5.Night&Day

 翌日、目を覚ました時紀は、昨夜の事を思い浮かべながら、後悔
にも似た胸の痛みを覚えてしばらくベッドの中で考え込んでいた。
 わけのわからないことをした・・・。俺も、あの子の魔法にかか
ったのだろうか。
 ベッドサイドの時計を見ると、もうすぐ12時になるところだっ
た。
「はい」
 その時、ベッドルームの扉を叩く音がしたので、返事をすると、
ドアを開けて真奈美が顔を出した。
 昨日パジャマ代わりに渡したジャージは着ておらず、もうスカー
トとシャツに着替えていた。
「起きました?」
「ああ」
 時紀は身体を起こすと、開いたドアの向こうから、何か匂いがし
てくるのに気づいた。
「あれ?何か匂いが・・・もしかして?」
 真奈美がうなずくと、時紀は困ったように言った。
「そんなこと、しなくていいんだ。材料、買ってきたのか?」
「うん」
 時紀は頭を掻くと、言った。
「今、着替えるから。ちょっと待ってて」
 真奈美はドアを閉めた。


 いつもよりすこし早い朝は、鮮やかな緑と赤で彩られていた。
 ほとんど使ったことのなかったダイニングのテーブルには、新鮮
な野菜と、トースト、熱そうなホットミルクが置かれ、時紀はテー
ブルの前で立ち止まって、それらをしばらく見おろしていた。
「・・・どこで買ってきたんだ?レタスなんて、何千もするものを。
トマトまで」
「気に入らなかった?」
 心配そうに聞くと、真奈美も立ったまま時紀を見つめた。
「いや、そんなことはないけれど・・・どっからそんな金を?」
「辞めるときの、最後のお給料。けっこうあるの。何十万か」
「そんな金、使うなよ。俺が払うから。とっといて、いざというと
き使うんだよ、そういう金は」
 時紀は少し怒ったように言った。
「でも、泊めてもらって、食事までみてもらうわけにはいかないか
ら」
「・・・聞こえないな」
 時紀は言うと、椅子に腰掛けた。そして、フォークを取ると、き
れいに盛り付けられたサラダを見て、言った。
「ほんとにうまそうだ。お手伝いさんというのも、まんざら嘘じゃ
あなかったのかな」
「影山さん、でも」
 まだ立ったまま、真奈美は言った。
「いいから。座って食べようよ。俺は、朝めしなんて、何年ぶりだ
よ。ほんと、ありがと」
 この子にだったら、今まで言えなかったどんな優しい言葉でも、
口に出来そうな気になってきていた。
 真奈美は腰掛けたが、まだすまなそうに時紀を見ていた。
「じゃあ、」
 時紀は手に持ったフォークをもう一度テーブルに置くと、真奈美
に言った。
「君は俺のまかないだ。いろいろ身の回りのことをしてくれるかわ
りに、俺が生活の面倒は見る。それでいいだろう」
 真奈美はしばらく考えていた。
「・・・うん。それなら」
「よし。決まりだな。細かいことは、また追々話し合えばいい。と
にかく、食べようぜ」
 そして、幾らか食べた後で、真奈美が言った。
「・・・すぐに、行き先決めるから」
 時紀は、食べる手を止めると、強い調子で否定した。
「だめだ。君は危なっかしすぎる。俺は人殺しはしたくない。・・
本当に出てきたいなら、引き留めはしないが、俺への気遣いで出て
くなら、引き留めるぞ」
 真奈美はまたうつむいて、ほとんど食事に手をつけないまま、フ
ォークを置いてしまった。
 その様子に、時紀は語調を和らげると優しく言った。
「・・・慌てることはないだろう。まず、ゆっくり考えろよ。自分
の行き先と、これからどうするか決まったら、その時は、一人にな
ればいいんだから。信用しな。別に、だまそうとしてるわけじゃな
いんだから。・・・なんとかの木が言ったんだろう、俺のこと、い
い人だって。しばらく安心してここにいろよ。一人ぐらい、ゆうゆ
う養っていける金はあるんだから。じゃなきゃ、俺自身、こんなマ
ンションに住んでないさ」
 できるだけ明るい調子で言ったが、真奈美は黙ってうつむいてい
た。
 時紀は、肩を丸めている小さな身体を見ていると、これ以上何を
言っていいのかわからなくなってしまった。
「・・・ごめんなさい、ありがとう」
 押さえた小さな声がして、涙がいく粒も、その青白い頬をつたい
始めていた。
「優しいから。影山さん、ほんとに・・・」
 それ以上は言葉にならなくて、しゃくりあげた。
 時紀は、この子はきっと苦労してきたんだ、と思った。なぜなら、
時紀には今の真奈美の姿は、6年も以前に、同じような孤独の涙を、
市村理絵の前で止めることが出来なかった自分の姿と、まったく同
じだと感じたからだった。
「・・食べようよ。俺も、もう仕事に出なきゃいけないから」
「うん」
 真奈美は涙を拭いてうなずくと、ようやくフォークを取って、ト
マトを口に運び始めた。
 その時、軽く祈るようにするのを、時紀は見逃してはいなかった。
それは、いま口にしている食物に向けているものとしか思えなかっ
た。
 ・・・この子は、本当に、植物の心がわかるのかもしれない。
 時紀は、真奈美の純粋さを、本当に信じたくなっていた。この子
のために何かをしてあげることができる自分を、誇りに思いたかっ
た。
 そして時紀は、そんな真奈美の表情を正面に確かめながら、今の
食卓に肉類が一つものっていないことに初めて気づいた。自分が菜
食主義であることを知っているわけもないから、真奈美もそうだ、
ということになる。
「ねえ、」
 真奈美の気持ちが落ち着いたのを確かめるように、時紀は言った。
「真奈美って、菜食主義だろう?」
「あ、ごめんなさい。でも、私、人が肉を食べてるの見るの、好き
じゃなくて・・・でも、影山さんが好きなら、私・・・」
「いや、違うよ。俺もそうだからさ、知ってるわけないから、真奈
美もそうじゃないかと思っただけだ」
「・・あ、嬉しいな」
 以前の口調に戻って、真奈美は目を輝かせた。
「そうだと思ったんだ、お兄ちゃんなら」
 はっとしたように口をつぐむと、真奈美はすまなそうに言った。
「・・・ごめんなさい」
 時紀は、一瞬、どきっとしたが、それは例えようもなく甘い余韻
を伴っていた。
「いいよ、別に」
 少しはにかんだような沈黙があった後、真奈美がさきに口を開い
た。
「ほんとは、このレタスだって、食べずに済めば、と思うの」
 時紀は、トマトを飲み込むと、すぐに言った。
「それは、しょうがないじゃないか。何か食べなければ生きて行け
ないんだし。動物だって、そうなんだから、自然の法則だよ」
「うん。そう言ってた、お兄ちゃんも。だから、心からお礼を言い
ながら、食べるの」
 二つの事が、言葉になろうとして、喉元で消えた。
 たぶん、すでにいない家族の中に、そのお兄ちゃんも含まれてい
るのだろう。もしかすると、たった一人の肉親だったのかもしれな
い。
 そしてもう一つ、食物にさえ感情移入できるこの子の純粋さは、
もう言葉にする必要も、問いかける必要もない。容貌の他、何の取
柄もないとしても、人を見る目だけは養ってきたはずだ。
 時紀は、物心ついて以来、家族というものを肌で感じたことは一
度もなかった。しかし、今この少女に感じているのは、その感情に
違いなかった。
「遅くなるから、待ってる必要はないよ。TVもあるし、コンピュ
ーターがわかるなら、ターミナルで遊んでもいいから。あと、これ
ね」
 数万円のお金とキーをテーブルの上に置くと、時紀は立ち上がっ
た。
「でも」
「ほら、取って。食べるのと、何か服か、好きな物でも買えよ」
 それでも真奈美は置かれた金に手を触れようとはしなかったが、
時紀はさっさと支度を済ますと、玄関の方へ向かった。
「じゃあ、かたずけと、ああ、できたら掃除でも頼むよ。そうだ、
そのお金は、その手当にするよ」
 言うと、時紀は玄関の鉄扉を開けた。
「・・・気をつけて」
 閉りかかったドアの隙間から、真奈美の声がした。時紀は、ゆっ
くりと息を吸うと、不思議な高揚感に包まれて、マンションを後に
した。


 その夜時紀は、クラブでの喧騒を後にすると、家路への地下鉄の
列車の中で、複雑な気持ちに襲われていた。
 それは、真奈美を無条件に受け入れた自分の行為を考えるとき、
自然に意識されたことだった。それは、今までの自分であったなら、
するとは思えないことだったからだ。
 しかし、今は、無償で彼女を受け入れたことに、何の後悔もなか
った。
 いつも時紀は、クラブで札びらを切る金持ち達には、嫌悪を通り
越した冷淡な無関心さしか抱くことができなかった。それは、少年
時代から数え切れないほど見てきた、彼らの人間ならざる感受性の
欠如のためだったはずだ。
 金ゆえの安定と、金のみの価値。彼ら富裕階級は、人間さえ金で
計れると考える、傲慢な人々だった。
時紀は、彼らの金をいくらかすめ取っても、それは当然だと考えた。
俺は、それだけの事をし、今までそれに値する虐げを受けてきたは
ずだ、と。
 しかし、無条件に真奈美に与えたものを考える時、今まで自分は、
何のために彼らの金を使ってきたのか、と考えた。少しでも“よい
”暮しと、“楽しみ”を得るため、それが、自分にとって勝ち、成
功することだったなら、それは、結局は彼らと同じものを目指して
しまったことになる。
 俺の、社会に対する復讐とは、嫌悪し、無視した者と同じ道を辿
ることだったのか。
 それは、自らが歩んできたが故に、今の社会では既に失われつつ
ある学歴社会の残骸にしがみつき、それを信じるほか生きるすべを
知らぬ、中層階級の多くの人々と同じ発想になってしまう。
 そこには、“自分”がない。自分は、誰であるのか。いったい、
なんなのか。
 俺は、いつの間にか見返そうとしてきた汚れた社会そのものに、
縛られてしまっていたのか。
 時紀は胸の内で、真奈美と出会った昨日の夜と同じ問いかけを繰
り返していたのだった。
 だからこそ、時紀には、最後の問いかけに答える言葉はなかった。
自分が何であるのか、その問いに答えるためには、自らの内をのぞ
き込むしかなく、時紀は、その方法を知らなかった。
 どこかにある、自分の心の真実・・・。
 時紀は、当てもなく捜し続けながら、いつのまにかマンションに
たどり着いていた。
 部屋の前に立つと、信じられないことに、ドアを開ける手が震え、
胸が高鳴っていた。
 帰る自分を誰かが待っていてくれること。家族を知らぬ時紀にと
って、それは未知のときめきだった。
 玄関でシューズを脱ぐと、淡い光が奥の方からもれ出していた。
そして、たぶんTVの音が、小さく聞こえてきた。時紀は、ゆっく
りとダイニングを抜けてリスニングルームへ入っていった。
 いつの間にか、広い部屋の中央に、今まで押入れの中で無用の長
物と化していた緑のソファが置かれ、きれいに拭かれて並べてあっ
た。そして、散らかっていたビデオやディスクも整理され、所々し
みがあったはずのカーペットも、きれいに拭かれていた。
 そして、つけられたままになったスクリーンの光と音の下、緑の
ソファに横たわって、小さな寝息を立てていたのが、この部屋を片
付けた少女だった。
 彼女は、白いロゴの入った赤いTシャツと、セミロングのベージ
ュのスカートをまとって、あどけなく目を閉じていた。そして、ガ
ラステーブルの上には、明るい緑色をしたポトスが置かれて、伸び
だした葉が、真奈美の青白い頬にかかっていた。
 時紀は、黙ってTVスイッチを切ると、ソファに腰掛けて、眠っ
ている真奈美を静かに見つめていた。
 まるで、ポトスにあやされて眠っているようだ・・・。
 彼女は、時紀に16才だと言ったが、このあどけない寝姿と、ま
だ胸さえふくらんでいないきゃしゃな身体を見ると、本当にせいぜ
い中学生くらいではないかと思った。しかし、そのことが一層、こ
の子を守ってあげたい、という気持ちを大きくさせるのだった。
 気が付くと、テーブルの上には今日渡したお金が置かれ、ポトス
の分の領収書が上にあった。そのほかには、使った様子はなく、ほ
とんど渡した金はそのまま残っていた。
 時紀は、立ち上がると、寝息を立てている真奈美の頬に手を当て、
小さな声で言った。
「馬鹿だな。気にせずに使えよ」
 そして、その、羽のように軽い身体を抱き上げると、奥の部屋へ
と入っていった。


 真奈美と出会い、共に暮らすようになってからの半年間の日々は、
まるで飛ぶように過ぎて行った。いや、少なくとも時紀にはそう思
えた。
 2031年の世界は相変わらず行くべき道を見失っていた。主要
作物の減産による食料高騰や、それに伴う経済構造の変化は続き、
日本もまた、その波の中で行くべき道を見失っていた。そして貧困
のどん底に落ちた第三世界の政情不安は、世界の空を覆う雲のよう
に、暗い未来を予測させていた。
 しかし、そんな世界的なヒステリー症状とは裏腹に、時紀はかつ
てない穏やかな日々を送り続けていたのだった。
 時にBay−Side Parkの緑の中で木々に語りかける真
奈美を描き、時に雨のふる東京湾に船出し、時にマンションで美し
い音楽に耳を傾けながら、日々を刻んでいった。
 真奈美は時紀のベッドルームにもう一つのシングルベッドを持込
み、いつか同じ部屋で眠るようになっていた。そして、空いてしま
った奥の洋間は、真奈美が毎日のように買って来る花や、観葉植物
で一杯になってしまった。そして、緑の部屋、と名付けられたその
部屋は、いつも心地よい緑の香を全ての部屋へと分け与えてくれる
ようになった。
 かつての自分の生活からは想像のできない潤いが、真奈美との暮
しの中で生まれれつつあった。そしていつしか、それが日常となっ
ていった。
 そんな半年の暮しの中で、時紀は真奈美を少しずつではあるが、
理解するようになっていった。
 北海道の釧路で生まれ、育ったこと、家族はばらばらになって消
息がしれないこと。お兄さんは亡くなってしまったこと。もう一人
姉がいるが、やはり行方がしれないこと。
 そして、かたくななほどに潔癖で、彼女の方から近寄ってくる時
以外は、時紀の方で腕に触れたり、頭に触ったりすると、いやがる
そぶりを見せる。そんな時、時紀はあの夜の真奈美のあげた叫び声
と、おびえた目付きを思い出すのだった。
 しかし、それでも、半年の暮しの中で、時紀が真奈美に関して知
ったことは、あまりに少なかった。わかったことでさえ、真奈美の
口から聞いただけで、何の確証があるわけでもなかった。それは、
クラブに通う時紀と、早く眠る真奈美の時間帯が大きく違うことも
原因だったが、自分からは多くを語らない真奈美と、お互いの存在
だけで満たしあえる、言葉の要らない今のあり方を、できる限り続
けたいと思う時紀の、二人の気持ちがそうさせていたのだった。
 いつか夏は過ぎ、秋も10月が終わりを告げようとしていた。
 未だ、本当の自分の仕事を真奈美に告げることのできない時紀は、
自分の生きざまについて、一つの結論を見いだそうとしていた。
 できうるならば、真奈美と都会を離れ、心の内を見つめることの
できる、自然な場所へ移りたい。虚偽と、欲望にまみれた東京では、
日に日に高まる、自らの心の真実への探求心を、決して満たすこと
はできないだろう。
 公園で木々に語りかける透き通った真奈美の姿を見る時、その思
いが一層強まるのだった。
 俺が何を求めているかはわからない。しかし、今のままでは本当
でないことだけは確かだ。
 時紀が、この三ヶ月間、忘れぬように何度も自らに言い聞かせた
言葉だった。

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