひっさしぶりだね、一月かな」
 運転手は時紀に応えると、近づいてきたベイエリアの南の空を見
た。
「三週間ぶりだよ。運ちゃん。3月4日に晴れたからね」
「そうかね。どっちにしろ、久しぶりだねえ」
 ベイタウンの近くまで来た時、時紀は不意に気づいたようにタク
シーを止めた。
「ここでいいよ」
「え?でも、こっからじゃ随分歩くんじゃないかい」
 港ごしのタウンの光は、まだ遠かった。
「いいんだ。少し歩くよ」
「そうかね」
 時紀はタクシーを下りると、湾岸道路沿いに歩き出した。真夜中
の海風が、南から吹き付けていた。
 微かな月の光の中、時紀は空を見上げた。何かがわかるようで、
胸が痛かった。その想いの行き先を知りたくて、タクシーを下りた
のだ。
 俺は、何をしたい?何をしたい?何をしたい?
 俺は、何を求めている?何を求めている?
いや、俺はいったいなんだ?
 この半月間、感じ続けていたつかみどころのない絶望感が、理絵
の言葉に触発されて、その根っこを見せようとしているように感じ
ていた。
 過ぎ去ってきたいくつかの過去。知っていたのは数限りない人々
の欲望だけだ。
 時紀は思った。児童村がつぶれて、街の中に一人で放り出された
時以来、俺は何を見ていたのだろうか、と。
 何も見てはいなかった。それが時紀の答えだった。
 建設中のまま放り出されたビルの中に住みつき始めた頃、稼ぐた
めには自分の身体を使うのが一番だと教わった。7才の時には男に、
8才の時には女に初めて買われ、いつからかここまでの生活が出来
るようになった。これが俺が勝ちたいと望んでいた姿なのか。
 汚物にまみれたオフィス用だったビルのフロアー、少年にしか興
味の持てない金持ちの女、俺の顔に、何度傷を付けようとしたかし
れない鼻の曲がった少年、吐き出された汚物のような言葉の群れ。
 それら全てを無視し、目を凝らさずにいることが生きる条件だっ
たはずだ。いや、そんな風に意識したことさえない。それはあまり
に当然な人の現実だったはずだ。
 しかし、認めること、その時俺は何かを置き忘れた。それは、そ
れは、・・・俺も人間だという事か?
 時紀は、目的地だったBay−Side Parkの入口まで歩
いてきた。そして、胸の重みがほんの少しだけ軽くなるように感じ
て、足を止めて微笑んだ。
 そうだ。認めている俺も、それと同じ人間で・・・では、俺は一
体なんだ?
 時紀はその問いを発した時、答えられるはずもない自分を見つけ
ていた。そして、鍵となる過去の姿も、言葉も、一つも思い浮かば
ないことを知って、身体が冷たくなるのを覚えた。
 俺は・・・
 タウンの黄色い光だけが差し込む公園の中に、誰かが立っていた。
北側の桜の木の下に、小さな影が立っていた。
 どちらが先に気づいたろう。声が聞こえた。
「・・・影山、さん?」
 時紀は錯綜していた思いを忘れて、いつも絵を描く北側の木の下
へ、ゆっくりと歩いて行った。
「真奈美、か?」
「・・そう」
 近づくと、はっきりと顔が見えてきた。真奈美は、小さなバッグ
を持って、時紀の顔を見上げていた。
「こんな時間に、いったいどうしたんだ。家の人に心配かけるだろ
う」
「だから、」
 前と同じように、真奈美は言った。
「住み込みでお手伝いさんしてるって・・・もう、違うけれど」
 時紀は、何があったんだ、と尋ねた。真奈美は、小さな声で、仕
事が手につかない自分の事を口にし、解雇された、と言った。
「もう、ここへはこれないかもしれない。だから・・・」
 時紀は、だから別れをいいにきた、と心の中で付け加えた。
「地元へ帰るのか?一晩、ここで夜明しして」
「家族はいないから。しばらくはこんな風にしていようかと思って
た」
「こんな風にって?」
「公園とか、お社とかで過ごす」
「・・・おい、おい。女の子が一人で。何があるかわからないんだ、
今の東京は。いったい、どこから出てきたんだ?」
「北海道」
 時紀はため息をついた。そして、真奈美をベンチに座らせると、
自分は立ったまま言った。
「死ぬぞ。帰れ」
「・・・いいの。私もそれが望みだったのかもしれないし。それに、
向こうには私の帰る場所はない・・・」
 時紀は、そう言ってうつむいた少女を見て、なんと頼りないんだ
ろう、風にさえ折れそうだ、そして、もしこのまま自分が見捨てて
しまったら、本当に死ぬかもしれないと感じた。
 それに今、それが望みだったかもしれない、と言わなかったろう
か。
「・・・家に来るか?」
 しばらく黙っていた後、時紀は言った。真奈美はよく聞こえなか
ったというように顔を上げると、時紀の目を見つめた。
「一晩泊まれよ。そしたら、田舎に帰ればいい。明日、一緒に駅ま
でに行ってやるよ」
 次の一瞬、時紀は耳を疑った。その小さな身体のどこに、そんな
声を出す力があったろう。
「いや!!」
 絶叫に近かった。
 そして、立ち上がると、一目散に公園の外に駆け出した。
「おい!」
 時紀は後を追った。すぐに追いついて腕を取ったが、真奈美は信
じられないほどの力であらがった。
「放して、いや!放して!いや!いや!!」
 腕をふり解こうとしている真奈美の目を見た時、腕をつかんでい
るだけなのに、まるで強姦でもしようとしているかのような錯覚に
捕らわれた。それほどに必死の視線で、ただならぬものを感じさせ
た。
「わかった、いいから、落ち着けよ。何が気にさわったんだ?落ち
着けよ」
 真奈美は、時紀の目をじっと見た後で、力を抜いて、あらがうの
をやめた。
「ごめんなさい」
 時紀は腕を放すと、一息ついた。
「いいよ。でも、なんでそんなにいやがるんだ?わけを言えよ。別
に、何も言わないから」
 うつむくと、首を振った。
「いいの」
 そのさっきまでとはうって変わった静かさに、時紀は何も言えな
かった。
「・・・ありがと。やっぱり、影山さんはいい人よね。心配しない
で、一人でやってきたし、なんとかなるから」
 そう言って、カバンを持つと、立ち上がった。
 瞬間、時紀は命令調で言った。
「だめだ」
 え?と言うように真奈美は時紀を見た。
「どうしようっていうんだ?クビになったって言ったろう。北海道
のガキが、東京で一人で生きて行けるか。ほっとけるわけないだろ
う」
「でも」
「きなよ。広い部屋だ。真奈美一人ぐらい住める」
「でも・・・」
「いいから。おまえみたいなガキなら、何にもしやしないよ。そん
な気にもならない」
「・・・そんなことは、思ってない。影山さんは、いい人だから」
「じゃあ、いいじゃないか」
 時紀は、真奈美の持っていたバッグを取ると、自分が持って歩き
出した。真奈美は小走りにその後に続いたが、橋の辺りまで来ると、
時紀に言った。
「本当に、迷惑じゃないの?」
「ああ」
 時紀は、ほんの少しの後悔と共に言った。そして、昔の俺なら、
絶対にこんな事はしないだろう、とも思っていた。
 しかし、そんな思いを吹き飛ばすように、真奈美が時紀の手を握
った。
「・・・ありがとう」
 時紀は、その細い手を握りしめると、できるだけ優しい声で言っ
た。そうでなくてはいけないような気がした。
「いいよ」
 胸が、熱くなった。

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